第13話
あと二日。訓練はなく出発の準備が進められている。清志は最後に顔だけでもと村田を誘ったが「上官に呼ばれている」とメイリンの家を訪ねる事を拒否した。清志は昼食も取らずに兵舎を後にした。
「ただいま」
引き戸を開け一歩足を踏み入れると、張り詰めた空気が体中にまとわりついた。目の前に広がる光景に、次の一歩が踏み出せないまま立ち止まった。
そこには見慣れない軍服に袖を通した男が立っていた。
「どういうことだ」
清志は用心のために腰につけていた銃に手をかけた。今まで見たことの無い清志の表情に、男の横に立つイーリンが言葉を詰まらせた。不安そうに母親の顔を見つめるメイリンもまた理由を知らないようだ。
男は敵意がない事を表すように、胸の前で両手を広げて見せた。清志は腹をくくり銃から手を離すと、何が起きてもどんな言葉が出てきても驚かないつもりだった。
「養子になってくれないでしょうか」
イーリンの言葉の意味が理解できない。清志は必死で頭を回転させた。
「養子?」
「そうです。婿として養子に入って貰えないでしょうか」
「婿養子……」
「メイリンと結婚して、この地に残ってください」
どれだけの時間が経っただろうか。数秒だったかもしれない。「わたしは……」やっと言葉が声に変わった。
「わたしは日本人であり敵国の兵士だ。そんなことは出来ない」
清志は無意識に一歩後ろに下がっていた。どんな顔をしているか自分では分からない。少なくとも笑ってはいないだろう。それでもイーリンは食い下がる。
「日本人だから、中国人だからって意味があるの? ただの人間でしょう?」
「それは……。いや。それでもわたしは軍人だ。国を守るためにここに送られた兵士だ」
「だったら軍人も兵士もやめればいいでしょう。ただの人間としてメイリンと一緒になればいい」
「そんな簡単ではない。国を裏切ることは出来ない」
「人間でいる事が、裏切りではないわ」
「国だけではない家族を捨てることは出来ない。逃亡兵には死があるのみだ」
「逃げればいい」
「家族を危険にさらせない」
「あなたは中国兵に殺されたことにすればいい。私たちの家族になって。あなたを危険な目には合わせない」
「そんな簡単なことではない」
二人の声はどんどん大きくなり、息も荒くなった。喧嘩をしえいるわけではない、腹を割って話している。
「簡単なことよ」
「簡単なわけない」
「話を聞いて」
そうお願いすると、イーリンは横に立つ男を一歩前に押し出した。
「この男(ひと)は……。私が逃げ出した―― 前の主人の甥です」
あまりの出来事に一瞬男の存在を忘れていた。男は高圧的な態度を取るわけでもなく、黙って二人の話を聞いていた。
「わたしは中国軍で、中尉の地位についている。名前は、あえて名乗らないでおこう」
正体が明らかになった男が、初めて口を開いた。
「逃げ出し、裏切った女のために何故ここにいる。名も名乗れない奴を信用しろと言うのか」
冷静に考えればおかしい。それだけは今の清志にも分かる。
「信用できないという気持ちもわかる。だが、話を聞いてから結論を出しても遅くないはずだ」
男はそう言うと、清志から視線を外し、イーリンを振り返ると話を続けた。
「あの時、俺はまだ幼かったからはっきりとは覚えてはいないが、話は聞いている」
まるでイーリンに聞かせるかのように、視線を外すことなくイーリンを見つめていた。
「この人が叔父の元を逃げてからの数か月は、叔父の精神状態は酷かったと聞いている。落ち込んだと思えば、周りを怒鳴りつけ、突然部屋に閉じこもることもあった。この人の居場所を見つけ出した時には、無理にでも連れ戻すつもりだったとも聞いていた。それだけ憎み、恨んでいたはずなのに、連れ戻そうとここに来た時、あなたのあまりにも幸せそうな姿を見て、自分がしていることが馬鹿らしく感じたらしい。それからは心から幸せを祈っていたようだ。時折、こっそりと様子を見に来ては、子供の成長を楽しみにしていたとも言っていた。今はもうこの世にはいないが、死ぬ直前まであなた達の事を心配していた。それだけは俺も本人の口から聞いたから覚えている。だから俺も、この家族を気にかけていた。それだけだ」
「その話と婿養子と、どういう関係があるんだ。どういうつもりでここにいる」
男は清志を振り返り、迷いない声をあげた。
「お前を中国兵に迎え入れる」
「自分の言っていることがわかっているのか?」
「わからずにこんな申し出をするほど、俺は馬鹿だと?」
「そうは言っていない。ただ、不可能なことを言っていることが、わからないのか?」
「不可能ではないから、言っている」
「そんなこと信用できるか」
男は大きく息を吐くと、一歩清志に近づいた。
「ここに日本兵が入り浸っていると聞いて何度か様子を見に来た。お前と仲間のことも数回確認している」
「監視していたのか」
清志は不信感をあらわにすると、男を睨みつけた。
「監視していなかったと言ったら嘘になる。何かあってからでは遅いからな。だが、お前たちが子供たちと楽しそうに遊ぶ姿を見て、信用できるのではないかとも感じた」
「お前が認めなければ、俺たちを殺すつもりだったということだろう。そんな奴を信用できるか。」
声を荒げる清志にイーリンが一歩近づいた。
「私の事は信用できない?」
「その男は、あなたではない」
イーリンはさらにもう一歩近づいた。
「この男(ひと)が明日あなたを迎えに来ます。その時メイリンを連れ一緒に行ってください。後はこの男に任せてください。」
「そんな事をして幸せになれると、本気で考えているのですか」
「少なくとも、あなたとメイリンは幸せになれる」
「日本の家族は。行動を共にしたあいつは。あなたは」
「思い合う二人が一緒になれないことが間違ってる。それを否定したら、私と主人の人生を否定する事と同じだから」
「同じではない。あなた達は誰も巻き添えにしていない。あなた達のせいで誰も死んでいないでしょう」
張り詰めた空気だけが時を刻んだ。音のない時間が過ぎる中、イーリンから顔を背けるように引き戸の方を見る男の口元が、小さく動いたような気がした。清志は思わず視線を男の目に合わせた。その目は、ここにない何かを見つめるように、清志を通り抜けた。
イーリンが清志の手を取ろうとその手を伸ばした時、メイリンが清志に駆け寄りイーリンより先に清志の手を取った。
「まだ時間はあるから、今日一日、いや明日まで考えてみて。明日、あなたが私に笑いかけてくれたら、私はあなたと生涯を共にする。どんなことがあろうと、あなたの傍にいる」
握った手に力を入れると清志に微笑みかけた。すがるように清志を見つめる瞳には強い決意の色が見えた。そしてそこには、清志だけが色濃く映りこんでいた。
「明日、昼過ぎにここに来る。それまでに覚悟を決めておきなさい」
男はそう告げると、清志と目を合わすことなく傍らに立つメイリンに微笑みかけた。暖かさをまとったその目は、自分を見る目とは違って見えた。引き戸に手をかける男に微笑み返すメイリンの手を、清志は無意識に強く引っ張っていた。メイリンのその笑顔が自分以外の男に向けられることに、胃がむかむかとするような、今まで感じたことのない不快感を覚えていた。
自分でも分からない感情と自分の置かれた立場、男の言葉。すべてが混ざり合い、清志に襲い掛かっていた。自分がどうするべきなのかは、誰に聞かずとも答えは一つだ。それでも「出来ない」その一言を口にすることが出来なかった。何も言葉に出来ず、清志はただメイリンの手を握ったまま、血が滲むほどに唇を強く噛んでいた。
「この話はここで終わり。お昼を一緒に食べられるのは久しぶりね」
メイリンはあえて清志の表情に気が付かないふりをして、うつむく清志に微笑みかけると強く握られた手を引くように板間へ上がった。
ほんの数分前の出来事がなかったかのように、そこにいる誰もが一切その話に触れなかった。外に咲く花、天気、他愛のない会話が空まわっていた。
清志が最後の一口を飲み込むのを確認すると、メイリンが清志を立ち上がらせた。
「今日はもう帰った方がいいか?」
「違う。ちょっと見せたいものがあるの」
「見せたいもの?」
「そう」
メイリンが板の壁を叩くと軽い音がした。
「大抵の家には隠し棚や扉があるの」
「隠し――」
「そう」
壁にはめ込まれた板が外れると、中には白米や酒が隠されていた。二重の壁、二重の床板、あらゆる場所に食料や衣類、銀細工など金目(かねめ)のものが隠されていた。兵隊に見つかれば直ぐに奪われるだろう品物ばかりだ。
「ここはね」
そう言いながら今度はイーリンが立ち上がり、大きな一枚板の壁をずらした。一気にブワッと風が吹き込んでくる。
「どこの家にも?」
「家によって違うわね」
そこには、外へと続く穴が隠されていた。イーリンが大きな板をはめ込むと、入り込む風がピタリと止まった。メイリンは一枚一枚確認するように丁寧に全ての板を戻し終えると、子供のように目を輝かせる清志を振り返った。その横顔を心に刻むように静かにジッと見つめていた。
「明日、待っています」
メイリンの言葉に心が疼(うず)いた。人の気持ち、温もりを、こんなに恋しいと感じることは二度とないと思っていた。ただお互いを大事に思うだけなのに、心のままに動きたいだけなのに、生まれた国が違うだけでどうしてこれ程に隔たりが生まれるのか。手を伸ばせば触れられるのに、その手を伸ばすことが出来ない。
清志は返事が出来ないまま、頭だけを軽く下げ、引き戸を出て行った。
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