第百十三話:水に浮く街
潮の香りが風に乗ってきたから、目的地に近付いてきたことが知れた。
海岸線からはまだ程遠いはずなのに、スンと嗅いだ途端、思わず立ち上がって辺りをきょろきょろと見渡したくなるような衝動に駆られる、風景に混じるような塩気の香り。馴染みのある者が嗅げば、「嗚呼」と心内で声を漏らし、胸内を通り抜けたような感慨を覚えながら、その存在が近いことを知るだろう。
陸のものとは種の異なる匂い。
海を見たのは一度きりであったリプカは、未知を予感させるそれに、憧憬に似た高揚を覚えたが――しかし気分を盛り立てるのは、風の中に香る潮の香だけではなかった。
道を進むうち、目の前の景色もまた、大変に驚嘆ある新しい展望へと変わっていった。
「わあぁ…………」
リプカは口を開きっぱなしにしながら、感嘆と茫然とが入り混じった声を、気の抜けた様子で漏らしていた。隣ではビビも唸りながらその景色に見入っていて、ここへ来るまでの道中で合流したクララは、そんな二人の感嘆を嬉しく思うように、微笑ましい表情を浮かべていた。
見渡す限りの、水、水、水。
たくさんの水路どころではない。もう、水上に街が作られていると表現したほうがいいだろう。ルーネイト領域、アルメリア領域、そしてシィライトミア領域の内陸部と比べて、水路と陸の幅が逆転していた。
まるで湖の上に建つ街。リプカが今まで見たことも聞いたこともなかった、特別な景色であった。
「ここらへんは、アグアキャナルの風景に似てるんだね。ヤバい、ドキドキしてきた! 水上スポーツ、上手くできるかな? やるだけやってみたいっ」
アズの溌剌とした声に対し、クインは顎に手を添えて考える素振りを見せた。
「ふうむ、水上スポーツというが……この景観の中行われる運動、か。ちょっと、想像つかんな」
アルメリア側の領域線付近、シィライトミア領域の始めで見られた立体的な景色と違い、段差はなく、むしろ辺りは一面、水を湛えた平地の景観となっていた。
「激しい運動というから、水路を急斜面から滑り降りる、みたいなものを想像していたのだが……違ったか?」
「そ、それは少し、危険が過ぎるのでは……?」
と、リプカはおずおずと、クインの、発想の過剰を指摘したのだが――。
「あ、そういったスポーツもありますよ」
と、クララがなんでもないように答えたものだから、リプカとビビは仰天してしまった。
「あるんですか!?」
「ええ、ウォーターダウンというスポーツです。それができるのは、
「板……?」
リプカは上手く想像できなかった。
「で、でも、そんなことをすれば、失敗すれば大怪我ではすまないかも……」
「ええ、熟練が求められるようですが、しかしシィライトミア領域では特に盛んなスポーツなんです。でも、私には、アレは絶対に無理です……。腰の骨が折れちゃう……」
「…………」
どうやら、アリアメル連合の水上スポーツは“激しい”という、その度合いを見誤っていたようだと、リプカは悟った。
「ウォーターダウン! あれができるとカッコいいんだってね! リプカちゃんならできるかもだけど……でも、まずは簡単なところからやってこうよ! 私たちもやりたいし!」
「ヤバい、できるかどうか、本気で不安になってきた……」
「フン、さっくりとこなしてくれるわ」
「わ、私は見ているだけになりそうです……」
クララのしょぼくれた声を聞いて、想像するに“簡単”というのも、突き抜けた激しさと対比しただけのものであってお手軽ではないのだろうなと予感しながらも、リプカは遊びのテンションに相応しく、その難関にワクワクと胸躍らせていた。
「さあダンゴムシ、色んなしがらみは脇に置いておいて、今日は思い切り、楽しみ尽くせよ。それが本日のミッションである、未来で待ち受ける試練の不安に捕らわれて明るさを失うなど愚の骨頂、その顔色でどこぞに顔を出すつもりかっ! その時々を見る度量がなければ、先はないぞ!」
「ハイっ!」
為すべきことは、思い出作りである。
友人と出かけた今このときがもう、掛け替えのない輝かしい思い出であると感じながらも――。
今日はきっと、それ以上に素敵な日にするぞ、と馬車から降りたリプカはぐっと拳を握り。
やってやるぞ、と――積極的な心情に溢れた前向きな気持ちで、辺りを見渡したのだった。
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