第7話 ファイアスターター(前編)

 女は怖い。それは日本に生きる男子として常識である。いや、地球上の男子全員の共通認識と言ってもいい。男の方が体力的に上なので、ともすれば女性は弱者になってしまうが、男は知っている。


 本当は、女の方が怖い。


 考えてみて欲しい。学校のクラスというたった数十人の集団でさえ、カースト、取り巻き、イケてる組と地味組、はっきりと塗分けられていまいか。集団の秩序を乱す者には暗に制裁が加えられ、自分の方が正しいという空気をつくる者が強者となり被害者としての優位を確立する。


 ここで、加害者としての立場でないのがポイントだ。蔑ろにされたと感じたから無視しよう、仲間外れにしよう、私は悪くない。論理ではなく世論を誘導し、自身を正当化する。なんとも恐ろしい生き物だ。


 俺は男で、基本的に男の世界で生きてきた。男はサバサバしている。気に入らない相手には関わらない。カーストのどこにいようと、仲良くする相手としては関係無い。


 少女漫画では、男同士で殴り合って覇権を争ったり、仲直りしたりといった描写が見られるが、そんな生態の男子は絶滅危惧種である。


 ほとんどの男は平和主義を掲げ、紳士たろうと日々仲良しに、穏やかに暮らしているのだ。


 だからと言って、女の方が怖いという理由にはならない。そう反論する方もいるだろう。それが女性からの意見であれば、それはきっと男を知らない。男性からの意見であれば、気を付けた方がいい。いつかきっと痛い目に遭う。


 地球環境と女性は、ぞんざいに扱うとしっぺ返しを食らうと言われているのだ。誰が言っていたって?俺の親父だ。


 俺には楢木彩という彼女がいる。とある個人的な事情で恋人としてお付き合いさせて頂いているが、恥ずかしい話、俺も女を甘く見ていた。






「大好きだったんだよ」


 大粒の涙と時折鼻汁を垂らして、黒田はおいおいと泣いた。


 大学生の長い夏休みも終盤に差し掛かり、俺たちは恋にバイトに海に山にと、思い出作りに邁進していた。そんな中、いきなり友人の黒田に呼び出されて家に行ってみれば、悲壮感たっぷりに泣き喚いていた。


 俺は黒田のグラスを取って、安ウィスキーを指二本分注ぐ。氷を適当に突っ込んで渡した。途端に黒田は半分ほど煽った。明日は二日酔いが酷いだろうな。


 涙ながらに黒田が語った内容をまとめると、昨日、唐突に彼女から別れを切り出され、連絡が取れなくなったという。家に行っても不在か居留守か、会うことができず、気持ちの持っていきようがなくて暇そうだった俺を呼んだのだとか。


 暇そうだった、は余計なお世話だが、友達が傷心ならばやけ酒に付き合ってやるのも友としての努めだろう。


 黒田が全身から放つ不幸の味を、俺は少しずつ舐めて楽しんでいた。


「彼女、満香ちゃんだっけ。いい感じだったのにな」


 以前、黒田とその彼女の桐山満香が一緒にいるところに出くわしたことがある。とても仲が良さそうに見えた。ゴリラのような黒田と、穏やかな笑顔が長い黒髪とマッチしている桐山。お似合いだと思ったものだ。


 そういえば、黒田の下の名前を未だに聞いていない。


「本当、いきなりだった。見てくれ」


 黒田が携帯電話を操作し、メールを開いた画面を突き出した。俺は受け取り、文面を読み上げる。


「別れましょう。好きな人ができました。もう関わらないでください。うわ、冷たいな、これは」

「そう思うよな。俺の被害妄想じゃないよな」


 正直、ゾッとした。悪い子には見えなかったし、きつい言い方をしそうな印象も受けなかった。黒田とは半年くらいの付き合いだったはずだが、その彼氏を振るにしては随分な振り文句に感じる。


 せめて直接会って、浮気していました、ごめんなさいくらいは言って欲しいものだ。


 黒田が不幸になったことで美味しい思いをしてしまっている俺が言えた立場ではないが。


「大好きだったんだ。本当に好きだったんだ。俺だけだったのかな。俺一人、舞い上がっていただけだったのかな」


 かける言葉が見つからない。もうすぐ彩にしようとしていることが、まさにそういうことだから。俺は鬼としての自分の業を久しぶりに苦々しく思った。


 鬼としての業とは何か。それは割愛する。別のエピソードに詳しい。


「なあ、達也。お前、探偵なんだろ。相手の男を突き止められないか」

「正確には探偵助手だ。やめておけよ。突き止めてどうするんだ」

「一発殴る」

「本当にやめてくれ。傷害罪で訴えられるぞ。それに、そんなことをしても満香ちゃんの気持ちは戻ってこない」


 黒田は数秒固まり、やがて顔をぐしゃりと歪めて新しい涙を流し出した。


「そうだよなあ。そうなんだよなあ。もう戻ってこないんだよなあ」


 溜息をついた。見ていられなくて、俺は一黒田が発している得られなかった幸福を一息に吸い込んだ。


 失恋の味は甘酸っぱい。柑橘類のジャムのように爽やかな風味と甘味が口と鼻に抜けていく。それでいて、蜂蜜のようなねっとりした後味が後を引いて長く楽しめる。


 悲しくなるほど美味しいな、畜生。


 黒田は涙が止まり、ぼうっとグラスを掴んで動きを止めた。


 俺が食べた幸福、正確には幸福から不幸に変わるときの感情の落差は、本人の中に残らない。それが優しいことかといえば、勿論違う。悲しみを糧に乗り越える壁があるように、大きな感情の動きは、次につながるエネルギーになる。それを奪えば、残るのは喪失感だ。


 黒田は立ち直るエネルギーを失った。これからゆっくりと時間をかけて、失ったものを忘れていくだろう。


「なんか落ち着いた」

「そうか」

「殴るのはやめるわ」

「それがいい」


 意図せずしてそこそこ大きな幸福を食べられた。彩と別れるのはもう少し先でもいいかもしれない。


「落ち着いたら思い出した。俺、満香に金を貸したままだ」

「いくら」

「二十万。自動車教習所の申し込みに使った金、まだ返してもらっていない」

「それは……」


 普通なら、別れた彼女に関わるのはもうやめろ、と諭すところだが、額が大きい。大学生の二十万円は簡単に補填できる額ではない。


「なあ、達也。取り返してくれないか。俺の二十万。お前と伊勢さんに依頼したい」


 そう言われては、俺には拒否できない。






「達也が依頼を取ってくるとは、珍しいよな」


 上機嫌で隣を歩く伊勢は、今日もトレードマークの赤いキャップを被り、ダボッとしたカーゴパンツに黒のポロシャツというラフな格好。俺は変わり映えしないシャツとチノパン。


「自分じゃ会ってもらえないからって、黒田も諦めが早いと思いますけどね。俺ならもう少し粘りますよ」


 まあ、その執着心を奪ってしまったのも俺なのだが。なんだか、俺が黒田を操作して依頼を創出してしまったようで心苦しい。


「先輩、今回の件、俺への給金は無くていいです」

「いや、駄目だろ。どうしたんだよ」

「黒田は友達ですし、割引価格ってことで」


 伊勢は腕を組んで唸った。


「友達だからという理由で大幅に割り引くのは、あまり良くないんだがな。人脈で営業活動をしているようなものだから、どこから友達なのか、なあなあになっちまう。達也が望むなら、金を返してやればいい」


 あまりスマートなやり取りにはならなそうで、少し億劫になった。黒田も受け取り拒否しそうで、面倒くさい展開が容易に想像できる。


 自分の食癖が依頼を生むことになるとは思わなかった。これからは気を付けよう。


 そうこうしているうちに、黒田の元彼女、桐山満香の自宅に到着した。ごく普通の三階建てマンション。外壁のクリーム色が、さらに無個性さを際立たせている。


「208号室だったな」


 伊勢がエントランスのボタンを押すと、ピーンポーンと気の抜けた音が鳴った。そのまま待つこと三十秒。


「誰も出ませんね」

「黒田君も桐山さんに会おうと頑張って、それでも無理だったからオレ達に依頼したんじゃないか」


 伊勢は言いながら郵便受けを覗き込んだ。


「どうですか」

「桐山さんがこまめに郵便物を確認する性格だったのかわからないが、少なくとも数日分は溜まっているかな」


 伊勢の後ろから俺も覗いてみる。郵便受けの中にはチラシやダイレクトメッセージが数通見えた。


「聞いてみますか」


 俺は黒田に電話を掛けた。


「もしもし。俺だ。満香ちゃんって、郵便受けは小まめにチェックする方だったか」

―郵便物か。毎日確認していたぞ。

「毎日って、誇張?」

―いや、毎日だ。家に帰るとき、必ずチェックしていた。連続で外泊するとき以外は毎日郵便受けを開けていたよ。

「へえ。几帳面だこと。サンキュー、助かった」

―おう、何でも聞いてくれ。


 通話OFF。


「だそうです、先輩」

「うん。連続外泊、ね。新しい彼氏の家が一番有力だな。やっぱり、誰と付き合っているのか突き止めないといけないか。後期が始まったら会えるだろうけど、一日でも早くお金を黒田君に返してあげたいところだし」


 このときの俺たちは、簡単な仕事だと思っていた。桐山満香の交友関係を辿れば、新しい彼氏の素性は自ずとわかる、と。


 ところが事態は妙な方向に転がり始める。






 巽典江たつみのりえは金に近い茶髪にウェーブをかけた女の子だった。マスカラで長い睫毛が反り返っている。


 桐山満香とは印象が全然違うが、黒田曰く、桐山と最も仲が良い人なのだとか。


「満香のことで話を聞きたいって、どういうこと」


 俺たちを警戒している様子を隠そうともしない、刺々しい口調だった。別にそれで俺たちが気を悪くするようなことはない。探偵を(正確には名探偵を)名乗る男たちがいきなり「話を聞かせてくれ」と言ってきたら警戒して当然である。


 だが、一人で来たところを見ると、通報間近、というほどの警戒ではないらしい。大学内で待ち合わせたのも良かったようだ。


 見晴らしのいいベンチに座ってもらい、隣に伊勢が、俺は立ったまま話を聞くことにした。個人情報なのであまり開けた場所で話したくないが、個室よりも安心できるだろうと伊勢が提案したのだ。


 伊勢はフレンドリーな笑顔を前面に出す。


「桐山さんと連絡が取れなくなって心配している人がいましてね。無事なのかどうか、調べてくれって依頼が来たんです」


 心配しているのはお金の返済だけどな。と心の中で補足する。これでは探偵というより借金取りだ。


 人探しは探偵の基本業務の一つではあるけれど、桐山だって突然二十万円返せと言われても払えないのではないか、などと頭の片隅でもう一人の自分がせせら笑っていた。


「依頼したの、誰」

「すいません、依頼人のことは教えられません」


 伊勢がやんわりと、でも即座に跳ね返した。睨みつける巽と笑顔で受け流す伊勢、二人の視線が静かにぶつかる。


 折れたのは当然、巽の方だった。伊勢はそれなりに場数を踏んでいる。

 巽は大きくため息をついた。


「知りたいのはこっちの方よ」

「というと?」

「満香と連絡が取れなくなったのは、私も同じなの」

「そうなんですか。具体的にはいつから連絡が取れなくなりましたか」

「一週間前くらいかな。毎日連絡を取るわけじゃないから、最後にメールをやり取りしたのがその日ってだけ。買い物に行こうって約束していたんだけど、ドタキャンどころか、いきなり音信不通よ。訳わかんない」


 怒っているような口調だが、表情は明らかに心配していた。つま先が落ち着きなく揺れている。


「なんとなく、あんた達に依頼が行った経緯も想像つくけどね。黒田君じゃない?」

「それは何ともお答えできません」

「……あっそ。まあ、それはいいわ」


 正解だ。鋭いというより、桐山の人間関係から、探偵に依頼しそうな人物を消去法で絞り込んだかな。外れて損をする勝負でもない。俺たちと会話をしながらそこまで計算しているとしたら、頭の回転がかなり速い。


「だけど、探偵ね。その方法は思いつかなかったな。でも、満香がどうしているのかなんて、私も知らないの」


 元彼氏と会うのが気まずくて接触を断ったということなら話は簡単だが、そういう場合、友人との関係まで疎遠にする必要はない。むしろ恰好の飲み会のネタだろう。……それは性格が悪いか。


「すいません、割り込んで。黒田君と桐山さんを引き合わせたのはあなた、ということはありませんか」

「違うよ。あの二人のなれそめに私は関係ない」


 違った。巽が桐山に黒田を紹介したから、黒田を振ったことで巽と会うのが気まずい、というわけでもないらしい。


「黒田君のことも知っているわけね」


 してやったり、という少々得意気な顔をされた。俺はそれには付き合わない。


「桐山さんの彼氏ですよね。少なくとも先週までは」


 俺に動揺が見られないためか、今度は不満そうな顔になる。表情がよく変わる人だ。こういう人の幸福はのど越しがいい。今回は関係無いけれど。


「桐山さんに他の男の影はありませんでしたか」


 伊勢がとりなすように笑顔で聞いた。


「浮気ってこと?」

「まあ、はい」

「あり得ないね。あの子、黒田君のこと大好きだったもん」

「あり得ませんか」


 断言するのは危険だ。疑るように俺が繰り返すと、きつい目を向けられた。


「あり得ない。私は、わからないことはわからないと言うわ。あり得ないから、あり得ないの」


 真っすぐ俺の目を見て逸らさない。じっと見返していると、微かに揺らいだのがわかった。それでも逸らさずぐっと堪えている。


 自分の中に確固たる確信がある。簡単に揺らがない根拠も。


 この子、ちょっといいな。同学年だっけ。


「信じましょう」

「達也?」


 意外そうな顔をする伊勢に、肩をすくめてみせる。


「少なくとも俺は、巽さんの直感を信じていいと思います。ただ、それは一週間前の話です。その後の一週間で桐山さんの状況が変わった可能性はあります」

「一週間で男を乗り換えたっていうの。満香に限ってそんなことは……」

「あり得なくはないでしょう?」


 巽の言葉を遮って言ったが、その後の言葉は続いてこなかった。渋々と頷かれる。


「そうね。あり得なくは、ない」


 俺はメモ帳を取り出した。伊勢は脳内であれこれ考えているが、俺は同じようにできそうにない。伊勢流ならぬ、俺流の探偵スタイルだ。


 同意が得られたのを見て、伊勢がやんわりと割り込んできた。


「巽さんから見て、桐山さんはどういう性格の人ですか」

「性格って、それが関係あるの?」

「いずれは重要になるかもしれません。今、オレたちはほとんど情報を持っていないんです。何が功を奏するかわからないので、細かい所も聞かせてください。桐山さんの人物像はとても大切です。どうでしょう、大人しい方でしたか」


 心なしか、伊勢の口調が普段より柔らかい。依頼者によって変えているのだろうか。芸が細かい名探偵。


 こちらが信用したことで向こうからも多少信用を得られたのか、今度はあっさりと口を開いた。


「大人しい子ね。あくまで私と比べたら、だけれど。優しくて思いやりがあって、気が配れる」


 サクサクと、恥じらう様子もなく挙げていく。俺が黒田や伊勢を他人に紹介するとしたら、これほど照れずに紹介できない。桐山はいい友達を持っている。


 だからこそ、巽が桐山の現状を知らないのは、不自然だ。


「頭の中まで大人しいわけではなかったけどね。何だか色々考えていたみたいよ。自分は欠けている、ってしょっちゅう言っていたし」

「欠けている、ですか。それはどういう意味でしょう」

「さあね。何か思う所があったんでしょ。あの子なりの向上心じゃない?私は、そういう慢心しないところ好きだけど」

「なるほど」


 伊勢と巽の会話を聞いていて、俺にはその「欠けている」感覚はわからなかった。しかし、伊勢は納得している。こんなとき、伊勢は俺とは違う論理や観点で理解していることが多い。


 たまに変な部分で頓珍漢な解釈をしていることもあるけどな。


「桐山さんの写真をお持ちではないですか」


 巽は黙って携帯電話を操作し、伊勢に突き出した。伊勢も携帯電話を出し、赤外線でファイルを受ける。


 回り込んで伊勢の端末を覗き見ると、巽と一緒に笑顔で映っている女の子がいた。長い黒髪を眉の上で切り揃え、縁の太い眼鏡をかけている。ジャケットは地味な黒色。


 多分、眼鏡を外すと可愛いな。


 何となく気になってじっくり見ていると、伊勢から携帯電話を渡された。


「そんなに気になるなら持っていろよ」

「あ、どうも」


 ありがたく。何か引っかかる。


 俺が写真を凝視している間にも伊勢の話は進んでいく。


「他に、桐山さんと仲がいい人を紹介してもらえませんか。たった一週間で、0から関係が深まったということはないと思うんです」

「それなら、バイト先かな。それから、インカレサークルにも入っているけど」

「教えてください」


 遠くで二人の話し声を聞きながら、俺は桐山の写真を見入るともなく視界に収め、脳を刺激する要因を探していた。巽と桐山が二人で写った楽しそうな写真。どのタイミングのものなのか、画面いっぱいに、肩をくっつけるようにしている。どちらかの携帯電話で撮ったものだろう。特に加工はされていない。


 ピンときた。「欠けている」ってそういうことかもしれない。


「達也、行くぞ。巽さん、ありがとうございました。またお伺いすることがあるかもしれません」

「見つかったら連絡してもらえる?」

「依頼人に聞いてみます。でも、桐山さん本人には、巽さんが心配していたと伝えます」

「そう。ま、よろしく」


 最後は軽く手を振ってくれた。探偵なんて胡散臭い者なのに。彼女の根の良さが伝わってくる。


「ほれ、メモ帳返す」

「あれ、いつの間に」


 夏休み中のキャンパスはがらんとしていて、俺たちは車道の真ん中を堂々と歩いてショートカットしていく。


 俺が取り出していたメモ帳はなぜか伊勢の手の中にあった。開くと、桐山のバイト先、インカレサークルの情報が記載されている。意外と丸っこい綺麗な字だった。


 不甲斐ないことに、俺が自分でメモした項目は無く、伊勢が書いたその情報だけが今回の記録だった。これでは、何の為にメモ帳を用意したのかわからない。


「書記をやるなら、ちゃんと記録しろよ」


 からかうように言われた。不甲斐ない。


「聞きながらメモを取るって、結構難しいですね」


 隣で伊勢が笑う気配がする。


「段々、探偵業が面白くなってきたんじゃないのか」


 そんなことありませんよ、と言うつもりだったが、伊勢があまりにも嬉しそうな顔をするので、言葉を引っ込めた。代わりの返しを思いつかず、困って背中を掻く。


「それで?記録を放り出して何を見ていたんだ」


 言うかどうか、迷う。大したことではないからだ。そんなことのために話をそっちのけで集中していたのかと思われるのは恥ずかしい。


 俺が言い淀んでいる空気を察したのか、伊勢は笑みを深めた。


「大丈夫だ。記録を取らなかったくらい失態だなんて思っていない。そのために二人いるんだから。とりあえず言ってみろよ」


 小さいくせに、たまに大きく感じる。そんな先輩だった。


「ええとですね、見ていたのは桐山の顔というか、雰囲気です。どうしても気になって」

「好みのタイプだったのか」

「違いますよ」


 いらん茶化しを入れるな。たまに恋愛コンプレックスが表れるよな、この人。


「自信が無さそうな人だな、と思ったんです。何となくですけどね。巽はあの通り、芯がしっかりしているし物怖じしない性格な反面、写真に写る桐山はちょっと陰があるというか」


 最後はごにょごにょと歯切れが悪くなってしまう。根拠が無いので仕方ないが、あまり探偵的ではない。


 伊勢には言えないが、不幸の匂いがする人だと思ったのだ。写真越しなので比喩だが。直接的に言えば、俺が獲物にするタイプ。


「なるほど、自信ね。達也が見るとそういう言い方になるのか。それも収穫だな」


 意外にも、伊勢は深く頷いていた。


「達也は自信家なくせに、そういうところに敏感だからな。信用できるかもしれん」

「俺は自信家じゃないですよ」

「……じゃあ、人畜無害な顔をした人でなしだ」

「なんでいきなり責められているんですか」

「オレに今さら隠しているなら無駄だし、無自覚なら罪深い」

「そんな……」


 罪深いって。


 考えてみれば、教養棟の幽霊退治の件でも人でなしだと言われた気がする。

 意外と本気で言っているのかもな。実際、俺は人じゃないし。


「欠けているって、言っていたらしいな」

「ああ、はい。そうですね」


 もう少し問い詰めたかったが、話題が変わったので仕方なく諦めた。まあ、また酒の場ででも聞くとしよう。


「オレも、桐山は自信がない人なんだろうと思ったよ。巽は向上心だと表現していたが、欠けているって、劣等感って意味だろ」


 同感だ。写真をじっくり見た後、俺も同じように解釈した。


「桐山について、オレとお前の印象が一致したのは悪くない」

「そういえば、桐山の人物像って重要なんですか」


 巽も言っていたが、桐山の現在地を知るには役に立たないように思える。


 伊勢は立ち止まり、振り返った。巽の姿はもうない。


「見つけた後どうするか。それを考えているんだ。黒田君のお金は取り戻すとして、桐山と巽を引き合わせるかどうか」

「会わせないんですか?」


 驚いた。巽は心配しているし、二人は良い友人に見える。ならば、連絡の一つでもしてやれと言うとか、巽に桐山の現状を教えるとか、依頼には含まれていないが、それくらいの親切はして然るべきだと思っていた。


 伊勢は遠くに焦点を合わせ、独り言のように言った。


「肝心な部分がわかっていないんだ。桐山はどうして姿を消したのか。欠けている。劣等感。気の強い友人。大好きな彼氏」


 伊勢は赤いキャップの鍔に触れた。口元は笑っていない。


「巽と桐山、本当に仲が良かったのか。桐山の本心は、どうなんだろうな」

「違うっていうんですか」

「桐山にとって巽が、常に劣等感を覚え続ける友人だとしたら、一緒にいるのは辛いかもしれないよな」


 俺の脳裏には、先ほど見た巽の表情が浮かんでいた。怒ったような口調で心配する顔。別の男はいなかったと、考えた上で断言した目。


「そもそも、何も問題が無ければ、友人にまで姿を隠したりしないんだ。何かの事情があるんだ。何か、良くない事情が」


 写真の中の笑顔が意味を変えた気がした。


 秋が近くなったキャンパスに人気は無く、俺は不意に寒々しさを覚えて身を抱いた。






 自分と周囲の人間関係、それは主観の集まりでしかない。良好だと思っていた相手が実は自分を嫌っていたとか、嫌われていると思っていたが実は無関心なだけだったとか、そういったすれ違いは少なくない。ただ、すれ違っていることに気付ける機会は少ない。ひょっとしたら一生、関係を誤解したまま、いつの間にか疎遠になっている人もいるかもしれない。


 その人との思い出を振り返り、楽しかったなどと宣っている可能性だって0ではないのだ。


 楽しかったのは自分だけかもしれないなんて、考えたくもないけどね。


 かように、相手から見た自分の姿や、相手の心の中の自分の存在は確かめようがなくて、それがときに取り返しのつかない事態を引き起こす。


 わからないからと諦めていた。しかし俺はこの夏休みを終える頃、考えを改めることになる。


 自分の背に向けられる目線について真剣に考えておくべきだと、誰かに訓示をたれる機会があれば言うつもりだ。


 足音は聞こえている。






 俺たちは早速、桐山のバイト先を訪れた。大学から歩いて十五分くらいのコンビニ。


 来たものの、さてどうしたものかと逡巡していたら、伊勢がさっさと入っていった。


 いらっしゃいませ、の言葉も聞かずレジに直行する。


「すいません、桐山満香さんを知っている人はいませんか」


 まるで道を尋ねるような調子で店員に話しかけた。俺はまだ店舗に入ってすらいないのに。


「はあ?」


 レジに立っている女の人も反応に困っている。そりゃあそうだ。


「あ、申し遅れました。私、こういう者です。あいつは助手です。実は、桐山さんと連絡が取れなくて、誰かご存知ではないかと探しているのです」


 笑顔で名刺を店員さんに押し付けて、どんどん話を進めていく。俺はようやくレジに辿りついた。


「はあ。あの、仕事中なので……」


 店内にはお客さんもいる。伊勢はあっさり引き下がった。


「そうですよね。ではどうでしょう。あなたのシフト終わりに、ほんの十分ほどお時間を頂けませんか」

「まあ、それくらいなら」

「では、その辺に立っていますので、声を掛けてください。この赤い帽子が目印です。上りは何時ですか」


 こうして、わずか一分で話がまとまった。


 俺は終始唖然としたまま退店し、今のは夢だろうかと頬をつねった。痛い。この店は実在するのかと疑い振り返った。あった。


「話がわかる人で助かったな」


 あっけらかんと言っているが、凄いものを見たのではないだろうか。この人が会社で営業回りでもしたらとんでもない成績を叩き出しそうな気がする。


「何をやったんですか」


 手品か?


「何って、何だよ」

「何でしょう。俺は何を見たのでしょうか」

「おい、しっかりしろ」


 道をぼやぼやと歩いて名探偵の技を反芻する。俺も同じ調子でいけば、案外上手くいくのだろうか。そうだとしたら獲物の確保はかなり楽になるのだが。


 ……無理だろうな。それが当たり前にできれば、鬼族はこんなに苦労しない。伊勢にはどこか、相手の警戒心を緩める才能があるように感じる。相手に合わせて話し方や表情を変えているのはなんとなくわかるようになったが、それ以外にも、もっと根本的な部分で、するりと心に入ってくる。


 俺との初対面では、野心に満ちた意識の高い大学生を、巽と話すときは穏やかな笑顔の先輩を、さっきのコンビニでは礼儀正しく押しの強い高校生のような幼さを使い分けている。


 巽と桐山の話ではないけれど、伊勢の本当の姿がだんだんわからなくなってきた。


 以前、伊勢には恋愛感情がないと言っていた。そんな突飛な嘘をつく理由は無いので、きっと本当だ。恋愛感情が無いからこそ、相手の懐に滑り込めるのかもしれない。理屈はわからないが。


 ふと気配を感じて振り返る。平日昼間であっても通りに人は多く、気のせいかと思ってそのまま歩き出した。


 夏休み開始頃から始まり、断続的に続く足音は、まだ正体を掴んでいない。相変わらず目的も不明で、気配を感じても今のようにすぐ消えてしまう。こっちもこっちでいつまで泳がせておくべきか、悩ましい。せめて反撃する手がかりがあればいいのだが。






「桐山さんとそんなに親しいわけではないのですが」


 十八時。コンビニ前に立っていた俺たちに、先ほどの店員さんが声をかけ、そう切り出した。


 名前は渋川というらしい。俺たちとは違う大学の学生だそうだ。ポニーテールがゆらゆらしている。


「先週店長から電話があって、シフトに大穴が空いたからできるだけ入ってくれって言われたんです。そのときはどういうことかわかりませんでしたが、シフト表を見たらすぐわかりました。桐山さんの名前が無くなっていたので。実は今日も桐山さんの代理です」

「なるほど。どうして桐山さんがいなくなったか知っていますか」


 やりとりは専ら伊勢に任せ、俺は今度こそメモ取りに専念した。こうした聞き込みでは、どうも伊勢の方が上手くやれる。経験の差だろうか。


「店長に聞いてみたのですが、突然連絡が取れなくなった、とだけ。店長も知らないみたいです。真面目で礼儀正しい子だったので、意外でした。あの、何があったんですか」

「我々もそれを知りたいんです。事故に遭ったという情報は入っていませんが」


 渋川のシフトが終わるまで、俺たちは付近の病院に片っ端から電話していた。事故か何か、急患で桐山満香という人物が運び込まれていないか、と。プライバシーには煩い現代だが、急に連絡が取れなくなった、交通事故にでも遭っていないか心配だと言うと、教えてくれた。それもそのはず、そんな患者はいなかったからだ。いない患者のプライバシーは守らない。


 とにかく、バイト先にも来ていないとなると、余程徹底した雲隠れをする必要があったことになる。元彼氏や友達と会うのが嫌だ、というレベルではない可能性が上がってきた。


 そして、辞めたのではなく、連絡が取れなくなった、というのが怖い。


 これ、部屋の中で孤独死していないだろうな。それだと、黒田に届いたメッセージの意味がわからないか。助けて、ではなく、もう会わない、だもんな。


「あの、さっきも言いましたが、私は桐山さんとそれほど親しいわけではないんです。でも、今シフトに入っている小川さんが、多分、バイトメンバーでは一番仲がいいと思います。今、品出ししている人です」


 店内を覗き込むと、おにぎりの棚に商品を補充している人が見えた。後ろ姿しか見えないが、小柄な女性なのはわかる。


「プライベートでも桐山さんと付き合いがあるみたいですから、多分、色々と聞けるかと思います」

「なるほど。ではあの方にも聞いてみることにします。最後に、桐山さんに何か貸していたとか、借りていたとか、ありますか。もしくは、いなくなる理由に心当たりはありますか」


 渋川はしばらく考え、あ、と声を上げた。


「これ、借りっぱなしでした」


 鞄から出てきたのは目薬だった。


「間違えて買ったものだからあげるって言われたんですけど。それくらいですかね」


 渋川の手の上にはどこにでも売っていそうな目薬が一つ、寂しく乗っていた。






 渋川さんに口利きしてもらい、俺たちはシフト終わりの小川さんの時間を貰った。またもコンビニのすぐ外で立ち話である。


「私は小川雛子。へえ、探偵って本当にいるんだね」


 小川は、伊勢の名刺を興味深そうに受け取った。小柄な体に細い手足。黄色に近い、明るいショートカットの髪。雛子という名前も相まって、ひよこの印象を受ける。ただ、目の下の隈がメイクで隠せていない。


「お疲れですね。すぐに済ませますので」

「ああ、やっぱりばれるよね。最近寝不足でさ。嵌まっているゲームをやり込んじゃって」


 小川が首を回すと、ゴキゴキといい音がした。


「それで?満香のことを聞きたいって、渋川さんから聞いたけど」

「あなたが、ここでは一番桐山さんと親しいと聞きました」

「まあ、そうかな。うん、それはそうだね」


 首を傾げたり頷いたりして、最後は肯定してくれた。巽と比べると際立つが、ぼんやりした人だ。


「実は、桐山さんと連絡が取れなくなって心配している子がいまして。桐山さんがどこにいるか、ご存知ないですか」


 小川は名刺をポケットに突っ込んだ。


「それさ、探らない方がいいんじゃないの。どういう事情か知らないけど、本人が隠れたがっているんだとしたら、隠れたままにさせておいてあげるべきじゃないの」


 おっと。眠そうな顔をしているが、鋭いところを突いてきた。俺たちは黒田の依頼で動いている。優先すべきは黒田の利益で、桐山のものではない。


 だがもしも、小川が桐山の隠遁を手助けしているとすれば、俺たちに情報を渡しはしない。


 伊勢は貼り付けていた笑顔を引っ込めた。


「いいことを仰いますね。音信不通になった理由によります。もしも人間関係をリセットしたい、という理由であれば、隠れたままにするのが桐山さんのためかもしれません。一方、他のトラブル、例えばストーカーから逃げたいという理由であれば、オレ達が助けになれると思います。今は理由も何もわからないので、放っておくわけにいかないのですよ。何かご存知なら教えてください」


 小川はボリボリと頭を掻いた。


「私は何も知らないけどね。でも、ただ心配ってだけで探偵まで動かすかな。金でも貸していたとか?」


 小川の目が素早く俺たちを巡る。カマをかけられていることはすぐにわかった。自分で言うのもなんだか、鉄面皮でないと幸食はやっていられない。この程度で揺らぎはしない。


「申し訳ありませんが、依頼人については何もお教えできません。守秘義務があります」

「義務って。大学生の遊びでしょう?」

「いえ、ちゃんと法人登録しています」

「マジか」


 これは本当だ。伊勢探偵事務所で屋号を登録している。この春からなので、まだ確定申告をしたことはないらしいが。


 伊勢は大学生兼名探偵兼社長なのである。


「じゃあ、本物の探偵さんなんだ」

「こちらも鬼ではないので、理由によっては桐山さんを追わないのですがね。今はただただ心配です」


 すいません、俺は鬼です。というボケを心に秘して、小川の様子を観察する。


「そんなことを言われても、理由なんか私も知らないよ」

「最近連絡を取りましたか」

「先週、会ったよ。シフトが同じだったから。それ以降は、そういえばメールもしていないな」


 巽が言っていた時期と一致する。ここ一週間の足取りは不明なままだ。


 それにしても、小川の反応は一つ一つが薄い。心なしか体が揺れている。寝不足が深刻なのかもしれない。


「心配になりませんか」


 伊勢が踏み込む。


「まあ、心配だけど。でもどうせ、男の所にでも転がり込んでいるんじゃない。ほとぼりが冷めたら連絡してくるでしょ。私はあの子の判断を信じるよ」

「桐山さんの彼氏が誰か、知っていますか」

「知らない。ていうか、彼氏いたんだね」


 小川は澄ました顔で伊勢と目を合わせた。火花が散ったような気がした。情報が洩れているぞ、と挑発している。


 巽も最初は素直に協力してくれなかったし、聞き込みって、こんなに消耗するものなのか。それとも、桐山を守ろうとする人たちが多いのか。


 少なくとも、彼氏がいたことを知らない、は嘘だろう。そんなことも知らないで親しいと自称しないでほしい。


 どの彼氏?とでも言ってくれれば話が進んだのだが。


「小川さんから見て、桐山さんはどういう方でしたか」

「どういうって、性格?」

「はい」


 伊勢が話題を変えると、目に見えて小川は戸惑った。


「どんなって……。改めて言葉にしたことなかったな。大人しくて、ちょっと真面目すぎる部分があったかな。気楽になればいいのに、って何度も言ったよ。けどまあ、それが可愛いところだよね」


 小川が初めて表情を和らげた。


「明るい髪色が意外と似合うんだよね。頭も良いから話していて楽しいし、結構言い回しが変わっていてさ」


 そこで、俺たちの視線に気づいたように口を止めた。


「いや、その、こんなの、関係ないよね」

「そうでもないですよ。桐山さんの内面は重要です。見つけた後、依頼人や周囲の人間に居場所を教えるか、判断しなければなりませんから。小川さんも仰ったように、全て明らかにすることが正しいとは限りません」


 小川は急に俺を振り向いた。


「あんたはどう思うの」

「俺ですか」

「そう。あんたは、満香を見つけたらどうするの」


 俺は黒田の味方だし、伊勢の部下だ。基本的には依頼人の利益を追求する。だが、信頼を得るにはここが肝だと感じた。


「謝らせますね」

「誰に、何を」

「周りに心配をかけた桐山さんから、彼女を心配した人たちへ謝らせます。もしくは、桐山さんを追い詰めた原因となった人から、桐山さんへ。必要とあらば、桐山さんの居場所は誰にも教えません。俺たちは探し出すことを依頼されただけで、居場所を明らかにすることを依頼されてはいませんから」


 さあ、どうだ。誠意があるだろう。


「屁理屈だね。あんたみたいな男が、どこから浮気なんだ、なんて言うんだ。疚しい気持ちがあったら浮気だってえの」


 そんなこと言わないもん、と反論したかったが、内心ではそれに近い理屈を捏ねて彩と付き合っている。


 俺は笑顔をつくった。


「俺は一人を愛しぬきますよ」


 小川は、はんっ、と笑った。


「あんたには絶対協力しない」


 なぜだ。


 伊勢の呆れた顔が視界の端に映った。


 鼻の奥にツンと来るものがあった。






「すまん。今日のところはこのくらいしか収穫がなかった」

―いや、初日でそこまでいったなら凄いと思う。


 俺は黒田に電話で定期報告をしていた。今から一週間は、毎日進捗を報告する。一週間以内に片が付かなければ、依頼は一旦打ち切り。延長するかどうか、黒田の判断となる。


―小川って名前も何度か聞いたことがあるな。報告を聞いた感じ、何か知っていそうではあるけれど。


 俺は家路の途中の公園でベンチに座っていた。自分の信用を得られなさに打ちひしがれながら。


「どうかな。決めつけるのは危険だと思う。まだたったの三人にしか話を聞いていないわけだし、インカレサークルと大学で、もう何人か聞いてみるよ」

―そうか。

「また明日連絡する」


 電話を切って、静かな公園で溜息をついた。


 調査はさほど悲観的ではない。人の口に戸は立てられない。どれだけ口止めしても、聞き込みを続けていけば何かの綻びが見つかるはずだ。


 今日話した巽典江と小川雛子、あの二人はどちらも違う意味で厄介な相手だった。巽が全て正直に話してくれたとは限らない。途中から協力的な態度だったが、そう見せて本当に大事なことを隠している可能性はある。彼女なら、全て演技であっても驚かない。俺はかなり高く彼女の能力を買っている。


「でも、小川雛子は怪しいよな」


 伊勢とも話し、決定的ではないが、いくつか気になる点はあった。それは今後の調査で詰めていくとする。


 最も良くないのは、小川と巽が協力して桐山を匿っている可能性だ。そこまでいくと、黒田が暴力を振るっていたから逃げるため姿を消した、というシナリオも考えられる。


 またため息が出た。要するに、黒田も含めた全員が怪しい。


 当初、もっと多くの手がかりや情報が出てくると思っていた。親しい数人に聞いて回れば何かの情報は得られると。ところが、大学とバイト先、直接関係はないはずの二人に聞いても情報が微塵も出てこない。黒田を含めると、三方だ。


「黒田が桐山に酷いことをしていたのなら、桐山サイドの信頼を得ないといけないんだけど、あーあ」


 小川からは完全に信用を失った。そんなに俺のつくり笑顔は下手だっただろうか。


 つくり笑顔だから、か……。


 近くに気配を感じた。このところ感じた尾行者にもいい加減苛立っている。こっちだけでも片付けておくかと、殺気立った視線を向けた。


「たっちゃん?」

「彩。どうしてこんな所に」


 いたのは楢木彩。俺の彼女だった。


「行くってメールしたんだけど」

「マジか。あ、本当だ」


 いかん、いかん。神経質になりすぎた。


 溜息ではなく深呼吸をする。


「顔、怖かったけど、どうしたの」

「ちょっと考え事していて。今日、失敗したっていうか」


 座っていても仕方ないので、帰宅することにする。道すがら愚痴らせてもらう。


「詳しくは言えないんだけど、信頼を得るのに失敗した。それどころか、絶対に協力しないとまで言われてさ。俺ってそんなに悪人面かなあ」

「たっちゃんは必要なことしか言わないからねえ」


 慰めるか否定して欲しかったのだが、彩の口から出たのは思いがけない方向の言葉だった。


「なんだっけ、必要十分条件ってあるでしょ。数学の」

「うっわ。久しぶりに聞いたわ。数A?」


 たしか、命題を満たすための最小限かつ余りが無い条件、だっただろうか。高校数学の知識なんてセンター試験以来だ。そういえば彩は理系だ。こういう知識が錆びついていないのだろう。


「たっちゃんは、多分それなんだよね。相手にとって必要なことは話すけど、不必要なことは言わない」

「不必要なら、言わなくてもいいんじゃないのか」


 不必要とは、そういう意味だろう。必要な情報が全て出ていれば不都合は無さそうに思える。


「違うよ。おまけとか、ついでとか、そういうもので信頼関係はできるんだから」

「おまけ?」


 彩が先を行く。俺は知らず止めてしまった自分の足を慌てて動かした。彩はそんな俺を一瞥しただけで、一定のペースを刻んで歩く。


「一緒に作業をするとか、アルバイトとか、そういうときはそれでいいと思うの。お互いに必要な情報を共有すれば、同じゴールは、多分目指せるのね。でも、相手に犠牲を払ってもらうには、それだと足りないんじゃないかな」


 犠牲。


 桐山の居場所を教えてもらうこと。友人の情報を渡すこと。それは、相手にメリットがない場合、損失や犠牲と言い換えることもできる。


「相手にもメリットが必要ってことか」

「違うよ」


 大きくはないが、きっぱりと否定された。どうしてか、やけに響いて聞こえた。


「親切にしてもらいたければ、こっちからも気持ちを見せないとダメってこと」


 気持ちを見せる。どうやって見せればいいのか。伊勢が言った、桐山のためになると判断したら、俺たちは黒田から匿う手伝いだってする。それは紛うことなき本心であり、伊勢探偵事務所のスタンスでもある。


 依頼人の利益を優先する。それは、依頼内容を優先することとは必ずしも一致しない。


 だが、それを説明した上で、追加で何を言えばいいのか。まさかこれまでの仕事っぷりを語るわけにもいくまい。俺たちには守秘義務がある。


「難しいな」

「そうかな。弱みを見せればいいんだよ」

「弱み?」

「自分が犠牲を払うから、相手も犠牲を払ってくれる。簡単じゃない?たっちゃんは、どういうときに相手を助けてあげようって思うの?」

「それは……」


 俺は人間を、基本的に食糧として見ている。助けるときは、その後のリターンが見込めるときだ。では鬼同士なら、どうか。昔馴染みの紫乃の顔が浮かんだ。妹や兄貴、後輩の祐介。


「ごめん、上手く、言葉にできない」

「そっか」

「ごめん」


 俺の謝罪は夜道に落ちた。何だかとても惨めな気分で、道の隅でうずくまって蟻の行列でも眺めて泣きたくなった。彩はとても大切なことを言っているとわかるのに、それを咀嚼し、落とし込むことができない。


 俺って、まだまだ子供なんだなあ。


 彩は打って変わって明るくなった。


「急には難しいよ。ところでさ、また漫画貸した?前とは別の場所が空いていたよね」

「え?ああ、貸した。続き読ませろってせがまれて」


 よく見ているな、本棚の隙間なんて。


「誰に貸しているの?伊勢さん?」

「いや、彩の知らない人」


 微妙に間が空いた。なんだろうと見ると、悲しげに笑っていた。


「そっか。知らない人か」


 どうして悲しんでいるのか、そのときの俺にはわからなかった。その前の問いで頭がいっぱいであったこともあるし、何より俺は疲れと無力感でパフォーマンスが最低まで落ちていた。


 その日の深夜、うんうん唸って、朧げながら答えがわかったと思い、なんとか眠りにつけた。


 愛、なのかな。


 とてもひもじい夢を見た気がするが、覚えていない。

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