第14話
メイリンに対する気持ちは「愛しい人」それだけだった。それでも簡単に心に従う事が出来ない。覚悟が決まらないまま「もう一度顔を見たい」その気持ちに従うようにメイリンの元へと足を向けた。「ただ顔を見るだけだ。自分は日本兵なのだから。きちんとお礼も伝えていないのだから、お礼を言うだけだ」まるで、自分に言い聞かせるように呟きながら、その足を速めた。
ここ数日晴天が続き、山道を歩くたびに砂ぼこりが舞い上がった。
「ただいま」
「おかえり」
メイリンの顔がパッと明るくなった。自分だけに向けられたその美しい顔を見ても、清志の硬くなったその表情が崩れることはなかった。
「まだ時間はあるから」
清志の気持ちが固まっていない事を悟ったイーリンが「先に食事にしましょうか」と鍋に手を伸ばしたと同時に、張り詰めた空気をかき消すほどの大声が家の中に響いた。
「逃げろ」
その声に清志は、咄嗟に盾になるようにメイリンの前に立ちはだかった。その目に飛び込んだのは、息を切らし真っ青な顔をした村田の姿だった。
「何だ、お前か」
一瞬、安堵したのも束の間もう一度。「逃げろ」と大声で連呼する村田の顔は、今までに見たことのない程の恐怖に覆われていた。
「どういう意味だ」
恐怖が伝染するように、一気に清志の顔から血の気が引いた。
「何があったの?」
日本語の分からない二人でも、清志と村田の顔を見れば、ただならぬ出来事が起きているは理解できる。イーリンの声は震え、メイリンの足はガクガクと震え今にもその場に崩れ落ちそうだ。
村田には、イーリンの問いを気に掛ける暇はない。今は、清志をこの場所から逃がさなければいけない。
「日本兵がここに来る」
「何のためにだ?」
「捕まえにだ」
「誰を。イーリンか?メイリンか?」
「違う。お前だ」
「何を言っている……」
「お前が中国軍の諜報員だと、疑いが掛かった」
「そんなわけないだろう」
「そんなことは、わかっている。でも、俺が何を言っても変わらなかった」
「だから、どういうことだ。って、聞いているんだ」
「ここに…… 通っているから――」
村田の声が小さくなった。
「中国人の家に通っているのは、俺だけじゃないだろう。他の家を訪ねている日本兵も沢山いたはずだ」
「他の日本兵が、お前と彼女が仲良く肩を並べている姿を見た。それが、あまりに仲睦まじい様子だったから気になったと」
一度息をつくと、ためらいがちに続けた。
「その数日後、この家を伺うように中国兵が潜んでいるのを見たとも言っていた。その男の視線の先には、お前がいた。そう証言したんだ。俺が一緒にいた事も知っていて、ここ数日事情を聞かれた。いくら説明しても、お前をかばっていると疑われ信じてはもらえなかった。お前がメイリンや子供たちと流暢に中国語で話していたことも、疑惑を大きくした」
「お前は疑われてないのか?」
「俺は中国語を話せない。教わっている事もしらない。俺の疑いが晴れたのは、お前が俺を隠れ蓑に使っているという結論に達したからだ」
「俺が直接説明する」
「もう遅い。誰もお前の言う事は信じない。とにかく逃げろ。捕まったら……」
「俺は、諜報員ではない」
「分かってる。俺は知っている。だから必死に上層部に説明もした。それでも無理だったんだ。だから頼む、逃げてくれ。お前には死んでほしくない」
「どこに逃げろって言うんだ」
村田はイーリンを振り向くと大声を上げた。
「逃がしてくれ」
中国語が響いた。もしここに日本兵が入ってくれば、中国語を発した村田も怪しまれるかもしれない。それでも、何度も何度も叫ぶように声を出した。
イーリンは跳ね上がるように立ち上がると壁板を外した。
「早く」
今度はメイリンが、立ちすくむ清志の手を掴み外へと導いた。手を強く引かれ、我に返った清志は村田に手を伸ばした。
「お前も一緒にここから出ろ」
村田の手を掴むと思い切り引っ張った。三人の姿が消えるとイーリンはすぐに板をはめ直し、ゆっくりと腰を下ろした。息を吐くと同時に引き戸が乱暴に開けられた。覚悟を決め、目を閉じ、身動ぎしないイーリンの耳に聞こえたのは、聞き慣れた言葉だった。
「ここに通う日本兵が、我が国の機密を盗んだと聞いた」
驚きに目を開けると、そこには見知らぬ六人の中国兵が立っていた。
「な……なんことですか?」
イーリンの脳裏に浮かんだのは、助けを申し出たあの男、逃げ出した前の夫の甥だった。
『あの男は初めから私を陥(おとしい)れるつもりだったのか。目の前に吊るされた、都合のいい話に手を伸ばしてしまった。あの男が初めてこの家を訪れた時から、この計画を立てていたのかもしれない。叔父の顔だけでない、家柄にも泥を塗った私を許していなかった。清志とメイリンの幸せだけを願った行動が、清志の命を危険にさらした』
イーリンの心臓は大きな音を立て、鼓動が早くなっていった。
「ここに通っていた日本兵を知らないわけがないだろう。逃がしたのか」
己の引き起こした現状に意識が飛びそうになるのを、中国兵の怒鳴り声が引き戻した。口調がどんどん荒くなる。
「逃がしました」
「何だと。この国賊が」
兵士たちが一斉に銃口をイーリンへと向けた。
「日本兵に追われていたので、逃がしました」
震える声を必死に隠し、はっきりとした口調で答えた。
「日本兵にだと」
「はい。諜報員の疑いです。彼は日本ではなく中国の味方です」
信じてもらえない事は分かっている、それでもわずかな望みにかけるしか道はない。少しでも清志を追う者を減らせれば。せめて時間を稼げれば。
「我々は中尉殿から情報を得、指示を受けた。事実がどうであれ、その指示通り任務を果たすのみだ。そいつを日本兵よりも先に見つけ、始末し見せしめとする」
始末し見せしめ――。『やはり、あの男だ』確信すると同時に、清志だけではない、そのかたわらに倒れるメイリンと村田の姿が脳裏に浮かんだ。
「そんな男は初めからいません。あなた達の勘違いです。私は何も知りません」
「お前は逃がしたと言った。今更言い逃れか? 命が惜しくなったのか?」
座ったままジッと目を閉じるイーリンを脅すように、一人の兵士が胸ぐらを掴むと、震える姿を小馬鹿にしたように体を突き飛ばした。残りの兵士が乱暴に隠し棚を確認した。イーリンのそばで銃を向けたままの兵士が、外を顎で指し示すと、他の兵士が頷いた。
「逃げた日本兵をおびき出すために、今は、お前を生かしておこう」
唾を吐き捨て、怯えさせようと乱暴に大きな音を立て引き戸を閉めると辺りに散らばっていった。
体の震えが鎮(しず)まりどうにか呼吸を整えた時、閉められたばかりの引き戸が大きな音をあげ押し倒された。
銃を構えた日本兵が、大声をあげながら家の中に土足で入り込んできた。日本語で怒鳴りちらしながら近づく兵士たちに、イーリンは動揺を見せずただ目を閉じたまま「何ですか?」と淡々に中国語で問いかけた。
「この女」
中国語の意味が分かったわけではない、怯える様子のない態度や冷静な口調に、馬鹿にされたと感じ腹が立ったのか、日本兵の一人が銃口をイーリンの眉間に押し当てた。
「どこに隠した」
「何ですか?」
「どこにかくした」
耳元で大声をあげる日本兵にも屈せず「何ですか?」とだけ言葉を発し続けた。日本兵たちは、中国兵が荒らした隠し棚からはみ出る食料を引っ張り出しては蹴散らかした。水瓶は割られ、立っている物は全て倒された。大きな音が響く中、イーリンは目を閉じ、死を覚悟しながらも逃げた三人の無事だけを祈り続けた。
眉間に押し当てられた銃口が離れ、足音が消えていく。額に銃口の余韻を残したままゆっくりと目を開けた。ハッと息をのむイーリンの前に、一人の日本兵がイーリンをジッと見つめたまま立っていた。
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