憧れの人は
それから2週間後の日曜日。無事に引っ越しが完了した俺は、未だダンボールだらけの部屋で寝っ転がり、スマホをいじっていた。画面に表示された巨大な文字が目に飛び込んでくる。
『弾かなくなった楽器を売りませんか? 安心と信頼の高価買取!』
文字の下に買取可能な楽器が一覧になっている。ピアノ、バイオリン、トランペット、サックス、エレキギター、アコースティックギター、クラシックギター……。
俺はしばし画面を見つめたが、すぐにため息をついてスマホを床に放り出した。そのまま両手を後頭部にやり、天井を見やる。
本当は引っ越し前に売るつもりだった。どうせ弾く機会もないのだから、今のうちに処分してしまった方がいい。そう考えて買取店を検索し、見積もりを申込もうとした。
だが、必要な情報を入力し、送信ボタンを押そうとしたところで手が止まってしまった。時間を置いて試しても同じことで、どうしても最後の一歩を踏み出せなかった。だから結局売るのを諦め、新天地に連れて行くことにしたのだった。
俺は寝っ転がった体勢のまま、部屋の片隅にあるギターケースに視線をやった。トラックに積み込む時にはそれなりに重量を感じた楽器。学生時代、俺はこの重い楽器をほぼ毎日担ぎ、家と大学を往復していた。それも全く苦行ではなく、むしろ相棒といるように揚々とした気持ちで。その時のことを思い出すと、胸が締めつけられるような気がした。
その時、新着LINEの通知音がスマホから鳴り、俺はスマホに手を伸ばした。誰だろう。異動先の同僚から歓迎会の誘いだろうか。俺は気のない素振りでスマホを開いたが、画面に表示された名前を見た瞬間、思わずがばりと身体を起こした。そこに表示されていたのは、秋葉先輩の名前だったからだ。
『奥野君久しぶり。元気?』
俺は心臓がバクバクするのを感じた。秋葉先輩から連絡が来るのは初めてだ。どうしたのだろう。まさか今頃になって春が巡ってきたんだろうか。
『はい! 変わらずです! 先輩はお元気ですか?』
勢いに任せてそう返事したが、すぐにこんな面白みのない文章を送ったことを後悔した。5年ぶりに連絡するんだから、もっと他に聞くことがあるだろう。今何の仕事してるんですか。クラブの連中とまだ会ってるんですか。結婚してるんですか……。
俺が追加でメッセージを送ろうか悩んでいると、3分くらいしてから返事がきた。
『うん、私も元気だよ! 急にLINEしたからびっくりしたよね?』
いや、確かにびっくりしたけど、それ以上に嬉しいっていうか。何ならこのまま飯でも食いに行って四方山話に花を咲かせたいっつうか。でもいきなり誘ってひかれても嫌だし……。
5分ほど迷った挙げ句、結局俺が送ったのはやはり無難な文章だった。
『いや、むしろ嬉しかったです。先輩今お仕事何してるんですか?』
このまましばらくLINEが続くようなら、思い切って飯に誘ってみよう。久しぶりに会って話したいと言えば変には思われないはずだ。初めて秋葉先輩に会った時は俺もまだ10代のガキだったけど、今はちゃんと仕事もしてるし、先輩と対等に話せるような大人になれてるはず――。
だが、俺のそんな密やかな決意は、次の先輩のLINEで呆気なく打ち破られることになった。
『実は今育休中なんだ。2年前に結婚して、半年前に産まれたとこ。今子どもが寝たとこで、暇になったから大学のアルバム見てたんだ。で、クラブの写真見てたら懐かしくなって。それでみんなに連絡してるんだ』
その文面を見た瞬間、俺の中で何かががらがらと崩れていくような感覚があった。
2年前ということは、ちょうど俺が社会人になった年だ。俺が社会人としての階段を昇り始めたその時に、秋葉先輩はすでに俺の手の届かないところに行っていたわけだ。
しかも、先輩は俺だけでなく、他のクラブの連中にも連絡しているようだ。そんなことにも気づかず、1人で勝手に盛り上がっていた自分が情けなくなった。
だが、ショックを悟られるわけにはいかない。始まる前から撃沈したとはいえ、秋葉先輩がわざわざ俺に連絡をくれたことは事実なのだ。せめて今は、この甘美な時間を少しでも長く楽しむとしよう。俺はそう自分に言い聞かせ、何気なさを装って返信した。
『そうなんですか!? 全然知りませんでした。おめでとうございます! 秋葉先輩の子どもだったら可愛い子に育つでしょうね!』
これくらいだったら言っても許されるはずだ。俺はやきもきしながら送信ボタンを押した。だが、やはり先輩が結婚していたショックは大きく、俺は深々とため息をついた。先輩とのLINEを続けたい気持ちはあるが、子どもの話題が続くと俺の心臓が持ちそうにない。
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