第8話 ファイアスターター(後編)

 その噂はすぐに伝わってきた。


 探偵を名乗る連中が訪ねてきてすぐに、共通の知り合いに連絡し、網を張っておいたのだ。その効果はてきめんで、翌日の午後には数件のメールが届いた。


 小川雛子は湧き上がる喜びを抑えきれず、鼻歌混じりに声を掛けた。


「お友達を迎えに行って来るね。満香」


 もう返事は返ってこない。いいタイミングで次が来てくれそうだ。


 満香とは一年以上前、インカレテニスサークルで知り合った。そのときは、野暮ったい、大人しそうな子だ、という印象しかなかった。時は流れ、三か月前。雛子がアルバイトをしていたコンビニに満香が後輩として入ってきたことで関係が変わった。元々の面識があったため、気安く仕事を教え、食事に誘うようになった。


 周囲からは、正反対に見えるのに仲が良いと評されていたし、満香もそう思っていたことだろう。


 雛子はサークルには結局数えるほどしか参加しなかったため、満香に合うのは久しぶりだった。そして、その間に満香は綺麗になっていた。髪は艶めき、着ているものもメイクもぐっと大人っぽくなった。


 恋をしているのだと直感した。大学に入って数年間、恋を切っ掛けに突然花開く子がいる。出会った当時は気にもしなかった満香が、今では非常に好みの女に成長していた。


 充分に親しくなり、満香が心を許すのを待った。準備し、満香の友人関係を少しずつ聞き出した。黒田という彼氏がいること、巽という変わった名前の親友がいて、同じ学科であること。他に、雛子もかつて所属したサークルメンバー数人と親しくしていることも知った。


 それまで自制するのは苦心したが、先週、ついに必要な準備を終えたと判断し、決行を決めた。


 満香に強い酒を飲ませて意識を失わせ、雛子と同棲している男の家に連れ帰る。衣服を剥いで、声を出せないように猿轡を噛ませて拘束すれば準備は完了。後の楽しみを思えば簡単な作業だった。


 意識が戻った満香に状況を説明すると、まだ信じられないという顔をしていたのでナイフで太ももを軽く刺した。猿轡を噛ませたままだったので、本当に状況を理解していなかったのか確かめてはいないけれど。


 雑に止血し、無言で泣き喚く満香の髪を掴んで強引に目を合わせさせたとき、痺れるような快感を覚えた。


 ずっと、ずっと前から抱いていた願望がようやく実現された。傷つけたい、玩具のように女の子を壊したい。閉じ込めて、自分の物にして、泣き喚かせながらいじめたい。尊厳を奪い、心も体も犯し、ボロ雑巾のようになるまですり潰す。


 親元では必死に普通の高校生を演じた。時折うずく感情を、子供っぽい妄想だと言い聞かせて無視し続けた。大学に入ってすぐに酒を覚えると、ふざけて何人もの女の子の首を絞めてしまった。その都度、意志の力でなんとか引き戻し、顔を青くしながら冗談だと言い繕った。


 誤魔化すのは、もう限界だった。自分には狂気が宿っている。衝動は強まり、手に負えない。気が狂いそうな衝動を抑えるために違法な薬物に手をつけたが、現れる幻覚は決まって肌が白い裸の女だった。


 ある日、悟った。


 もうだめだ。正気ではいられない。


 雛子は抗うことをやめ、具体的な計画を立て始めた。なぜかその間だけ、気持ちは穏やかでいられた。


 長年の苦しみから、制御できない夢想と欲求から、ようやく解放される。


「満香、可愛いあなたが好き」


 血の付いたナイフが満香の美しい黒髪を裂いていく音に、思わず吐息を零してしまった。






 数日遊んで、満香の彼氏の黒田にメールを送った。連絡を求めるメールや電話が何件も溜まっていたが、別の男といる雰囲気を出すためにあえて放置していたのだ。


 黒田に興味はないが、満香を責めるためには使えた。満香の目の前で別れを告げる文面を打ち、送信してみせると、新しい涙が溢れてきた。興奮して舐めとったそれを肴に酒を飲んだ。


 人間の体というものは案外頑丈なもので、食べ物と水を与えておけば、ボロボロになっても案外死ぬ気配はなかった。だが、さすがに体力は限界なのか、一週間もすれば、何をしてもリアクションが返ってこなくなった。一日中意識が朦朧としていて、壊し甲斐がない。


 雛子の心は満足していなかった。積年の飢えは物足りなさを訴えている。このまま一思いに満香を殺しても、すぐに衝動は戻ってくると感じた。今の雛子にとって、それは何より恐ろしい。


 なまじ発散する感覚を知ってしまっただけに、今や、以前のように耐えることはできなくなってしまった。


 次が欲しい。次の女の子、できれば、また綺麗な黒髪がいい。そこまで理想は言わないが、次も同年代を壊したい。年寄りは面白くなさそうだ。


 伊勢が訪ねてきたのはそんなときだった。


 誰かが満香を探す展開は予想していた。親、彼氏、友達。探偵とは予想外だったけれど、依頼主を辿れば予想通りの誰かに行き着くだろう。


 雛子に話を聞きに来たということは、同様に巽やサークルメンバーにも話を聞きに行く可能性は高い。久しぶりにかつてのサークルメンバーに連絡を取って、それとなく網を張っておいた。敵の動きが知りたいという理由と、もう一つの目的、次の玩具を求めて。


 二日としないうちに鳴子は鳴った。しかも、望ましい方がかかった。


―何か来たよ。探偵じゃなくて友達って言っているけど。今、他の人と話している。


 詳細に様子を聞いて、確認を取った。狙い通り。同棲している男にいくつか指示を出し、雛子は意気揚々と家を飛び出した。


 向かう先は、満香が在籍している大学とは異なる大学だ。インカレサークルなのであちこちの大学から人が集まっており、そのうちの一つで数人から話を聞いているという。


 幸運なことに、そこは雛子が在籍している大学だった。地の利がある。


 話しているというカフェを遠巻きに見られる場所に陣取り、様子を観察した。見覚えのある顔に混ざって、黒髪の女の子が熱心に頷いている。時折身振り手振りを交えて質問し、それにサークルメンバーが答える。


 頭からつま先まで舐めるように見た。雛子と同年代で、見た覚えがない。この大学ではないだろう。心当たりはある。巽典江だ。


 いなくなった満香を探すだろう人物の筆頭として、巽典江を警戒していた。雛子と面識はないが、聞くところの行動力と性格、あとは友情から、動いてもおかしくない。あとは彼氏の黒田も可能性が高かったが、どうやら、動いたのは巽の方だったらしい。


 逆を言えば、巽さえいなくなれば、満香を探す者はいなくなる。そして、玩具にするには充分な器量だ。一石二鳥。下腹がうずくように頭を急かす。


 三十分後、永遠に続くかと思われた聞き込みが終わり、サークルメンバーを残して彼女はカフェを発った。携帯電話を操作しながら大学の外に向かって歩くその後ろから、雛子は静かに距離を詰める。ポケットの中のものに触れた。いざとなればこれで脅せばいい。


「ねえ、あなた」


 振り返った彼女は、聡明そうな光を宿した目をしていた。悪くない。裾の広がったパンツと、タイトなシャツのセンスもいいし、透けて見える体形が締まっている。


 衣服を剥ぎ取る様子を想像すると顔が緩みそうになった。


「桐山満香さんを探している人がいるって聞いたけど、それってあなたよね」


 一度あえて堅く微笑んで、真剣な顔に変える。


「ちょっと知っていることがあるんだけど、さっきの人たちみたいな、事情を知らない他人には聞かせたくないの。私の家に来てくれない?」


 彼女は逡巡していたが、目の意志は強い。桐山を探しているならきっと乗ってくると踏んでいた。


「あなたは?」

「小川雛子。あなたは巽さんでしょ。満香から私について、聞いたことはない?」

「ありますね。満香の居場所を知っているんですか」

「知っている。でも、事情があるの。本当は満香から口止めされていたんだけど、あなたになら話してもいいと思ってね」


 不思議と口がよく滑った。事前に考えていたわけでもないのに、いかにも興味を引けそうな言葉がすらすらと出る。


 心臓が高鳴る。上手く誘導したい。ここから家までは少し距離があるため、無理やり連れて行きたくない。


「わかりました。行きます」


 彼女はしっかりと雛子を見て言った。


 聞いていた通り、勇気がある。言葉少なに考え、目的のためなら即実行する、満香とは違う魅力を持った子だ。


 ガッツポーズすら取りそうな心を抑え、雛子は案内を始めた。






 雛子と同棲している男は、働いたり働かなかったりのフリーターで、吉井という。住んでいる一軒家は彼の資産で、いろいろあって相続したらしい。不動産以外にも多額の現金や株式などを所有しており、生活に困っている様子はない。


 性格はだらしない男ではあるが、金づるとしては優秀であり、尚且つ強い女の尻に敷かれたがるため、雛子は彼を利用することに決めた。違法な薬物を教えてもらったのも彼からであり、持ちつ持たれつの関係となっている。


 人一人を監禁するとなると、雛子の手だけでは余る。場所や人手が必要になるし、男の力があると力尽くで従わせやすい。今は巽を追加で拘束するための準備をさせている。


 帰り着いた雛子は、指示通り気配を消している吉井に満足した。従順でよろしい。


 まだ警戒されたくない。スリッパを勧め、二階へ案内する。


「そろそろ話して欲しいのだけど」

「見せたいものがあるの。入って」


 焦れる様子を受け流し、一室のドアを開ける。物置同然の部屋、壁にはラックと棚がいくつも並び、カーテンは閉じられて薄暗い。入口の近くにも大きな棚があるせいで踏み込まないと奥が見通せないようにしている。ただ、どうしても人間の匂いは隠せない。


 その匂いに引かれるように二歩踏み込んだ彼女は見つけた。血まみれで横たわり、右手と首を柱に繋がれた桐山満香を。


 息を呑んだその瞬間を逃さず、雛子は平手打ちを叩き込んだ。よろめいたところに足を振ったが、意外と機敏な動きでかわされ、部屋の奥に間合いを取られる。


「あんた、満香に何をしたの」

「見ての通り」


 雛子の後ろから吉井がのっそりと部屋に入った。手には大振りのナイフを持っている。


「もう逃げられないよ。巽さんも一緒に遊んであげるね」


 雛子も小ぶりのバタフライナイフをポケットから取り出して広げた。


 さあ、ここからが楽しい時間だ。雛子は近くの棚から麻紐を抜き取った。


「妙なことをしたら殺しちゃうかもね。あんたじゃなく、満香の方を」


 ダーツのように、ナイフを投げるモーションをしてみせた。それだけで、彼女は歯ぎしりするような表情になる。


 立ち位置的には入口から雛子と吉井、部屋の最奥に満香、彼女はその間にいるので、庇おうと思えばできる。抵抗することもできる。だが、武器を持った二人を相手に、素手で守り切れるものではないし、それほど隙を与えるつもりもない。


 他者を傷つけることに、こちらはもう抵抗がないのだから。


「こちらに背中を向けて、両手を挙げて座れ」

「くそが」


 悪態をつきながらも従う様は、実にいい。いつまで強気でいられるか、これからじっくり試そう。


 吉井に顎で指図し、両手足を縛らせた。猿轡を噛ませ、ついでに思いついて、スリッパも抜き取っておく。


「この家にいるなんて怪しまれちゃまずいもんね。玄関の靴は捨てておいてあげるから心配しないで」


 スリッパは吉井に渡し、ナイフをプラプラと弄んだ。さてさて、何からしよう。


 まずは服を剥ぎ取ろう。衣服は文明の象徴であり、尊厳を示すものでもある。貶め、上下関係をはっきり教えるには最適な方法だ。


 胸元から裂こうと決めたとき、間抜けな音が鳴った。


 ピーンポーン。


 意識のない満香を除いて、その場の全員が固まった、と思う。

 誰だか知らないが、水を差しやがって。


 ピーンポーン、ピーンポーン、ピーンポーン、ピーンポーン、ピーンポーン、ピーンポーン、ピーンポーン、ピーンポーン、ピーンポーン、ピーンポーン、ピーンポーン……。


 狂ったように鳴り続ける。居留守を使おうと思っていたが、さすがに舌打ちが出た。


「うるせえな。吉井、適当に追っ払ってこい。靴は見せるなよ」


 吉井は無言で頷いて階下に降りて行った。雛子は一旦部屋を出て外から鍵をかけた。


 タイミングが悪い。それにあのインターホン、明らかにこちらが中にいるとわかっている人間の行動だった。営業にしてはしつこすぎる。


 気になって階下に降りた。玄関を覗き見る。吉井は玄関の靴を隠し、スリッパをラックに戻していた。言いつけを守れる偉い犬だ。


 何か嫌な予感がした。このドアの先にいるのは、ただの営業ではない。


 では、誰だ?


「開けるな」


 咄嗟に口から出たが間に合わず、玄関は僅かに開いた。次の瞬間、ガラスが破れる音が後ろから響いた。ガツン、という鈍い音も続いて鳴る。


 二階からだ。


「そいつを入れるな」


 短く叫んで雛子は二階に駆け上がる。物置のドアに取りついた。自分で掛けた鍵がもどかしい。


 それでも十秒ほどで開け放つと、見覚えのある男が立っていた。


「あんた、探偵の助手」


 たしか、大野とか言っていた。


「二日ぶりくらいですか。小川雛子さん。もう言い逃れはできませんよ」

「どうしてここに」


 探偵が来たということは、玄関を鳴らしていたのは仲間か。伊勢という小柄な男が囮になって、大野が満香たちの救出か。


「それは私が話す」


 大野の後ろで拘束をほどいていた女が立ち上がった。明らかに先ほどまでと雰囲気が違う。慌てず、むしろゆっくりに見える動作で髪を剥ぎ取った。


 ウィッグ?変装していた?


「どうしてここに、って?そんなもの、私たちの罠にあんたが掛かったからに決まっているでしょう」

「あんた、誰よ」


 罠?ということは大学で声を掛けたときから、いや、もっと前からこいつらの策は始まっていた。


「私の名前は伊勢美智みさと。名探偵よ。もっとも、あんたには伊勢ヨシトモって名乗ったけどね」






 はっきり言って驚いた。達也にドロップキックなんて技が使えるとは。


 無様に転がされている私にできることもなく、周囲の様子を見るしかできなかった。桐山は生きている。惨い状態だが、僅かに胸が動いている。長かった黒髪は乱雑に切られ、今は白い近い色に脱色されている。衣服は何もないが、全身に赤くなったガーゼが貼られている。顔に貼られたものの下が恐ろしい。


 目は半開きだが、さっきから反応はない。手足の爪はほとんどなく、桐山からは体を動かそうという意志すら感じられない。小川雛子の狂気は想像以上だった。


 ついでに私もピンチだ。小川一人ならばなんとでもなったが、吉井と呼ばれた男が厄介だった。リーチが長く、ナイフを持っている。この狭い部屋では不利すぎた。


 そして縛られてしまえばどうしようもない。


 助けて!


 他に何かないかと身をよじると、入口そばの窓が見えた。


 誰かが飛んでいた。


 誰かというか、達也が窓にドロップキックをかまそうとしていた。


 ガッシャーン‼ドゴン!


 とでもいう擬音と共に、達也が部屋に着地した。転びそうになりながら私の手の紐をほどきにかかる。


「すいません、お待たせしました」


 達也の息が荒い。ここ、二階なんだけど、どんなアクロバットをしたら外から窓にドロップキックできるの。


 私は大人しく身を任せ、部屋の入口を見ていた。小川か吉井か、どちらかがすぐに来る。時間は無い。


「解けました」


 早いな。


 自由になった手でドアを指さした。達也は紐を解くのをやめ、立ち上がって備えた。


 それでいい。紐は自分で解く。近くを転がっていたガラス片を鋸のように擦りつける。足が自由になるのと、ドアが開いて小川が入ってくるのは同時だった。


「あんた、探偵の助手」

「二日ぶりくらいですか。小川雛子さん。もう言い逃れはできませんよ」

「どうしてここに」


 猿轡も解けた。口元を拭って私も立ち上がる。


「それは私が話す」


 もはやただの邪魔なのでウィッグを剥ぎ取って放り投げた。視界に見慣れた茶色の髪が垂れてくる。


「どうしてここに、って?そんなもの、私たちの罠にあんたが掛かったからに決まっているでしょう」

「あんた、誰よ」


 こんなシチュエーションで名乗るなんて思わなかった。


「私の名前は伊勢美智。名探偵よ」


 まるで、本物の名探偵みたいじゃないか。


「もっとも、あんたには伊勢ヨシトモって名乗ったけどね」


 私の本名は伊勢美智。


 名前の響きの通り、女だ。


「思った通り、女狙いのサイコ野郎だったってわけね。小川雛子、あんたを確保する。やるよ、達也」

「了解です」


 ナイフを持っていようと、相手が女一人なら制圧できる。


 威勢よく踏み出した足に鋭い痛みが走った。






「いったー‼」


 すぐ横で伊勢の絶叫が聞こえて思わず飛び退いてしまった。


 さっきまで、右手を前にしたいつもの構えでいたのに、今は足を抑えて蹲っている。


「先輩、どうしましたか」


 目だけは小川から逸らさないでおく。伊勢は余裕そうだが、俺は普通にナイフを相手にするのが怖い。


「達也、おま、ガラス……、痛……」


 ガラス?俺が入るときにぶち抜いちゃったけど。


「あ、まさか」

「私、靴、履いていないんだよ」


 俺(靴)、小川(スリッパ)、伊勢を一瞬見た、伊勢(靴下)。床は散乱したガラス片。


「なるほど。ということは、助手だけ片付ければいいわけね」


 小川も合点がいったようで、俺たち二人を見ていた目を俺一人に合わせた。


「先輩」

「何だ」


 痛みを堪えた、歯の間から漏れるような声が返ってきた。


「助けてください」

「お前が私を助けに来たんだよな」

「助けたじゃないですか。紐、解きましたよね」

「じゃあ、その靴よこせ」


 時間があれば喜んでそうするのだが、絶対にそんな悠長なことをさせてはもらえない。小川が小ぶりなナイフをゆらゆらと振りながら無造作に一歩踏み出した。伊勢は足の裏を負傷したのか、立つこともできていない。ガラス片まみれのここでは、立ってもまともに動けないだろう。


 まずい。狭すぎて逃げ場がない。ナイフを持っている腕を掴むことができれば、筋力差で抑え込めるのだが、果たしてそんなことが俺にできるのか。


「来るな!」


 俺が選んだ行動はシンプルだった。


 手あたり次第に物を投げる。これしかない。


 小学生の喧嘩かよと思うが、俺は近づきたくないのだ。幸いここは物置のようなので、手に当たる物は沢山ある。固い物から柔らかい物まで、触れたものを見もせず投げつける。


 最初こそ小川は手で顔を庇っていたが、投げつけてくるものがガラクタで、速度も遅いと理解すると、急に踏み込んできた。手のナイフが閃く。


 俺は必死に投げる物を探した。手頃な範囲には物がもう無い。手を伸ばすと、ひと際ズシリとくる物が指に引っ掛かったので、サッカーのスローインの要領で頭の上に振りかぶり、投げた。


 俺が投げたのは工具箱だった。それも大きいやつ。それは小川の腹に向かって飛んでいき、見事にヒットした。物理法則が乱れたかのように小川の体が後ろへ弾かれて、入口近くまで転がっていく様子は映画じみていた。


 今の、結構重かったな。


 鬼の腕力でズシリと感じるならば、五キロか十キロくらいはあったのではないだろうか。


 バスケットボールだって、当たり方によっては簡単に突き指する。いわんや、ほとんど金属の塊のような工具箱をや。


 小川は腹を抑えて生まれたての鹿のように震えながら立ち上がった。今なら俺でも軽傷で済む気がする。そう思って踏み出しかけたが、突如入ってきた大男が小川を突き飛ばした。小川の華奢な体は金属ラックに衝突し、完全に崩れ落ちた。


「黒田」


 黒田ゴリラなどとふざけた名前で電話帳に登録していたが、怒ったゴリラは怖いのだ。よく見ると腕にいくつか傷がついている。玄関から出てきた男の方と争ってきたのだろう。ここにいるということは、黒田が勝ったに違いない。


「達也、無事か……」


 荒く息をする黒田は、俺の後ろで目を留めた。


「満香‼」


 床に散らばるガラス片など意に介さず、黒田は桐山に這いよって抱きかかえた。


「まだ生きている。達也、警察と救急車」

「あ、はい」


 痛みで涙目になった伊勢の声で我に返り、ピポパポとダイヤルする。俺の人生初めての110番と119番だった。


 そこでふと困ってしまう。


「救急車、何台呼びますか?」






 小川と吉井を拘束した後、工具箱に入っていた大型ニッパで、桐山を拘束していた手錠を切った。黒田が抱えて階下まで連れて行き、その後は付き添っていずこかの病院へ運ばれていくのを見届けた。


 俺は伊勢を抱えて(お姫様抱っこというやつだ)物置を脱出し、見つけ出した救急箱で応急手当をした。伊勢に警察への説明を任せながらアルコール消毒液をかけていく。ひゃあひゃあと痛がられた。


「これ、ちゃんと病院に行った方がいいですね」

「マジか」


 足の裏を怪我しては、歩行すらできない。俺たちはパトカーで病院に送ってもらうという稀有な経験をした。


 結局何針か縫ったという。家路に着く頃には夜も更け始めていた。先月見たばかりの松葉杖が、今は伊勢の両手にある。


 家の近くの病院だったので、徒歩で帰るという伊勢を送っていくことにした。今はヨシトモの服装に着替えている。ご丁寧に、着替え一式を準備していた。


「こっちの方がしっくり来るな」

「先輩、元々女なんでしょ」


 別に男装の方が好きでも問題は無いが、嘘をつき続けている間にそれが本当だと錯覚してしまうような、記憶と意識のすり替わりは起きて欲しくない。そんな曖昧な記憶の持ち主に探偵をされたくない。


「松葉杖って疲れるな」

「そうなんですよ」


 経験者なのでよくわかる。それに今日はハードな一日だった。


「仕方ありませんね」


 俺は伊勢の前にしゃがんだ。


「どうぞ」

「何がどうぞなんだ、何が」

「おんぶして差し上げます」

「馬鹿か、お前は」


 松葉杖で叩かれた。


「彩に言われたんですよ。親切にしてもらいたかったら、こっちからも気持ちを見せろ、って」


 また叩かれるだろうかと思ったが、間が空いて、のしりと背中に熱が乗った。


「そう言われちゃあ、な。重いとか言うなよ」

「言いませんよ」


 筋力だけは人並外れている。伊勢くらい軽いものだ。


「こうすると、さすがに女の子だってわかりますね」

「降ろせ」

「断ります」






「今まで言わなくてごめん。私は伊勢美智。本当は女なの」


 巽と小川に聞き込みをした翌日。俺は伊勢の自宅に呼び出され、ヨシトモから美智への変身を見せられた。


 三分間は何も言えなかったと思う。いつもの赤いキャップ姿で「よく来たな、達也」と迎え入れられてから、「ちょっと待っていてくれ」と言い残して別室に消えて五分後、素朴な女の子が出てきたのだから、それはそれは驚いた。


 その後の三十分間、俺は脱出トリック、入れ替わりトリックを一通り検証し、赤いキャップを被せたり外したり、ヨシトモのように喋って貰ったり匂いを確かめたり、とにかく思いつく限りの本人確認をした。


 結果、伊勢ヨシトモは女だったと認めざるを得なかった。女装男子ではなく男装女子だと認めるまでは、さらにひと悶着あったのだが、あまり上品な話ではないのでここでは伏せる。


「どうして、性別を偽っていたんですか」


 ようやくまともな会話になったのは、なんだかんだで、家に来てから一時間経過した後だった。


「探偵をやるにあたって、身元を隠すため、舐められないため、変装しやすくするため。そういった実用的な理由が半分。もう半分は、男からの色目を避けるためだね」

「モテたって拒否すればいいじゃないですか」

「興味のない相手からの好意って、気持ち悪いじゃない」


 そう言われては返す言葉がないが、伊勢は男女ともに恋愛感情を抱かないという特殊な性質だ。男であって、男じゃない、そういう半端な位置を目指した結果だと俺は理解した。


「幻滅した?」

「いや、しませんけど」


 驚きはしたが、逆を言えばそれほど大きな秘密を明かしてくれたということでもある。それに抱えている秘密の大きさで言えば、俺の方が大きい。


 何しろ人間じゃない。


「教えてくれたのはありがたいですが、どうしてこのタイミングなんですか」


 今は桐山の捜索中である。貴重な一時間を使った理由があるはずだった。


「昨日話した、小川雛子のこと、もう少し考えてみたの」


 口調まで女になっているので認知的不協和で目が回りそうになる。


「それは、髪のことと、薬のことですよね」


 小川が口にした内容の中で、桐山は明るい髪色も似合ったという話が出てきた。巽に確認したところ、桐山は大学生になってから髪を染めたことはなく、ずっと黒だと言われた。


 この微妙な食い違いは何なのか。俺たちは、桐山の雲隠れをほう助するために、小川が桐山の染髪を手伝ったのではないか、と推理した。今の桐山は明るい髪色で、外見の雰囲気を変えているのではないか、と。


 そしてもう一つの薬のこと。俺は小川と話して、鼻の奥がツンとする感覚を受けた。辛辣なことを言われて辛かったわけではなく、嗅ぎなれない刺激臭を感じたのだ。主に会話していた伊勢も変わった匂いは感じ取っていたものの、俺が言うまで意識に登らなかったという。寝不足、濃い隈、細い手足、揺れる立ち姿。違法薬物に手を出している可能性が挙がった。


 今日からの計画は、それら二点の追及と、インカレサークルへの聞き込みだった。


「もっと悪い可能性が浮かんでね。小川は薬物中毒で正気を失っていて、桐山はその手にかかって拉致された」

「それって……」


 俺には、殺害された、と聞こえた。


「だから、小川の家に忍び込みます」

「はあ?」

「忍び込むか、案内してもらうか、直接脅して自白させるか、いずれにせよ、小川にもっと迫る必要がある。それも、火急に」


 スカートで床に女座りしているので忘れそうになるが、この人は伊勢ヨシトモなのだ。時に、俺の遥か先を考えている。


「手段は選んでいられない。方針変更、手分けします。達也は小川のバイト先に張り込んで。小川が帰るとき、二人で尾行する。私はサークルメンバーへの聞き込み。髪色のこと、桐山と親しい他の知人、小川の評判、それらを聞いて回る」


 これまでは二人で行動していたが、いよいよ切羽詰まったと伊勢は考えている。


「それで、どうして女に戻るんですか」

「それは、考えられる限りさらに悪い可能性に対して罠を張るため」


 まだ下があるというのか。俺なんて、桐山の生存自体を疑い始めているのに。


「小川がシリアルキラーだった場合、私を囮にすることで釣る」


 シリアルキラー。快楽殺人者。鬼の俺にとっては、そんなことはあり得ないと笑い飛ばせなかった。


「今から私は伊勢ヨシトモではなく、伊勢美智でもなく、巽典江になる。探偵だと、相手が警戒して手を出さないかもしれないから。

 桐山の親友が、消えた桐山を探している。いずれ犯人である自分に辿り着くかもしれないから殺してしまおう。そう思ってもらう」


 俺はじっと伊勢を見た。伊勢ヨシトモと小川は一度会い、話をしている。普通に考えれば別人だと思ってもらうことはできない。だが、伊勢美智になると雰囲気が全く違う。外見だけでなく、仕草、話し方、声まで違う。


 俺が一時間かけて疑念を払拭したように、小川から見てもすぐにはわからないのではないか。


 おそらく、囮はできる。


「でも、小川がシリアルキラーである証拠はありませんよね」

「そうだね。それは考えられる最悪の中の最悪であって、そうでなければいいと、私も思っている。聞き込みをするうちに、もっとずっと平凡な真実が明らかになって、なあんだ気にしすぎだった、って後で笑えれば一番いいよね」






「小川がシリアルキラーになっていなくて良かったですね」


 伊勢をおぶって歩く夜道、俺は心から安堵していた。おそらく、あと数日遅れていたら桐山は死んでいた。今だって容態はわからないが、少なくとも生きている。もし桐山が死んでいれば、小川は本物のシリアルキラーとなった。歯止めが効かなくなって、次の標的を殺めていたかもしれない。


 奇妙な気分だ。人間なんて食料だと思っているのに、一人か二人死ななかっただけで安堵している。間に合って良かったと思っている。


 さっきまで降ろせ、降ろせと騒いでいた伊勢も、観念したようにだらりと体重を預けていた。


「先輩、起きています?」

「この状態で寝るわけがないだろ」

「やけに静かなので」

「美智の姿を見られたのが、今さら恥ずかしくなってきた」

「本当に今さらですね」


 というか、恥ずかしいのか。男装をやめて普段通りにしただけだろうに。いや待て、ヨシトモの方が普段なのか。そうなると、俺が女装して会うような感覚の方が近いのかもしれない。


「恥ずかしいついでに、カミングアウトがもう一個あるんだ」

「へえ。まだありますか」

「オレが達也を助手に誘った経緯」


 理由ではなく、経緯?理由については、去年の新歓期に見かけて興味を持ったからだと言っていたが。


 伊勢は首まで力を抜いているのか、俺からは髪の毛しか見えない。


「達也を知ったのは去年だけど、達也の身元や連絡先は知らなかった。知ったのは、ある依頼が切っ掛けだった。詳細を話せなくて悪いんだけど、ある人物の身辺調査を依頼された。その件で、偶然達也が調査範囲にいたんだ」


 ほうほう。ある人物、ね。


「だから、達也の後をつけたこともある。黙っていてごめん」


 夜道のおんぶは、身体的距離のみならず、心理的距離を縮める効果があるのかもしれない。鼓動が伝わってくるから嘘もすぐわかるので、正直になってしまう。


「そうですか。教えてくれてありがとうございます」

「今度こそ幻滅したか?」

「今度もしませんって」


 それが依頼だったのなら、それが探偵の仕事だ。


「けど、当時の俺に捕まっていたら、不審者だと思って殴るくらいはしていたかもしれません」

「ああ、まあ、それは甘んじて避けたかな」


 受けないのか。何に甘んじたんだ。


「実際、気づいていましたしね」

「マジで」

「ええ、夏休みに入る前くらいからじゃないですか。ああ、黒田の家で会った頃と一致するのか」

「それはショックだ。上手く尾行したと思っていたんだけどな」


 俺が鬼でなければ気づかなかっただろう、とはさすがに言ってあげられなかった。


「残念でした。もう尾行しないでいいですよ。わかっているので」


 俺は笑い声を、伊勢は溜息を夜空に放った。





 

 伊勢を玄関に下ろし、俺も自分の住処へ帰る。


 桐山は大丈夫だっただろうか。後遺症がないといいが。


 碁盤の目のように道が通った住宅街をのんびりと歩く。今日まで知らなかったが、伊勢の家と俺の家は歩いて五分程度の距離だった。同じ大学なのだから、あり得る話ではあった。


 部屋に招くと、伊勢ヨシトモと美智の入れ替わりが使えなくなるので、基本的に他人を呼ばないのだとか。この二か月くらいで、俺はただの他人よりも踏み込んだ関係になれたみたいだった。


 ポケットの中が振動したので携帯電話を取り出すと、バッテリー切れの表示になっていた。


 そういえば解除していなかった。おそらく、もっとずっと前に省電力モードになっていただろう。


 今日の日中、伊勢が小川と接触して以降、伊勢の携帯電話はずっと通話状態になっていた。俺はその音を聞いて状況を把握し、事前の打ち合わせにはなかったが黒田を呼んだ。最も悪い可能性、小川がシリアルキラーである説が現実味を帯びたためである。


 ちなみに、お互いに発信機と受信機も持っていた。伊勢の、口の堅い友人とやらが作ったお手製だが、役に立った。


 これらの道具を準備していたことで、伊勢の居場所と周囲の状況は常にわかっていた。小川の家では危機に陥った気配だったので、黒田に玄関から呼び鈴を鳴らさせ、その音に紛れて塀や屋根を伝って二階に突入した。


 なんとかなったものの、作戦は雑すぎた。伊勢を自由にすれば小川と吉井も倒してくれるだろうと思ったら相手はナイフ装備だったし、ガラス片で伊勢は戦えなくなるし。もしも吉井が玄関を開けず、俺が小川と吉井二人を相手取るようなことになっていれば、冗談抜きで命が危なかった。


 終わりよければ全てよし、とは言えないよなあ。まあ、今日のところは休んで、明日反省しよう。


 俺は大あくびと伸びをした。風呂に入って、何か食べて……、そんなことを考えていると、背後から足音が聞こえた。誰かが走っている。


 そういえば、俺を尾行したと言っていた。ぼかした言い方だったが、あれはおそらく俺自身の身辺調査だろう。誰かが伊勢に依頼したのだ。


 待てよ、それは誰だ。というか、最近まで続いていた俺の尾行って、誰がやっていたんだ。この足音は誰の……、


 振り返った俺に、一筋の光が振り下ろされた。


 咄嗟に頭を庇った両手を避けるように、その光は俺の胸にぶつかった。


 転がったことはわかったが、どれだけ転がったかわからなかった。顔が上げられない。それ以前に息ができていない。喘ごうにも力が入らない。


 しかし、自分に当たった物が金属バットであることはわかった。振った人間も、その人物が俺より小柄で、だから頭ではなく胸に当たったことも理解できていた。


 理解できたから対応できるわけではない。そんなことを考えている場合でもない。だが体は動かず、残り少なくなる酸素で脳だけが動いていた。


 足音が近づいてくる。横っ腹に衝撃が入った。吐く息も残っていないのに、肺が縮んだ。


 逆に作用したのか、ほんの少し空気が吸えた。反動で入ってきたと言った方がいいかもしれない。とにかく、指が動いた。同時に死への恐怖も思い出した。


 やめろ、と言いたい。どうして、と聞きたい。何もわからないまま死んでたまるか。


「やめろ」


 聞こえたのは俺の声ではなかった。


 眼球を動かして声の主を見た。伊勢ヨシトモ、俺の上司であり相棒が松葉杖をついていた。交差点の向こう側、街灯の明かりに照らされて汗が光っている。


「楢木さん、どうしてそんなことをする」


 そうそう、俺も聞きたかったんだ。どこか遠くで自分が手を叩いている。


 ここの自分の手は指くらいしか動かない。今は握ることまでできるようになった。


 首が少し動いたので出来の悪いロボットのように視界を動かすと、彩がボロボロと泣いて、両手で金属バットを日本刀のように握っていた。


「ごめんね、たっちゃん。でももう、耐えられないの。私だけ好きなのは辛いの」

「待つんだ。達也は浮気なんてしていない。ちゃんと調べたし、今だって保証できる」


 やっぱり俺の身辺調査だったんだな。そして依頼人は、彩か。


「おかしいと思ったんだ。達也は、夏休みに入る少し前から尾行されたと言った。実際は、夏休みに入る頃には調査は終わっていたのに。楢木さん、依頼の後も、あなたは達也を調べていたんだね。付き合っていたにも拘わらず」


 そうか。尾行者は途中で変わっていたのか。最初は伊勢、途中から彩に。目的やパターンがわからなかったのは、尾行の質自体が低くて、それ以前の問題だったからか。


 それにしても、伊勢はどうしてこんな話をしている、って考えるまでもない。時間稼ぎだ。俺が回復するまでの。


 腕を動かせることに気付いて体を起こそうとするが、力が入らない。もう少し時間を稼いでくれ。頼む。


「伊勢さんは、どこから浮気だと言っているの」

「どこからって、疑わしい行為があったらだ。でも判断するのは依頼人だ。俺は見たものを報告し、それを浮気と解釈するかどうかは依頼人に委ねる」

「そういうことじゃない。気持ちがあったら、もう浮気だよ。たっちゃんには、好きな人がいるでしょう。私の他に」

「何の根拠があってそんなことを。それに、まずは話し合うべきだ」

「話し合おうとした‼」


 彩の金切声が耳を裂くように聞こえた。


「話し合おうとしたの。何度も、本音を聞かせて欲しくて。でも伝わらなかったの。たっちゃんは私を踏み込ませてくれないし、私に踏み込んでくれない。伊勢さんが羨ましかった。どんどん仲良くなって、信頼して、私の方がずっと前から傍にいるのに」


 ごめん、今ならなんとなくわかる。俺は気持ちを見せていなかった。捨て身になっていなかった。でも今日、思ったんだ。自分の身よりも他人を優先することが、俺にもできる。


 俺が骨折したとき、彩は毎日来てくれた。自分の時間を使って、体力を使って俺を支えてくれた。あれは、愛だった。そのときわかってあげられなくてごめん。


 俺が悪かった。でも、死んでやるわけにはいかない。


 釈明させてくれ。謝らせてくれ。俺はわかっていなかったと言わせてくれ。今なら心から言えるんだよ。


 無力な腕で体を持ち上げようとするが上手くいかない。


「正直、楢木さんが言うことはわかる。そいつ、結構酷い奴だし。斜に構えて、他人を見下して、自分はわかっているって顔して、本当は誤魔化せていないことを気づいていない痛い奴だ」


 起き上がる心を折られそうになった。


 俺、そんな風に思われていたの?


「でも、それだけじゃない。今日は他人のために体を張った。オレのことを許してくれた。たった二か月だけどわかるよ。そいつは変わり始めたんだ。昨日は違ったかもしれない。でも、明日の達也はきっと変わっている」


 言葉を出せないのが辛かった。


 俺は伊勢を許した。隠し事も、ひょっとしたら裏切りに該当するかもしれない行為も。所詮人間のやることだからとか、どうせ他人だからとか、そういう気持ちじゃない。許したいと思ったから許した。許されたいと思ったから許したんだ。


 裏切られてもいい。隠し事なんていくらでも抱えてくれていい。でも俺は、それを裏切りだなんて思わない。許して、信じて、おまけみたいな感情や、ついでみたいなやり取りを重ねていくのは楽しくて、嬉しいんだ。


 多分、それも愛なんだ。


 教えてくれたのは彩なのに、俺は礼の一つも伝えられていない。


「もう遅いんだよ」


 三度、俺を衝撃が襲う。ゴルフクラブのように振られたバットで俺はアスファルトを転がった。


「楢木さん、もう駄目だ。達也が死んでしまう」


 大丈夫、最後のはそんなに効かなかったから。


 首がいい具合に二人を視界に収めたので、伊勢が松葉杖を捨てたことがわかった。


 伊勢は縫ったばかりの右足を地面につけた。顔が歪んだ。右手を前にするいつもの構えで臨戦態勢に入る。彩は金属バット。先手を打つのは彩だろう。伊勢はあの足で避けられるのか。避けた後、打ち込む力はあるのか。


 じりじりと間合いを詰める伊勢に対し、彩は小走りに突っ込んだ。彩は素人だ。間合いなんて考えない。二人はすぐに衝突すると思われた。


 伊勢の背後から一台の自転車が猛スピードで現れるまでは。


 そして、伊勢を後ろから轢き飛ばすまでは。


「どぅふっ」


 口から空気が抜ける音がして、伊勢は顔から道路に倒れた。デジャヴ。なかまる商店街リターンズ。


 彩も俺も、多分伊勢も呆気に取られていた。自転車から降り立ったのは、川辺紫乃。鎌籠村の昔馴染みだった。


「何してくれてんの、お前」


 待望の声が出せたが、そういう言葉を言うためではないんだよ。






 大変今さらながら、俺は某県某市の鎌籠村という地域で生まれ育った。そこは鬼の村で、住民のほぼ全員が鬼という日本でも希少な村である。当然、鬼であることはひた隠しにしている。俺がそうであるように、見た目は人間と同じで、街に出て会社勤めをする者も多い。全員が村に閉じこもっていたら現代社会ではやっていけない。


 紫乃は同郷の同級生で、進学先と住む場所が近いことが盆の帰省時わかった。


 鬼は人間よりも耳がいい。近くを通りがかって、会話の内容や物音から、俺が危ないと察することはできる。できるが、何故突然伊勢を轢いた。


「なんか修羅場みたいだから轢いといたけど、どういう状況なの」

「轢く相手が違うんだよ」

「そうなの。バットの子があんたを守っていたわけじゃなかったのか」


 立ち位置的にはそうだが、事実は逆だ。


「あんただ」


 地獄の底から漏れてきたような声がした。彩は体を震わせ、紫乃に突っ込んでいった。


「あんたがたっちゃんの」


 続く言葉は聞き取れなかった。バットが振り下ろされるより速く踏み込んだ紫乃の拳が、彩の顎を打ち抜いたから。打った後にバックステップで戻り、自転車を倒れる前に支えた。一連の動作が流麗すぎて理解できない。


「達也、漫画返しに来た。続き貸せ」


 いくらでも持って行ってくれ。


「それで、私はどっちの子を介抱すればいいの」


 いろいろな順番がおかしい気がするが、もう反論する気力も無い。


「まずは俺かな」






 その後聞いた話をまとめると、彩は漫画を貸している相手、つまり紫乃が俺の本命であり、自分は二番目だと感じていた。


 愛しさ余って憎さ百倍理論で、俺の周りを調査し、頻繁に漫画を借りに来る紫乃を敵と決めた。そこで俺が変に隠さず、地元の友達で、そんな関係ではないと言っていれば、結末は変わったかもしれない。


 もちろん、変わらなかったかもしれない。


 もっと問題は根深く、俺が数限りなくやらかしたことの積み重ねだったのだと考えることもできる。


 だいたい、俺が彩のことを愛しているのかと聞かれれば、NOなのだ。食癖を満たすための食料源として付き合った以上、彩と対等の想いで愛し合うことはできない。彩を裏切っていることは俺自身が認める事実だ。


 伊勢が言うように、明日の俺は違うかもしれないが、その明日は来なかった。


 俺は彩と別れることを選んだ。大事なことを教えてくれたが、殺されかけた相手と付き合うことはできない。俺は常識があるのだ。ただ、「本当にごめん。今まで本当にありがとう」と頭を下げたことは言い訳として付記しておく。


 傷害罪に問う気はないし、殴られたことを責める気もない。原因と非は俺にある。


 バイト先から購入したスポーツ用具を、人を傷つけるために使用したことは良くないと思ったので、バイト先を辞めることだけは勧めた。彩には落ち着く時間が必要だとも思ったので。


 買い足していたコーヒー用のミルクは、封を開けることもなく捨てた。


 黒田と桐山については触れておかねばならないだろう。黒田は軽傷。ガラスやナイフでできた切り傷はあったが、どれもかすり傷だった。一方で、桐山の傷は重かった。刺し傷、火傷、打撲、その他多数。痕が残る傷は、顔を含めて大小合わせて全身数十か所。心のダメージも大きく、病院で三日三晩怯えて泣いていたらしい。今後もしばらくは睡眠薬のお世話になるだろう。


 生きているだけでも良かったとは、他人だから言えることだ。本人にそれを言えるのは、同じ目にあったことがある人間か、心の底から案じている人間だけ。黒田から聞いた話では、桐山が病院に収容された翌日、巽が泣きながら病室に飛び込んできて、「生きていて良かった」と言ったらしい。


 疑って申し訳なく思いはしないが、巽と桐山の友情は本物だったことに安心した。


 良かったことといえば、黒田と桐山はやり直すことになった。やり直すといっても、元々仲違いしていたわけではないのだから当たり前だが。一度は俺が黒田の幸福を食べてしまったが、それで執着が失われるということもなく、黒田の愛は再燃した。人間の心は、俺なんかに変えられるほど弱くはないみたいだ。


 桐山は休学届を出したと聞く。半年でも一年でも、ゆっくり癒して再スタートすればいい。黒田はサポートすると心に決めている。きっと大丈夫だろう。


 紫乃とはこの後も交流が続き、思いがけず長い付き合いになっていく。それはまた別の話。






 後期が始まった大学には学生たちが戻り、俺は昼過ぎの食堂で空きコマの時間を潰していた。


 どうも学年、学期が進むごとにコマ割りがスカスカになっていく。噂に聞いていた通り、文系大学生はだんだんと暇になっていくらしい。俺は簿記二級の参考書を開いていたが、どうにも身が入らず、目は外に向いてしまう。


 彩と別れて以来、暇になった。


 一人で過ごす時間が増えたと同時に考えたいことも増えて、気づけば物思いに耽っている。将来のこと、自分自身のこと、これから築く人間関係のこと。


 あの夜、泣き叫びながらバットを振り回していた彩の姿が忘れられない。本来大人しい彩を凶行に走らせたのは俺で、もし俺が死んでいたら、それは俺の罪だった。


 俺は自分を思慮深く、冷静でいれば思いやりがあると自己認識していたが、それは誤りだった。彩を無自覚に追い詰めたように、これまで何人を蔑ろにしてきたのか。もし今回の件がなければ、俺は死ぬまでどれほどの他者を不幸にしたのだろう。


 鬼として、人として、もっと考えなければならない。もっと知らなければならない。


 俺の人生はまだまだ終わらないのだから。


 まずはできることから。


 簿記の勉強を始めたのはその一環だが、頭の片隅では、ずっと違うことを考えている。火花のように、スイッチが入る瞬間を今か今かと待ちわびる自分が、参考書の方を向いてくれない。


 携帯電話が震えた。ディスプレイには「伊勢ヨシトモ」の文字。


―達也、依頼だ。農学部の牛がUFOにインプラントされたらしい。キャトルミューティレーションだ。

「キャミ……?ええと、わかりませんが、わかりました」


 赤いキャップの鍔に触れ、不敵に笑っている顔が思い浮かんだ。


「五分で行きます」


 火花が散り、俺は参考書を鞄に放り込んで走り出す。

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