第4話

命令通り三人が二七人の新兵を率いて兵舎を後にしたのは、あの朝から二週間後だった。

この二週間で三人の関係は随分と変わった。

村田は山中の語学力には驚いていたが、無論他言することはなく、それどころが中国語の勉強にも加わるようになった。人目に付かないように兵舎から少し離れた場所で、兵士たる不満をぶちまけたりもした。村田はかなりの演技者で、兵舎内では今まで以上に不愛想に見えた。


「進め」

村田の掛け声を合図に兵列が前進した。

清志と山中は最後尾につくと、二七人の兵を何とも言えない気持ちで見つめていた。自分たちは三年間、敵国に近いとはいえ、満州と言う国で訓練に明け暮れるだけだった。実際、敵に襲われることも人に銃口を向けることもなかった。でも、今目の前を歩く新兵は、多少の訓練を受けただけで敵地領内に向かっている。銃口を人に向け、同じ数だけ銃口を向けられることになるかもしれない。

数日山道を歩き続け合流予定の兵舎へとたどり着いた。他部隊が到着するまで二週間の猶予がある。

この小さな部隊では村田が最上階級であり、清志、山中以外は全員が新兵だ。怒鳴り散らす者はいなかった。大掛かりな訓練をする場所もない小さな兵舎での二週間は、自分がどこにいるかも忘れる程に、穏やかな時間が流れた。

ここで三人は、新兵の高橋三郎をよく目にする事になった。


「新兵で送られてきて、すぐにこんなに楽をさせると後々辛くなる」「楽が出来る時は楽をすればいい。わざわざ辛い思いをする必要はない」「自由とは言え敵地に近い事は変わりない。最低限の緊張感と護身だけは覚えさせておこう」清志、山中、村田、それぞれ意見が割れた。

三人は、数個の机を置いただけの、小さな食堂で息抜きのような会議をしていた。高山と山中が並んで座り、向かいに村田が座る。

「何事も気楽に考えた方が人生楽しいぞ」

ポンポンと山中に肩を叩かれた清志は、あからさまに肩をずらし山中の手を振り払った。

「高山が柔軟性を手に入れたら面白みが無くなる。こいつは、この真面目で不器用なのが可愛いんだよ」

「村田さん。可愛いとか気持ち悪い」

「そうか?山中もそう思うだろう?」

「可愛いかは別として、この真面目さがこいつの面白みってことは事実だな」

「今は、俺の性格の話しをしている場合じゃない。訓練をどうするかだ」

 清志は、からかわれているのが気に食わないのか、眉間にしわを寄せながら二人を交互に睨みつけた。その視線を外すように村田は山中の方に首を傾けた。

三人の意見を合わせた結果。(時間を決めず一日二回集合命令をかける。命令がかかれば何をしていても身なりを整え集合する。最後に集合したものは体力づくりとして腹筋、背筋と夕食後の後片付けの手伝いの罰)が与えられた。

そして、この罰を全て受け持ったのが高橋だった。

編み上げ靴の紐を結ぶ時点で他の兵士と差がついていた。丁寧に結ばれた紐は誰のものよりも均等に綺麗に編み上げられてはいるが、この地ではそこまで丁寧にする必要はない。何をしても他人よりも何倍と時間がかかった。

そんな高橋が夕食後の片づけをするのだから、一緒に片づけをしなければならない当番の者はイライラして仕方がない。鍋を洗わせれば焦げ跡が無くなるまで磨き、皿を拭かせれば曇りがないほどに拭きあげる。

「あいつの要領の悪さ、お前みたいだな」

清志と山中は夕食後、当番の確認のため食堂に顔を出した。

「俺、あんなに要領悪いか?」

清志は怪訝そうな顔をしながら、机を拭く高橋に話しかけた。

「高橋君」

「はい」

背筋をただし振り返る顔は何故か汚れている。

「机は綺麗にするのに、自分の顔は汚れたままか?」

「顔ですか?」

首を傾げながら、持っていた布巾で自分の顔を拭った。

「汚いぞ。布巾で顔を拭くな」

「すみません。机が汚くなりますね」

「汚くなるのは、お前の顔だ。食べ物で汚れた布巾で顔を拭くなって、言っているんだ」

「食べ物の汚れは汚くありません。戦場では顔の汚れなど気に出来ません。顔についた食べかすを、懐かしむことがあるかもしれません」

冗談ではなく本気で、どこまでも楽観的な高橋に二人は呆れ言葉が出てこなかった。

「面白い奴だな」

二人の背後から声をかけたのは村田だ。迷わず敬礼する高橋に村田は「いいから」と片手を挙げた。

「すみません。要領が悪くて」

「要領が悪い?丁寧すぎなだけだろうな」

「丁寧ですか?」

「編み上げ靴に汚れは一つもない。靴の結び方、掃除の仕方、何を取っても文句が付けられない程に丁寧に仕上がっている。」

「ありがとうございます」

褒められる事に慣れていないのか、眼鏡の奥の下がり目をさらに下げ、不格好な笑顔を見せた。

「丁寧さが必要な時もあるが、戦場では出遅れれば命を失う事にもなる。手を抜けるところは手を抜いて、周りと歩調を合わせる事を心掛けるように」

「はい」

「よし。お前の面倒は、この二人が見るから頼りにするように」

突然任務を任されたうえに思い切り背中を叩かれ、声を出そうとして清志と山中は同時にむせ返った。

「こいつは、ただただ要領が悪い。こっちは、いい加減と言ったほうが合っているがよく言えば要領が良い。この二人を足して二で割ったようになれるように頑張れ」

「ただただ要領が悪い。ですか……」

高橋はチラリと清志を見ると「要領が悪いのか……」と声に出したつもりはないのだろうが、三人の耳にその声は届いていた。笑いを堪える山中と村田とは対照的に、清志はぶすっとした顔を見せた。考えが声に出る所も二人は似ている。

「とは言え、お前ひとりを気に掛けるわけにもいかない。お前も頼りにしすぎず努力を怠るな」

「はい」

また声に緊張が見えた。喜怒哀楽が声でわかることが面白いのか、山中と村田の笑いが止まらなかった。真っ赤な顔で笑う二人の脇腹を小さく殴る清志の姿を、高橋は羨ましそうに見つめていた。


 二週間の息抜きはあっという間に過ぎた。

「明朝、二班に分かれ次の地に移動する」

 他部隊が合流するとすぐに、村田率いる部隊の半分が合流部隊に吸収された。翌日には村田、清志、山中そして高橋を含む、兵士十三人の小さな部隊は移動を始め、三日程で次の兵舎にたどり着いた。

次の兵舎には既に中尾中隊長率いる野戦補充隊が駐在しており、大部隊の一部となった。

清志と山中はここで、伍長から村田と同階級の軍曹に格上げされた。「俺たち兵士だったな」清志の呟きに、誰もが敵地領内との境にたどり着いたことを思いだした。


「元は、米国の缶詰工場だったらしい」

村田と清志は見回りがてら宿舎となるこの場所を探索していた。木々の生い茂る山の中腹を切り開いた場所に、大小合わせて四つの建物が点在する、工場跡地だ。

「そう聞いていたけど、缶詰一つも落ちてないな」

村田は足元に落ちるゴミを足でけり飛ばしながら歩いていた。

「ただでさえゴミが散らかってるんだから、余計に汚くするなよ」

清志は村田の後ろを歩きながら、散らばったゴミを怒ったような手つきで隅に寄せながら中腰のまま歩いていた。怒っているようでも何故か笑顔が見える。いつものくだらないやり取りが一番心を穏やかにする。

 

部隊が大きくなれば兵士の数も増える。兵士の数が増えれば階級もはっきりと分かれる。階級が分かれれば上下関係が厳しくなる。そうなると要領の悪い高橋は格好の餌食だ。

「高橋。靴の手入れがなってない。お前は、その靴底を舐められるか?」

「それは…」

「出来ないのか?」

二人の年長兵が、廊下を歩いていた高橋を捕まえ文句をつけていた。言い返すことも出来ずに、理不尽な命令に高橋はただ俯いている。

「そうだな。まず年長のお前の靴を見せてくれるか」

「何だと」

眉間にしわを寄せ、威勢よく振り返る年長兵たちの前に村田と山中が並んで立っていた。

「俺の目には、お前たちの靴の方が汚れてるように見えるけどな」

村田が次の言葉を待つかのように山中に目を向けた。

「どうだろう。この位置からは靴の裏は見えないからな。奇麗なのかもしれないな」

山中は村田の意を汲み取り言葉をつなげた。

「そうだな。だったら、靴を脱いで、そいつに手本をみせてやれ。ほら」

 村田が無表情のまま、悪態をつく兵士達に顔を近づけ一歩前に出ると、今までの強気な姿勢を崩し、目をそらし一歩後ろに下がった。村田はまた一歩前に出た。

「もうそれくらいにしておけ」

山中が村田と兵士の間に手を差し出した。

「とにかく今後は、自分でも出来ない事を人に強制するな。争う必要のないところでむやみな争いはするな」

村田が怒れば、山中や清志がそれを回収する。その逆もあり、お互いにその場に応じた対応をする。若い兵士にはこれが良く効く。

「自分が新兵の時に、同じことをされました。だから…」

村田の顔が離れそらした目を戻すと、一人の兵士が山中に向かい意見した。それに対し、村田がまた一歩前に出た。

「だから。なんだ?自分がされて嫌なことを、他人に仕返せという事か?そうか、お前は親にそう躾けられたのか」

「そんな事あるわけない」

 カッとなりやすい性格なのか、上級兵に対しての言葉づかいではなくなっていた。村田はそんなことは気にもかけず、たたみこむように続けた。

「お前は今そう言っただろう。嫌なことをされたから同じことをしたと。違うか?」

「やられたことをやり返しただけです」

「それは違う。もしやり返したいのなら、お前にそうした年長兵にし返せばいい。自分より弱いものにし返すのは、兵士としてではない人として愚かだ」

そこに立つ兵士達は、誰一人として反論できないまま俯いていた。

「徳を積んでおけ。悪いことをすれば、それだけ自分に返ってくる。それが銃口を向けられている時かもしれない。そうなった時に、悪行を後悔しても遅い」

 山中が、村田の言葉に続けた。村田も「そういうことだ」と首を縦に振り頷いた。

「分かりました……」

納得していないような口調にもかかわらず、兵士達は敬礼しその場を離れていった。フラフラと歩く兵士達の背中を見ながら、村田がため息交じりで高橋に話しかけた。

「お前。この間も雑用押し付けられてなかったか?トイレは当番制のはずだ。何故、お前がいつも掃除してる」

「それは……」

「はっきり言わないお前悪い。同じ階級のやつらにまで指示されてどうする。たかが雑用でもそれも規則だ。お前が代わりにやる事で、そいつらは規則違反をおかしている。断れ」

「すいません」

「今日は、たまたま俺たちが通ったけど毎回助けられないからな」

「はい。わかっています」

 高橋の真剣な顔に「それならいい」と頷くと、

「そう考えると高山、あいつの方がまだ要領いいな」

 村田は笑いながら山中に目を向けた。

「そうだな。あいつなら「それは、あなたたちの仕事です」とか言いそうだな」

 そう返答する山中の声は笑いで震えていた。

辛い生活の中に明かりをともす人たち。高橋が憧れる≪兵士≫の姿がここにあった。

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