第16話

「お前が叔父を狂わせた」誰だ。お前は誰だ。お前は――」

 低いうなり声をあげ、清志はゆっくりと目を開けた。

「やっと目が覚めたか」

 清志を覗き込む見知らぬ男の顔に、あの男の残像が消え去った。「俺はどこにいるんだ?」土の上でもない、牢(ろう)につながれるわけでもない。清志は、ほんの少し柔らかい布団の上で目を覚ました。清志は吉岡の報告で疑いが晴れ、野戦病院へ送られていた。

「死んでいない」

薄汚れた天井を見て最初に出た言葉だった。

「三日も眠ったら痛みも少しは治まったか?」

声の主は軍医の山本だ。その言葉に体中の痛みが反応した。

「痛っ」

「無理に起き上がるな」

「俺は――」

「簡単に言えば、お前は助かった」

「吉岡曹長は?」

「あいつは、もう出発した」

「村田は。俺の友人、親友で」

「すまん。そいつの事は分からん」

「日本兵が殺されたという話はありましたか?」

大声を出すと体中に痛みが走る。

「そんな話は聞いていないな。ここには引き上げ部隊の負傷兵が数人いるくらいだ」

「そうですか」

清志の声に、ほんの少し安堵の色が見えた。

「吉岡と同じ部隊なら、昨日出発したはずだ」

「そうですか……」

「その友達だろう。お前を逃がしたのは。それと、お前の顔を殴り、足を撃ったのは吉岡だろう?」

清志は答えることが出来ないまま、顔をそむけ目を閉じた。

「中国兵とやり合って手を痛めたって俺には言ったが、お前を殴った傷だな。手の震えが治まらなかったのも、お前の足を撃ったからだな」

「吉岡曹長が、そんな事をする理由がありません。証拠があるんですか?」

認めるわけにはいかな。顔をそむけたまま、清志の口調がどんどんと強くなった。

「安心しろ、尋問してるわけじゃない。証拠もない。俺の勝手な想像だ。ただのひとり言だ」

「どうしてそう思ったのですか?」

「人を撃ったら、一生そいつの命を背負う事になるんだな。人間を的(まと)にしようだなんて……」

 山本の声が小さくなった。

「あいつが、お前を見下ろしながら呟いていた言葉だ」

「お願いします。誰にも――」

体を起こそうとし、痛みに息をのんだ。

「言っただろう。俺のひとり言だ。あいつと俺は同郷なんだ。夜通し語り合った事もあった。そんなやつに、最後の頼みだ。こいつを日本に送り返してくれ。なんて言われたら、お前ならどうする?」

「最後の頼み……」

「生きては日本に帰れない、死ぬ覚悟だ」

「帰れない」

「お前は、一人帰るんだ」

「一人で――」

「お前が生きることで、救われる心がある。吉岡の言葉だ。忘れるな」

「それは、どういう意味で――」

「俺はきちんと伝えたからな」

「数日前、誰か……。例えば、知らない中国人が死んでいたとか、殺されたとか、そんな話はしていませんでしたか?」

 山本は首を横に振ると「悪いがこれで終わりだ」と清志から目をそらした。

 その行動が意味することは「これ以上この話はするな」と言う事だろう。大切な人たちの安否を気に掛けることすら出来なかった。

清志は横になったまま、震えが大きくなるのを必死に押さえ込んでいた。

 自分が助かる為に吉岡にすがった。自分の疑いがはれれば丸く収まる。家族を守れる。村田もメイリンもイーリンも。そう考えていたつもりだった。

≪そんな綺麗な心じゃない。違う。あの時俺は死ぬのが怖かったんだ。初めから【死ぬ覚悟】なんて出来ていなかった。誰かを助けたかったのではない、ただ自分が助かりたかっただけだ。死にたくなかった。俺は卑怯だ≫

動かせば痛みで悲鳴を上げるはずの体を小さく丸め、震える体を必死に抑え込もうとする背中を見下ろし、山本はそっと薄い布団をかけた。

「日本に戻るまでは、絶対にこの事は口にするな。お前の為に動いた人たちの覚悟を無駄にするな」

そう耳元で囁くと清志のそばを離れた。


 二週間後、清志は日本に向かう船の上にいた。

命を懸け自分を守った人たちを置いて、一人日本に帰る。誰一人守ることが出来なかった。あの時死にたくないと思った。今は……。

「俺はどうして生きている」

清志は船の揺れに体をあずけ、ユラユラと揺れながら小さな声で呟いていた。

船内の一角に敷かれた、薄っぺらな布団の上に投げ出されたその手には、薄汚れた紙が握られていた。それはこの船に乗せられる前日、山本が包帯の下に忍ばせた吉岡からの手紙だ。

検閲をすり抜けた手紙には、助けるためとはいえ銃を向けてしまった自分の不甲斐なさを嘆き、詫びる言葉が書かれていた。日本に帰った時にすぐに飲めるように、先に帰って酒を用意しておいてくれ。そんな言葉も綴られ、清志が気に掛けることに対しては何も触れられていなかった。村田の事も中国人母娘のことも。

そして手紙は締めくくられていた。

≪出会えたことに感謝する。ありがとう≫

二人は命を懸け自分を助けてくれた。いや、二人だけではない、イーリンもメイリンも命を懸けて自分を逃がした。一緒に逃げようと言ってくれた。

そして自分は……。自分の為だけに、死にたくないと泣いた。

死にたくない。その願いを叶えてもらった。自分は誰の望みを叶えられたのだろう。一緒に逃げたいと言った、愛する女性の望みすら叶えることは出来なかった。

もう一人の親友、山中が村田に託した手紙さえも、受け取れなかった。どうしてここにいる。どうして日本に向かっている。

何のために生きている



 「お前が狂わせた」

 うなされ目を覚ました清志の顔を医師が覗き込んだ。

「またうなされていましたね」

「……」

「体調はどうですか?」

「……」

「被弾した足も、大分良くなりましたね」

「……」

「そろそろ歩行訓練もしませんか?」

「……」

清志が日本にたどり着き、病院に運ばれてから一カ月以上がたった。傷口は大分良くなり、医者の言う通り歩行訓練を開始するべきなのだろうが、日本に戻ってからの清志は魂が抜けたように動かない。 

『何のために生きている』

その言葉の答えを見つけられないまま、不甲斐なさと後悔。愛する者たちを失った孤独。すべての感情が一塊となり一気に襲い掛かっていた。 

日本の地に降り立った時、一瞬でも日本の匂いに嬉しさを感じてしまった自分を責めた。

生き延びる最低限の食事を取り、一切言葉を発しない。げっそりとした顔には無精ひげが生え、濁った目に映るものは何もない。目を閉じると浮かんでくるのは笑顔の親友、戦友、愛する人の崩れた顔だった。

痩せこけた体には、痛々しいほどに骨が浮かびあがり骨の上に皮がのる。まるで人体骨格模型でも見ているかのようだった。ろくな食べ物を食べていなかった戦地ですら、ここまで痩せてはいなかった。生きる屍だ。


 二日前、清志のベッドの横の男が退院した。清志とは正反対に満面の笑みを浮かべ、傍らに寄りそう愛する者と見つめ合い、右腕をつっているものの痛みなど感じないのか、飛ぶように軽やかな足取りで病院を後にした。

「今日の午後、隣に患者さんが入りますから」

 看護婦は、清志の返事を待つことなく、ただ仕事の一環として話しかける。その言葉の通り、昼食の後、隣に男が運ばれてきた。

「隣、よろしくお願いします」

そう声をかける男に反応することなく、清志は天井の一点を見つめていた。

「幸か不幸か、片脚を失ったから今ここで生きているんだ」

はなから返答など期待していないのか、ベッドに横たわったまま男は話を続けた。

「いざ敵兵を――と出陣したその日、地雷のまき沿いを食った。それでこのざまだ」

男が布団をめくりあげると、あらわになったその右足は無残にも膝より下が無くなっていた。バサッという音が清志の耳に届いたのかは分からない。それどころか、この男の声すら耳に届いていないのかもしれない。

 清志は振りむくこともなく、まだ天井の一点を見つめていた。男もまた、清志を振り向くこともなく、なくした脚を剥き出しのまま、話しを続けた。

「自分は脚を失って良かったと思っている」

男は口の端を上げ穏やかな笑みを浮かべていた。その表情から、強がって口にしたのではない事が分かる。

「きみは……」

男の声が突然小さくなった。数分の沈黙の後、見る見ると下がっていく口角がついには一文字になった。

「仲間を撃った事あるか?」

返事を待つわけでもなく「そうだよな」とまるで納得したように頷くと話を進めた。

「俺は一度だけ仲間を撃った。相手は死んでいない。殺すつもりはなかったから――」

男は外を眺めるように、清志の横顔を見つめた。

朝方まで降っていた雨は止み、眩しいばかりの太陽が清志の横顔を照らしていた。

「人を撃ったら、一生そいつの命を背負う事になるんだ」

その言葉に清志の顔がゆがんだ。

「人を撃って良いわけがないんだ。それが唯一の手段だったとしても」

男の声が清志の鼓膜を震えさせた。震えと共に清志の目には涙があふれた。

「この声を知っている」

清志はぎこちなく顔を動かすと、その男と目が合った。

少しこけた頬に薄っすらとひげが生えているが、忘れもしないあの顔。

『吉岡だ』

清志と目を合わせた吉岡は、たいして驚きもせず微笑みかけた。いつ気が付いたのか、初めから知っていたのか、ただ清志の顔をじっと見つめていた。

「吉岡曹長」

「その呼び方はやめてくれ。ここは病院のベッドの上だ。俺たちはただの怪我人だ」

「あの時は――」

 清志は体を起こそうと左足を立て右手を体の脇についたが、力が入らない。自分の力では起き上がる事すら出来ない程に痩せ細り、体力を無くしたことに今更ながら気が付いた。

「ここに移される前に、看護婦から隣のベッドの男は気にするなと言われていた。名前を聞いて、そんなことはないと思っていたが、お前を見た時まさかと思った。本当にお前がいる事に驚いたがそれよりも、お前のその姿に驚かされた。生きているのか死んでいるのか分からない。一度だけ本で見たことがある。死神みたいだな」

清志はそう笑う吉岡に向かい、どうにか視線を下に向け謝る事しか出来なかった。

「危険を冒してまで助けてもらったのに。すみません。こんな姿を―― すみません」

吉岡は一気に体を起こし、失った足をベッドから降ろすように体ごと清志の方を向いた。

「殺すつもりはなかった。俺は自分にそう言い聞かせていた」

「そうです。わたしの命を助けてくれました」

「違うんだ」

 吉岡はうつむくと、小さく頭を横に揺らした。

「お前に銃口を向けたあの時、どこかで俺はお前を殺そうと思っていた」

その言葉に、一瞬清志の目が大きく開かれた。

「俺が村田と何度となく話していたことを上層部は知っていた。あいつはお前と仲が良かったから、疑われていた。だから俺も疑われているんじゃないかと心配だった」

「すみません。すみません。わたしのせいで」

清志のカサカサの顔に、涙が筋を作った。

「でも、お前を助けたかった。その気持ちがあった事も信じて欲しい」

「もちろんです」

 どこからそんな声が出るのかと驚くほどに、今までとは打って変わってはきはきとした、腹を震わせるほどの声で清志が答えた。その声に驚きながらも「よかった」と笑うと吉岡は、もう一度清志に頷き返し、

「お前を殴り、蹴りながらずっと迷い続けていた。引き掛けに指をかけるまで、決心がつかなかった―― 引き金を引く瞬間、馬鹿みたいに笑い合う、お前と村田、山中の顔が浮かんだ。いや違うな、今思えばあの笑顔じゃない。山中に体を押されたんだ。それで銃口がずれた。結果お前を殺さずに済んだ」

清志に向かって、深く頭を下げる吉岡の肩が微かに揺れていた。

「すまなかった」

「やめてください。頭を上げてください。わたしは、あなたに救われたのです。わたしを殺すことが正しい道だったはずです。それをあなたはしなかった。自分の命すら危ういのに、わたしを助けてくれた」

清志が握りしめた拳が、さらに骨を浮き上がらせた。

「ありがとう」

顔を上げた吉岡の顔は、涙と鼻水、笑顔が入り混じっていた。

「あなたの命を懸け助けてもらったこの命を、俺は……」

清志は握った拳をゆっくりと持ち上げた。

「馬鹿だ。俺は馬鹿だ。生きることで救われる心―― あなたはそう言ってくれたのに、わたしは……」

全ての力を込め、傷ついた脚を目掛け拳を振り下ろした。

「馬鹿。俺が助けた命を無駄にするな」

「助ける価値などなかった……」

「俺はここでお前に会うまでは、自分は間違っていなかったと思い込もうとしていた。忘れようとしていた。でも、お前の顔を見て、お前が生きている事を確認して、目の前で謝ることが出来た。これで本当にあの時の感情を終わりに出来る」

「わたしは……」

清志は日本に戻ってからの自分の行動を悔やんだ。助けられたこの命を、生きる価値がないと思っていた。

「今、お前に謝って心が晴れた」

「よかったです」

 清志思わずそう口にしていた。吉岡は大きく頷くと、優しい目で清志の落ち窪んだ目を見つめた。

「ありがとう」

「こちらこそ、ありがとうございます」

 清志の柔らかい笑顔を見ると村田は大きく息を吐いた。

「今のお前なら、現実を受け入れられるだろう」

 村田の顔に後悔ではない悲しみの影が見えた。

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