第10話

「私が今ここで幸せを感じられるのは、主人のおかげなんです」

甘いお汁粉に心が満たされたのか、イーリンが何かを語り始めた。

「今は娘と二人で細々と暮らしてるけれど、主人と三人の時はもっとにぎやかだったの。子供たちに読み書きを教えるのが、私の仕事みたいなものだった。本当に毎日楽しく過ごしていたの。あの人は、私には勿体ない人。あなた達にも会って欲しかったわ」

「ご主人との馴れ初めは、きっと素敵なものだったのでしょうね」

清志がイーリンに笑いかけた。

「主人との出会い……。それは、綺麗なものではなかった」

イーリンの表情は、まるで塩辛いお汁粉を飲んだような顔つきに変わった。重そうな口を開くとボソボソと話し始めた。

「十六の時、私は五十四歳の男の所に嫁つがされた。母と二人貧しい暮らしをしていたから、母の面倒も見てくれて、貧しい生活からも抜け出せると思って心を決めてね。衣食住不自由のない生活を手に入れたのだけど、それ以上でもそれ以下でもなかった。時間が経つにつれ幸せを感じられなくなって、笑い方まで忘れてしまった。そんな時ふとした瞬間――。一言呟いたの」

 清志はイーリンの話の邪魔にならにいように、村田の耳元で出来る限り正確にその言葉を伝えた。

「あんな事を……」

声を詰まらせながら必死に懺悔するように言葉を続けた。

「私があの人に出会ってしまったから、あんな事を口にしたから……」

静かな時間が過ぎる中、そこにいる誰もが、イーリンの次の言葉を待った。

「彼は商用であの家に通っていて、私は一目で彼に恋をした。彼が来るのが待ち遠しくて、毎日毎日、彼に会えることだけを考えていたの」

一瞬イーリンの顔がほころんだように見えたが、直ぐに元の硬い表情に戻った。

「彼の目の中に自分を見つける度に、二人で逃げてしまいたい。そう強く思うようになった。それでも母の事を考えて決心がつかなかった。でもあの日。彼の後姿を見送った後「もし母さんがいなかったら」そう呟いた」

イーリンは一息つくと、震えを含んだ弱々しい声で話を続けた。

「その言葉を聞いていたかのように、一週間後に母は血を吐いて死んだ。私は母が亡くなって悲しかったしたくさん泣いたわ。でも母の死から数週間後、彼とあの場所から逃げた。もう誰も守る人はいない、やっと解放された。それしか考えなかった……。私は心も、全てが醜い人間なの」

 何年もの間、ずっと溜め込んでいた何かを吐き出すように、突然声をあげて泣き出した。

 今まで見たこともない母親の姿に、顔をそむけたメイリンだったが、どんどん大きくなる母の泣き声を掻き消すほどの大声を上げた。

「おばあちゃんが死んだのは肺が悪かったからだって。おばあちゃんは、お母さんのおかげで先生にも見てもらえたって。おばあちゃんはお母さんを愛していたって。心の優しい女性だからこそ、今度は自分の人生を楽しむべきだって。そうお父さんが言っていたの」

メイリンは体を丸くし震えるイーリンを、母親が愛する子供にそうするように、優しく抱き寄せた。清志と村田も、目の前にいる美しく幸せな親子を見つめていた。

「そうね。あなたにそんな顔をさせるなんて、駄目よね」

イーリンは体を起こすと、娘の手を取りギュッと握った。

「たどり着いた幸せが、ここにあるんですね」

清志が、二人を見て素直に感じた言葉だった。

うん。と頷くイーリンの顔は、それでもまだ晴れないままだった。

「ここにたどり着き、頼れる人もいない、裕福でもない生活が何より幸せだった。気遣い合い、笑い合い、愛し合い。この子が産まれた。あの頃は、確かに幸せがここにあった」

まるで今は幸せではないかのような口ぶりに、清志と村田は不思議そうに顔を見合わせた。

「今が幸せではないと言わないの。でも今までの幸せは壊れた。愛する人は兵隊になり私の元から消えた。生きているのかさえ分からない。それに、この子だってそう。お嫁に行っていい年なのに、手放すことさえ出来ない。この子には、初めから愛した人と幸せになって欲しいのに……。私の過去の過ちが、こうして家族や私に関わる人を不幸にしているのかもしれない」

清志は「それは違う」とゆっくりと首を横に振ると、娘の手を取る母親に優しく語りかけた。

「そんな事はないと思います。少なくとも、わたしと村田は今ここで幸せを感じています。戦争中に、ましてや敵国でこんなに幸せを貰えるなんて、思っていませんでした」

清志が村田を見ると、村田は「うん」と頷き「訳してくれるか」と清志に耳打ちした。

「あなた達が幸せを与えてくれるように、旦那さんもきっとどこかで、幸せを与えてもらっているはずです。きっといつか、両腕に抱えきれない程の幸せが戻ってきます」

 ほんのりと笑顔になった清志は、心地よいそよ風に乗せるように、村田の暖かな言葉を伝えた。

その言葉を聞いたイーリンの瞳に、笑顔を向ける敵兵の笑顔が映りこんでいた。

「中国人も日本人もなくお互いを愛せる。そんな世界になるって私は信じている。私は愛する人と当たり前の幸せを幸せだって言えるようになるから、安心してね。お母さん」

メイリンの強い言葉に清志は頷づき「それが当たり前になる世界に――」と呟いていた。メイリンの笑顔を見るたびに、清志は胸の奥に何か暖かいものが積み重なっていくことを感じていた。

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