第11話
イーリン先生指導のたまものか、目を見張るほどに、村田の中国語は上達した。
中国語を覚えるには歌を歌うのもいい方法だと言われ、動揺を歌ってみるものの、お世辞にも上手とは言えなかった。それはそれで笑いのネタになるのが村田は嬉しかった。
日本にいる時は全然やる気の出なかった勉強も、ここでは楽しくて仕方がない。とよく清志に話していた。
何より、言葉が通じない事がこんなにももどかしいとは思っていなかった。同じ国に住むものでさえ、感情を言葉にし、伝える事は難しいのに、それが他国の言葉になっては、感じている事の一割も伝わっていない。と嘆き、だから伝わった時の嬉しさは、誰かに伝えてもらう時とは比べ物にならない程に、言葉に重みがあると笑った。感謝の気持ちを自分の声で伝えたい。それが村田の学習意欲を高めていた。
日本兵が歌う下手な童謡に引き寄せられるように、村の子供たちが集まり始めた。日本兵が通う家には子供たちを寄せ付けなかった村人たちも、中国語を話し歌う日本兵に少しずつ恐怖心を薄めていった。
「今日は子供たちに、お土産を持ってきました」
訓練のないこの日、清志と村田は買い出しの付いでに、甘いきな粉を固めたようなお菓子を買ってきた。腕にぶら下がるように子供たちが二人にまとわりつく。命をも奪いかねない兵士に対して嬉しそうに笑うその表情は、どこの国の子供も同じだった。
「美味しいね」「お兄ちゃんたち大好き」「早く遊ぼうよ」嬉しい言葉でいっぱいになった。
「何かしてもらったら、お礼を言うのよ」
メイリンは子供たちの目線に腰をかがめると、優しい口調で教えた。
「ありがとう」
素直な子供の声を聞くと「国境など必要ないのではないか」とさえ思えてきた。子供たち一人一人の頭に手を置きながら笑顔で頷く清志と村田の顔にも、満面の笑みがあふれた。
宿舎での夕食よりも、徴発をして得た食べ物に味を占めたのか、中には夕食を取らずに徴発に出て腹を満たす兵士が出始めた。食事をする兵士が減れば、残る兵士の分け前が増える。それゆえ規則で決められていたが懲罰を与えることもなく見逃されていた。
清志と村田も訓練が終わると、日も暮れないうちにメイリンの家を訪ねるようになっていた。二人の目的は、食事だけではなくなっていた。
子供たちは早くから家の外で二人が来るのを待ち、二人を見つけると手を振り、全速力で駆け寄った。「今日は何する?」と右から左から二人の手を引っ張った。
「ほら。二人とも疲れてるんだから、そんなに引っ張らないの」
開け広げられた引き戸から、メイリンが優しい声で注意した。中からは、ほんのり油の匂いが流れてきた。
「大丈夫ですよ」
清志は手を振りながらそう答えると、一番後ろを歩く小さな子供を抱き上げ走り出した。村田は清志と子供たちを見送ると引き戸から中へ入っていった。
「あいつは、子供好きですから」
村田が、板間に直接腰を下ろすと同時にイーリンが白湯をだした。
「ありがとう」
白湯に手を伸ばす村田の目の端に、引き戸から顔を出し、赤らめた頬で愛おしそうに外を見つめる娘の姿を、複雑な表情で見つめる母親が映った。
「後三十分くらいで夕餉の支度できますから」
「はーい」
メイリンの声に、手を振る清志の姿は、日本人でも中国人でもない、お互いを思いあう、人間の男と女それだけだった。それにも関わらず、村田の目に一瞬、消えていた国境が大きな壁となり二人の間に現れたように見え、慌てて首を振った。
夕飯を食べ終えると、お腹が膨らんだ村田は板間の上でウトウトと居眠りを始めた。メイリンと清志は外に出ると、ちょうどいい大きさの石に腰かけ、星を見上げていた。
「新月の夜は星が綺麗に見える」
清志は澄んだ空気を思い切り吸い込んだ。そんな清志をメイリンはまるで、眩しい太陽を見つめるように、目を細めて見つめていた。そんな視線に気が付いたのか、清志は視線をメイリンに向けた。清志と目が合うと頬を薄っすら赤くして、今度はメイリンが星を見上げた。
「三年後。どうなってると思う?」
メイリンは空を見上げたまま清志に尋ねた。清志もまた、頬を赤らめ空を見上げ優しい声で答えた。
「戦争が終わって、平和な世界になっているかな」
「私は、三年後もこうしてあなたの隣に座っていたい」
「隣に――」
清志は視線をずらし、メイリンの顔を見つめた。
「うん。笑顔で」
メイリンも視線をずらし清志の顔を見つめた。
何の約束も出来ない。何も言えない。清志はただ、横に置かれたメイリンの手に自分の手を重ねることしか出来なかった。
嬉しさと悲しさ、希望と絶望、現実が鼓動に乗ってお互いの手を行き来する。清志は重なる手に力を込めた。自分を見つめ、隣に座る美しい女性を抱きしめたい衝動を必死で抑えていた。
清志とメイリンは、夕食を終えると毎日のように、寒さも気にせず外で二人だけの時間を過ごしていた。
村田は今日も、板間に座りイーリンに中国語を教わっている。二人の邪魔をしない様にと、村田なりに気を使っているようにも見える。
「もう少しで満月ね」
二人石に腰かけ、並んで空を見上げていた。
「ついこの間、新月だと思ってたのに」
「そうだな。月日が経つのは早い」
「あのね」
メイリンはうつむくと恥ずかしそうにゆっくりと口を開いた。
「前から聞きたかったんだけど」
「なに?」
「清志さんには国に、心に決めた女(ひと)がいるの?」
メイリンは自分の気持ちに気が付いた時からか、高山さんから清志さんに呼び方を変えていた。
「いない」
清志が慌てて発した声は、自分で思った以上に大きかった。自分の声の大きさにびっくりしたように、つばを飲み込むと、深呼吸し冷静さを取り戻した。
「わたしを待っているのは両親と兄、姉だけだよ」
優しい声にメイリンは「よかった」と言いたげに、恥ずかしそうに清志を上目づかいで見つめた。その目に吸い込まれるように、清志はそっとメイリンの手を取った。引き寄せられた手を追うように、肩に寄り添ったメイリンの頬をもう一方の手でそっと触れた。
「あなたの大切な人に、なりたい」
頬に触れる手の暖かさを感じるように、ゆっくりとその手に頬を押し付けた。
「あなたは。大切な人です」
清志は繋いだ手を離すと、メイリンの体を引き寄せるように優しく抱きしめた。
「でも……」
低く響く清志の言葉は、それ以上続かなかった。ただこの時間を大切にしたい。二人が思う事は同じだった。お互い声にださずとも、抱きしめた体から感じる鼓動にその言葉を感じた。
「ずっとこの人の隣にいたい」
月かりに照らし出された二人を、そっと見つめる姿があった。
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