闇夜の襲撃者・1-4
「身分を明かして裁量を待ちます。この通りです」
「未然で済んだことを喜ぶ場面でもありませんが、それ以上を望む場面でもない。これ以上の粗暴がなければ事は荒立てません」
「……すまない」
「――それよりも」
すんなり――あまりにもすんなり、事態が収まりを見せたところで。
黒曜石のような冷たい瞳で見下ろしたまま、リプカは、クインから「機会があるなら、必ずそのように問い質せ」と念押されていたことを、ここで問うた。
「それよりも……あなた方は、どうして、私たちがあなた方の敵対者であると、そうも盲目的に断定していたのですか?」
「――――匿名の筋から“とある情報”が入って、それを信じてしまった……。あなた方が、あのお方に根治方法の
「出どころは?」
「…………――イグニュス連合からだった」
「イグニュス?」
「信じるに足る筋からの情報であったらしいが、……私はそれ以上のことは、知り得ない」
「だからあなた方は、私たちを襲った。…………」
問い質して転がり出てきた理由は、まったく想定外な方向から飛んできた不可解だった。――けれど。
リプカの表情は僅かも動かなかった。
「――ともかく、あなた方のしでかしたことは許されませんが、こちらも暇じゃありません。無駄に煽り立てするようなことがないのなら、こちらも、事を荒立てるつもりもない。ミスティア様の助けとなる手立てはもう見つかっているし、実現の目途も完全。これ以上あなた方が場を掻き乱す必要は、一つもない。違いますか? ――粗暴の一切から手を引きなさい。あなた方が望む未来は、もはや何をするまでもなく、はっきりと明りが灯されているのだから」
――嘘だった。
実際はフラムデーゼドール家に助力を約束させたという
シュリフの未来視によれば。
紆余曲折の末にリプカは――シュリフの消失という事情へ、最終的には……納得を見せるという話であるのだから。
彼等の崇めるそのものの予見である。
真実はむしろ、リプカという存在は彼等からすれば、然るべくして敵対すべき相手である。
けれどフランシスの才知が導き出した奇跡が、その嘘の全てを、確かな真実味で塗り潰して隠した。
「その書面の内容を鑑みて、このお話に、納得のできないところが、なにかありますか?」
「……いや。理のある話のように思う」
「では、今後は
その宣告に、男は地に手を付けて、着の身着のままの如くの誠意と誠実を見せて、はっきりとした了承を声にした。
「温情に感謝致します。この証明をもって我々は納得するでしょう……その頭はある。下劣な立場から頭を下げるようですが、必ずこれを持ち帰り、その真実を明らかにすることをお約束致します。そのときは、粗暴といった無意味の一切から身を引く結果になるでしょう」
そうして、殊更に頭を下げた。
「ふざけた話ですが……あなた方に感謝している」
詫びという言葉がある。男の姿はまさに、それを体現していた。
そうして頭を下げる男の姿を見つめながら。
リプカは、フッと目元の力を抜いて――ぽつりと、
「…………。優秀とは動力であり、つまり立場が優秀の
「……え?」
「昔、私の大切な妹が口にしていた教訓です」
幾分和らいだ口調で言うと。
予兆もなく。
右の足、目に映らぬ早駆けの力を備えた、その金剛力を跳ね上げて――男の腹を、再び蹴り貫いた。
「――――!!?」
「――あなたほどの人が、簡単な文脈も読めないほどの醜態を晒してしまった。考えるに、妹の格言は、違わず本質の的を射ているのでしょうね……」
呻き声すら漏らせない
「言ったでしょう、――感情は匂いに表れる。あなたの感情偽装は、完全とは程遠かった。
――感情を不気味な能面にした男。
ない交ぜにした感情をべったり塗りたくった、奇妙なその表情を見据えて、リプカは冷徹の色を湛えて瞳を細めた。
「――そう、はっきりと薫っていたのは、確信を得るほどの根拠となったのは……あなたの中で消えずに燃え盛っていた、その煙の臭い。――あなた方がセラフィ様を襲ったそのことは、もう、とうに知った事情でした。あなた方の狙いはとうにバレていた。シィライトミア姉妹を襲い、荒事に及んだその理由は、私でも簡単に推測できる。あなた方は、ミスティア様を確保して、監禁でもするつもりだったんだ……。裏人格の定着が確定するまで、なにもさせない……確かに確実な方法の一つです。――ずうっと匂っていましたよ、嘘の薫りなんかよりよっぽど鮮明に。狂気に浸かった覚悟を少しも諦めていない、ギラギラと薫る……身の丈を超えて溢れ出た、大それた考えを抱く、酷く鼻を突く匂いが」
語る少女の、その表情には。
残念ながら、凪いで揺れない真実の確信があった。
「――ここで退くことができれば、次に見合うのはきっと、あなたのホームステージ。あなたの
そしてリプカは、魂の芯を視線で射抜くかのように、圧力に満ちた瞳で男を見下ろして、染め上げられたような感情の声を投げ降ろした。
「あなたの野望はここでお終いです。ミスティア様に危害が及ぶことはない、私がそうさせない。私が守護する限り、
最低でいい。
軽蔑される立場でいい。
下等でいいし、侮蔑の
ただ、必ず、あなた達の前に立つために。
どうあっても私は止められない。どんな人間の感情を持ち出そうとも。
私の大切な人たちには触れられないし、近寄れない。
向かい来るあなた達は、心を失い灰になる。そうなるまで私の暴虐は止まることがない。
あなたの目の前に、その証明がある。
――あなた達は立場にそぐわず、慈悲を期待している。
知りなさい。
自覚しなさい。
暴力を振るっていい人間はいる。
それがあなた達」
恐ろしさは、それまでの比でなかった。
男の耳に。
空間が歪むような音が、鳴り響いて確かに届いていた。
リプカの表情。
男にはそれが、赤と黒の二色に見えた。
塗りたくられた色の一部が静かに開き、煉獄の見えるそこから、人間の声が漏れた。
「
私は。
あなた達を。
殺す。
」
それは暴力より恐ろしかった。
純粋な感情を込めた『殺す』という言葉。
ナイフを向けられるより恐ろしい。この先何があっても目の前の宣言者との
愛してる。
一緒にいよう。
心は共にある。
それらが本当の言葉である事の、その、計り知れない力強さは想像できるだろう。
同様に。
殺すという宣言が、そういった真実本当を有していた、その絶望。
――――少女は染められた表情で、人間の芯を貫く声で、男に宣告した。
「手を引け」
どうあっても敵わない存在。魔人の宣告に、男は顎を外して絶え間なく震えていた、けれど。
それでも――リプカ言うところの、狂気に浸かった覚悟を少しも諦めない、ギラギラと薫る心情は、燃え尽きなかったようで……。
正気でない瞳で、懐から不器用に、なにかを取り出した。
――ナイフだった。
しかも、本格的ではあるけれど折り畳み式の、そういった刃物だった。
男は戦うことを選んだ。どうしてであるのかなんて、誰も分からないだろう。正気を失うこととは、酔って仕出かしたことに似るものだから。
なんだか、ワケのわからないことを叫び上げながら、刃先すらきちんと前を向いていない刃物を手に、男はリプカに突進した。
リプカは赤子をあしらうように危うげなく、男に三撃の致命を入れて、その身を蹴り飛ばした。
チン、と硬質な音を立てて、宙を舞ったナイフが地に落ちる。リプカは臨戦態勢を解いて、それを拾い上げた。
ピカピカのナイフだった。
新品のそれはワクワクするような美しささえ備えていて、部屋に飾っておけば一端のオブジェとして、品の良い存在感を示しそうですらある。
リプカはため息をついて、月明かりを情緒たっぷりに反射する、それを折り畳んだ。
(なにかの価値に全てを捧げる者は、得てして――その結果何と対峙するのかということに、目がいかない。……どうしてでしょう?)
(私も自覚していないだけで、そういったことを、しているのかな……)
月明かりを見上げる。
男はシュリフを、月明かりのようだと言っていた。
結果、そこにあったのは代行外交官の秀才ではなく、ピエロのような脇役の存在。
人がここまで狂えてしまう、価値の輝きを備えた人。
リプカは、道化みたいに踊るだけ踊って朽ちた、目の前の男を笑えなかった。
笑いなど起きない。
(けれど――)
リプカは倒れ伏す男を見つめて。
ナイフを、握り潰した。
(けれど、無上の価値を備えた存在である以前に――あのお方は、セラ様の妹。ミスティア・シィライトミア様)
(望み、狂う相手を、あなた方は間違えた……)
心の中で告げて。
握った手を開き、丸まったナイフを地に投げ捨てた。
――けれど、こんなところに鉄の塊を捨ててどうするということに気付き、リプカは慌てて、腰を
(帰ろう……)
幼年組の状態が気になり、朽ちたように倒れ伏す男に背を向けて、リプカはそそくさと、夜の路地を小走りで、慌てて駆け抜けるのだった。
至って、いつもの彼女。
彼女の背には、嘘みたいな惨劇の跡があったけれど、路地を吹き抜ける夜風すら、もうそのことを忘れたみたいに、何食わぬ顔で夜の薫りを運んでいた。
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