第百八十九話:祈り

『心を抜いて死人と化して、痛みを忘れて勇敢と偽り、考えを捨てて即断と語る。――さて、リプカ、戦う者にとって最も勝利へ近づける人の在り方とは、いったいどのような者でしょうか?』


 ――昔、師のシシリアから受けた教鞭のことを思い返していた。


『……残酷な人?』

『間違いではありません。しかし、もっと具体的に』

『相手の弱みを、迷いなく突ける人……』

『それは正当解とは言えませんね。人の道を踏み外した者に、人はついてきません。戦いは基本、敵味方の数で決まりますから。最も勝利へ近づいたる人ではない』

『…………。時代時代で異なる常識、人の道を踏み外すという程度の尺度を見極められて、そのギリギリの淵に立てる人でしょうか?』

『遠のきましたね。一つの良い線ではあるけれど』

『…………。…………』

『いま貴方が回答したことは、あるいはそれもまた、答えの内包』

『…………。――自分の勝利を知っている人』

『その通り。フランシス嬢を思い浮かべたのですか?』

『はい』

『世界を知り、道筋を知り、距離を知り、故に勝利を知って、然る理解の後に尽力できる者が、勝利に一番近しい。知性、暴力、どちらをどれだけ使うにしても、それは同じ事情です。その者は“例外”に悩まされるけれど、他の者よりも遥かに勝利へ近しい位置にある。――さて、では、ここで言う“例外”とは?』

『――飛び抜けたおバカ?』

『その通り』


 シシリアは微笑んでいた気がする。


『だからリプカ、相手方がどうしようもなく、勝利に近しい者であった、その場合には思い切って、考え方を心赴くままに振り切ってみなさい。そこに心があり、痛みを忘れず、考えを捨てなかった決断であった場合には、戦況を覆す一手に成り得るでしょう。そう、貴方ならできる』

『おバカの才能があるということでしょうか……?』

『ここで言うその意味は、あまりに世の常識から外れたる理性的な者のこと。リプカ、大戦を過程して、まず相手の心を折るにはどういった策を取りますか?』

『単騎駆けで、敵方をある程度蹴散らしてから集団戦に持ち込みます』

『心、痛み、考え、それらの自分が耐えうると下した常識外の奇策。自分にできること、他人には思い付けないこと。つまり、貴方の考え』

『……お師匠様』


 たぶん、言いづらそうな表情で見上げていた。


『やっぱりそれは、おバカの才能があるということのように思います……』

『いつか、その意味、その真実と向かい合う』


 お師匠は優しく頭を撫でてくれた――。

 勝利に最も近しいはずの少女の手を取り共に歩きながら、そんなことを今、思い返していた。


「ミスティア様。――ミスティア様は、この世界で何を祈りますか? 私たちが愛と尊厳の自由を祈るように。貴方様は――」

「――私は。空が青いことを祈り、海が混濁を呑みながら澄んでいることを願い、大地が潤うことを求めて、そして、――あなた方が失われながらも存在することを望んでいる」

「…………?」

「あえて言うなら、私が祈っていることは、そのことです」


 それこそ祈りのような、シュリフの微笑み。


 シュリフの視界はリプカの認知野に収まらず、ただ、空をく鳥を見上げるように、存在を受け止めるしかなかった。


 それでも。


「貴方が失われるそのことを、私に教えてください」

「――ええ。これから行く先で、どうか、そのことを聞いてください」


 それでもリプカは、鳥の視界に私たちの姿が確かに映っていることを信じて、手に取った彼女の不思議な体温の確かに、実在を見ていた。


 今はただ、そのことを。


 それこそ祈りのように。




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