第二章
第9話 掌編 大野達也は新入生だった
大学に入学した俺が考えたことは、いかに多くの人間と知り合うか、ということだった。それだけ聞けば、よくある大学生の考えそうなことなのだが、俺の場合は目的が違う。
俺の目的は、いわゆる獲物探し。その辺の説明は割愛しよう。
その一環として、新入生歓迎コンパに日々参加し、同級生の繋がりを広げている。今日は大学付近の某所で開催されている飲み会に出席している。飲酒していいのかって?俺は鬼だ。人間の法には縛られない。
でかいテーブルを囲んでいると、一年生を固めて座らせていることが雰囲気でわかる。慣れないというか、服装に気合が入りすぎているのが新入生だ。
観察していると大学生の動きは面白い。新入生の男女は、まず、それぞれ同性で親しくなろうとする。男子で数人のグループができると、女子グループに近寄り始める。二年以上の男子はその僅かに先に新入生女子グループに擦り寄る。
いきなり先輩女子とお近づきになろうとする猛者も中にはいるが、親しくなれる可能性は低い。先月まで高校生だった男と、ほとんど大人である大学生に混ざって過ごしてきた女では、男の方が子ども扱いされて当然だ。
ちなみに、男子を狩りに行く女子も見かけるが、それができてほどほどの顔を持っていればすぐ付き合える。大学に入ったばかりの浮かれた男を落とすのは簡単だ。
俺は人の幸福を食べる鬼なので、人間の心の機微には常にアンテナを張っておく必要がある。このまま社会学の研究でも始められそうだし、ゆくゆくは専攻してもいいかもしれない。
さて、そんな人間模様の中で俺がやることはまず真っ先に同じく新入生男子に声をかけること。ちらちら女子を気にしているやつがいい。ほんの少し仲良くなったら、そいつと一緒に女子が集まっているエリアに行く。女子多数対男子少数という最高のバランスの場が完成だ。
恨みを買いたくないので、混ざりたそうにしている男は同級、先輩問わず招く。
ちなみに、俺は女に慣れているわけではない。それなりに緊張して立ち回っている。ただ、あくまで人間は俺にとっての食料なので、おそらく人間よりも緊張していないのだろうと思う。鬼は鬼同士で結婚するので、女の鬼と話すときを考えれば気持ちは想像できると思うのだけれど、どうだろう。紫乃相手には、まあ、微妙なところだな。
ともかく、大学に入って最初の二か月で一人の獲物を見つけることが俺の目標だった。鬼の食癖は一年に一回程度で満たされる。いい獲物が見つかれば、この先一年の見通しが立つ。
俺は興味もない、何をするのかもよくわかっていないサークルの新入生の輪にあって、誰よりも真剣なはずだ。通常の食事に加えて鬼に必要な食癖の充足。それが為されないと飢餓感でおかしくなるという。実際、限界が近づくと焦燥感が燻り始め、頭がぼんやりしてくる。高校生のとき、まだ上手く立ち回ることができなくて食癖が満たされなかった期間があった。そのときの自分はかなり頭が悪くなっていたと思う。そうなる前に見通しを立てねばならない。
ふと、匂いが鼻を掠めた。安い料理や酒の匂いじゃない。これは不幸の匂いだ。俺にとってはご馳走の予感でもある。発している相手はすぐにわかった。輪の中で曖昧な顔をして笑っている女の子。大きな眼鏡をかけている。髪は真っ黒。
幸が薄そう、という表現がある。高校生のとき読んでいたライトノベルでその言葉を見た時、手を叩いた。電車の中だったので恥ずかしい思いもした。
幸福と不幸は一様に出会うものではなく、分布があると俺は感じている。幸福が集まる人間と、不幸が集まる人間がいるというわけだ。俺は幸福から不幸に変わるときの感情の落差を食べる鬼なので、不幸に遭いやすい人、一言で言って、幸が薄そうな人間が好ましい。
俺は盛り上がっている席を立ってその子の傍に行った。後ろから声をかける。
「ねえ」
その子は驚いたのか、肩を飛び上がらせて振り向いた。
「大丈夫?」
「大丈夫って、何がですか?」
敬語に笑ってしまう。俺は先輩だと思われていたのだろうか。
「タメ口でいいよ。俺も一年だから」
「そうなんですか。あ、えと、そうなんだ」
「疲れていない?」
その子はまた曖昧な顔で笑った。返事を誤魔化すときの癖なのだろうか。
周りを見ると、空いているスペースもある。いつの間にか巨大な人の輪を作ってしまったようだ。
「ちょっとあっち座らない?俺も、大学に入ったからって頑張りすぎちゃった」
さっきまでいた輪を指さした。
「本当は、こういう役は苦手なんだよね。でも、皆探り合っていて気まずいから、まとめちゃった」
「結構凄かったですよ。コミュニケーション力っていうのか、さすが大学生だなって思った」
俺たちは膝立ちで隅の席に移動した。ここから見ると尚のこと面白い。新入生同士、なんとか仲良くなろうとしている男女の向こうで、先輩方もまたとぐろを巻いていた。あっちはあっちで事情があって、それも含めて楽しんでいるのだろう。
他人のことを言えた義理ではないが、必死に盛り上がろうとしているように見えて笑えた。
「俺も最近まで受験勉強に励んでいた高校生なんだから、コミュニケーション力も何もあったもんじゃないよ」
これは本音だった。幸食という業を背負ったわりに、それを食べるための素養が充分に備わっているとは思っていない。だからこのように努力しなければならない。
「頑張ってみたけど、やっぱり疲れるね。本当はさ、こんな風に隅でコソコソ話すのが好きなんだ」
「ああ、わかる。実は私も」
「やっぱり?そうだと思ったんだよね」
俺はおどけるように笑い、その子は柔らかく笑った。初めてちゃんとした笑顔が見られた。
この子の不幸は美味しそうだ。
「俺は大野達也。君は?」
「大屋結衣。大きい家屋の屋、結ぶに衣」
「大野に大家か。似ているね。大家さんは、ああ、これ別の意味になっちゃうね」
別に俺の賃貸のオーナーでもないのに、大家さんか。
「ええと、じゃあ、下の名前で呼んでもいい?初対面で図々しいようだけど」
「別に気にしないよ。私も、不便な名前だなって思っているから」
自嘲するように笑った。さっきまでの曖昧な笑顔よりもいい顔をする。自分を下げる方向には素直になれるというのは、不幸が集まる人間の特徴だ。
「じゃあ、結衣ちゃん」
さすがに照れるな。ちゃん付けで女の子を呼ぶなんて小学校以来かもしれない。
「連絡先を交換しない?」
「いいよ」
素っ気なく、でもすぐに返事をしてくれた。
携帯電話を取り出して、電話番号とメールアドレスを交換する。結衣ちゃんの携帯電話の壁紙は猫の写真。
「猫、飼っているの?」
「実家にね。それが一番寂しいかも」
「一人暮らし?」
「うん」
いい情報だ。同居人がいると異変に気付かれやすい。
「結衣ちゃんは、学部学科どこ?」
「文学部。日本の古典をやりたくて」
「へえ。源氏物語みたいな?」
「そうそう」
俺はどっちかというと現代文学の方が好みだが、研究とエンターテインメントではそもそもの土俵が違う。
「達也君は?」
「俺は経済学部。でも社会学も面白そうだなって思っているから、もしかしたら転部するかも」
「そうなったら文学部だね」
「そうだな。そうなったらよろしくお願いします、先輩」
「同級生じゃん」
「結衣ちゃんは、このサークルに入るの?」
「どうだろう。友達に誘われて出席してみたけど、あんまり。その子は楽しそうだけどね」
結衣ちゃんは困ったような笑いを顔に浮かべ、指さした。その先には茶髪にパーマをかけた女子が輪の中心で何か言っている。それに反応して笑いが起きた。
「達也君は一人で来たの?」
「ああ、まあ。明るい奴の振りして、一人でこういうイベント回っている」
友人は何人かできたが、さすがに俺の参加頻度に付き合わせるわけにはいかない。
「凄いね。私にはできないな」
褒められると微妙なものだった。俺はどちらかというと必要に迫られて参加している身なので、納税していることを褒められているような気分になる。
「俺だって、本当は仲がいい数人で小さくまとまっているのが好きなんだ。誰も知り合いがいない状況が良くないから、頑張って顔を広めているだけだよ」
「それもわかる。私も、大学生デビューで華々しくなろうとしてみたけど、やっぱり無理そう」
結衣ちゃんは溜息をつき、俺には不幸の匂いが漂ってくる。いい感じだ。
幸不幸の偏りに理由があるとすれば、それは、感じる人間の性質だ。失敗や挫折をポジティブに捉える人間は不幸だと思わないし、逆に、必要以上に不幸を感じる人間もいる。その感覚のバイアスが、幸不幸の分布の正体だ、と俺は考えている。
特に、家庭環境、身体的な事情などで、周囲より相対的に厳しい条件で生きてきた人間は、警戒する意味でもネガティブな予測を立てやすい。また、不幸に対して諦めている面もある。心の底では幸福になんてなれないと思っているタイプが、少なからずいる。
できるもできないも、幸も不幸も気持ち次第、ネガティブは甘えだと啓発する人間も見かけるが、その意見こそが甘い環境で生きてきた恵まれた人間ならではだろう。
第一、人類全体が幸福でポジティブになられてしまったら、俺が食べるものがなくなってしまう。
ある意味、これは鬼と人間の生存競争なのかもしれない。俺は人間にとってのウィルスのようなもので、幸福によって根絶されるか不幸を食べて細々と生き延びるか、知られない場所で繰り広げられる戦いみたいだ。
「無理せずいこうよ」
俺は結衣ちゃんに語りかける。無理に幸福になることなんてないじゃないか。それに、幸福なんてただの感情のアップダウンでしかない。
俺が与えてあげるよ。そして奪ってあげるよ。
「そうやって頑張る人は嫌いじゃないけどね。それよりも、気が合う人でいてくれる方が、俺は嬉しいな。折角こうして会えたんだから」
結衣ちゃんの手に軽く触れた。驚くかと思ったけど、意外に反応はなかった。
「私、力が入りすぎていたのかもな」
「大学に入ると、そうなるよね」
俺たちはすぐ近くで微笑み合った。
結衣ちゃんの向こうに、赤いキャップを被った先輩が通ってニヤリと笑って去った。こっち見るな。
半年後、大家結衣は行方不明になった。その経緯はご想像にお任せする。
Happy Eater 佐伯僚佑 @SaeQ
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