第12話
この地にたどり着き、二度目の満月を見た。
「村田は当直だから、今日は一人できた」
清志は一人、メイリンを訪ねていた。
「何かあった?」
仕事から帰る旦那を待つように清志を迎えたメイリンは、微妙な変化を見逃さなかった。不安そうな顔でのぞき込むメイリンに清志は、へたくそな作り笑いをした。
「それは……」
言葉に詰まる清志を前に何か悟ったのか「先に食事にしましょう」とイーリンが二人を手招いた。
楽しいはずの夕餉が、今日は何故だが静かだった。言葉少なにそれでも一口一口感謝しながらかみしめた。
最後の一口を飲み込むと、手にした茶碗に目を向けたまま清志が重い口を開いた。
「日本軍の戦局が悪くなった。と通達があった」
「戦争が終わるの?」
「違う……」
首を横に振る清志の目が、悲しそうにくすんでいた。
「わたしたちは、戦場へと向かう事になる」
「戦場」
一瞬言葉の意味が理解できなかった。
「最前線に送られる」
「いつ?」
メイリンの声が震え出した。
「一週間後――」
「そんな……」
「ああ」
「……」
この時が来ることはわかっていたはずなのに、その言葉が受け入れられない。今の関係がこのまま続けばいい。ずっとそう願っていた。「別れ」その言葉を口にする事が出来ないまま、清志はゆっくりと立ち上がった。
「後片付け出来ず申し訳ないが、今日はこれで。ごちそうさまでした。ありがとう」
メイリンの顔を見たら、涙を流してしまうかもしれない。抱きしめてしまうかもしれない。それ以上、欲しくなるかもしれない。振り返ることなくその場を立ち去った。メイリンもまた、立ち上がることも出来ず、無言で見送る事しかできなかった。
翌日、清志と村田は二人でメイリンを訪ねた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
いつもと変わらない言葉、いつもと変わらない笑顔、いつもと変わらない温もり、別れが近い事を忘れてしまったかのように、何一つ変わらない空気がそこにあった。温かい食事を共にする、今日あったことを話す、馬鹿なことを言っては笑う、愛情のある罵(ののし)り合い、こんな些細な事が少しでも長く続くと信じていたかった。
「今日も美味いです」
村田がイーリンに笑顔を向けた。
「毎日代わり映えもしなくてごめんなさいね。明日は、もう少しいい物を作ろうかしら。おかわりは?」
イーリンは笑顔を返しながら村田の前に手を差し出した。
「ここで食事をするのは……今日で、最後です」
お椀を差し出すと同時に呟いた。その言葉に驚いたのは、母娘だけではなかった。
「出発まではまだ日にちはあるだろう? 何でだ?」
出兵日が前倒しされたのか。清志が知らない何かがあるのか。「今日が最後」心臓がバクバクと鼓動を早めた。
清志の表情の変化に気が付いたのか、違うぞと首を横に振った。
「俺は出発までにやっておきたいことがある。お前は、最後のその日までくればいい」
「何の用だ? 俺も手伝うぞ」
「いや、大丈夫だ」
「そうか」
思いつめたような村田の顔に、清志はそれ以上、何も問いただすことはなかった。
「そうなのね……。今日で最後なら、もう一つ何か作りたいわ。時間はあるわよね?」
イーリンは外の明るさを確かめるように顔を背けると、目頭にそっと手を添えた。
「清志さんは明日も来るよね?」
メイリンは清志ににじり寄ると服の裾を掴んだ。
「もちろん。最後の日まで」
清志は「あなたの傍にいたい」という言葉を口には出せなかった。
「安全と健康を心よりお祈りいたします」
またいつか――叶わぬ夢を飲み込むと、村田は深々と頭を下げ引き戸から外へと踏み出した。背後で鼻をすする音が聞こえる。それでも決して後ろを振り返らなかった。
やっと感謝を伝える言葉を紡げるようになったのに、これからもっと伝えられると思っていたのに。イーリンもまたそう感じているかのように涙をぬぐうことも忘れ、村田の後姿を見つめていた。
村田と肩を並べた清志は、軽く後ろを振り返り、小さな声で「また明日」そう呟くのが精一杯だった。
沈黙のまま道のりを半分ほど進むと、真っすぐ前を向き歩き続ける村田に、清志は話しかけた。
「この地に長居しすぎたな」
「そうだな。居心地良かった」
「明後日、お前当直だろう。俺が変わるから」
「なんでだ?」
「時間が足りないだろう。お前たちの邪魔はしたくないからな」
「邪魔か……。何も変えられないけどな」
「何も変えられないなら、幻覚が見えるくらい彼女の笑顔を目に焼き付けてくればいい。幻聴が聞こえるくらい声を聞いてくればいい」
「幻覚に幻聴」
苦笑いする清志を振り返る村田の顔に、笑顔が見えた。
「死ぬ寸前に、好きな奴の幻覚に幻聴。最高だろう」
「そうだな」
「俺の分も笑顔を見せてこい」
二人肩を並べると真っすぐと前を見据え、これが最後になる事をかみしめるかのように一歩一歩、二人で何度も通ったこの道を踏みしめた。
清志は一人いつもの道を歩いていた。今まで何度か一人で歩いたこともあった、いつもと何も変わらない道。なぜか今日は不安でたまらなかった。何が不安なのか―― 分からない――。
「まだ三日あるね」
いつもの明るいメイリンの声が耳に響いた。板間に胡坐をかく清志の傍らに、メイリンが寄り添うように座っている。
「明日は午後の訓練がないから、早めに顔を出せると思う」
「いつもよりも長く一緒にいられるのね。嬉しい」
「そうだな」
「もっとたくさん楽しい思い出が欲しい――」
「思い出――」
言葉にならない隠しきれない感情が二人の間にある。どうすることも出来ない感情を、必死に抑え込む二人の姿を見つめる母親が、強く決意を決めたかのように頷いていた。
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