第百十五話:アリアメルで見た空の情景――・1

 濡れた木材の香りに満ちた準備室を抜けると、水の混じった風にワッとなぶられて、開けた景色を瞳に映しながら、新世界を覗いたような心地になった。


 ――水が風に揺れて満ち引きする音が心地良い。


 気のせいか、道沿いの堀で囲った湖であるはずのそこから、時折、かすかに潮の香りを感じた。水飛沫の粒が混じったような独特の風が顔をなぶったそのときに、ふと鼻の奥で、潮の香りの刺激が思い起こされたような……上手く言えないが、新鮮な感覚だった。


 風景の実態に、じかに触れる。それだけで、別の世界にやって来たような気分を味わえた。

 風景に踏み入った。

 リプカはそのときの感慨を、そんなふうに理解した。


「ボードの装着確認を、係員の者といっしょにお願いしまーす。……――はい、オッケーでーすっ。では、ハンドルを握って、所定の場所にてセッティングをお願いしまーす!」


 着々と進められる準備風景を眺める皆は、手に汗を握ったり、不安を表情に浮かしたりとそれぞれ緊迫を隠せないでいたが――しかし当のリプカは、まったくもって慌てたところのない、泰然とした自然体を見せていた。

 沈着といえど別に沈んだ様子もなく、頬に程よい赤みを差して、準備の間の、風景の様々さえ楽しみながら、リプカは前を向いていた。


(ドキドキする)

(なんだろう、昂るでもなく、緊張するでもなくて――)

(ただ、心地良く、嬉しい)


 準備は実に流々と進められた。

 そして――モーターボートのエンジンが震え始め、低音から始まる、あの、まるで威圧することが目的であるような動力音が辺りに轟き始めた。


 見守る者の何人かは、思わず小さく悲鳴を上げたが、そこに至ってもリプカは泰然と構えていた。

 どころか、風に乗って飛んできた、モーターボートが上げる水飛沫の味に、独特の歓楽を見出して、自然と口角を上げながら、握ったハンドルに力を込めた。


「準備一、準備二、準備三チェック。はい、オッケーでーす。……ではいきまーす! 前方良し、左右良し、プレイヤー良し、機体OK。――カウント、3,2,1――」


 ――冗談みたいな発射音が轟き、モーターボートが疾走し始めた。

 そして――。


 リプカのパフォーマンスは、滑走の初めから、なにもかもがクインとは違っていた。


 クインのときは、まず人を無理矢理に引き摺るように爆走するモーターボートに注目がいったが――不思議なことにリプカの場合は、ド迫力で水飛沫を上げるモーターボートよりも、滑走する少女のほうに、自然と視線が集まっていた。

 まるでモーターボートが少女の付属品であるように……見る者の視界には、小柄な少女が主体に映っていたのだ。


 体勢良く滑るリプカは、光景の凄まじさと反して余裕を残しながらも――いまは、言葉にできる何をも思えないでいた。


 この、体に快感は、なんだろう――!

 身体を駆け巡る感慨の風、風景を切り裂く轟音も、モーターボートが打ち上げる矢のような飛沫に打ち付けられる痛みさえもが、全てが感性を震わせるワクワクに変わる――!


 同時に、頭は冷えるように冷静だった。熱と冷が矛盾なく同居している。


 モーターボートが大きなカーブを描いた。


 湖の外からは悲鳴が上がり――そして、次の瞬間には「ええっ!?」という困惑が混じった驚きの声に変わった。


 くらいついていくのではない、この競技の場で分かりにくい表現だが、まるでスプリント板の上で運動するように体勢を巧みに操り、リプカは美しいとさえ思える見事な姿勢を見せたのだ。


「――姿勢。そう、姿勢だな」


 それを眺めながら、顎に手をやり、クインが独りごちた。


「なるほど、このスポーツが十全な上手じょうずでこなされると、滑りの軌跡よりも、滑走者の姿勢に目が行くものなのだな。フン、なるほど、これは見事なものだ」


 ――次第に、素晴らしい技術で滑走するその姿を見て、ふと足を止める道行く人が、ぽつぽつと現れ始めて。

 浮具ブイが形作るコースエリアに突入し、今度は滑りの軌跡にも目が行く見せ場を激走する頃には、周囲には大きな歓声が上がるほどの人だかりができていた。


 連続で弧を描くコースエリアに入っても、リプカの滑走体勢は僅かも乱れない。


 しかし、コースを抜ける最後に構えていた、水面から顔を見せる、なにか出っ張りのようなものを視界に映した瞬間、リプカの表情が僅かに変わった。


「――いやジャンプ台だアレ!」


 ビビがらしくない、素っ頓狂な声を上げた。

 クインの正気を疑るような叫び、そしてリプカの名を呼ぶクララの絶叫。

 頭を抱えたアズが、悲鳴のような声を上げた。


「いやムリムリムリムリ! あれ真っ直ぐならまだしも、ちょっと距離を置いてとはいえカーブのあとにあるじゃん! 絶対体勢崩しちゃうデショ!?」


 アズの懸念を置いてけぼりに、モーターボートが一段と速度を上げた。


 そして勢いそのまま、その巨躯が見事に宙を舞った。


「この国の人間は馬鹿じゃァーーーッ」


 クインの暴言の一間に、リプカも台に差しかかった。


 ――体勢は乱れていない、けれど横滑りする慣性を殺すのが遅すぎた。


 吹き飛ばされる。


 リプカはそれを悟ると、力技で無理矢理方向修正を試みた。

 モーターボートとを結ぶ角度が、最適なものに正される。しかし……。


「駄目だ、それでは体勢が――」


 クインの叫びの最中、リプカの体勢が、ついに崩れた。

 そして――。


「な――ッ」


 皆が息を飲む中、リプカは――ハンドルを手放した。


 進行方向に真っ直ぐ張っていたロープは、横になぶられることなく宙を浮いた。

 大勢を崩したリプカは、速度を僅かも殺さぬまま台を飛び越え――体をコンパクトに折り丸めて、空中での回転を挟むアクロバティックを披露しながら、進行方向と姿勢を完璧に整えた。


 そして着水と同時に、水平に宙を泳いでいたハンドルを掴み、再び激走を繰り広げた――。



 周囲から、爆発のような歓声が沸いた。



「――ス、スゴスギル……」


 アズが茫然とした声を漏らして、ビビが感心、クインが呆れの表情を浮かべる中、クララは頬に赤みを差してぼぅっとリプカを見つめていた。


「こいつ発情しておる」

「……クイン様、今すごくいいところなので、放っておいてくださいまし」


 ――そうして、もうしばらくの間、一通り滑ると、リプカはついに一度も転ばぬまま、発着場へと帰還したのだった。


「んじゃ、迎えにいくかの」

「ゆっくりね、のんびり行こー」


 皆に呼びかけたアズの提案に、クララは首を傾げた。


「どうしてですか?」

「それはな、レジャーを楽しんだ奴にしか分からんのだよ」


 クインの返答に、運動ごとのスリリングに縁のないクララは、やはり、疑問を浮かせて小さく首を傾けたのだった。


 

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