第7話
終わりの見えない行進が、兵士たちの士気を更に弱めていった。食事も満足にいきわたらないだけでなく、あの襲撃以来、小さな物音にすら怯え、睡眠もままならない状態が続いていた。
「今になって後悔してるだろう?」
「だから食べられるときに食べろって、あれだけ言ったのに、お前は食わないから」
「もったいなかったな」
清志と村田、山中が肩を叩きあいながら笑えたのはほんの数日だった。
「今日は三人だ。昨日は何人だった?」「もう十人以上になるだろう」衛生兵の話すその言葉の意味は重かった。
「先に行ってくれ。すぐに追いつくから」
「なんだ。またか? 蛇に尻(けつ)を噛みつかれるなよ」
最後尾を行く山中が清志に向かい「うるさい。早く行け。お前がいると出る物も出ないだろう」と追い返すように手を振った。歩き始めて二時間程で、山中は既に五回、列を外れ用を足している。
「昨日の野草にあたったか?」
「美味くはなかったけど、毒ではないだろう」
清志も村田もわかっている。口にしないだけで〈あれ〉を疑っている。「多分そうなのだろう――」と。不十分な栄養。質の悪い睡眠。不衛生な体。極限状態の体力。気力だけで何日も歩き続けている。体だけではなく、精神も限界に近い。
「この四人はここまでか……」
衛生兵が見下ろす塊の中に山中がいる。一日も経たないうちに、山中の顔は血の気の抜けた青白い色から、土色に変わっていた。
「こいつは違う。大丈夫だ」
清志が抗議するように、衛生兵の腕を引っ張った。その言葉に振り返った衛生兵の瞳は、闇に落ちたように真っ黒で、何も映し出していなかった。指示を出すたびに、彼の心から何かが抜け落ちていた。大部隊だった部隊は既に半分にまで減っている。
「申し訳ありません。高山さんの頼みでもこれは決まりです。聞き入れられません」
「腹を壊しているだけだ」
「あの症状は、決まりです」
「まだ息をしているのに。お前はそれで平気なのか?」
「今までそうしてきたのです。彼だけを特別扱いは出来ません。こうやって見捨ててきたのです。例外なく――」
衛生兵の表情は、仮面をつけたように無表情だった。その顔を見た時、自分には何も出来ない事を清志は認めた。凍り付き動けない清志の肩にいつもの温かな手が置かれた。
「もう十分だ。こいつは分かっていた。覚悟をしていた」
「覚悟……」
「昨日手紙を託された。無事に日本に帰れたら自分の手紙を長野の家族に届けて欲しいと」
「どうして俺に言わなかったんだ……」
「お前の事を理解しているからだろう。もしそんな手紙を渡したら、お前は狂ったように怒っただろう?」
村田の言葉に反論できないまま、清志はただ俯いていた。
日本を離れたあの日【覚悟】を決めていた。つもりだった。でも、それは自分が【死ぬ覚悟】だ。目の前で仲間が失う【友を失う覚悟】が必要だとは思ってもいなかった。
道端に横たわる四人の兵士は、もうほとんど動かない。
「助けられなくて……すまない」
「お前の横で笑いあえなくなった。ごめんな」
村田と清志の声に、山中がピクリと動いた。うっすらと目を開け少し口が動いたように見えた。聞こえたわけではない、はっきりとそう言ったわけではない。それでも二人の耳には同じ言葉が届いた。山中の最後の言葉を飲み込むと、振り返ることなくその場を走り去った。
「ありがとう」
山中を襲ったあれの正体は。〈赤痢〉この病魔に侵された者は、この劣悪な環境下ではほぼ命を落とす。
息があるかではない、列を乱す者は置いて行く。暗黙の了解だ。「考えるな」「忘れろ」「誰も恨んでなんかいない」「そうするしかないのだから」
歩みを進めるしかない。そう分かっているのに息が苦しい。息をしているのに、生きているのに、苦しい……。そんな感覚が、生き残った兵士たちに襲いかかっていた。
山中の言葉を飲み込んでから既に三週間が経った。
部隊は山岳にある小さな村の近くに落ち着いた。食料補給部隊による食料補填にもかかわらず、相変わらず空腹は満たされない。ここは既に中華民国、敵地領内だ。それでも屋根の下での睡眠は、奇襲攻撃に怯えながら眠る野営とは天と地の差だった。
清志と村田も、やっと山中の名前を口に出来るまでに気持ちが落ち着いていた。話す事が辛くないわけではない。忘れたわけではない。そばに感じたいから話す。声を耳に、笑顔を目に、思い出を心に刻み込む。
「家族でも恋人でもない相手を、ここまで恋しいと思ったのは初めてだ」
二人は満たされることのない量の夕飯を食べ終えると、夕涼みがてら外に出た。土の盛り上がった部分に腰を下ろすと、茜色が消え始めた空を見上げ清志は山中の姿を思い浮かべていた。
「恋しいか――。そうか。この気持ちにしっくりくる言葉だな。あいつを恋しがる時がくるなんて、考えもしなかった」
「そうだな……」
清志は一息吐き、視線を村田の足元に落とすと「もしお前がいなくなったら。お前を恋しいと思う」とまじめな声で呟いた。
「もし。なんてないけどな。お互い故郷に戻った時に言えるといいな。今この時を恋しいと――」
愛しい。恋しい。幸せ。会いたい――。失って初めて気付く気持ち。戦場で芽生える気持ちが本当なのかは分からない。極限の辛さからくる同情のような、偽物の気持ちかもしれない。それでも今は、この気持ちがこの場所で生きる希望の一つになっている事は確かだった。
清志の「お前を恋しいと思う」その言葉を無意識に口ずさむと、恥ずかしさが込み上げたのか、村田は顔をそむけ話を変えた。
「他の奴らは、村に出てるのか?」
「みたいだな」
「お前は行こうとは思わないのか?」
「思わない。お前は?」
「俺か? 腹は減ってるけどな……」
村田は自分のお腹に手を当て、やや上を見上げ言葉を探した。
「人の物を奪い取ってまで、腹を満たしたいとは思わない」
「そうだな。それにな――。もし俺がここでそんなことをしたら、代わりに家族が同じ目に合っている気がする。前に山中がそんなこと言っていたのを覚えてる。徳を積んでおけとも言ってたよな」
村田は大きく頷くと「俺もそう思うよ」と呟いた。
多くの兵士は、満たされない空腹感と訓練や規則への不満を我慢できず、少し離れた集落に食べ物の徴発や無駄な脅しでうっぷんを晴らしに出ていた。銃を見せつけ脅し、怯える村人から食べ物を奪い取る。それが二人には出来なかった。それでも、空腹感を誤魔化すことに限界がきていた。
「徴発ではなく、分けてもらえないだろうか?」
清志がひとり言のように小さな声で呟いた。
「分けてもらう?」
「ああ。きちんと話をして、それで分けてもらえるなら徴発ではないだろう?」
「話なんて聞いてくれると思うのか?」
「俺には山中が付いている。あいつが生き延びる術を残してくれた。」
「術?」
「そうだ」
「ああ。言葉か」
「あいつ程、流暢には話せないけどな……」
「あいつに見せつけてやるか。上達した中国語を」
「いいのか?」
村田はゆっくり頷くと、真剣な顔を清志に向けた。
「悪いが銃は持って行くぞ。使うつもりはない。もしものためだ」
「分かっている。もちろん俺も持っていく」
二人は目を合わせるとゆっくりと立ち上がり、気合を入れるようにお互い背中を叩きあった。
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