Code_1『書記』枕野総司


季節は夏。

雲一つ無い良く晴れた日。


乱立するビルは白く照り返り、真っ黒なアスファルトには陽炎が揺らめいている。


身を晒(さら)すのも億劫(おっくう)になる陽の光を避けながら人々は日陰を選んで街を行く。



ここは人の混み合う街中の喫茶店。


茹(う)だる暑さから逃げ込んだ人々が、結露の滴るグラスを呷(あお)っている。

室内は寒いくらい空調が効いているものの窓から差し込む痛いくらいの日差しを避けるように客は壁際に座っていた。


ブラインドも掛かっていないカウンターテーブルは直射日光にさらされ誰も近寄ろうとはしない。

しかしそんな空き放題の窓側に敢(あ)えて座っている二人の男。


一人は緑色のフードパーカーにジーンズという緩い格好の茶髪の青年。


もう一人は細身のストライプシャツを涼しげに着こなした黒髪の端麗な男。


傍から見れば大学生とビジネスマン。

特に接点も関係性も見えない二人だが、ぽつぽつと会話する様子から全くの他人でないことは窺える。


何かと目を引く雰囲気の彼らだが、店に入って随分経つのに店員が注文に伺う様子もない。

それどころか、彼らの事など見えていないかのようにその隣を歩き去る。

しかし二人もそれを気にする様子はない。


「なあ、セーショー。あの歩いてる人の服どう思う?」

「……うん、すごいね」


黒髪の男は行き交う人を見て青年に他愛ない話題を投げる。しかし二人の会話は長く続かない。


セーショーと呼ばれた青年の心はどこか遠く、釈然としない様子で男の話を流している。


「ほら、セーショー。あの鳩白いよ」


話のネタも尽きてきたのだろう、猛暑の中でも涼やかだった男の額に焦りの汗が流れる。


青年も本当は分かっているのだ。

男が何を言いに自分の前に現れたのか。

それはとても言い辛いこと。


彼の優しさに甘えてはいられないと、青年は意を決して先の見えた話の核心を問う。


「かみやん、もういいよ。そろそろ教えて」


かみやんと呼ばれた男は、青年の真剣な表情を見ると顔を両手で覆い長い溜息をついた。

そして整った顔に憂いの影を作り、静かな声で青年に告げる。


「……お前の担当の娘、もうすぐ死ぬって」


青年はその言葉に何の表情も浮かべなかった。

ただその真偽を確かめるように男の深紅の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。

青年の無言の訴え。

しかし男は同じようにただ見つめ返すだけ。


そして青年は観念したように俯くと、はぁと細く息を吐いた。男が詳細を続ける。


「斎藤さんが昨日、決定の書類を送って来た。半年後、事故死だそうだ」


セーショーは若い見た目にそぐわないほど落ち着いた表情で男の言葉を聞いていた。


「そう……、事故。まだ、あんなに若いのに」


俯く青年の顔に睫毛の影が伸びる。

その表情を見て男は努めて明るい声を出した。


「まあ、詳しい内容はまだ分からないけど」


青年は神妙な面持ちで眉根を寄せ、茶色の瞳を細めながら窓の外を見つめる。


「……事故は嫌だね。別れる間もなく、全てが一瞬に終わるから」


照りつける陽光の中、慌ただしく過ぎる人々。

青年その視線の先には一人の女性がいた。


彼女の名前は 音(ね)重縁(しげよすが)。

たった今、あと半年の人生を宣告された、青年がその生涯を見守る娘だ。


彼女は現代美術の煽(あお)りを受けたような時計塔の前で、溢れかえる人混みの中からずっと誰かを探していた。

普通の容姿でありながら、どこか目を引く雰囲気がある彼女は不安そうな表情で辺りを見回している。

彼女の落ち着かない様子に、通りすがりの人が目を向けては歩き去る。


「それにしても可愛いよね。また声かけられてるし。セーショー、あの子誰を待ってるんだ?」

「Code Σ_3490長谷高志……縁ちゃんの彼氏だよ。今日は一緒に買い物に行く予定だった」


青年は少し怒ったように答えた。


「もう随分待ってるみたいだけど?」


男は腕時計に目を落とす。

青年も足元に置いていたナイロンリュックから端末を取り出すと電源を入れて時計を確認した。


今は四時を指す時計。

確か彼女は一時間前からあの場に立っていた。


「うん、高志(あの人)がルーズなのはいつものことだけど、今日は遅過ぎるね」

「時間に遅れる奴はキライだな」

「かみやんは真面目だもんね」


 青年が微笑むと、男は意外なことを言うとばかりに「そうか?」と聞き返す。

青年は「無自覚っ」と、男の端正にも間抜けた顔を鼻で笑い飛ばした。



 初夏の光の強さに影は濃く、明暗に仕分けられた明確なコントラストは人の気持ちさえ明瞭に分けてしまう気がした。

時計塔の影に閉じこもる彼女の心も、彼を待ち続ける間に同じ色に染まってしまっているのだろう。


「なあセーショー。お前、彼女で何人目だっけ」


男は長い指を組み遊びながら何と無げに問う。

何人目というのは彼が『書記』として見届けた人生の数のことだろう。


「縁(よすが)ちゃんで十人目だよ。なんかもう、早いもんだね」


青年は穏やかに過去を懐かしむと、その長い時を思い悩むようにぱたりと机に伏せた。

青年の跳ねた茶色の髪が強すぎる陽光に透けている。


「十人か……」


男は青年の担当してきた十人の顔を思い出そうとして、諦めた。

一つ二つ前ならまだしも、彼の四百余年を思い返すのはなかなか難儀だ。


「セーショーもだいぶ慣れてきたよな」

「おかげさまで。今までの人に比べたら彼女に付き添う時間なんてあっと言う間、なんだろうね」

「過去と現在の体感速度の法則?」

「ううん、実際経過時間の現実」

「そうだな、今回は余りにも短い…」


青年は手元の端末を見る。

晴れのち雨の予報がテロップで流れた。


残り半年。

それまでが彼女の、音重縁の人生の全てだということ。



それから、待ち人は来ぬまま。

晴れ間は陰り、予報通り雨が降り出した。





――


雨粒が窓に水滴を張り付けていく。

ぱた、ぱたと歪曲されて色を滲ませ、ぼやける世界。


目の前に居る黒髪の男、かみやんこと上谷紅紫は、自分の一つ前の対象者であった『彼』の事を話題に出した。


自分がいつも彼の事を自慢げに誉めていたからよく記憶しているらしい。


『彼』は生前より世に多くの偉業を遺す者だった。

しかし七十余年の生の果てに何を思ったのだろう。『彼』は日常の最中、思い立ったように自ら死に手を掛けた。


『彼』の死因は自殺だった。




――

それは二つの時代を遡る。


終戦の痛みも時代の変化に紛れつつある卯月の半ばの事だった。


仄白い空は緩やかで、遠い夕日がどこか寂寞とした雰囲気を漂わせていた春の暮れ六つ。


どこからともなく香る夕餉の匂い、

家路を急ぐ人、一家団欒の声。


そんな穏やかな日常の中、とある集合住宅の前で三つの人ならざる影がぼうっとゆらめいた。


「……もうすぐ、だな」


黒い外套の男が低く穏やかな声でそう言った。

濡れたような黒髪に深紅を忍ばせた瞳の端正な容姿の男。

誠実そうな雰囲気の男だが、彼の手には身の丈ほどもある大鎌が握られていた。


「総司くん、泣いてないかしら」


男の一歩後ろで紋付に白い割烹着姿の若い女性が問う。

亜麻色の髪をゆるく結いあげた愛らしい顔立ちの彼女は片手に火の灯っていないカンテラを下げ、心配そうに住宅の一室を眺めている。


「……きっと泣いてる」


女性の声に応えたのは幼い声。

波打つ金の髪に白の簡素なドレスを着た西洋人形のような少女。

少女は大きな黒猫を足下に懐かせ、ちょうど骨壺が収まるくらいの桐箱を抱えていた。


一見して異様な三人。

しかし道行く人々は彼らを気に留める様子はない。

前述した通り彼らは人ではない。

かといって妖や鬼でもない。


彼らについて広く流布する定義は無いが、それはある目的を成すための意思を持つ自然現象のようなものだった。


例えば激しく吹く風を『嵐』と謂うなら、彼らのことはこう定義できるだろう。


亡骸の魂の緒を切る者を『死神』

末期の息を引き取る者を『終末』

死した魂を天へ運ぶ者を『天使』と。


彼らは死にまつわる事象の一つ。

今晩彼らは、今にも死の淵に落ちようとする『彼』の魂を納めるために現れたのだ。


「二人とも、準備はいいかな」


顔を覆う深めの頭巾を被りながら『死神』が後ろの二人に声をかける。


「ええ、行きましょう」


『終末』は着物の袷から紐付きの白布を取り出して顔に掛けた。


「………大和、おいで」


『天使』は黒猫を呼ぶと、白いドレスの裾をなびかせながら小走りに『死神』の傍に付いて行く。


皆の準備が整ったのを確認した『死神』は一呼吸置いた後に深く頷いた。


「さあ、お迎えに行こう」


寂寥を伴う『死神』の号令が、逢魔が時に静かに響いた。



ーー


睡眠薬の空き瓶、ストーブから伸びるガス管。

寒い洗面所。


『彼』は布団とガスのにおいに包まれて一人静かに世を去ろうとしていた。


『彼』はまるで眠るように、安らかに生気を手放していく。

誰にも気付かれない、静かすぎるその死に際で泣き喚く青年の影があった。


「……やあ、セーショ」


『死神』が茶色の散切り頭にシャツと着流しを着た青年に声をかけた。

普通の人間に見える彼も、三人と同じく人ならざる者。一つの生命に付随する者『書記』である。


青年は『彼』の『書記』として、その一生に付き添ってきたのだ。


「『彼』を迎えに来た。少し離れていてくれないか」


『死神』が諭すように青年に言う。

しかしそんな声も聞こえないかのように青年は『彼』にしがみつき『彼』の名を叫んでいた。


「セーショー、彼はもう逝くんだ。頼むからどいてくれ」


再度声を掛けるが青年は駄々をこねる子供の様にその場を離れない。

苛立つ『天使』が未だ退こうとしない青年の元に行こうとするのを『終末』が引いて留めた。


「総司くん、もうお別れなんだよ。総司くんが離してあげないと『彼』は次に逝けないの」


白い顔掛けを払い、素顔を晒した『終末』が必死に訴える。

それでも動かない青年に『終末』が「総司くん!」と声を荒げた。


「……セーショー、もう時間だ。どけ」


『死神』が青年の肩を掴む。

青年は頭を振って『彼』の力ない体に縋る。


「やめて、僕らのことは放っておいて。もういいんだ、僕も一緒に……っ」


青年の泣き言をかき消したのは『死神』の鎌の一閃。

薄氷を研いだ様な刃は空を切り、その長い柄が青年の腹を強かに殴打した。

「きゃっ」と短い悲鳴を上げて『終末』が身をすくませる。


「……っ、かみ、や―――」


青年は恨むように『死神』を睨むと腹を押さえたまま動かなくなった。


「香里さん、すぐに準備を。天ちゃんはセーショーどっかに置いてきて」


『死神』の指示に二人は弾かれたように動き出す。『天使』は気を失った『書記』の首根っこを両手で掴んで別室へと引き摺って行く。

『終末』は顔掛けを再度直し、カンテラの口を開けて『彼』の最期の息を待った。

そして『天使』が桐箱を構え、皆の準備は整った。



『死神』が穏やかな『彼』の額にそっと手を添える。


「今際に声枯れし者、辞世の句は来世の産声に。いわい八千代に、絶えなく流れよ」


祷(いのり)の言葉が狭い部屋に響く。

そして『死神』立ち上がり一瞬の風切りと共に『彼』のその首を掻き切った。

同時にふっと『終末』の持つカンテラに青白い燈が灯る。


「吐息、回収完了しました」


顔掛けを外した『終末』がほっとしたように微笑んだ。


「よし、香里さんは下がってて。おいで天ちゃん」


『終末』が青い光を放つカンテラを大事そうに抱えて『天使』に場を譲る。

廊下で吐息の回収を見守っていた『天使』がとととと小走りに『死神』の背後に控えた。


「……頑張ろう、かみやん」

「うん、天ちゃんも」


『死神』は『彼』から目を離さずに笑ってみせる。

と、次の瞬間、首を切られて絶命した『彼』の骸が淡く光りだした。

それはまるで蛹から羽化した蝶のようだった。


『彼』の亡骸から抜け出た淡い光は羽を広げるようにどんどん光量を増し、狭い室内を真っ白な光で満たした。




――


じわじわと光が消える。


狭い洗面所には『彼』の死体のみ。

そこに『死神』と『天使』の姿は無い。


別室でカンテラの青い炎を見つめていた『終末』は、彼らの気配が消えたのを察してそっと目を閉じた。



「みんな。頑張って」







――あなたはどこにおいでなのでせうか――




目を開けるとそこは一面の銀世界だった。


「……寒い」


『天使』が桐箱をぎゅっと抱きしめ震える体を黙らせようと試みる。しかし雪は深く、嘶く吹雪は容赦なく体温を削っていくばかりだ。


「天ちゃん! 大丈夫?」


雪に足を取られながら『死神』が『天使』の元に駆けつける。


「ここには俺たちだけみたいだね。セーショーを探さないと」


周囲に『書記』の青年はいないようだ。

『死神』は黒い外套を脱ぐと、寒さに震えている『天使』の肩にその外套を掛けてやった。


「仕事中……制服、脱いでいいの?」

「今は非常事態。問題ないよ」


白いシャツと毛織のベスト姿になった『死神』は、寒さに顔を赤らめながらも『天使』を心配させまいと気丈に振る舞う。


「ありがとう」


『天使』は礼を言って大きすぎる外套の裾をたくし上げた。


「ふー。今回は随分難しそうだね。案内人(セーショー)も居ないし」

「かみやんが吹っ飛ばすから」

「仕方ないよ。天ちゃんだって殴ろうとしてたでしょ」

「……」


『天使』が分かりやすくそっぽを向く。


「……『彼』の後悔、わかる?」

「こんな雪ばっかりじゃあ、ね。」


黒髪に降り積もる雪を払いながら『死神』は辺りを見回す。

見事なまでに何もない山間の雪景色。

僅かに家らしきものも見えるが、それらは全て深い雪に飲み込まれている。


「早く後悔を見つけないと、ふー、こっちが凍死しちゃうかも」

「うん……あ、かみやん、あれ」


『天使』が『死神』の袖を引く。

遠く少女の指さす方向に赤い光が揺れている。


「……行ってみよう」


『死神』は片腕で『天使』を軽々と抱え上げると雪を蹴り上げながら赤光が揺らめく方へと急いだ。




ひどい火事だった。


赤々と燃えている二階建ての木造の家は、降る雪を蒸発させながら勢いよく燃え上がっている。

燃え盛る家のその正面。火の手に招かれるように家に向かう男の姿があった。


「これは、急いだ方が良さそうだ」




――あなたはどこにおいでなのでせうか――



「いた! あれ、対象の人!」


『天使』の声に『死神』が足を止める。

『彼』は誰かを探すように業火の中に入っていこうとしている。

あの炎の中に行かれたら追いかけられない。


「天ちゃん、補助頼む」


『死神』は『天使』を雪の上に降ろすと鎌を携え『彼』の方へと駆け出した。


大きな音を立てて真っ黒に炭化した梁が崩れる。大量の火の粉がパチパチと吹雪に混じって舞い上がる。


『死神』は『彼』の向かう先を凝視した。

魂をこの今際の世界に繋ぎ留めるもの、それは人や物など形は様々だ。

魂を運ぶためにはその柵(しがらみ)を正しく見つけて断ち切らなければならない。


「かみやん、二階!」


背後で『天使』が叫ぶ。

見上げると二階の窓から壮年の女が身を乗り出している。大声で助けを求めているが炎に追いやられ今にも転落しそうだ。

『彼』も二階を見上げて彼女に向かって手を伸ばす。


「飛び降りろ!」「落ちちゃダメだ!」


『死神』と相反する声が背後から聞こえた。

『死神』が振り返ると姿が見えなかった『書記』が溶けかけた雪を蹴散らし『彼』の元へと急いでいた。


「セーショーっ」

「かみやん、彼女が『彼』の後悔だ……落ちる前に、切って!」


窓枠に乗り出す彼女の真上で炎が大きく爆ぜた。

支えを失った屋根から焼けた瓦がガラガラと落ちる。その真下で手を伸ばしていた『彼』を『書記』が突き飛ばすようにして庇う。


「早く!」


頭を打ったのか、眼を血で濡らして『書記』が叫ぶ。

軒が軋みを上げながらゆっくり傾いた。

『書記』の鬼気迫る様子に圧され『死神』は鎌を振り上げると同時に跳ぶ。


崩落する家、

    落ちる女性、 

「………。」 と、『彼』の呟く声。 


赤い炎。



『死神』の青白い一閃が女を景色ごと切り裂いた。


びんと絃の切れたような音。


『書記』の言う通り彼女が『彼』の後悔だったようだ。


「……っ、やったか」


『死神』が着地すると同時に鎌に切られた景色がずれていく。

燃える光景が上空に昇り、白と赤の景色を断絶させた。そして世界はまるで時を止めたように静まり返る。


「……変な景色」


『天使』は『死神』のもとにやって来ると空を見上げて呟いた。

天上の遥か遠くでは業火が燃え盛り、火の粉や瓦礫は地に着くころには真っ白い粉雪に変わっていった。


「そうだね」


『彼』は雪に膝を付き、ただぼんやりとしながら頭上の火事を眺めていた。


「天ちゃん、準備して」


『天使』は頷くと『死神』から借りていた外套を脱いで返した。

まだ凍えるほど寒いのに、『天使』はそんなことをおくびにも出さず背筋を伸ばし『彼』のもとへ向かう。


『死神』は膝を付いて蹲っている『書記』のもとへ向かった。

白い雪は絶え間なく降り注ぎ、『書記』の丸めた背中にゆっくり積もっていく。


「セーショー。後悔を教えてくれて、ありがとう」


『死神』は受け取った外套を『書記』の背に掛けてやる。

返事のない『書記』の顔を覗き込むと、彼の赤く濡れた髪から血がぽたぽたと滴り雪を赤く染めていた。


「セーショー! 大丈夫か?」

「かみやん、連れてって………『彼』の、ところへ」


息も絶え絶えな『書記』の願いに『死神』は膝を折り、その肩を預かった。

どうやら腕や脚も負傷しているようだ。

心はいち早く『彼』のもとへと行きたいだろうに引き摺る身体は思うように動かない。


「……ねえ、かみやん。どうして『彼』を連れて行くのさ」


遅々として進まぬ身体がもどかしいのか、『書記』は稚拙な問いを投げかける。


「それが『運命』の決めたことだからだ」


模範的な答えを口にする『死神』に『書記』は苛立ちを抑えられない。


「あの人は探してたんだ、ずっと。折角会えたのになんで。なんで死ななきゃいけないんだ。繋がってたのに、なんで、切っ……」


最後は込み上げる嗚咽に呑まれていった。

言動の矛盾と理不尽さはこの際致し方ない。


この『書記』はそれほど『彼』を見つめ、愛していたのだ。


やがて二人は『彼』のもとに辿り着く。


「セーショー……お別れを」


二人が来るまで待っていた『天使』は立ち上がり、『書記』に最期の場を明け渡そうと立ち退く。

しかし『書記』はその申し出にふるふると頭を振った。


もう、そこに矍鑠(かくしゃく)としていた『彼』の姿はない。

白髪ばかりの目の前の『彼』は、力なく溶けた雪に尻を付いてただじっと虚空を見つめていた。


衰えた『彼』をもう見まいと『書記』は俯いた。

その状況に『死神』が小さく首を振る。

『天使』は桐箱の蓋をすっと開けた。


「具縛は絶った。生こう、次の時代に」


『天使』の小さな手が皺の浮いた『彼』の頬に触れる。『彼』は小さな光の玉になると『天使』の手に招かれるままに静かに箱に収まった。


『天使』が静かに蓋を閉じる。


ぱりん。


瞬きのうちに鏡が割れる音がした。

 




――


石炭ガスの鼻に付くにおい。

目を開けるとそこは狭い洗面所だった。


「ただいま」


『書記』は『彼』に声をかける。

遺体は応えず、ただ眠るように横たわっていた。  


「お帰りなさい」


『終末』が皆の帰還を労う。

そして、来迎(おむかえ)を終えた彼らは『彼』の遺体に恭しく礼をすると息つく間もなくその場を立ち去っていった。


『終末』は青白い燈の灯るカンテラを持って。

『天使』は封をした桐箱と黒猫を連れて。

『死神』は鎌の刃を下にして。

『書記』は涙を流しながら、まだそこに居た。


静かなこの場にもやがて人が駆けつける。

『終末』は遺体を見つめ動こうとしない『書記』の手を引き外に連れ出した。



最後の斜陽が消え入り、白濁した空に夕闇が混ざって月は次第に白けてゆく。


街行く人も少なくなった集合住宅の玄関前で、唐突にぱしんと乾いた音が通りに響く。

『天使』が虚ろ気な『書記』の横っ面を張り飛ばしたのだ。


「……悲しいのはわかる……でも妨害は許さない」


『天使』は虚ろ気な『書記』を睨みながら小さな手のひらを握りしめる。彼は頬を押さえる様子もなければ泣きも怒りもしない。

その無反応さに『天使』の拳が飛ぼうとするのを『死神』が制した。


「……成功したからから良かったけどな、セーショー」


『死神』が『天使』を代弁するように『書記』の肩に手を置き諭す。


「もし失敗したら、この魂は終わるんだ」


『死神』は『天使』の持つ桐箱に目を向ける。

『書記』もまた『彼』の魂が入った箱を見て無言のまま思いを馳せた。


「失敗したときは、お前も……」

「……わかってるよ」


表情のない『書記』が『死神』の言葉を静かに切った。

肩に置かれた手を払って拒絶を示す。

しかし『死神』は諦めずに語りかける。


「……俺は、お前たち『書記』が羨ましい」


その言葉に『書記』がぴくんと反応する。『死神』は続ける。


「俺たちは片割れを失って、全て忘れて生きることも出来ずに、ずっと死を完了させるためだけに存在している。お前にこんな思いさせたくな……」

「分かってるよっ!」


『書記』は平素の穏やかさからは想像できない嚇怒(かくど)の相で『死神』を睨みつけた。


「それでも恨むよ、かみやん」


その言葉に『死神』は寂しそうに笑い、どろりと溶け落ちるように地に沈んでいった。

残りの二人も『書記』に背を向けると光に飲まれるように消えていく。


「……恨めよ。これが俺たちの存在理由なんだ」




残った『書記』は夕闇に呑まれる街にたった一人。

居場所を探すが、今やもう寄る辺など見つからなかった。


役目を終えた自分たちはもう現世にとって不必要な者だ。


幾度目かの感慨。


それは胸の穴に夕嵐がひゅうと吹き込んだようだった。



もうすぐ世間が彼の易簀(えきさく)を憂うだろう。


思い出の染み入る世間の空気を一つ吸い込み、この時代に別れを告げる。


次にこの世に降り立つときはどんな時代になっているだろうか。

そもそも次はあるのか。

別になくても構いはしないが。


『書記』は実感の湧かぬ悲しみを飲み下し、溶暗するようにこの世を後にした。







ーー



To:

Sub:


どうも、先日ぶりです。

改めまして、僕の名前は枕野総司。姓はまくらの名はそうしです。

かの有名な古典文学と混同されて、知人からはよくセーショーなどと呼ばれていますが、ぜひ総司先輩と呼んでください。「春はあけぼの」とか、言わないでね。


今日『死神』の上谷紅紫(かみやん)からCode D_4 音(ね)重縁(しげよすが) の死亡予定を知らされました。『運命』の斎藤(さいとう)さんは、彼女の死因を事故と決定しているようです。


正直、実感湧かないんだけど、戸惑いは隠せません。

こんなこと聞いたら君も不安に思ってしまうかな。

大丈夫、きっと縁ちゃんは元気な子を産むよ。

そういえば、君は初めて『書記』になるんだよね。『書記』は君も知っての通り対象の人生を記録するのが主な仕事、ってのは知ってるか。


あ、もう七天のみんなに挨拶は終わったかな。

一つの魂を回収して再生まで導く、僕ら『書記』と『運命』『終末』『死神』『天使』『忘却』『歴史』の七つの役職を七天と言うのは知っているよね。

たぶん『歴史』の田中さんには会えないけど大丈夫、Code Dの担当はみんな気の善い優しい人ばかりだよ。


君も使者になりたてで、今から色々と心配だよね。

僕も四百年前に人生を退いて、初めて『書記』の仕事に就いた時はすごく不安だったよ。精神的にきついし、みんなに迷惑かけることもたくさんあったけど、僕は『書記』の仕事が好き。

君を含めてこのCode Dの一員であることを嬉しく思ってるよ。分からないことがあったらいつでも気軽に会いに来てね。


それじゃ、この子の誕生日を無事に祝えるようにお互い頑張ろう!



-END-




ーー


雨の降りしきる窓の外。

音重縁は僅かな庇(ひさし)に細い身を寄せて雨を凌(しの)ぎ、疲れきった表情でまだ彼氏を待っている。


時間はあれから一時間経過し、今は午後五時。

いつもなら陽はまだ上方に照りつけている時間帯。

しかし、急に降り始めた雨は止まず、分厚い灰色の雨雲に覆われて世間は薄暗い。


「ねえ、かみやん。このメールを縁(よすが)ちゃんの子供の『書記』に送りたいんだけど」


そう言って俺はセーショーが寄越してきた端末を受け取り、バックライトに目を顰めながら文字を追う。


「……うん、セーショー。メールでこれは長いわ。説明書っていうか、これ自叙伝、兼、感想文だもん」


小一時間、特に話もせずにセーショーはずっと端末を弄(いじ)っていた。

何をしているかと思えば、彼女のお腹の子の担当になる『書記』にメールとは……


「いや、彼女新人で不安そうにしてたから。このを皮切りに僕の経歴とか、七天のちょっとした説明があれば読みやすいかなって」

「うーん、微妙。要点も分かり易そうで分かり辛い。第一に長い」

「そーう? まあ、僕のはじめの頃を思い出してたら、つい感情移入しちゃって止まらなくて」

「応援してます、頑張って下さい。だけじゃダメなのか」

「……あのさ、かみやんってあんまり文章とか読む人じゃないよね」

「通知と指南書が読めればそれ以外は必要ないな」

「あっ、そ。」


自分の否定的な意見など聞いていないセーショーは、ちゃちゃっと宛先と題名を打ち、本文はそのまま一文字も改めること無く送信ボタンを押した。


雨の降る窓の外、足早に過ぎる人混みを睨む彼女が、弾かれたようにポケットから携帯を取り出した。

まるでセーショーからのメールを受信したようなタイミングで縁の端末に着信が入ったのだ。


「……、…!」


彼女は人目も憚(はばか)らず電話の向こうに怒鳴り散らしているようだ。

傘の群れは彼女の周りを避けるようにして流れていく。


「彼からだったみたいだな」

「そうだね」


セーショーはぽつりと答える。

彼女の頬に伝うのは雨の雫か、痛いときに流れる雫か。

そして怒りの熱も醒(さ)ます雨足は、やがて虚しさを連れてきて、縁の顔から表情を消し去った。


そして彼女は色彩の失せた瞳で通り過ぎる人々を見つめ、憔悴(しょうすい)しきった彼女はふらりと傘の群れに紛れていった。


「じゃあ、かみやん。僕、今日はもう行くね」


彼女が歩き出し、セーショーも端末をリュックにしまって椅子から立ち上がる。


「ああ、また何かあったら連絡する」

「……うん、ありがとう」


別れを告げて、セーショーは窓を突っ切って彼女の元へ駆けていく。


濡れない彼は、傘を持たずに雨に降られる彼女に寄り添う。

彼女に聞こえないその声で彼氏の嫌味を言って、

彼女に見えない姿でおどけて見せていた。



ーー



俺はセーショーと別れた後も一人で窓の外を眺めていた。


対象と同じくらいの年齢の彼は、思いつく限りの彼氏の悪口を言って彼女を慰めていた。

いくら頭を悩ませても、いくら上手い事を言っても、彼女には何も聞こえないし、見えやしないのに。


「……『書記』は辛いな。こういうのを見ると、自分は『死神』で良かったと思えるよ」


紅紫は行ってしまった二人の方を向いたまま、声に出して呟いた。


「独白にしては語り口調」


誰にも聞こえないはずの独り言に応えたのは幼い少女の声。

ゆっくりと振り返るとゆるふわの金髪を腰まで伸ばした可愛いらしい少女が足元に黒猫を懐かせて立っていた。


「ちょーっと遅かったね、天ちゃん」

「寧々(ねね)! 天ちゃんってバカみたいな呼び方は嫌って前にも言った」


色白の顔を赤く染めて異を唱える彼女の名前は天利寧々(あまりねね)。そして黒猫の大和(やまと)だ。

寧々はその天使のような姿に相応しい『天使』の役職に就いている。


「寧々だったら、ねーねーって誰かに呼び掛けてるみたいで混乱するだろ」

「しない! かみやんのアホ」


寧々は白い膝丈のワンピースの裾(すそ)をばさばさはためかせ憎まれ口を叩いた。

俺は「まあまあ」と笑いながら椅子から降りると、小さい寧々をひょいと抱え上げて総司が腰掛けていた席に座らせる。


「ありがと」

「どういたしまして」


寧々の頭を軽く撫で、自分もまた椅子に座り直す。


そしてしばらくあだ名談議を加熱させた後、俺は本題に入った。


「ねえ、天ちゃん。天ちゃんはセーショーのこと、どう思う?」


急に振られた話題に、一瞬彼女の時間が止まる。


「……良い人」

「それだけ?」


あまりにさっぱりとした答えに問い返すと、寧々はそれだけとばかりにこくりと頷く。


「私はかみやんみたいにセーショーと頻繁に会わない」

「あー、それもそうかもね。でも結構仲良しじゃないか」

「かみやん程じゃない」

「また、何と比べてるんだか……」


寧々は口数が少ない、というか、表現が端的。

会話のキーとなる主語やら対象の方向を容赦なく省くため、その一言はあらゆる意味に解釈できるのが難解だ。


「まあ、俺が言いたかったのは、一緒の七天メンバーとしてのあいつをどう思ってるかってことなんだけど」


寧々は質問の意図を理解しこくりと頷く。


「それなら……一番不適格」

「ほう、それはまた」


手厳しい意見だ。

まあ言わんとする事は分かるが、試しに聞いてみよう。


「その心は?」

「セーショーは優しい、良い人。でも私達は人じゃない。セーショーは『書記』として対象に依(よ)りすぎてる」

「うん、そうだね。俺も大体一緒のこと考えてたよ」


セーショーは今、十人目の人生に寄り添っている。

彼はもう十人と言っていたが、他の使者から言わせれば、まだたったの十人だ。

経験の浅い『書記』にありがちだが、対象への過剰な依存から死の運命に耐えきれず、退職または暴走することがままある。


『書記』には『運命』の説く未来を解くことは難しいのだ。


「まあ自分だって『死神』になってやっと斎藤さんの言うことが分かったし。お互いの距離と憶測が邪魔するから理解できなくて当然だよね」


その言葉に寧々も頷く。


「ねえ、セーショーの対象の娘、これからどうなるかな?」


俺からの問いに寧々は少し思案し、平均的な未来を解く。


「難しい選択がある。でも、弱いから優しさを選ぶよ」


ほら、寧々もあの子の道則が観えている。


「うん。天ちゃんの意見は真っ直ぐでいいね。きっと彼女は悲劇のヒロインみたいに扱われるだろう。でも、俺が聞いたのは一般論じゃなくて天ちゃんの感想だよ」


そう問い直すと、寧々は深い青の瞳を丸くして自分を見上げた。


「私の感想……下らない」

「うん?」


往々(おうおう)にして期待は裏切られるものだ。

ある意味期待以上。

幼いその口から返ってきた答えは予想よりも辛口だった。


「たくさんある仕事のたった一件に感情移入している暇はない」

「ははっ、あー、相変わらず手厳しい」


前言撤回。

自然体でストレートとか美化し過ぎだった。

寧々は仕事も見た目も天使だが、実は中々にさばさばした精神熟女だ。

図らずも寧々のフリーズドライなハートに触れてしまい、自分の心もパリパリになってしまうかと思ったとき、寧々はじとっとした目を逸らし、独り言のようにぽつりと呟いた。


「……でも、セーショーにはまだ重たい一件かも」

「あ、やっぱりそう思う?」

「もしかしたら、また流れに戻りたいって言うかもしれない」

「そしたらまた殴り飛ばすんでしょ?」


その言葉にきつい視線が刺さる。


「私はそんな酷いことしない。二度目があるなら、次は自分で決めさせる」


あー、可愛い。こういうのをツンデレと言うのだろうか。心配はしてるけど、それをおくびにも出さないトコが本当に可愛い。


「それはお優しいことだ」


ふわふわの小さな頭を撫でてやると、寧々は難しい顔をして「うー」と唸った。


「そうだ。まっちゃんが後でセーショーに会いに行くって。天ちゃんは今から顔見せ行く?」

「今回は……行かない。最終宣告が出てから会いに行く」

「そう、じゃあ俺ももう戻るよ」

「うん、ばいばい」



雨粒の付いた窓の外、夕暮れはまだ遠い。


自分は着ていた黒い布の塊と床に置いてあった大鎌を持って席を立つ。鎌の柄で床をコツンと叩くと、足元が黒く溶けるてドロリと波打った。

それに驚いた黒猫の大和が寧々の膝に飛び退(すさ)る。寧々

は大和を撫でながら「またね」と手を振った。


俺は手を振り返しながら黒い霧に呑みこまれ、ずぶずぶと沈むように地面の下へと沈んで行った。




ーー


小さな店内に流れるジャズ。

煎り過ぎたコーヒーの香り。

雨宿りに繁盛した客たちのざわめき。


寧々は紅紫を見送った後、人もまばらになった街道を見つめていた。


使者の目に見えている世界は、生者の視界に比べて何かと煩雑(はんざつ)だ。


生者の一人一人には遠巻きに、それとなく『書記』が付いており、たまに『死神』や『天使』などの特別な使者が現世に降り立つ。

しかし、生者にはそれが見えない。


この世界は思った以上に騒々しい。

初めて使者になった者は、生前の世界とは異なる忙(せわ)しない世間に驚くものだ。


「………」


向かいの店がやけに慌ただしい。


寧々がそちらに目を向けると、ショーウィンドウの向こうに特徴的な格好の者達が集まってきた。


空きビンを持った白衣の男、

大鎌を携えた黒い装束の青年、

彼らに何かを叫んでいる老婆。


きっと今、あそこで生者が流れた。


(さて、そろそろ自分も行かなくちゃ)


「行こう、大和」


まぶしい閃光と共に寧々と黒猫の姿はどこかへ消えた。





これはきっと悲しい話。


悲しい話を始めよう。


人の人生とは、そう、そういうものだ。


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