第7話 視線恐怖症

視線恐怖症というものがあります。これは、他人が自分に向けている、正確には、向けているように強く意識してしまう、不安を伴う、視線に対する恐怖心を特徴とする恐怖症の一つです。なぜ、視線恐怖症の人は視線を恐れるのでしょうか。

人は例外なく、自己の性器に視線が向けられるのを不愉快に思うものですし、また嫌悪感を覚えるものです。性的興奮は性器を物理的に変化させます。男性器は勃起すると、その変化がはっきりとその勃起した性器を見た周囲の人に、当人は勃起していることがわかってしまいます。これは、男性器は女性器よりも性的興奮による外性器の変化率が高いからです。

女性器はどうでしょうか。女性器は性的興奮によって、陰核の勃起あるいは、充血を起こします。また、膣内部から膣口に向かって性腺分泌物が流れてきたりもします。

さて、男性器と女性器の性的興奮の特徴を比較すると、男性器は、誇張表現、陰茎集中性がみられ、一方、女性器は、緩慢表現、性感帯分散性がみられる。これは、何を意味しているのでしょう。

男性の視線恐怖は、男性器に向けられた視線を起源にしています。視線を向けている人は誰でしょうか。おそらく、その人の母親なのでしょう。親というものは、母親も父親も子どもに、まるで両親は性的欲望とは無縁であるような印象を与えようとします。しかし、これは嘘です。性的欲望と無縁であったなら、子どもは生まれてないわけですから。そうであるのに、子どもは騙されてしまい、純潔な母親に子ども自身の性的欲望があるのだとばれてしまうことに罪悪感を抱いてしまうのです。

思春期を過ぎ、両親の性に関する現実の認識が達成されると、この罪悪感は消失していきます。けれども、両親の性に関する現実が認められず、「潔白な母親」という幻想に固執し続ける子どももいます。なぜなら、子どもから見て「やさしいお母さん」という快楽が「性的な母」という有り様と同一視することに抵抗を覚えるからです。このような男子はおとなになった後も、自分が性的欲望を持つことが他人に伝わることを恐れ、他人の自分に向けている視線を、かつての母親の視線と同化させてしまい、「他の人たちというお母さんのメタファー」に、自己の性的欲望があるという事実がばれることを恐れることなります。そのトリガーに視線が位置しています。

一方、女子も男子と同じように、自己が性的欲望を持つ存在だと他人に伝わってしまうことを恐れることがあります。その原理は、男子のそれと大きくは違わないでしょう。

性器そのものが引き起こす不安に言及するならば、男性は、人前で勃起してしまう不安、すなわち「公共勃起不安」を、女性は、人前で濡れてきてしまう不安、すなわち「公共湿潤不安」を抱えています。さらに、男性は、男性器の誇張表現と集中性をもって、「緊張」を主要な視線恐怖の特徴とし、一方の女性は、女性器の緩慢表現と分散性をもって、「落ち着きのなさ」を視線恐怖の特徴とする傾向が見られます。これらの物理的な変化を伴った不安が、現象として顕在化しないように、人は常に「内容のない言葉」をはなし続けることで、性欲を抑制しているのです。

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