第8話

「すいません。誰かいらっしゃいますか?」

二人は村から少し外れた家の前に立ち止まると、驚かせないように清志が穏やかな声で中国語を話した。「中国語はきちんと伝わるのだろうか」そんな事を思いながら、もう一度声をかけた。

「申し訳ありませんが、食べ物を少し分けていただけませんか?」

 木で出来た扉がほんの少し開くと中から薄暗い灯が漏れた。

「突然もうしわけありません」

 二人は丁寧に頭を下げた。「今、中国語が聞こえたような」隙間から覗いた目が不思議そうに二人を見た。

「驚かせて申し訳ありません。食べ物を奪いに来たのではありません。分けていただけないかとお願いに来たのです」

目の前にいるのが日本兵だと気が付いた瞬間、若い女性の美しい瞳が見る見る濁っていった。緩みかけた頬には力が入り、鋭い眼差しを二人に向けた。口調からは明らかに敵意を感じ取れた。

「あなたの国の言葉が話せます。敵ではありません。だから心を開いてください。食べ物を分けてください。そう言って近づいて、心を開かせてから食料を奪うのでしょう。拒否すれば暴力をふるうのでしょう。食料だけではない。身ぐるみはがそうと思っているのでしょう。そうやって今まで、どれだけの人たちを傷つけ、襲ってきたのか。わたしは騙されたりはしないから」

若い女性はまくしたてるように言葉を並べると、引き戸から体を半分出し鋭い視線で二人の兵隊を睨みつけた。敵兵を目の前に、強気に恐れも見せず気丈にふるまう若い女性の姿が、暮れようとする夕日に照らし出された。  

その女性の美しさに、清志は一瞬心を奪われかけた。

村田に脇を肘でつつかれ我に返った清志がもう一度穏やかに話した。

「少しでも怖がらないでいてもらえればと思ったのは事実です。でも、あなたが考えているような事ではありません。言葉の違いで誤解が生まれない様にと、友人が教えてくれた言葉を話しただけです」

「あなたの友人……。それはどうせ日本人でしょう?そんなこと、信じられるわけがないじゃない。所詮あなたと同族。その友達とやらだって、不埒な理由で中国語を学んだに違いない。汚らわし……」

自分を奮い立たせるように、更に大きくなる若い女性の声を掻き消すほどの大声が辺りに響き渡った。

「今の言葉を撤回しろ」

清志の口から出たのは、中国語ではない、日本語だった。

敵国の言葉でも分かる。さっきまで目の前で自分の国の言葉を、優しい口調でゆっくりと話していた男が、怒りをあらわにしている。若い女性は恐怖で詰まる声を必死に絞り出した。

「ほら本性がでた」

清志はゆっくりと目を閉じ、怒りで震える声を抑えるように低い声で言いかえた。

「私の友達を、罵(ののし)ったその言葉を取り消してください」

中国語で発せられた低く震える言葉が、若い女性の耳にこびりついた。それでもここで謝るわけにはいかない。若い女性は自分を奮い立たせるように大きく息を吐いた

「それでは、その友達をここに連れてきてください。本人がきちんとした理由を教えてくれるなら、取り消しだって謝罪だってします。今ここにいないのは、どうせ中国を使って他の場所で誰かを騙しているのでしょう。手分けした方が、戦利品は多い物ね」

話している事は分からないが、今までに見たことの無いほどの清志の形相に、驚き心配そうに顔を覗き込む村田に「大丈夫だ」と清志は片手を挙げた。

「それが出来るなら、今ここに、わたしの傍らに――」

 清志が唾を飲みこむ音が聞こえた。

「連れてこれるなら、代わりに、連れてきてくれないだろうか」

 下を向いたまま発せられるその低い声に、怯えない者はいないだろう。

「俺だってあいつに会いたい。お前にあいつの何が分かるんだ。今直ぐ取り消せ。あいつに謝れ」

若い女性の目にも、清志の体が震えていることが分かった。尋常ではない怒りに震えている。

「どうして私が怒鳴られないといけないの。だったら納得のいく理由を話して下さい」

恐怖に泣き出してもおかしくない状況に、必死に声を振り絞り、震える声で若い女性は反論した。その言葉に清志はゆっくりと口を開いた。

「言葉を教えてくれたのは、山中と言う親友だ」

自分が発した山中という言葉に、無意識に落ち着きを取り戻したのか、大きく息を吐いた。それでもまだ清志の視線は下を向き口調も変わらないままだった。

「あいつは中国語を話せることを隠していた。前線に送られて死ぬのが嫌だと言った。でも違った。前線に送られれば死ぬ可能性も高くなる、だがそれ以上に、中国人を殺す可能性が高くなるのが嫌だと悲しそうな顔をしていた」

「敵国に来て、今更人を殺したくないなんて、嘘に決まっている」

若い女性が強がっている事は、その声の震えと、今口に出した言葉を既に後悔しているその瞳で分かった。

そんな若い女性に反応することなく、清志は続けた。

「あいつは「日本という異国で必死に生きていた中国人の友達。彼に教わった中国語で、彼の母国の人たちを騙したくない。脅かしたくない。傷つけたくない。だから秘密だと。お互いを知るために、守るために、平和に近づくために、中国語を話したい」そう話していた」

清志は、初めて山中の話す中国語を聞いた日の夜を思い出していた。当直の夜、耳元で囁かれた中国語。今でも何を言っていたのかは分からない。怪訝そうな自分の顔を、無邪気な笑顔で見ていた山中。中国語を知っていて損はない。そう言って、丁寧に中国語を教える山中。平和を誰よりも強く願い続けていた山中。数え上げればきりがない山中との思い出が鮮明に蘇ってきた。

 辺りは既に薄暗くなり、清志の影も消えかかった。そんな地面に小さな水滴が落ちるのが見えた。

「ごめんなさい」

若い女性の声から震えが消えた。同情でも恐怖でもない、心からの謝罪の言葉だ。その言葉が本物であることを証明するように、穏やかな暖かい目に、清志の姿が映りこんでいた。

「話も聞かずに決めつけて怒鳴りつけるなんて。あなたたちの事を、悪く言ったことを許してください」

若い女性は二人に頭を深々と下げると、そのままの姿勢で続けた。

「ごめんなさい。一度口にしてしまった言葉は取り消せないのに。忘れてくださいとも、許してくださいとも言えません。でも、もう一度謝らせてください。本当にごめんなさい」

村田が清志の肩に手を置いた。清志はゆっくりと顔をあげると、村田の方に顔を向け大きく頷いた。

「こちらこそ、すいませんでした。大声を上げて。いきなり来た敵国の人間を信じろと言う方が、間違っていました」

深々と頭を下げる清志の横で、村田も深く頭を下げた。

「もうここに近づくことはありません。安心してください。失礼します」

清志は村田の腕に軽く触れると、向きを変え若い女性に背中を向けた。木々に覆われた林道に一歩踏み出した。

「待ってください」

今にも消えそうな程に小さな声が二人の耳に届いた。その声に足を止めると、若い女性が小走りで背後に近づいてきた。

「お友達は……。亡くなったのですか?」

その言葉に清志は振り返らずにゆっくりと頭を下げた。

「本当にごめんなさい。あんな酷い事を言って」

 清志は数回首を横に振ると、穏やかな声をかけた。

「もう怒っていません。あなたはきちんと謝ってくれた。わたしも怒鳴ってしまい申し訳ありませんでした。突然の訪問、失礼しました」

首をひねり顔だけを若い女性の方へと向けると、もう一度軽く頭を下げ、その場を立ち去ろうとした。駆け寄った若い女性が、がっしりと清志の手を掴んだ。

「今日は野菜のスープくらいしかありません。それで良かったら、食べて行ってください」

いくつかの単語を聞き取った村山が「スープ」と呟くと、清志は「そう言った」と頷き、「本当にいいのですか?」と今度は、体ごと若い女性を振り返った。

顔を上げ笑顔で頷く美しい女性に、二人は表現できない安らぎを感じた。

引き戸をくぐり家の中に入ると中では、若い女性の母親らしき女性が、火にかかったスープをかき混ぜていた。声が聞こえていたのだろう、二人の日本兵士に表情も変えず、言葉を発することもなく手を動かし続けていた。

若い女性にいざなわれるまま、二人は土間に置いてある椅子に腰を下ろした。

大きな目につんと鼻すじが通った顔立ち、外の寒さからか赤く染まった頬が真っ白な肌を更に際立たせた。心を揺さぶるほど美しい若い女性の名は美玲(メイリン)。年は二人よりも若そうだ。母親の名は依林(イーリン)。

メイリンとイーリンの住む家は、外観は積み上げた石と木の板を組み合わせて作られた平屋で、木の引き戸を開けると、すぐに土間があり、その端(すみ)には釜が置いてある。小さな窓がいくつか見えるが、どの窓にも木で出来た格子がはめ込まれている。一枚板のような大きな板が、釜の横に置いてあり、まな板のように使っているようだ。木で作られた数個の椅子が周りに置かれている。土間の横は、ほんの少し高くなっていて、日本と同様靴を脱いで暮らしているようだ。板をはめた床の上には、麻で作られた敷物が何枚か置かれ、囲炉裏が目に入る。木で作られた棚も多く目についた。奥手には、大きな板が立てかけられているように見えた。

「どうぞ」

お椀に入ったスープを受け取った時、清志は、ほんの少し触れたメイリンの手の温もりを感じた。その温もりを感じたまま、椀を傾けスープを口に運んだ。

「美味しい」

 野菜だけのスープが、こんなにも温かく美味しいものだと思わなかった。横に座る村田が何やら手を動かす気配を感じた。スッと横に視線をずらすと、村田がお椀を指さし大きく鼻で息を吸い、満面の笑顔を作るのが見えた。誰かがやっていたのを覚えていたのか、箸を持ちかえると右手の親指を立てて見せた。彼なりに「すごく美味しかった」と伝えたいのだろう。最後に中国語で「おいしい」とだけ言葉を発した。

まだ少し緊張が残る母イーリンの頬が、ほころんだように見えた。

「こんなに美味しい食事。久しぶりに食べました。無理を言ったにもかかわらず感謝しかありません」

何度もお礼を言いながら、清志の頬をまた涙が伝った。さっき流した涙とは違う、優しさと暖かさに抱(いだ)かれた安堵と安らぎの涙だ。それほどに、この食事の味は二人の心に刻みつけられた。

「こんな残り物でごめんなさい」

申し訳なさそうにうつむくメイリンに、村田は思わず日本語で話しかけた。

「この味は、一生忘れられません」

村田の言葉に笑顔を向けるメイリンの顔には、敵国の兵士に対しての緊張や恐怖の色は微塵も見えなくなっていた。

「明日……」

 言葉を詰まらせるメイリンを、不思議そうな顔で清志と村田は見つめていた。メイリンは自分に言い聞かせるように頷くと、二人に向かい満面の笑みを浮かべた。

「二人の分も、夕食を準備しておきます」

 清志は驚いたように目を見開くと「そんな事は、申し訳なくて」と首を何度も横に振った。

清志とメイリンの会話をどうにか理解しようと、必死に聞き耳を立てる村田をよそに、母イーリンの緩んだ頬が強張った。

「何馬鹿なことを言っているの。こんな人たちをまた招くなんて」

「お母さん。こんな人なんて言い方失礼でしょう。この人たちは、好きでここいるわけじゃないのよ。ただ兵隊としてこの国に、この場所に送り込まれただけなの」

「そんな事……」

イーリンの言葉をさえぎるようにメイリンは強く訴えた。

「それに。この人たちを助ける事で、どこかで父さんや友達が助けられているかもしれない。そんな希望くらい持ってもいいでしょう?」

「そんな事で助かったら誰も苦しまない。誰も命を落とさない。誰も戦争なんて始めない。もう戦争は始まっているの。それに、きっとみんな――」

「それ以上言わないで」

 メイリンの声が、見えないものに対する恐怖と悲しみに震えていた。その声に、それ以上イーリンが反論することはなかった。

沈黙の時間が流れる中、清志に話の内容を聞くと、村田が清志の耳元で囁いた。

「俺たちが、彼女たちのために何が出来ないか、聞いてくれないか?」

清志は頷くと、優しい口調で二人に話しかけた。

「わたしたちに何か出来ることはありませんか?」

「出来ること……」

メイリンは数秒考えるように目を閉じると、パッと顔をあげ「はい」と頷いた。

「私たちを守ってください」

中国語が咄嗟に日本語に変換され、清志の口からポロリとこぼれた。

「守る?」

「守る……」

村田もその言葉に反応した。

「守るとは…。それは、食べ物を奪わないとか。襲わないという約束を守ることか?」

清志は村田の言葉を、そのまま中国語で伝えた。メイリンは首を振ると

「あなた達の仲間、日本兵から私たちを守って欲しいのです」

「他の兵がここに手を出さないようにする、という事ですか?」

「そうです。わたしたちが日本兵に襲われないようにして欲しいのです」

清志が村田に伝えると、そういうことか。と納得したように頷き笑みを浮かべ、両手で頭の上にマルを作った。

「分かりました。明日から自由時間になったらここを訪れます。わたしたちがいれば、他の者が来ても帰らせることが出来るでしょうから」

 イーリンはまだ納得いっていないようだが、反対することもなかった。

「本当にありがとうございました」

もう一度お礼を言うと清志と村田は深く頭を下げ、引き戸を開けた。外へと出る二人をメイリンは扉の外まで見送った。

 村田と肩を並べ歩く途中、清志は思い出したように笑い出した。

「彼女、俺たちと少し考えが似てるかもしれない」

 村田は歩きながら首だけを清志の方へと傾けた。

「初めは、彼女の母親が俺たちの事を招くことに反対したんだ。その時、この人たちを助ける事で、どこかで自分の大切な人が助けられているかもしれない。そう言っていたんだ」

 村田は、そういうことかと納得したように何度も頷いた。

「山中の言ってたことだな。後は――」

「徳を積むだな」

 タイミングを合わせたように、二人の声がぴったりと合わさった。お互いの顔を見ると、今度は大声で笑い出した。暗くなった山道がほんのり明るくなったような、そんな気分で歩みを進めた。


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