Code_D4 音重縁
身体があるから依存した。
私たちは心で繋がりきれはしなかった。
私、音重縁が彼……高志と出会ったのはニ年前。
内定も決まり、大学卒業を控えて、私は持て余した時間をどう過ごすかということだけを考えていた。
だらだらと過ぎる毎日。
それは蟻の行列を後ろから一匹ずつ指で潰していくような非生産的で非情で無価値な日々だった。
似た境遇の者は寄り集まると言うが、同じように暇を余した友人が、イイお店があると連れて行ってくれた居酒屋で働いていたのが彼。
出会った瞬間から何故かお互いすんなりと惹かれあってしまった。
あまりにも障害の無い、それでいて情熱的な初恋。
この時、私は今まで漠然としか認識していなかった言葉を初めて信じた。
彼の手を取るのと同じくらい確かな存在。
彼こそがそれを体現する言葉。
それは私の中で揺るぎない確信を持って存在していた。
今となっては苦い言葉。
その言葉は、【運命】
彼を見つめる私のことを、友人はこう評した。
「盲信的な献身者」だと。
確かに私は四六時中彼を想い、会える日を心待ちにし、触れ合えることを最上の幸福だと感じていた。
それはとても生産的で、幸福で、愛情に溢れた価値のある日々。
だからその言葉を否定する気は無かった。
恋というのはこういうものだろう。
恋愛とはそういうものだろうと。
友人は否定しない代わりに私から離れて行った。
ちょうどお互い新入社員として新しいステージに臨んでいたからだろう、忙しいからと疎遠になり、空中分解した友人との関係に私は何の疑問も持たなかった。
「あなたがいれば
他の何もいらない」
そんな歌が至る所で繰り返し流れていた春。
「お前がいれば、他の何もいらない」
彼の言葉は既(き)視感(しかん)を伴い、私の中に運命の存在を色濃く誇示した。
(彼がいれば、他の何もいらない)
歌に、彼に、運命に
唆(そそのか)された春のはじまり。
現実はもっと貪欲だったと気付いた今、そんな安っぽい言葉に踊らされていたあの頃の私の幼さを、今はただ愚かだと思う。
年度が新しくなると共に、彼は借りていたアパートを引き払い、私のアパートに一緒に住むようになった。
(仕事場に近い)
(家賃も安い)
現実的な理由は暗黙のうちに、
「一人にさせたくない」
「一緒にいたい」
そんな愛しい言葉を盲目のうちに受け入れ、絡め取られた。
そして春の盛り、毎夜僅かに残る肌寒さを互いの熱で補い合う日々。
朦朧(もうろう)とした意識の中でも確かに聞こえる彼の愛の言葉。
囁(ささや)かれる熱情を一身に感じ、私達は二人の絆を確かめ合った。
同棲、
婚約、
事実婚。
どの言葉が私たちの生態を現す言葉だったのだろう。
彼は狡(ずる)い。
決して嘘は言わない代わりに絶対に本心を明かさない。
「私のこと好き?」と聞いて、彼は「好きだよ」と繰り返す。
何度も確認したありきたりな愛情表現の言葉。
純粋だと思っていたこの言葉には常に狭義の意味と広義の解釈がない交ぜになっている。
そう気付き始めた。
本当に聞きたい言葉はただの形骸化された音。
彼の口から出る言葉は真実に近い嘘。
私はいつだって本音ではない愛の言葉ばかりを聴いている。
それでも幸せだった。
彼が「愛してる」と言ってくれるのなら。
三寒四温の気候のように、人の心にも波がある。
だから少し北風が吹きこんだとしても、冷え切ってしまわなければ、いつかまた温まる。
ほら、彼はまた私の冷たい手を握って「愛してる」と言ってくれた。
季節は巡る。
人の心も移り変わる。
四季は廻る。
でも、人の心に順序は無い。
時機は今だと耳打ちするが、心は未だに決めきれない。
そして突然終わりを迎える。
春も終わる頃、窓の外で肉厚の照り葉を輝かせる樹が一本。
その中に、季節外れに狂い咲いた椿が一輪、艶やかな赤を見せ付けていた。
倦怠期。
人々がそう呼ぶ言葉があるのなら、今の私たちの関係もそう呼ぶのだろうか。
梅雨が訪れ、些細なことで別れを切り出すくらいのケンカする日々。
私も何かとイライラしがちで、彼のちょっとした怒気にも簡単に当てられた。
今思えば、お互い都合の良い相手というだけだったのかもしれない。
だからこそ、僅(わず)かでも衝突や不都合があればすぐに別れを切り出せた。
そして過ちを重ね、千切れたらまた契(ちぎ)って、裂けたら縒(よ)って、破れれば這(は)って――。
そんな愚かなことを繰り返した。
吐き気をこらえる毎日。
彼はもう「愛してる」なんて言ってくれない。
不安に駆られて行為にも段階が無くなり、即物的な結果のみを求めるようになっていった。
流れに流される私は制止の言葉すら飲み込んで、知らないふりをして彼の玩具になっていた。
だけど、私はそれに縋(すが)りついていた。
それに縋るしかなかった。
だって、私達の間にはきずなが出来てしまったんだもの。
光にあふれる初夏。
私のお腹の中に宿された一つの命。
強い日差しの照りつける夏。
彼は逃げた。
どうやら新しい住まいを見つけたようだ。
もうお互い深くは踏み込まない。
しかし別居をすれど曖昧な関係はまだ続いていた。
話す話題は専(もっぱ)ら「お腹の子について」
彼は、「堕ろして」「無理だから」としか言わない。
彼に初めてお腹に赤ちゃんがいると告白した日、彼はあからさまにその存在を否定していた。
言い訳を並べ立て、私を疑い、安く醜く価値の無い言葉で私を罵(ののし)った。
あんなに彼をみじめだと思ったことは無い。
そして幻滅した。
「おろして……」
私は彼の言葉をうわ言のように呟く。
どこに看てもらえばいいか分からないと言ったところ、彼が勧めたのは産婦人科ではなく普通の婦人科だった。
施設は新しくきれいな所で、待合室も緑にあふれて清潔な印象の部屋だった。
待合室には私と同じように若い女の子が数人。
診断室にいたのは優しそうな女医さんだった。
診察を受けた所、私は妊娠八週目らしい。エコーにも小さい影が映っている。
そして医師に私の現状を伝えると、母体に負担はかかるが、今ならまだ中絶可能だと言われた。
今堕ろしたらこの子はどうなるのと聞いたら、医師は苦い顔を作る。
「十二週未満の胎児は医療廃棄物として廃棄されます」
と言った。それ以後であれば死児として埋葬しなくてはいけません。とも。
その後、先生は気持ちを込めた風な優しい口調で淡々とした説明を述べる。
彼女は今まで何度この説明を繰り返してきたのだろう。
そう思わせるように機械的で事務的な呪文は、最後に「決まったら、この同意書に二人の署名をして持ってきてね」で締め括られた。
私が帰ろうとしていた時、上の階から降りてきた若い女の子に看護師さんが「お大事に」と会釈をして見送りをしていた。すれ違った若い女の子は目に涙をためて、怒りとも悲しみともいえない顔で外に飛び出していった。
ここはそういう所なのだ。
そして彼もまた、そういう人だったのだ。
陰鬱(いんうつ)な気分で家に帰った。
誰もいない家で、一人、息を殺して涙を流した。
親にはまだ言っていない。大学時代から実家には一度も帰っていないが、連絡だけはまめに取っていた。
しかし、彼氏が出来たことや、彼と同棲していたことなどは一切知らせていない。それなのにこんな飛躍した現状を報告できるはずもない。
だから親には相談できない。
友人だって、きっとこんな相談をしたら引かれてしまう。
婦人科にはもう行きたくない。
精神科なんて論外。お金を払って悩みを聞いてもらって、病名をつけられて薬を買わされるだけ。
これは私が招いた業(ごう)だ。だから私が背負わなければならない。
腹の中に不快感を抱え一人の部屋で悲しい結論を出した。
いま堕ろせば、この子はゴミと一緒に捨てられてしまう。
いつか堕ろしても、私はきっと後悔に苛(さいな)まれる。祈る資格もない。
この子を産めば……
以前、テレビの特集で中絶が取り上げられているのを見て、自分だったらと考えたこともある。
あの頃は私だったら産む以外の選択肢はないと思っていた。しかし、現実と現状と冷たい未来があの日の意思を揺らがせる。
堕ろすことを選んでしまったらその後の精神状態だって、きっと穏やかではいられない。
でも、どれだけ考えても私は選べなかった。しかし、それは中絶を選ばないという一つの選択でもあった。
現状維持。
私にタイムリミットを委ねられた可哀想な私の子。
私に運命を奪われた哀れな私の子。
本心さえも口に出せずに泣いて過ごす毎日だった。
母親である私からも存在を嘆かれて、きっとこの子の命は誰にも望まれてはいないのだろう。
今思い返しても、とても凄惨で無情で、その価値を秤にかけるのも愚かな日々だった。
中絶。
それは彼との繋がりを絶つという選択、
かつて彼と確かめ合った愛を否定する行為。
自分を裏切り、一人を殺すという事実を示す。
体調不良という名目で会社を休職した。
私は日長一日外にも出ずに布団にくるまり、疑いたくなるほどまっさらなお腹を撫でながらお腹の子について考えていた。
彼は私を避けるようになった。
今では彼と電子化された会話しかしなくなった。
私が今後について問い詰めすぎたのも一因かもしれない。次第にそれすら返さなくなって、電話も繋がらなくなって……
もう別れよう、さよなら
と送られてきた簡潔な通信で私達の会話は終わってしまった。
返信は返さなかった。別れは不思議と悲しく無かったから。
ただ、ただ、虚しかった。
いろいろな恋の形がある中で、私が知った恋愛は今生これが最初で最後なのだろう。
今更思う。
離れたくなかった。
誰にも祝福されなかったとしても構わない。
彼が好きだった。
認めてほしかった。
一緒に今からを語りたかった。
嘘に気付きたくなかった。
最後まで、彼が運命の人だと信じたかった。
たとえ運命に、季節に、世間に、そして彼に騙されたとしても、私がそんなことにも気付かず、全てはあらかじめ決まっていると受け入れて、笑っていれば良かったのかな。
それは後悔?
それは懺悔?
違う。これは……
その後間もなく、私は彼の「裏切り」の知らせを聞いた。
新しい相手は、私を彼の居酒屋に連れて行ってくれた友人。どうやら私に別れようと切り出す前から付き合っていたらしい。
私は産まれて初めて、憎しみのあまり人を殺したいと思った。むしろ、彼らの前で自らの腹を刺したいとすら思った。
だけど次の瞬間にはもう、そうする気すら失せてしまう。
彼はまた繰り返すだろう。
彼女に私と同じ愛を囁き、私にしたような行為をし、またあの施設を勧め、そして終わるのだろう。
「あなたがいれば
他の何もいらない」
そんな歌を歌っていた歌手が次に出した新曲は「恋愛は遊びだ」という内容のアップテンポの曲だった。
そのくだらない曲がランキング上位に入っているこの世間も既に腐っているのかもしれない。
夏の終わり。
道理で往(い)なした私の気持ちは激情を鎮めたが、
私の中の感情とは違う何かはまだ悋気(りんき)に囚われていた。
夕暮れはもう凍えるほどの風が吹いている。
一人きりの部屋で、声を上げて泣いた。
こんなことが毎日の習慣になってしまった。
誰かに気付いてほしかったのかもしれない。
誰も語りかけてはくれないから、自分の声を聞きたかっただけかもしれない。自分の泣き声に感化されて、もっと哀れさに浸りたかっただけかもしれない。
いつからだろう、私はうっすらと誰かの存在を感じていた。
得体の知れない何かではない。
気のせいでも……ない。
今までもずっとそこに在ったような、自然にそこに居た「誰か」
その「誰か」は、私を慰めるように、私が泣きやむまでずっと一緒に居てくれる。
私は「誰か」を呼ぶように泣き続ける。
今までのように。
今までと同じように。
いろんな感情が落ち着いた頃、私は電話をかけた。
実家に居る母に。
母は私の話を聞いてとても驚いていたが、全て話し終える頃、母は私の全て受け入れて、涙声で「戻っておいで」と言ってくれた。
そして間もなく私は彼に何も告げず、アパートを引き払い、遠く、遠くの田舎に帰った。
久しぶりに会った両親に、もう一度面と向かって事情を明かした。
叱られ、泣かれて、抱きしめられ、一緒に泣いた。
冬支度。
諦めと前向きの感情は同じ頃にやって来て、両親に見守られながら私はやっと笑えるようになった。
「みんなで一緒に育てよう」
両親の温かい言葉で、私はこの子を産むと決めた。
生命倫理や命の定義とか、思想も知識も無い私の一存でこの命を「ゴミ」か「死体」か「一人の子」か、選び決めつけることなんて出来ない。
たとえその選択がこの子の為にならなくても、私はその選択の答えを知りたい。
それが私のエゴだと非難されても構わない。
私はこの子を通して、自分なりの答えを見つけたいのだ。
私が歩むと信じた道は、私を一体どこに連れて行こうとしているのだろう。
あんなに情熱を持って確信した言葉。
その言葉に依存して全てを隠され、私たちは最後まで心で繋がりきれはしなかった。
今となっては、なんて惨酷な言葉。
でも、もうこうなったら抗(あらが)うつもりなどない。
自分の道が向かう先を、あと何年続くかも知れないその終着駅まで、私は行き続けなければいけないのだから。
それが私の【運命】
ねえ、いつも一緒に居てくれた「誰か」
誰よりも私に近い、優しい「誰か」
あなたに言いたい事があるの。
いつか、会える日が来るのかな。
ーー
ここでも雪がちらちら降って来た。
高志(たかし)さんと別れて都会を離れた縁(よすが)ちゃんは実家に住まいを移した。
電車を乗り継ぎ都市より南下して半日以上。
最後はバスに乗って一時間。
道中、縁ちゃんは各地に初雪を降らせながら生まれ故郷に戻って来た。
数年ぶりに会った縁ちゃんの両親は特に何も変わっていなかった。少し皺が増えて、少しお腹が出てきていて、少し体を悪くしていているようだけど。
だけど、彼らが死ぬのは縁ちゃんよりもっと先のこと……
何故、それが分かるのか。
それは彼らの『書記』に聞いたから。
Code N_2013 音重和孝(かずたか)の『書記』、鳴海(なるみ)静(しず)香(か)。
Code S_405 音重花(はな)枝(え)の『書記』、中敷紗(なかじきさ)江子(えこ)。
二人とも僕より『書記』の経験は短い。
でも何と言うのだろう。母親に近い存在だと感じている。昔から僕の悩みを聞いてくれて励ましてくれていたから。見た目も頼りがいのある四十路のおばちゃ……奥様だし。
久しぶりに会った二人は僕を温かく迎えてくれた。
僕は二人に帰って来た経緯と共に、縁ちゃんに宣告が来たことを話した。
「はあ、それにしても、縁ちゃん、良くない男に引っかかったものよね」
紗江子さんは、ドラマのような出来事に始終リアクション付きの相槌(あいづち)を打ち、話し終えると小さい身体を萎れさせてそう言った。
「そうだね、典型的な甲斐性(かいしょう)無し。酷い男ってのはどこにでもいるものさね」
事のあらましを頷きながら黙って聞いていた静香さん。
器も体も大柄だけど所作も言動も細やかな彼女は昔から縁ちゃんのことを気にかけてくれていた。
「縁ちゃんは、最近の子らしく早くから大人びてて、最近の子には珍しいくらいしっかりした良い子だったからね。だらしない男が付きそうとは思ってたけど……」
そう言って腕を組んだ静香さん。
紗江子さんは頬に手を添えて息を吐く。
「そうよね、でも人生最初で最後の恋愛がこれだなんて……友達も友達よ。横取りなんて最低よね」
「何でもそうだけど、人の物を盗(と)る人間はあさましいね。すんなり盗られに行く男(ほう)も愚かで仕方ないけど」
「そうね。でも縁ちゃん、産むって決断はすごいと思うわ」
「私もそう思う。今は多いのよ、流すって子」
奥様の会話はものすごい勢いで途切れなく続く。
こちらを慮るような静香さんの視線に自分は小さく笑ってみせた。
「死ぬほど悩んでましたよ。縁ちゃん」
「当り前じゃない、でもそれで産むって結論を出したのよ。悲しみの中でポジティブな選択を出来るってすごいことだわ」
「紗江子の言う通りだね。あの子は本当に偉い」
褒められても憂鬱は消えない。
しかし、同性に認められるということは誇らしかった。
「二人とも、縁ちゃんのこと応援して下さいね」
「もちろんよ、総司くん」
「女は女だからこそ女の敵だけどね、女はいつだって女の見方なんだよ」
「静香さん、哲学ですね」
その言葉に気を良くしたのは紗江子さん。
目をキラキラさせて静香さんの背中に飛びつく。
「そうよ、静香ちゃんは今でこそこんな落ち着いてるけど、生前はそれはもう経験豊富だったらしいのよー」
「紗江子だって。色々語ってるじゃない」
「うふふ、でも経験しないと分からないものは分からないわよ。ね、総司君」
「はは、そうですね」
意味深な紗江子さんの言葉に苦笑う。
「紗江子って本当にその手の話題が好きよね。この前から韓流ドラマの内容ずっと話し続けるのには参ったものさ」
「だって、静香ちゃんたら、韓流ドラマを見るといつも「また記憶喪失? 韓国はアルツハイマー流行ってるんじゃない」とか、スレたこと言って一緒に見てくれないんだもの」
「静香さん、サバサバしてますもんね」
最近ではよく民放でも韓国のドラマを流している。縁ちゃんも史劇には興味を持っていたみたいで、ちょくちょく見ていた。
しかしここでもそうだとは……女性はやっぱりあんなロマンスにロマンを感じるのだろう。
ちょっと脱線しながら考えていると、紗江子さんがそろりと自分の側に近寄ってきた。
「総司くんも、イイ子なんだけど、もっと大人な経験してたら、今頃もーっとイイ男だったのに」
「僕、ちゃんとやることはやってましたよ」
「えっ、うそ」
紗江子さんの時が止まる。
確か十年前くらいに生前のこと話したような気がするんだけど。
「紗江子、総司の生前の話、聞いたこと無い?」
「…えっ、何?」
「僕こう見えて、あの時代ではやることやって死んだ系ですよ」
「まぁ、ホント? やだ総司くんたら。やっぱり男の子ね。なに、どんな風に?」
「紗江子さん、食いつきすぎです」
「だって、この二十数年、ずーっと一緒にいたのに初耳よ。静香ちゃんには教えて私には言わなかったのね」
プンプンという形容そのままに紗江子は頬を膨らませる。
「ちゃんと言いましたって。いや、そうじゃなくて……あっ、ちょっと僕行きますね」
長くなりそうな愚痴を覚悟したとき、縁ちゃんが遠くに行く気配がした。
「えー、ねえ、静香ちゃん! 総司くんの花の時代ってどんなだったの」
「あーもう、本人に聞きなよ。ちょっと、総司。このタイミングで行く?」
「バラしてていいので後お願いしまーす」
「ほら、総司くんのオッケー出たわよ。ほら、ちょっと教―――」
深夜のテンションに加熱していくしゃべり場を去り、縁が寝ているはずの隣の部屋に行ってみたり
しかし予想は的中。
布団の中に彼女はいなかった。
「縁ちゃん……」
急いで階段を下り、他の部屋を探す。
最後に玄関に向かうと、玄関扉の前に座っている彼女の姿を見つけた。
「縁ちゃん、どこに行くの」
ゆっくりとムートンブーツを履いている最中の縁ちゃんに声をかける。
「………」
「夜も遅いし、雪だってちらついてるのに、一人で出て行くなんて危ないよ」
「………」
自分の声なんて聞こえてないから応えないのは分かっている。でも今は下を向いてその表情すら分からない。
今の不安定な縁ちゃんは何を考えているのか本当に分からないから……
縁ちゃんは無言のまま、静かに玄関を出て行った。
青い満月が世の中を青白く照らす、しんと透き通った夜の道。風も無く、雪はちらりと見える程度だけど、肌を刺すような寒さに背筋に鳥肌が立った。
「ねえ、縁ちゃん。どこ行くの?」
少し厚めに着こんでいる縁ちゃんは、一見すると妊娠しているなんて思えない。
携帯も財布も鞄も持っていないからコンビニなどではないことは分かったけど、一体どこに行くんだろう。
彼女は迷いもせずにまっすぐどこかに向かっていく。
「あ……」
「公園?」
辿りついたのは、小さい頃によく遊んでいた公園だった。
最後に見たときはジャングルジムとすべり台、あと、ぶらんこがあるはずだった。でも、いま目の前の公園にはすべり台とぶらんこしかない。
昔はあんなに楽しそうだった公園も、今では敷地も狭くなってがらんとしている。
ぼうっと青く光る街灯が余計に寒さと虚しさを強調していた。
公園の入り口で立ち止まっていた縁ちゃんは、青白い光に照らされたぶらんこの方へ歩み寄る。
ぶらんこは二つ。
一つはただじっとそこに在って、もう一つは風も無いのに小さく揺れている。
縁ちゃんは揺れてないぶらんこに腰かけると、小さく、小さく体を揺らした。
その瞳は夜空の月を仰ぎ、その口が白い溜息を吐く。
白く、長く吐き出された吐息は闇夜に溶けて消えて行った。
自分も彼女の隣のぶらんこに腰掛ける。
「ねえ、どうしたの?」
物憂げにぶらんこを揺らす彼女に問いかける。
「………」
もちろん彼女に僕の声は聞こえていない。
「ここ、懐かしいよね。小さい頃は毎日いっぱい遊んでたの、覚えてる?」
「………」
「昔はもっと広くて草ぼうぼうでさ、シーソーとかぐるぐる回るやつとか、遊具もたくさんあって、五時のサイレンが鳴ったらみんな慌てて家に帰って」
「………」
「あのね、紗江子さんと静香さんが君のこと褒めてたよ。すごいって」
小さく揺れていた縁ちゃんの動きが止まる。
縁ちゃんは下を向き、どこか寂しそうに睫毛を震わせていた。
自分は、うなだれた彼女の頭に静かに手を載せる。
「……もう少しだなんて、信じられないよ」
目を閉じればこの公園を笑いながら駆け回る縁ちゃんの姿が見える。
目を開くと、俯いて、お腹をぎゅっと抱きしめぽろぽろと涙を流す彼女がいた。
「今、縁ちゃんは『運命』と同じような事をしているんだね」
人の命の始まりを定め、人の命の終わりを決める。
そういえば、賢輔さんが言っていた。
『運命』は人の出生や死亡なんかの大きな運命は定めるけど、個人の一挙手一投足まで縛っている訳じゃないって。
人は自分の選択を運命のせいにするけど、それは間違ってる。自分の選択の結果を運命っていう言葉に責任転嫁することで不都合に合理付けをするんだって。
でもそれは責められない。
都合の悪いことを大きな何かのせいにするのは人の性(さが)だ。
「…た…かし」
彼女は嗚咽をあげて、遠く離れてしまった彼の名を呼ぶ。
「…高志っ」
彼女の声は彼に届かない。
「……ねえ、縁ちゃん、泣かないで」
僕の声も君に届かない。
「君は、自分の選択を誇っていいんだよ」
誰の声も、伝えたい人に届きはしない。
それでも、伝わる思いがあるならば、僕は……
それから彼女は何度も、何度も彼の名を呼び、その度、冷たい涙が頬に流れを作った。
その川が冷えて乾く頃。
満月は寒空に高く。
僕達は寄り添いながら家路についた。
――
音重家の二階の居間では総司(そうし)が抜けた後も、音(ね)重(しげ)夫妻の『書記』鳴海(なるみ)静(しず)香(か)と中敷紗(なかじきさ)江子(えこ)のしゃべり場は続いていた。
「――総司くん、まさかそんな大人だっただなんて」
紗江子は口元に手を当てて静香から暴露される事の詳細に目を白黒させていた。
「総司は見た目こそ若いけど平安人だから。私たちなんてお子ちゃま以下よ……ホント、人は見た目じゃないのよね」
そう言って、静香は絶句する紗江子の背中をぽんぽんと叩いてやった。
「これから総司くん見る目が変わるわー」
「でしょうね。……総司、これから大丈夫かな」
「そ、そんないきなり特別視しないわよ」
「違う違う。縁ちゃんのこと」
「えっ、ああ。そうね」
まだ現実に戻って来ない紗江子。
挙動不審に髪の毛を何度も整える姿を静香はやれやれと言った風に見ている。
「そう。総司って、まあそんな風に女の子に優しいじゃない」
「ホント、天然タラシよねー」
「いや、そこじゃないって。だから、縁ちゃんの若すぎる死に対して受け入れられるかが心配なの」
「そう?」
「そう。現に今も縁ちゃんの事を心配してどこか行ったんでしょ」
「ああ、そうみたいね。そう言えば、昔から花枝ちゃんと和孝さんよりも過保護だった気がするわ」
思い返す縁の幼少期。
心優しい父母よりも総司は手厚く縁に接していた。
「でしょ、私達『書記』って人生の在(あ)り様(ざま)を記録するのが役目だけど、総司はどこに行くにも縁ちゃんに付きっきりじゃない」
「もうちょっと適当でイイと思うけどね」
「紗江子は放任過ぎ。あんたんトコの『運命』に報告の雑さ注意されたって嘆いてたじゃない」
「それは文才がないだけなの!」
紗江子はまたプンプンと腰に手を当てて怒り出す。
静香は部屋のカレンダーを眺めながら、ふむ、と腕を組む。
「どうだか。とりあえず、最悪にならないように出来る限りフォローはしてあげないとね」
「そうね、まずは最終宣告の日かし……まあ!」
「なに?」
「最終宣告、紅紫くんに会えるわね」
この期に及んでまたそんなミーハーなことを言う紗江子に静香はがくりと肩を落とした。
「……紗江子、あんたね」
「だってこの前の雑誌、すっごい良かったじゃない。もうご近所さんに自慢しまくっちゃったわ。花枝ちゃんの子供の担当だって」
「あーはいはい、もういいわ、そろそろあの子達帰って来るからこの話はおしまいね」
「えー、でもね――――」
真面目な話題で始まって、収拾のつかない話に転がることは良くあることだ。
ーー
かつてほぼ毎晩のように続いてきた紗江子と静香のしゃべり場は深夜の鉄板番組で、よくゲスト(ご近所)を招いては連日連夜の賑わいをみせていた。
それは今も続くようで、自分たちが帰宅してからもしゃべり場は続いていた。
「ただいま」
「えー、でもね……あら、総司くん。おかえりなさい」
「今日も相変わらずだね。今夜のしゃべり場は何時間スペシャルなの?」
「ふふ、今日は五年ぶりに枕野総司さんをゲストに招いての貫徹スペシャル」
「熟女二人が今日もあなたを寝かさないわよぉー」
二人の背後にラジオスタジオが見える。
これは最早プロの技だ。
「はは、息ぴったり。ホントに二人だったら番組持てるよ」
「アリガト。それで総司、縁ちゃんは?」
「今眠ったところ」
「そう、あんまり心配し過ぎると総司くんが体を壊すわよ」
使者はそうそう体など壊さない。
でもそういう気遣いが自然に出来る紗江子さんの言葉にはとても救われる。
「ありがと、紗江子さん。僕は大丈夫だよ」
「人ってね、私達が思っているより図太いんだから」
「そうそう、些細な一生だけど、それは脆(もろ)いこととは違うから。私達も生きてた頃はどんなに辛くてもそれはそれで満ち足りていたし、残った他者がどれだけ悼(いた)んでも、私にとってはそれが私の人生だったしね」
「うん、さすが静香さん、深いね。それ今まさに僕の悩んでるところだよ」
「うふふ、悩める若者をそれとなーくリードするのが、イイ熟女(オンナ)なのよ」
二人のテンションがだいぶ乗って来た。
こうやって盛り上げてくれないと一人だとどうしても色々考えて塞いでしまうから、今日はもう彼女たちに甘えてしまおう。
「じゃあ、今日のしゃべり場のテーマは【イイ熟女(オンナ)】?」
「いいえー、今夜はゲストの苦悩をとことん解消、ミセスの悩み相談室よ」
ほら、こういう所、自分は全然敵わないや。
「二人とも、気を使ってくれてありがと。じゃあ、お言葉に甘えて相談に乗ってもらってもいい?」
「ええ、もちろん。方舟に乗ったつもりでいいわよ」
「それは救われそうだね、じゃあ質問――――」
オールナイト☆Mrs(ミセス).’s(ズ)の相談室は、本当に夜明けが来るまでノーカットで続けられた。
数年ぶりの空白なんてまるで無かった。
二人とも自分たちのことを心配してくれているのがすごく伝わって来て、途中何度も泣きそうになってしまった。
二人の言葉は適当だけど繊細で、深いけれど薄情で、達観してるけど凡庸だった。
円熟って、きっとこういうことなんだろうな。
しゃべり場が解散した後、紗江子さんと静香さんは各々の対象の元に戻って行った。
そして、冬の遅い夜明けに一人。自分はあの公園へ向かった。
縁ちゃんが座ったぶらんこに腰掛けて、白々しく明けていく空を見上げる。
「……運命と、人生と、その最期(おわり)、ね」
そう言えば、生前、自分の最期もそれは悲惨だった。だけど不思議と後悔などは無かった。
それを思えば縁ちゃんも、どんな形であれ彼女の人生を綺麗に締めくくれるのではないか。
そしてまた続いて行く。
生死を繰り返すことに何の意味があるのだろう。
「一回きりの人生」
みんなそう言うじゃないか。
だけど自分は対象の始まりと終わりを見てきてそうじゃないと感じることが多くなった。
もし、僕らの仕組みが無かったら、生命は終わってしまうのだろうか。
魂をな流すことには別の意味があるんじゃないか。
別の意味があるとしたら、それによって利を得るものがいるのではないか。
……例えそんなものがいたとして、そんな事を知っても何の得にもならないと知りながら、そんな変な事を最近よく考えてしまう。
それは彼女の命がもう僅かだから?
僕らの運命はどこから綻(ほころ)んでいったのだろう。
全てはあらかじめ定められているといつか君は言っていた。そんな訳ないのに。
確かに、君が終わる日はいつか訪れてしまうけど、それまでは、君は運命なんて幻想に縛られはしない。君を『運命』の構想には縛らせたくはない。
僕は定められた死から彼女を逃がしたいんだ。
「僕が君を守る」
そう寒空の下に呟いて、今、唐突に理解した。
それは目が覚める様な、自分が人だった頃の懐かしい感覚。
堪らずに駆け出した。
思うより足は遅く、想うより時間は長く。
眠る彼女の元に辿りついた時には、理解した感情は既に言葉になる準備が出来ていた。
「縁ちゃん。僕は、君が、好きだよ」
今まで感じていなかったわけではないが、それは今更気付いた。
ずっと気がかりだった胸の痞(つか)えがおりた気がした。
でもそれは同時に、何かの箍(たが)が外れてしまった感覚にも似ていた。
これは偏愛?
語りかけても語らぬものに情を注ぐなど、
違う次元に住むものに誓いを立てるなど、
我が身の半身に愛を囁くなど。
こんなに歪な愛の形に今更囚われていると気付くなど。
どうかしている。
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