第3話
寒い冬があけ、暖かな日差しの春、新緑の季節を過ぎれば、日差しが突き刺さる夏、木々の色が寂しさを誘う秋。そしてまた真っ白な冬がやって来る。気が付けば三度目の冬が訪れた。
≪三年≫
大きな意味がある。精神を保つための呪文。除隊が現実になる節目の年。
三年勤めあげれば除隊が許されるはずだった……。
清志は二十三歳となり、山中は二十八歳となった。二人ともどうにか伍長という役職にもつき、相変わらずの関係が続いていた。遠慮なくののしりあい、腹を割って語り合っていた。
「もうすぐ除隊かと思うと、不味い飯も狭い寝床も名残惜しい気がするな。お前とこうやって語ることも無くなるのか」
「じゃあお前と俺は除隊しないで残るか?」
今まで一度も口にしたことのない「残る」と言う言葉、呪文に浮かされているから言える言葉だった。部屋に戻るといつものように、清志と山中はギシギシと音がなる簡易なベッドに腰かけ話し込んだ。
「お前の頼みでも、悪いが断る」
ニコリともせず、冗談が通じない清志の性格は相変わらずだ。入隊した時とは比べ物にならない程、自由な時間が増えた。二人の秘密の日課は随分と実を結んだ。一日一単語の習得から始まり、単語を並べ簡単な文章、そして今では簡単な会話が出来る程に上達した。もちろん、この語学力を試すような場面には、まだ出会っていない。
「やっぱり二人一緒か。手間が省けた。二人で、吉岡曹長の所へ顔を出してくれ」
「二人で、ですか?」
「ああ。早く行け」
そう告げたのは、軍曹の村田(むらた)健太(けんた)だ。二人より上の階級で、優しくも厳しくもない、当たり障りのない人物だ。不愛想な彼の表情からは、良い知らせなのか悪い知らせなのかは、読み取れない。「胸騒ぎはしないな」「悪い事ではないはずだ」「除隊の話だろう」「そうだな」二人は心の片隅で沸々と沸き上がる不安を打ち消すように、声をかけ合い廊下を歩いた。
二人はもう一度身なりを整え、吉岡が待つ部屋の前で足を止めた。〈トントン〉ドアを叩く音がやけに乾いて響いた。「入れ」の言葉に一礼し、ゆっくりと中へと進んだ。小さな部屋の中で、背を向けたまま吉岡が立っていた。「話は……」低い落ち着いた声が部屋中に響き渡った。
「二人に転属を命じる」
今、なんて――。清志の心の声が聞こえたかのように、吉岡は背を向けたまま大きくゆっくりと頷いた。除隊できない――。の意味に二人の顔からは血の気が引き、肩は微かに震えていた。ほんの少し首をひねった吉岡の目に、青白い二人の顔が映りこんだ。数秒、数分、どれだけの時間が経ったのだろうか。
「ありがとうございます」
凍りついた空気にヒビが入った。ヒビが崩れ落ちる音が聞こえたかのように、高山の脳が動き出した。山中の真似をするように無意識に右手を額に掲げた。
「詳しい事は、明日にでも村田に聞いてくれ。戻っていいぞ」
「はい」
厳しさの中にも優しさが垣間見える吉岡のその顔を、最後まで見ることはなかった。頭を下げ部屋を出ると、お互い顔を合わせることなく長い廊下を無言のまま歩いた。いつもよりも冷えた寝床に入ると眠れないまま目を閉じた。瞼の裏に映る物は――なにもなかった。
「お前もか……」
起床のラッパよりずいぶん早く目を覚ました。
「ちょっと外出るか?」
山中は体を起こすと、呟くように清志に訊ねた。清志は小さく頷くとゆっくりと起き上がり、背を向き合わせたまま身支度を整えた。
「冷えるな」
辺りはまだ暗く、月も星も見えない真っ黒な空が二人の頭上に広がっている。兵舎から数メートルほどの所で、倒木に男二人肩を並べた。吐く息は白く、触れた肩と膝から人の温もりを感じた。
「まだ、日本には帰れそうにないな」
起きた時と同じ低い声で、山中が呟いた。
「ああ」
「日本は遠いな」
「ああ」
「帰りたくても、帰れない場所ってあるんだな」
「ああ」
「いつ帰れるかな?」
「……」
「帰りたいな」
「ああ…」
「逃げ出したい気分だな」
「ああ…」
〈ボキッ〉背後で音が聞こえた。腰を下ろしたまま、無防備にゆっくり振り返った二人の頭に〈パンパン〉と鈍い音が響いた。頭を押さえ、その場にうずくまる二人に容赦ない言葉が浴びせられた。
「お国の為に働くのが嫌なのか」
手に竹刀を持ち、腹に響くような低い声の主は、目に涙をため鼻をすすりながらも必死に痛みを堪え、立ち上がる二人の姿に、笑いを必死に堪える村田だった。
「悪かったな」
謝るその声が笑いで震えていた。
「自分が悪いので」
頭を下げる山中につられ、頭を押さえながら一礼した清志だが、どうしても気になって仕方なかった。
「何故、竹刀を持っているのですか?」
「お前らが出ていくが見えてな」
「え? 見えたから……竹刀を手にしたのですか?」
「ああ。脅かしてやろうと思って」
「は?」
清志の間の抜けた声がまた、村田の表情を変えた。
糸のように細い目、真一文字に閉じられた口、ピクリとも動かない小さな鼻。無表情の代名詞であるその顔が、更に目を細くし、見たこともないほどに大きく口を開き、ひくひくと小さな鼻を動かし、堪えていた笑いを一気に噴き出し無表情が破壊された。
涙をため笑うその顔は、無表情の言葉が似合わないほどに可愛らしい。
村田の笑い顔に釣られるように、二人にも笑いがこみ上げた。「笑うなよ。失礼だろう」清志と山中は後ろ手にお互いの脇をつつきあいながら、必死に笑いを隠そうとしていた。三人の口元が緩んだのも束の間、村田の表情が無表情に戻った。
「昨日の話だけどな。詳しい事は聞いているか?」
その言葉に、清志と山中の顔からも笑顔がすっと消えていった。
「聞いていません」
山中は背筋を伸ばすと、はっきりとした声で答えた。「そうか」と頷くと村田は、二人の目をじっと見つめ話を続けた。
「俺とお前たち二人が、新兵数十人を連れ、次の兵舎に向かうことになった」
「村田軍曹も……」
村田もまた眠れない夜を過ごした一人だった。
「それは、新兵を兵舎に連れて行けば、除隊できると言う事ですか?」
清志の声から、わずかな希望にすがっていることが読み取れる。
「いや。そうではない」
「そうですか」
明らかに清志の声が変わった。村田は清志に視線を向けると話し続けた。
「途中で他の部隊と合流し、中華民国領内に向かう」
「敵国の領内に……」
清志の声は、更に不快感をあらわにした。
「座るか」
立ったままの二人に向かい、村田は倒木を竹刀で指し示した。
立ちすくんだまま動けない清志の肩に山中の手が置かれた。手の暖かさが伝わったのか、その温もりにいざなわれるように、ゆっくりと腰を下ろした。背筋を伸ばし座る山中に比べ清志の背中は丸まっていた。山中を挟み、村田を清志が倒木に並んだ。
「吉岡さん……曹長はお前たちの顔を見たか?」
竹刀を足の間に立て、竹刀に寄りかかるように前かがみになる村田の声が、あまりに小さく山中は戸惑った。
吉岡と村田は、階級は違うが、話しをしている姿を良く目にすることがあった。上司にも媚びず、上の者にも正しく意見をする村田の姿勢を吉岡は評価していた。そんな噂も少なからず耳にしたこともあった。清志と山中のように、吉岡もまた他人に吐けない感情を村田の前ではあらわにしていたのかもしれない。
「曹長は、わたしたちに背中を向けていました」
山中は、村田の声に合わせるかのように小さな声で答えた。
「顔を見て命を下すべきなのに、顔を見ることが出来なかった。三年目で日本に送り返せず、敵国領内に送ることになるとは……。謝っても謝り切れない。そう言っていた」
村田は目を閉じ息を吐いた。
「あの人も辛いんだ。俺は半年前に、お前たちと同じように吉岡さんに告げられた。あの時もあの人は、俺の顔を見ようとはしなかった」
一息つき、横に座る二人をチラリと横目で見ると、表情を変えることなく話を続けた。
「あの時俺は、あの人に暴言を吐いた。上司に対して絶対に口にしてはいけないようなそんな言葉を聞いても、あの人は何も言い返さなかった。それどころか、言葉を遮ることなく最後まで聞くと、一言「すまない」そう言った。あの日から、あの人に近づけたような気がする」
「分かっています。曹長が悪いわけではありません」
「そうか」
安心したのか、無表情だったその顔がほんの少しだけほころんだ様に見えた。
「それとな……」
村田は首をひねり二人に顔を向けると、見比べるように交互に二人の顔を見た。
「あくまでも俺の勝手な意見だ。聞き流してくれて構わない。」
山中は、村田の方にほんの少し首を傾け「はい」と頷いた。
「俺は、お前たち二人と一緒で良かったと思っている」
清志がその言葉に、うつむいていた顔を上げると、隣に座る山中と目を合わせた。どうして俺たちと?と言わんばかりに共に軽く首を傾けると、息を合わせたかのように村田の方へと首をひねった。
「こんな言い方は失礼かもしれませんが、そう言ってもらえる程、わたし達は村田さんと話したことはないと思います」
清志は山中の言葉に同調するように頷いた。
「そうだな。俺は敢えて人と関わらないようにしていたが、お前たちの事は良く見ていた」
「わたし達を?」
山中の顔がジリジリと村田に近づいていく。村田はそんな事も気にせず、何かを思い出しながら話を進めた。
「いつ死ぬかもわからない状況でどんな情も育てたくなかった。俺は弱い人間だから、仲良くなった奴が死んでいくのを耐える自信がない。相手を良く知らない方が、いくらか辛さが和らぐかもしれない。そんな事を考えていた」
「俺たちは、死にませんよ」
二人の声が重なった。
「そうか……」
「それでどうして、俺…わたし達二人を羨ましいと思うのですか?それに、高山に情がないかと聞かれれば、あります。でも、こいつは死にません。それでも、もしと考えたら、もちろん体は震えます」
清志が死ぬことを一瞬でも想像したのか、山中の声がうわずった。
「俺だって苦しいとき、悲しいとき、辛いとき誰かに弱音を吐きたい。恐怖で体が震えることもある。お前たちは共に乗り越えられる。でも俺には仲間がいない」
「吉岡曹長がいるのでは?」
山中の言葉に村田は首を横に振った。
「あの人は、俺たちを束ねる存在だ。一人の部下と、そこまで打ち解けることはない。ただ、除隊できないと宣告された翌日、弱音を吐ける友を作れと助言された。それからだ」
村田は竹刀の先に頭をつけ、地面を見つめたまま話し続けた。
「手が凍りそうな程に寒い日に、入水訓練があったな。あの時、正直くじけそうになった。もう何もかも投げ出して、あの場から逃げ出したかった。そんな時、お前たちがお互いを励まし合う言葉が耳に聞こえた。その日から、お前たちの声を、耳が勝手に拾っていた。訓練の時は、無意識に近くにより声に励まされた」
「そんな回りくどい事をしないで、声をかけてくれれば良かったのに……」
思っていたことが口から出たことすら気が付かない程に、清志は村田自身に対し好奇心が芽生えていた。
「山中の具合が悪い時、高山、お前は栄養をつけろと少ない食事を分けていただろう。あんなに大事にされる山中を、羨ましいと思った」
「感動したのですか?」
清志は、まんざらでもない表情で村田を見ている。そんな清志の表情が視界に入ったのか、村田は恥ずかしそうに口角をあげると「ただ、もっと飯が食いたかったのかもしれないな」と顔をそむけ、話を続けた。
「いくら声を拾っても、その声に励まされても、お前たちが俺を頼ることはない。そこに俺の居場所がない事を、悲しく思った。お前たちと話がしたい仲間になりたいと、その気持ちが日に日に大きくなった。それでいて、話しかけるきっかけを見つけられないでいた」
無口で感情の無いと思っていた村田が、喜んだり悲しんだり、今は感情の塊だ。こんな時どう声をかけるべきなのか清志には分からない。
「わかりました。今日の朝食を少し分けます」
山中が真剣な表情で村田の顔を覗き込んだ。清志はそんな話をしていないだろう。とでも言いたげに山中の服の裾を引っ張った。
「遠慮しておく。俺が人の飯を奪い取る鬼に見えるからな」
村田の顔にまた笑顔が戻った。
「簡単ですよ。わたしたちの仲間になればいい、それだけの話ではないですか?」
何か間違っているか?と言いたげに「そうだろう?」と山中の顔を見る清志に、山中が首を横に振った。
「そんな簡単なことじゃないだろう」
「なんでだ。嫌なのか?」
「嫌とか、そういう事じゃない」
「喧嘩するな。俺は今まで通りで構わない」
申し訳なさそうに立ち上がろうとする村田の腕を、山中が掴んだ。
「違います。簡単なことではない分、きちんと決めないといけない事が、あるでしょう」
一瞬悲しそうな顔を見せた村田が、どういうことだ?と山中の顔を見下ろした。
「わたしたちは伍長。村田さんは軍曹。階級が違います。あなたが吉岡曹長との関係を気にしていたのと同じです。あまり仲良くしている所を見られると、良い気がしない人たちが出てきます。わたしたちは生意気だと思われるかもしれませんし、村田さんは同階級の人から下に見られ、上層部からも注意を受けるかもしれません」
「ああ。そう言うことか」
村田だけでなく、清志もまた納得したように頷いた。
「ただ、曹長と我々の間の隔たりと、軍曹と我々の間の隔たりは違う気がします。そこで提案です。話したいときは、わたし達を叱っている体(てい)で呼び出してください。その代り三人でいる時は、わたし達はあなたに言いたいことを言います。もちろん敬語は使いません。仲間ですから同等に接します。簡単に言えば、その場に応じた態度を取る。これが決まり事です」
「え。じゃあ俺は、村田さんに意味もなく叱られて殴られるのか」
清志なりの冗談を、村田は拾い上げニヤリと笑った。
「山中は体がでかいからな、お前の方が殴りやすい」
「本気じゃないですよね?」
「それは仕方ないだろう。お前の方が殴りやすいんだから」
山中もまた、村田の言葉にのった。
「わかりました。でも目立たない場所を殴ってくださいよ。それと力を入れている振りで、弱めにしてください」
「分かった。腹を青あざにならない程度に殴る。約束する」
「約束ですからね。お願いします」
村田も山中も、気合を入れるように真剣な顔をする清志の言葉が、冗談なのか本気なのかわからなくなってきた。村田は山中の顔を振り返り微笑むと、笑いながら首を振り、高山の頭を竹刀で軽く叩いた。
「痛い」
「三人の時は、敬語はなしだって言っただろう」
この時から村田は、もう考えている事の分からない無表情な男ではなくなった。組織上の関係を崩さずに仲間になる。難しいのかもしれないし、簡単かもしれない。それでも何より心を許せる仲間が増えることは心強い。
「ありがとう」
ほんのり明るくなった空が、二人から顔をそむけた村田の頬がほんのり桃色に染まっているのを、際立たせた。振り返らず兵舎に戻る村田の後姿に、二人は敬礼した。
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