第17話

あの日、日本兵の気配が消え、目を開けたイーリンの前に立っていたのは吉岡だった。

吉岡は一人イーリンの元に残り、清志の居場所を確認した。中国語は分からない、それでも必死に漢字を書き身振り手振りで清志を助けたい事を伝えた。

イーリンもまた必死に理解し、生き抜く道を繋げるため扉を開けた。

「村田が、お前と一緒にあの家に行かなくなっただろう?」

「はい。」

清志は、村田がやることがあると言っていたことを思い出していた。

今日が最後と口にしたあの日。村田は既に清志のために動いていた。

「俺が村田に、お前が置かれている立場を打ち明けた。念のために、お前の無実を確認した」

吉岡もまた、あの頃の出来事を思い出すように天井を見上げていた。

「上層部の考えを村田に教えた。俺たちは、どうにかしてお前の無実を晴らそうとしていた。そんな矢先、お前の捕獲命令が出た」

清志は目を閉じ大きく息を吐いた。清志が気持ちを落ち着けたのを確認すると吉岡は話を続けた。

「村田は俺の制止も聞かず兵舎を飛び出した。お前に伝えるために、必死に走ったはずだ」

清志は目を閉じたまま、つばを飲み込んだ。

「俺はあの家に他の日本兵とともに押し入った。その時、お前が中国兵にも追われているのではないかと考えた。家の中は既に荒らされ、いくつもの足跡が残っていた。その時自分がやるべきことを確信した」

 吉岡は近くに置かれた水差しから直接水を飲むと、落ち着いた声で話し続けた。

「家に残されていた女性が、お前が逃げた道を教えてくれた。俺はその道を進み、お前の足跡を見つけた。その後はお前も知っている通りお前を見つけ、殴り蹴り銃を向けた。そして引き金を――」

 清志は、苦しそうに話す吉岡に細い手を伸ばした。必死に手を伸ばす清志の手を、吉岡は強く握りしめた。

「銃を撃った行動は、あなたの命さえも危険にさらす行為でした。音に気が付き、中国兵が来ていたら、わたしだけではない、あなたも殺されていただろう。それでも、あなたはわたしの為に引き金を引いた」

「さっきも話しただろう。俺は、お前を殺そうとしていた。謝ったくらいでは……」

 あの日の出来事を鮮明に思い出し、村田はまた、清志を殺そうと思ったあの時の気持ちを思い出していた。

「違います。わたしもさっき言ったはずです、わたしの命はあなたに助けられたと。あなたには感謝の気持ちしかない。引き金を引き、あたなは、わたしの命を助けてくれた。今わたしがここにいることは、代えようがない事実です。あなたがわたしの命を背負ってくれた」

 吉岡は、滑り落ちるように床に座り込むと、握りしめた清志の手にもう一方の手を置いた。その手は震え、次の言葉がかすれていた。

「お前を連れ、兵舎に戻った後、すぐに村田の無事を確認した。安心したと同時に、あの母親の事が気になった。中国兵がまだうろついているかもしれないから見回りをしてくる。そんな口実を作って、俺があの家に戻った時には、彼女は息絶えていた」

清志の体が大きく動いた。

「誰が殺したのかは分からない。眉間を撃ち抜かれていた」

吉岡の声は、さらに震え掠れていた。

「何も出来なかった。ただ手を合わせることしか」

「メイリンは……」

「娘の方か―― 消息はわからない。村田とは途中で別れ、親戚のところに身を寄せると言っていたそうだ。その人ならお前を助けられるとも言っていたそうだ」

「親戚―― 助けられる……」

 清志は、あの男の顔を思い出した。自分を助けると言ったあの男だ。清志はふとあの夢を思い出した。「お前が狂わせた」あれは、あの時、あの男がイーリンから顔を背け呟いた言葉だ。あの男は、イーリンを許してなんていなかった。もしあの男を頼っていたら、メイリンも殺されているかもしれない。

「いや、違う」あの男がメイリンに向けた微笑みに憎しみの影は見えなかった。あの暖かい視線は、自分がメイリンに向けるそれと同じだった。

 全てが繋がった。あの男は目的を達成した。メイリンの周りをハエのように飛び回る男をうまく使い、憎いイーリンを娘に恨まれることなく、この世から消した。そしてメイリンを自分の元に置いた。

清志の想像に過ぎないが、おそらくはその通りだろう。

言葉巧みに、母親を助けられなかったと詫び、涙を流したのかもしれない。日本人の男は、日本兵に捕まったとでも言ったのだろう。大切な人がいなくなったと嘆く娘に、自分が守ると傷ついた心につけいったのだろう。

 清志の顔は真っ青になり、体が音を立てる程に震えだした。その震えは握った手を伝わり吉岡に届いた。吉岡は、清志の震える手をもう一度握りしめると、

「お前が今何を考えているのかは分からないが、もうどうにもならない。どんなに嘆こうと何を思おうと、確認することさえ出来ないんだ。彼女がお前の隣で笑ってくれることはない。俺がお前に許しをこいたように、謝る事も出来ないんだ。少なくとも今は――」

 吉岡の言葉に清志は、何度も小さく頷くだけだった。村田は清志を見つめたまま話を続けた。

「俺たちは戦場で【死ぬ覚悟】をしていた。生き残った今、俺やお前のように、心に何かをぶら下げたまま生き続ける人間は、特にそれが必要だ」

 清志は耳を傾けるように揺れる頭を止めた。

「【生きる覚悟】」

清志はその言葉を噛みしめるように何度も呟いた。

「【生きる覚悟】を決め、生きていれば、彼女にいつか会えますか?」

 清志の口から出た言葉は、吉岡が答えられるはずのない質問だった。

「どうだろうな。俺には先の事を予言する力はない」

 吉岡は、清志を慰めるための言葉を並び立てることはしなかった。ただ、現実に向き合ってほしい。強く生きてほしい。それだけなのかもしれない。

「予言は出来ないが、努力は出来る。お前がいつか、彼女に会えるように。その時まで、俺はお前を支える努力をする。お前は【生きる覚悟】を決めろ」

「……」

 黙ったままうつむく清志に、吉岡は付け加えるように言葉を発した。

「今だけでもいい、お前は【忘れる覚悟】も決めろ」

「【忘れる覚悟】」

「そうだ。俺はお前を殺そうと思ったことを忘れる。そして生きる」

「忘れる――」

「本当に忘れるわけではない。それを心から下げるのを忘れる」

「彼女を忘れて生きる」

「そうだ。いい思い出だけを胸に【生きる覚悟】を決めろ」

「それが今自分に出来る事」

「そうだ。今出来ることをする」

 村田は清志の表情が変わるのを見逃さなかった。話題を変えるように、

「お前を手当てした山本を覚えているか?あいつも無事に日本に帰還した」

 清志の手を軽く叩くとベッドに寄りかかるように体制を変えた。

「そうですか。良かったです」

 清志の抑揚のない声が、突然跳ね上がった。

「村田は?」

「話すべきだな」とでも言うように吉岡の肩が下がるのが、清志の横目に見えた。

「あいつは俺が離脱した部隊にいた。治療を受けている最中に、部隊が全滅したという報告を受けた」

「そうですか」

 覚悟をしていたからだろうか、自分でも驚くほどに、清志は冷静に村田の死を受け入れていた。

「俺は離脱する前に、村田から手紙を受け取った。山中の分もある」

「え?」

起き上がることが出来なかった清志が、自力で体を半分起こし、また後ろに倒れこんだ。

「無理するな」

「すみません」

「山中は長野。村田は新潟。二人の家は県境で近いようだ。探し当てられればいいんだが……」

「え?それは―― 吉岡さんが手紙を届けるつもりですか?」

吉岡はゆっくり首を縦に振ると「それでだ」と清志の方へと体をひねった。

「俺たちが自分の足で歩けるようになった時、一緒にいかないか?」

「一緒に……」

「いや違うな。お前に一緒に来て欲しい。そしてお前から見た二人の事を伝えて欲しい。友達として」

 清志は返事をすることが出来なかった。

「嫌か?」

「違います。俺は二人に迷惑をかけただけで、何もしてやれなかった。俺の命は、二人の命に比べたらちっぽけなものなのに、俺だけ生き残った。いったに何を話せばいいのか……。俺に、友達として話す資格なんてないんじゃないかって」

「お前が伝えなかったら、誰が伝える。二人が、笑顔で笑っていたことを。辛い訓練を頑張っていた姿を。お前と言う、命を懸けて助けたい、親友がいたことを」

 清志の目からとめどなく涙が流れた。吉岡は清志の嗚咽が聞こえると、口調を柔らかく清志に問いかけた。

「そう言えば、酒は用意しておいてくれたか?」

 気の抜けたような質問に、それでも反射的に答えていた。

「すみません。まだです」

「そうか。残念だ。お前はどこの出身だ?」

「秋田です」

「秋田と言えば、ハタハタか。酒のつまみにいいな」

「うまいです」

「俺は東京だ。こっちに戻った時、どうにか伝手(つて)をたどって家族の無事を確認しようとしたが、消息は不明だ。家のあった場所は、空襲で焼け野原だったと言われた。恐らく家族も空襲にやられた可能性が高いと―― 両親だけでない妻も娘も恐らくは……」

「そんな……」

清志には、かける言葉がみつからなかった。そんなに辛い思いをしているのに、吉岡は、清志の心配をした。清志に謝り笑顔を向けた。清志を励まし、生きる希望を与えようとしている。

「ありがとう。お前のおかげで【生きる覚悟】が決められた」

 吉岡の力強い声に、清志もまた大きく頷き細く震える手を吉岡の肩に置いた。吉岡に声をかけるわけではなく、数メートル先を歩く看護婦を呼び止めた。

「看護婦さん」

【生きる覚悟】を決めた吉岡の姿に重なるように清志の脳裏には、戦地で見た厳しくもあり優しくもある、あの頃の吉岡の顔が浮かんだ。

 清志の声を初めて聞いたのか、驚いた顔で看護婦が駆け寄ってきた。

「何かありましたか?」

「我儘を言って申し訳ないのですが、食べ物をいただけますか?」

これが清志の【生きる覚悟】を決めた瞬間だった。

空は、あの日と同じ、青く澄んだ空に浮かれた白い雲がぽっかりと浮かんでいた。


二人が【生きる覚悟】を決めたその日。

戦争が終わった。

 足を撃たれた男と撃った男。

足を引きずる男と片足を失った男。

 自分が、友が、愛する者が生きた証を刻むため。

 二人は自分の足で土を踏んだ。



 メイリンのその後は分からない。

 吉岡と共に一年をかけ山中と村田の家族を見つけ出した。

 吉岡は東京を離れ秋田に移り住んだ。

 清志は三人の男の子に恵まれた。

吉岡もまた一男一女に恵まれた。

 その吉岡も先月山中と村田の元へと旅立った。

 今だから思い出せる。

 今だから伝えておきたい。



 あの人の名前を君に渡した

 顔も心も綺麗な人だった

 代わりにしたわけではない

 ただ平和な日本を見て欲しかった

 ただの自己満足だ

 意味なんてない名前なんだ

 つまらない話を聞かせてしまって悪かったね

 


 彼女の名前を背負う覚悟なんて出来ない

 覚悟なんてする必要はないんだよ

 自分の人生を自由に気持ちのままに生きればいいんだ

 ただそれだけだ

 


 おじいちゃんと彼女の人生を

 【人の人生を覗き見る覚悟】が出来た時

この名前を見つける旅にでたい

【自由に生きる覚悟】を持って

 

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覚悟の誤算 かなぶん @ktkanami

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