第15話

外へ続く道から家を離れると、清志はメイリンの手を村田に握らせ「行け」と二人の背中を強く押した。

「俺と逆の方向へ逃げろ。俺さえいなければ、お前たちが追われる理由はない。村田は頃合いを見て兵舎へ戻れ」

清志は早口で村田に伝えた。

「お前を置いてはいけない」

「頼む」

 清志の強い口調と懇願する眼差しに、村田は何も言わずただ頷いた。清志もまた頷き返すと、メイリンの目をジッと見つめた。

「メイリン。まずはどこでもいい、知り合いの家に身を潜めていろ。家には直ぐに戻るな。日本兵を見ても知らないふりをしろ。ただの村人でいればいい」

「あなたは?」

「後で……」

落ち着かせたいのなら「迎えに行く」と言うべきだろう。それでも、その言葉が出ない。守れない約束がどれだけ人を縛り付けるかを知っている。

満面の笑みを二人に向けると「ありがとう」そう口を動かし振り返らずに走り出した。村田もまた意を決したように強く頷くと、振りほどこうと暴れるメイリンを全身で押さえ、握らされた手を更に強く握りしめ反対の方向へ走り出した。

 最後に一度だけ振り返った清志の目には、もう誰の姿も映らなかった。もつれる足を必死に前にと動かし、一軒の空き家に逃げ込んだ。家は埃に覆われ、土間にも床にも小さな動物の足跡が目に付いた。壁や床を叩き、必死に身を隠せる場所を探した。「ない」この廃墟は見るからに造りが簡素で隠し棚一つありそうにない。唯一体を隠せるのは、土間の片隅にある半分朽ちた物置くらいだ。他の場所を探すべきか。どうするべきか。

〈ガサガサ〉

何かの音が耳に入った。考える暇はなくなった。物置の中に膝を抱え座り込み身を隠した。〈ザザ、ザザ〉微かな音が耳に響く。

手が、足が、体中が恐怖で震え出す。膝の間に顔を埋め、息が漏れないように必死に恐怖と戦う。まるで水面まで氷に覆われ、這いあがれない闇に包まれたように一気に体が冷えていく。このまま心臓が止まるかもしれない。恐怖が恐怖を産んでいく。 

微かだった音が少しずつ近づいてくるのが分かる。〈ザザ、ザザ〉音が家の中に入って来る。「怖い。怖い。怖い」清志の震えが伝わったのか、音は一直線に高山の潜む物置へと進んできた。

「殺される」

肩を揺らしながら必死に息を押し殺した。〈ガタン〉物置の扉が開かれ大きな手が高山の頭を掴んだ。

「お前は馬鹿か?」

 聞こえたのは日本語だ。その声には何故か笑いが含まれていた。そんなことに気が付くこともなく、頭を押さえ付けられたまま清志は覚悟を決めた。「死ぬ」

「お前は諜報員なのか?」

男の低い声が聞こえた。

「違う」

唯一口から出た言葉だった。頭から手が離れ、恐る恐る顔を上げた清志の目に映ったのは、以前上官として≪四年目の命令≫を下した吉岡だった。

「そうだな。俺が知っている限りお前はそんな奴ではない。そんな器用なことが出来る奴ではないな。要領が悪いからまた疑われるような事になったんだろう」

 その顔と言葉に、凍った体が溶けるように口元が緩んだ。

「わたしは祖国に恥じるようなことは何もしていません」

怯えた顔を必死に隠し訴える清志の頭を、吉岡は軽く叩いた。

「足跡くらい消しておけ。お前の足跡を見つけたのが俺で良かったな。お前、中国兵にも追われているみたいだからな」

次の瞬間吉岡の顔から笑顔が消え、真剣な顔で清志の前に座り込んだ。

「お前の事は分かっている。だが俺にはどうする事も出来ない。でも―― 一か八か――」

「助かる方法が?」

吉岡は息を大きく吐いた。

「もう一度聞く。お前は日本兵として中国人を殺すことが出来るか?」

「はい」

考える余裕はなかった。本当にできるかどうかではない、そう答えるしかなかった。

「わかった。お前を信じる」

「わたしは――」

清志は吉岡の膝に震える手を置いた。

「まだ生きていたいです」

「断言は出来ない」

「少しでも可能性があるなら」

「わかった。俺を恨むなよ」

「どうなろうとあなたを恨みません。もし最後の言葉を伝えられるなら、それは、ありがとうです」

吉岡は勢いよく立ち上がると抱えていた長銃を壁に立て掛け、思い切り拳を振り上げた。一発一発、力をこめ高山の顔を、体を殴りつけた。痛みで地面に倒れこむ体を何度も蹴り上げた。顔、頭、腕、足、体中の色が変わる。血が滲み始めた。吉岡は謝りながらも、その手を止めることなく高山を傷つけ続けた。

「下を噛むなよ。歯を食いしばれ」

吉岡は長銃を手に取ると、清志の足に向け銃声をとどろかせた。

「うっ」

うずくまり足を押さえる清志の体を起こすと物置に寄りかからせた。

銃声に気が付いた数人の日本兵が、銃を構えたまま廃墟を囲んだ。気を失いかけた清志の耳に吉岡の声が聞こえてきた。

「高山は、中国兵に追われていたようだ。足跡を見つけ追いかけてくると、既に一人の中国兵が高山を襲っていた。銃を向けると、中国兵は一発発射し逃げて行った。高山はその銃弾で足をやられた」

吉岡の話を信じたのかは分からない。二人の日本兵が清志を両脇から抱え込み、引きずるように廃墟を後にした。清志の意識はここで途切れた。


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