第2話

兵舎での単調な生活が始まった。

〈パパパパ、パパパ――〉

辺りは暗くまだ夜も明けぬうちに、大音量のラッパの音にたたき起こされる。「飯だ。早く食え」の声に、身なりを整え食堂になだれ込む。美味しくもない裸麦と具の無い味噌汁を空っぽの胃袋に流し込む。

質素な食事の後は仕事。仕事という名の剣術と銃撃の訓練を、文句も言えずただ黙々とこなしていく。

労働後の癒しであるはずの入浴は、イモ洗いだ。「五分だぞ」の声に、ここでもまだ戦いは続く。イモ洗い式に次々に体を洗っては、少ないお湯をくぐり、小さな手ぬぐいで体を拭く。

休日と言う名の日光消毒日。草の上に真っ裸で仰向けに寝ころがる。青空の下、何一つ隠すことなく、生まれたままの姿を太陽に見せつける。日光で体の消毒。文字通りの日光消毒が唯一の癒しというのが何だか寂しい。それでもこの時ばかりは、太陽の黄色がかった白色と暖かな日差しに幸せを感じてしまう。

 毎日同じことの繰り返し。自分の意思で変えることのできない日課が、これほどにもどかしいとは、清志だけではない誰もが思いもしなかった。


 心も体も辛いと感じる単調な毎日が幸せだったのかもしれない。そう思える出来事が兵士たちを襲った。

清志がこの場所で寝起きをはじめ三か月後の事だった。

その男の顔は、おそらく誰も覚えていないだろう。それでも、彼の事を考えると今でも背筋が凍る。

一日の疲れが体の隅々にのしかかり、いつ目を閉じたかすら覚えていない。そんな眠りと静けさをつんざく声が、兵舎に響き渡った。

「逃げたぞ」

廊下を走り回る足音が聞こえると直ぐに、部屋のドアが大きく蹴り開けられた。

「逃亡兵だ」

その言葉に一気に清志の目は大きく見開かれた。身なりを整えながら暗い廊下へ飛び出した。

「逃亡兵を捕まえろ」「二人一組で山へ入れ」指示されると同時に、一斉に兵士たちが山の中へと流れだした。清志もまた、働かない頭を大きく左右に振りながら、現状を把握しようと走り出した。「捕まえる――。 誰を捕まえる――。 仲間を捕まえる――。 もし捕まえたら――」前後へと素早く動く足とは裏腹に、気持ちがついていかない。

「おい。まだ寝てるのか?」

清志の横で山中が、少し荒くなった息と共に言葉を吐いた。


山中(やまなか)太一(たいち)は、清志より五歳年上の体の大きな男だ。端麗な顔つきの清志とは正反対で、体だけではなく全てが大きい。大きな顔に太い眉、大きな鷲鼻と鋭い眼光、唇も分厚い。野性味があふれる顔と言えば聞こえがいいが、一歩引いてしまうほどの強面だ。だがその顔が一度崩れると、優しさがあふれる。くしゃくしゃとシワを寄せたその顔は、お世辞にも利発そうには見えないが、驚くことに、山中の特技は中国語が話せることだった。「誰にも言うなよ。前線に送られるのだけは避けたいからな」笑いながら話していた。「本音は違うのかもしれない」そう清志は感じていた。「俺の秘密を守るために、お前を共犯者にしてやる」そう言って、山中は清志に中国語を教えた。

必死に努力しても要領の悪さが露見する清志と、知識があり努力せずとも要領よく物事を進める山中。同期であり同室でベッドを並べる二人は、お互いを心の支えとし、ここでの生活を送っていた。

山中との出会いが、清志の人生を大きく変えていった。


清志と山中は、数メートル先も見えない暗黒とも思える暗闇の中、小さな灯を手に山道を走り回った。夕方まで降り続いていた雨が、山道をさらなる悪路に変えた。水分を含みしだれかかる枝が、服や顔に引っかかり体を持っていかれる。ぬかるんだ山道に何度も足元をすくわれ、ついには清志が派手に尻もちをついた。足を止め振り返る山中を、清志は思わず見つめていた。

「逃亡兵はどうなるんだ?」

伸ばされた山中の手を取りながら、清志が少し震えた声で問いかけた。

「知らないのか?」

手を引き寄せながら山中は、問いかけに問いかけた。

「知らない。」

 一瞬、山中の顔が歪んだように見えた。「先に進むぞ」と走り始めると「俺が聞いたのは――」重そうに口を開いた。

「国境を越えて敵に捕まったら。情報を吐かせるために死ぬまで拷問にあうか、奴隷として働かされ死ぬのか……」

「日本兵に捕まったら?」

「銃殺刑だ。遺骨には見せしめのために赤い縄がかけられ、故郷へと送られる」

「故郷に……」

「ああ……。見せしめのように、身内も罵(ののし)られることになるだろうな」

清志は、体中に大きな蜘蛛が這いまわるような気持ち悪さに襲われていた。

「まあ。そう聞いているだけで、本当の事はわからないけどな」

清志は体を這いまわる蜘蛛を追い払うように、強く地面をけり上げ速度を上げた。走りながら清志は、心にはっきりと矛盾した感情を持っていた。「逃げろ――。 逃げるな――。 捕まるな――。 捕まってくれ――」混乱する心に、また足をすくわれ尻もちをついた。

「またか。大丈夫か?お前は――」

苦笑しながら手を差し出す山中の声に重なって――。まるで空から槍が降ってきたように。言葉が突き刺さった。

「兵舎へ戻れ」

その言葉が意味することは口にしなくてもわかる。逃亡兵が捕まった。清志は、目の前に差し出された手を掴むことが出来なかった。体も思考も、固まった。今、口を開いたらどんな言葉が出てくるか分からない。そんな清志の気持ちを悟ったのか、山中がその腕をつかみ、脇を抱えるように兵舎へと向かって歩きだした。何も言うな。言葉が交わされたわけではないのにお互い頷いた。

辺りは薄っすらと明るくなり、空が橙色に色づき始めた。もうすぐ夜が明ける。捕まった男は、この色を見られただろうか……。考えるだけでまた、蜘蛛が体を這いあがってきた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る