第6話 幽霊桜(後編)

 本格的に泣き出した桜ちゃんを富山さんに任せ、俺たちは鍵探しを開始した。富山さんの連絡先を教えてもらい、聞きたいことができたらすぐ連絡がつくように待機して貰うことにする。


「先輩、桜ちゃんの言ったこと、どこまで本当ですかね」


 化学A棟の付近で花がある場所を確認するため、俺たちは速足で建物を周る。


「どこまでって?」

「だから、言っていることがおかしくないですか。「お姉ちゃん」はどうやって化学A棟の三階まで桜ちゃんを連れ戻せばいいとわかったっていうんですか」


 花壇があった。赤や黄、色とりどりの花が咲いている。その向こうには樹も見えた。


「知っていたんだろ。桜ちゃんが化学A棟の三階にいたことを」

「それ、おかしいでしょう」


 伊勢は足を止めた。合わせて止まった俺を、伊勢はじっと睨む。


「どうしました」

「お前……」


 伊勢の声が低くなる。俺は初めてのことに戸惑って「いや、その」とありもしない言い訳をもごもご呟いた。


 不意に伊勢は手を突き出し、そのままデコピンされた。


「いって!」


 嘘だろ。鬼の反射神経で反応できなかった。何だ、今の。


「達也、さては桜ちゃんの言っていることが嘘だと思っているな」


 俺は額をさすりながら頷いた。


「だって、話が通らなくないですか」


 伊勢は溜息をついた。また手が突き出され、俺は急いで顔の前に手を広げて防御の体勢を取った。しかし、予想に反して衝撃は鳩尾に来た。


「ぐっふ!」

「あのなあ、たしかに、依頼人は嘘をつく。これは探偵をやる上で意識しておかないといけないことだ。だけど、頭から疑ってかかるのは良くないぞ。まずは本当に話が通らないのか、真面目に検証しろ」


 鬼も鳩尾を殴られると息が詰まる。知らなかった。実家に帰ったとき話そう。


「桜ちゃんが嘘をついているとは、オレには思えない。桜ちゃんの話、即興であの年頃の子供が考えたにしては、現実感がある」


 なんとか息が戻って来た。


「現実感?」


 現実的でない、という印象を俺は受けたのだが。


「鍵を失くしたことを言い訳するなら、見知らぬ誰かが鍵を盗っていった。そう言えばいい」

「……ああ、本当ですね」


 単純なことだった。叱られたくないから言い訳したのなら、自分は悪くないと主張する内容のものでないといけない。


「謎の「お姉ちゃん」が登場して、それで言い訳が立つか?立たないだろう。桜の花を渡されたことで自分に非がないことを示せるか?意味がないだろう。作り話にしては無駄が多い。そんな設定を詰められるなら、鍵を失くした言い訳をもっと考えるさ」


 俺は膝をついたまま、伊勢が言ったことを吟味した。言われてみると、鍵を失くした言い訳にしては出来が悪すぎる。むしろ、言い訳をするために考えたなら、桜の花を貰ったなどというストーリーを思いつく方が難しい気すらする。


「じゃあ、「お姉ちゃん」はどう説明するんですか」

「簡単だよ。化学A棟三階にいた誰かさ。桜ちゃんが談話エリアに一人でいるのを見たんだろうな。その後たまたま外で桜ちゃんを見つけ、迷子になっているようだったから、元いた場所に連れて帰った」


 俺は状況を想像する。


「知らない人について行ってはダメなのでは?」


 将来が心配になる。


 伊勢は「それは……」と言いかけ、やがて苦笑した。


「それは正直、富山さんが一人にしたのが悪い」


 とはいえ、あり得ない状況ではない、ということはわかった。偶然が重なった結果であっても、頭から否定するほどではなかった。


「じゃあ、桜の花って何ですかね」


 俺はようやく立ち上がることができた。結構効いた。


 伊勢は頷き、花探しを再開する。


「それな。目下一番の問題はそれだよ。オレの考えでは、「お姉ちゃん」に貰った花を鞄に入れようとして一度鞄を開けた。だけど入れ損ねて、さらには鍵まで落としてしまった。この考えが正しければ、桜の花を貰った場所に鍵が落ちている可能性が高い。

 しかしなあ、この季節に咲いている桜があれば目立つはずなんだけど、見覚えがないんだよな」


 見覚えもなにも、この季節に桜の花は咲かない。ここからぐるりと首を回してみても、樹がつけているのはほとんどが葉。彼岸は過ぎたとはいえ、まだまだ夏真っ盛りなのだから。


「似た花じゃないですか?」


 俺は植物には詳しくないが、同じような花を見間違えた可能性はそれなりにあると思う。


「さてね。桜ちゃん自身も言っていたが、自分の名前の花だ。親だって、これが桜だよって教えただろうし、本人も、他の花よりずっと意識して桜を見てきたんじゃないかと思うんだよ。

 桜は日本人にとって馴染み深いを通り越して刷り込まれている花だからな。チューリップとカーネーションの差がわからない奴だって、桜の花だけは覚えている気がしないか?」


 俺は反論できなかった。日本は桜大国だ。ほんの一、二週間しか見ごろがないのに、人が集まる場所には必ずといっていいほど桜が植えられている。俺だって、道路に落ちている花弁数枚から、桜が散ったのだとわかってしまう。さすがにチューリップとカーネーションは見分けられるが。


 だが、まだ年端もいかない桜ちゃんに、大人と同じレベルの認識を仮定していいものか、自信が持てない。俺があれくらいの年頃だったとき、春に咲く花は全て桜だと思っていた気がする。


 伊勢が振り返った。


「桜ちゃんの親がどれだけしっかり教えていたのか、それは桜ちゃん自身すらわかっていないことかもしれない。だけど、本人は自信満々だったんだ。まずは信じてみようぜ」


 ニッと笑うと、また前を向いた。


 少し反省する。地元に帰省したせいもあるかもしれないが、人間を見下し過ぎていたようだ。もっとフラットに考えないと、考えが良くない偏り方をしてしまう。


「そうですね」


 伊勢は決して人間の全てを信じているわけではない。それはこれまでの短い付き合いでもなんとなくわかった。だが、人間が皆生まれもって愚かと思っているわけでもない。


 まずは信じてから、疑う。


 それが伊勢流のフラットな見方なのだろうか。俺はまだ、この人の内面をよくわかっていない。


「それと、達也。こうした屋外の失せ物探しは、日が暮れると一気に難易度が上がる。日暮れまでに片をつけるぞ」

「了解です」


 俺は空を見た。太陽は地平線に手をかけていた。空はとっくに赤らんでいる。残り時間は多くない。


 その時、俺は一つの樹が目に留まった。走り抜けかけて、慌てて止まる。


「先輩、待った。これ見てください」

「どうした」


 戻ってくる伊勢に、樹と、その幹にくくりつけられた札を指さした。そこには「桜」と書かれていた。


 伊勢が、ああ、と声を漏らす。


「桜だな」

「桜ですね」


 化学A棟の傍の道路と、その向こうに広がる雑木林の間に一本の桜が生えていた。


「こんな所に桜なんてあったんだな」

「本当ですね」


 俺たちは桜を見つけたものの、黙ってしまう。


「達也よ、これは、花か?」

「葉、ですね」


 青々と茂って堂々と立っている。そこには一輪たりとも咲いていない。


 花が咲いていない桜の樹は、はっきり言って存在感がなかった。なんというか、ただの樹って感じだ。考えてみれば当然なのだが、桜は一年のほとんど全ての期間を花が無い状態で過ごす。こちらの姿の方が通常で、春の満開の桜は言葉通り特別な瞬間なのだ。


「もうちょっと探してみますか」

「ううん、うん。そうだな」


 俺たちはまた歩き出す。葉には葉の魅力もあるのだろうが、俺たちが探しているのは桜の花だ。


「先輩、狂い咲きの桜を探しているんですか」


 狂い咲き。季節外れに咲く花のこと。温度や環境の影響を受け、一般的でない時期に咲く個体をそう呼ぶ。


 伊勢はキャップの鍔に触れた。


「それがあれば一番簡単だと思ったのはたしかだな。他にも、研究目的で九月に咲くように品種改良された桜や、桜に見間違えるほど似た花をつける樹も考えられる。何しろここは大学だからな。珍しい品種の樹が植えられていたり、新種が開発されたりしていてもおかしくない」


 言わんとすることはわかるが、新しい品種の植物を屋外で栽培なんてするだろうか。そんなことをしたら、外来種による生態系破壊のような、ある意味バイオハザードを引き起こしてしまう可能性があるのでは。


 しかし仮定はどうあれ、化学A棟を一周してもそれらしい花は見つからなかった。


「無かったですね」


 俺は若干の疲労を覚えた。桜ちゃんの話をまずは信じると決めたが、どうにも掴みどころがない。


 伊勢はキャップを脱ぎ、団扇代わりにして仰いだ。


「最寄りのエリアにそれらしい花はなし。それも収穫だ。ここからは分担するぞ。俺はこの近くの研究室に、桜ちゃんを連れ戻した「お姉ちゃん」がいないか聞いて回る。見つかれば一気に解決が近づくからな。達也は捜索エリアを広げてくれ。何かわかったらすぐに連絡を。二十分後にここで集合な」


 言うが早いか、伊勢は小走りに化学A棟へ戻っていった。


 こういうとき、伊勢は足を使うことを億劫がらない。俺も気合を入れる。徒労になりそうな作業に、人は怠惰を覚える。だが、それは考え方次第だ。ある天才は言った。「私は失敗したのではない。上手くいかない方法を見つけたのだ」と。そういうことだ。


 日頃から体を動かしてきたのは今日のため。自分に暗示をかけ、大きく息をついてスタートする。


 化学棟はC棟まであり、周辺には生物棟、物理棟、地球惑星科学棟、数学棟といった理学部の研究棟が林立している。さらには理学部図書館、さっき行った生協、何かの実験施設など、大小様々な建物がある。卒業する頃になっても、用途がわからない場所の方が多いことだろう。


 走り回って気づいたのは、意外と植物が多いということだ。地面は石畳で整地され、その上に花壇があちこちに並んでおり、時折顔を出す土の部分には街路樹も並んでいる。そしてそのほとんどに、植物の名前が記された札がついている。花なら傍の土にプレートが差され、樹ならくくりつけられている。


 街路樹はともかく、花壇の花は誰かが手入れしているはずなのだが、その人物を見た覚えがない。さらに、どこにどんな色の花があったのか、前期中ほとんど毎日目に入っていたはずなのだが思い出せない。桜だって、一番印象に残って良さそうな樹なのだが、俺も伊勢も一旦通り過ぎてしまうほど記憶に残っていなかった。


 植物や花は非常に身近な存在であるにも関わらず、俺たちは気にしていない。これが犬や猫だったらもっと覚えていたと思う。


 つまり、俺たちは植物を舐めている。普段から意識しておけば、こんな風に慌てなくてもよかったのに。相手は逃げないのだから、猫や犬よりも遥かに楽なはずだ。


 植物に関する妙な自省を巡らせながら、それでも理学部エリアを見て回った。厳密には飛び地のように点在する研究施設がキャンパス内のあちこちにあるのだが、子供の脚で、見知らぬ場所で、三十分以内に行って帰って来られる距離は限られる。


 俺は独断で見切りをつけた。自信を持って必要なエリアは見て回ったと言えるくらいには走り回った。携帯電話を取り出して時間を見ると、伊勢と別れてから十五分。いい時間なので戻る。


 道中で電話をかけることにした。


―はい、伊勢。

「こっちにそれっぽい花はありませんでした」

―こっちも当たりなし。もう帰っちゃったのかもな。


 伊勢の方も外れだった。その「お姉ちゃん」も、帰宅時に桜ちゃんを見つけたのかもしれない。


「とりあえず集合しますか」

―そうだな。どこまで見た?


 俺は化学A棟に戻りながら、走り回った経路を説明した。さすがに屋内や屋上までは見ていないが、それは省いていいと思う。桜ちゃんも「外」だと言っていたし。屋上を「外」だと表現されたら困るが、大抵の屋上は施錠されているので、多分除外できる。


―ずいぶん走り回ったな。


 電話口の向こうで伊勢が小さく笑う音がした。


「そりゃあ、もう。こんなつまらない点でミスりたくありませんからね」

―いい心がけだ。


 言っているうちに化学A棟に着いた。エントランス前には既に伊勢がいた。


「「お姉ちゃん」探しの方は、何か手掛かりありましたか?」


 電話を切りながら駆け寄る。伊勢は首を横に振った。さすがに俺も息が上がってしまったので、膝に手をついて肩で息をする。髪から汗が流れてきた。


「ご苦労さん」

「いいえ、これくらい」

「気になっていたんだが、そのヘアピンどうした。前から着けていたか?可愛い感じになっているぞ」


 忘れていた。彩につけてもらってそのままだった。別に悪いことはしていないが、このまま書店を巡ってレジで会計したのだと思うと、無自覚だったのが恥ずかしい。


 慌てて取ろうとすると、髪の毛数本が一緒に抜けた。


「いって」

「何やってんだ。いいじゃん、着けていれば」

「いや、いいです。もう戻せないし」

「戻せない?……ああ、そういうこと。彩ちゃんといちゃついたのか」

「先輩、言い方」


 誰にも恋愛感情を抱かない性質だからって、他人の恋愛を面白がるのは趣味が良くない。そう言おうとしたが、心の天使が「お前はどうなんだ」と囁いた。趣味の悪さでいえば、とても他人のことをとやかく言える身ではなかった。


 伊勢はキャップの鍔をいじりながら、じっと遠くを見ている。視線を追うと、先ほど見つけた葉桜があった。


「情報を整理しよう」


 伊勢はそう言って葉桜に向かって歩き出した。俺もついていく。


「桜ちゃんは化学A棟から外へ出た。そこで「お姉ちゃん」と会い、桜の花を貰った。「お姉ちゃん」は桜ちゃんを化学A棟三階まで連れ戻した。そうだな?」

「はい」


 富山さんと桜ちゃんの話をまとめるとそうなる。


「鍵を失くした場所は不明。桜ちゃんは「お姉ちゃん」から貰った花を鞄に入れたつもりだったが、その花は無かった。鍵も一緒に鞄に入れていた」


 それらの情報から、花を鞄にしまおうとしたタイミングで、花と鍵を落としてしまったが、桜ちゃんは気づかなかった。俺たちはそう推理した。


 鞄を開けるタイミングが他にないのであれば、それで妥当だと思える。


 俺はそこで、別の可能性が頭に浮かんだ。


「先輩、鞄を開けるタイミングが別にあれば、桜の花は関係なくなりませんか」

「別のタイミング?」

「桜ちゃんの鞄にはハンカチが入っていたでしょう。例えばトイレに行くとかして、鞄を開けて、そのとき落とした。どうですか」


 伊勢は携帯電話を取り出した。


「悪くないぞ。もしそうなら、色んな問題をすっ飛ばしたベストアンサーだ。富山さんには、落とし物に届いていないか事務室を周ってもらっていたから、その結果も一緒に聞こう」


 俺が走り回っている間に、富山さんにも指示を出していたらしい。聞き込みをしながら指示出しとは、二つ以上のことを並行して考えられるタイプなのか。


「あ、どうも。落とし物に届いていましたか?……無かったですか。一つ桜ちゃんに聞いて欲しいんですけど、富山さんを待っている間、いつ鞄を開けましたか?トイレに行ったり、小銭を出したり、しませんでしたか?」


 しばらく静かになった。


 策士策に溺れるという言葉があるように、思考を進めていくと、その他の可能性、それも、かなり根本的な部分の見落としに気付けないことがある。組み立て家具を買うために部屋を採寸し、値段と機能から選別し、いざ購入したらドライバーが無くて組み立てられなかった、といったような。


 俺が一人暮らしを始めた頃にやらかした実話だ。あれは非常に怠い経験だった。


「トイレに一回行きましたか。じゃあ、そこに鍵が落ちているかもしれませんね。……あ、ありませんでしたか」


 もう調べていたらしい。まあ、根本的な部分の見落としとは、真っ先に思いつくべき点でもある。富山さんだって、その辺りの可能性は確認して当然だった。


 電話を切って、伊勢が唇の片端を上げる。


「だそうだ。惜しかったな。でも、その発想の転換はいいぞ。情報整理を続けよう。

 落とし物としては届いていない。鞄を開ける機会は他にもあったが、そこに鍵は落ちていなかった。周辺、桜ちゃんが行けそうな範囲に桜の花は無い。時間の制限もあったから確実ではないが、「お姉ちゃん」は見つからない」


 伊勢の視線が上に向いた。太陽は下四分の一ほどが地面に沈んでいる。


 可能性を絞り込んでいると言うよりも、調べるほど掴みどころがなくなっていく気がする。桜ちゃんの出鱈目ではない、という前提を立てるにしろ、何か考える起点が欲しい。


「他に落とすタイミングもないですし、桜の花を貰ったときに鞄を開けて、そのとき鍵を落とした仮説は正しそうですね」


 伊勢風に言うなら、仮説に自信を持てたことも収穫、だろうか。


「けど、手詰まりな感がありますね。時間にも制約がありますし、足と人手で絞り込むのはそろそろ限界ですよ」

「簡単に諦めずに考えろよ」

「それは名探偵の役目じゃないですか。俺はワトソンですよ」

「ワトソンだって考えるだろうが。でないと地の文は誰が語るんだよ」

「シャーロックホームズの地の文って、ワトソン視点でしたっけ」


 小学生のときに読んだ記憶がある。『赤毛連盟』、『バスカビル家の犬』。意外と思い出せるものだ。


「揚げ足を取りやがって。神の視点ってやつだよ」


 別に揚げ足を取ったつもりはなく、単純に文体まで覚えていなかっただけなのだが。


 神の視点とは、単一の誰かの視点から語るのではなく、全員を三人称で表現する手法を言う。作者がその気になれば、全員の内心を表記することもできる。


「神の視点で見られれば、この依頼も簡単なんだけどな。『お姉ちゃん』とやらの章を挿入して、回想させれば済む」

「先輩こそ、真面目に考えてくださいよ」

「オレはずっと真面目だ」


 化学A棟の屋上からはカラスがこっちを見ていた。鳥の視点でもわかりやすそうだ。


「ほら、助手のワトソン君、名探偵が行き詰っているときこそ助手の腕の見せ所だぞ。なんとかして助けたまえよ」


 ホームズなら絶対に言わないであろう台詞を伊勢は言う。


「私に何ができるかな」


 在りもしない顎髭を触ってみせた。


「何だその口調」

「ホームズってこんな感じじゃありませんでしたっけ」


 睨まれた。


「お前がホームズになってどうすんだよ。いいから真面目に頭を動かせ。桜の花も問題だが、その「お姉ちゃん」の行動も不可解と言えば不可解なんだ」

「桜ちゃんを連れ戻せた理由は説明がついたじゃないですか」


 まさか、そこから考え直しなのか。


「そこじゃねえよ」

「そこじゃない?じゃあ、何が不可解なんです?」


 伊勢が俺を下から睨みつけた。


「お前、本気で言っているのか?他に説明がつかないところが無いって?」


 俺は「お姉ちゃん」の行動を思い返す。桜ちゃんを化学A棟三階で見かけ、外で桜ちゃんを見つけて連れ戻した。


「すいません、何のことかわからないんですが……」


 また怒られるかと思ったが、伊勢も俺の様子を見て首を捻っていた。


「本当に思いつかないのか。おかしい。これは、誰かが壮大な勘違いをしている可能性があるな。なあ、達也。「お姉ちゃん」はどうして桜ちゃんに花をあげたんだと思う」

「え」


 予想外の方向から問われ、咄嗟に返事ができなかった。伊勢はじっとこちらを見るばかりで、それ以上口を開こうとしない。なんとか頭をついていかせる。視線を上空でぐるぐる回した。思わず両手を上下に、自分でも意味不明な振り方をしてしまう。


「そりゃあ、泣いている子供を落ち着かせるためでしょう」

「泣いている子供?桜ちゃんは泣いていたのか?」


 んん?話が噛み合わない。


「そういえば、桜ちゃんの話の中では明言されてはいませんでしたね。俺はてっきり、帰り道がわからなくなって泣き出した桜ちゃんを慰めるために、花を摘んでプレゼントしたのかと思ったんですけど」


 小さい女の子には、まあまあ効果的だと思う。その後で、「さっきいた場所に案内してあげる」とでも言えば泣き止むのではないだろうか。


「そういうことだったのか!」


 いきなり大声を出されて飛び退いてしまった。


 伊勢はワナワナと震えながら頭を抱え、口が開いたまま焦点が遠くに行ってしまった。


「何かわかったんですか」


 何がそういうことだったのか、なのか全くわからないが、そこは名探偵。なんてことのない情報からヒントを見つけ、俺には思いつきもしないルートで真実へ至ったのか。


 期待が膨らむ。


「いや、なんで花をあげたんだろうってずっと不思議だった」


 何と言っていいのかわからない。そんな瞬間が人生にはある。俺はしばらく、頭が真っ白になった。感情はあるのに、言葉にならない。


 そんな俺をキョトンした顔で眺める伊勢と一緒に、俺たちは間抜けな顔で見つめ合った。


「……ひょっとして、小さい子、慣れていないですか」


 ようやく思考が追い付いてきた。


 伊勢はキャップの上から頭を掻く。口をへの字にして、目は泳いでいる。


「ああ、うん。正直、得意じゃないんだ。一人っ子だし、親戚の子供とかも、構う機会がなかったもんでな。さっき桜ちゃんが泣き出したときは、もう、どうしたもんかと」


 桜ちゃんへのヒアリングが少し甘いと、実は思っていたのだが、子供の相手は伊勢の弱点だったようだ。


 俺の期待を返してくれ。


「あのタイミングで切り上げたのは、悪くない判断だったと思いますけどね。泣き止むまで待って、さらに正確な情報を聞き出そうとしたら、それだけで日が暮れそうです」


 文字通りの意味で。今回は日が暮れるまでが勝負なのだ。


「そうかな。それならいいんだけど……。達也、おまえ、もしや慣れている?」

「妹がいるんで、少しは」

「ああ、下の兄弟がいるとそうなるのか。凄いな」

「どうですかね」


 自信無さそうな伊勢というのも珍しいものだった。もう少し観察してみたいが、そうも言っていられない。


「それで、花がどうしたんですか」


 どうしたもこうしたも、今回はずっと花のことを考えているのだが。


 まだ何か感嘆している伊勢を急かす。少しだけ不服そうな顔をされた。


「どうしたって言われても、新しいことを知ったってだけだよ。いや、「お姉ちゃん」は凄いな、とも思ったけどな」

「環境次第じゃ普通のことですよ」

「普通か?よっぽど田舎育ちなんじゃねえの?」

「田舎?」

「へ?」

「ん?」


 あれ。また話が噛み合わない。気まずい沈黙が流れる。


「ええと、先輩、どうして田舎が関係するんですか?」


 おかしい。どこから間違った。桜ちゃんを慰めるために花を摘んだところまでは同意していたはずなのに。その後の一分程度で何をすれ違った。


「いや、木登りしないといけなくね?」

「木登り?」

「桜の花を摘もうと思ったら、樹に登らないと、摘めないだろ」


 俺は桜の樹に登る女子大学生を想像した。ファンキーすぎる。


「落ちている花を拾えばいいでしょう」

「桜の?それは花びらだろう、花じゃなくて。ていうか、地面に落ちているものを渡されて、子供は嬉しいのか?桜の花びらって、地面に落ちると結構汚いぞ」


 汚いは失礼な言い方だが、まあ、わかる。桜の花びらは薄くて小さいから、アスファルトや地面に張り付いてすぐに汚れる。


 となると、どういうことだ。


 枝ごと折って渡さないと花弁の集まりとしては渡せないことになってしまう。桜の樹は病気に弱いから、折れた部分を保護しないと腐ってしまって……いやいや、そういうことじゃない。


 木登りしないと摘めない。それが重要だ。そんなこと、するか?ただでさえ、この季節に咲く桜の花は貴重なのに。


「先輩、何かおかしいです」

「やっぱりおかしいよな」


 ようやく伊勢の思考に追いつけた。大学の、狂い咲きしている桜に登って枝を摘んでくる女性。それは凄い。行動力も、見境なさも。


 そんなことをする人がいたら立派な変人だ。初対面で名探偵を名乗る伊勢には言われたくないだろうが、俺はただの助手なので言っていいだろう。


 結論、俺たち、または桜ちゃんは何かを勘違いしている可能性が高い。


「それが鍵な気がする。鍵を見つけるための」


 伊勢が意図せず上手いこと言ったが、出来は微妙だった。


「洒落じゃないぞ」


 言わなくてもいいよ。ちょっと恥ずかしそうにするな。


 太陽は半分隠れた。






「達也、おまえ、桜ちゃんにどんな花だったか、ちゃんと聞いてこい」


 伊勢は桜ちゃんへのヒアリングを俺に任せて、自分はじっくり考える方針に決めた。適材適所、助手にはこういう出番もあるのだなあ。


 富山さんに電話して、桜ちゃんに思い出しておいてもらうようにお願いし、化学A棟に入る。入る直前に伊勢を見ると、目線はまた葉桜に向いていた。どうしてもあれが気になるらしい。


 花について詳細を聞き出すのは苦労したが、「色はどうだったかな?」、「丸かった?ツンツンしていた?」とじっくり一つ一つ聞いていくうちに、俺たちの誤解の正体が分かった気がした。


 改めてヒアリングした結果とこれまで集めた情報、進めた推理、全てを総合すると、可能性は多くない。俺は時間を使う価値があると判断し、根掘り葉掘り聞いた。花だけに。


 自分なりの答えを持って戻ると、伊勢は葉桜の前に立っていた。キョロキョロとしている。俺はその姿に、自分の仮説の自信を深めた。


「先輩、戻りました」

「おう、多分わかったぞ」

「はい、俺もです」

「ふうん?」


 伊勢の唇の両端が上がった。俺も笑みで返す。


「じゃあ、答え合わせといくか」


 伊勢は指さした。葉桜を、ではなく、俺の背後にある黄色い花を。俺はその花と、伊勢の背後にある葉桜を見比べた。


「同感です」


 俺は桜ちゃんから直接全て聞いたからわかっているので、ここは先輩に花を譲ろう。桜なだけに。


「どうしてわかったんですか?」


 伊勢が持っている情報だけから辿り着くのは難しかったはずだ。


「たまたま、見落としがないか歩き回っていたら閃いただけだ」


 伊勢は俺の背後に歩き、しゃがみこんだ。人差し指を下に向ける。黄色い花のさらに下、花の名前が書かれた札に。


「これも桜にゃあ、違いねえ」


 なぜか江戸っ子口調で示したそれに書かれていた文字は「秋桜」。


「桜ちゃんは、桜という漢字を知っていたわけだ。葉桜に巻かれている札には漢字で「桜」と書かれている。このことから、植物の名前が表記されているのだと推測した。「お姉ちゃん」が摘んだ花の傍には、同じ漢字が書かれた札がある。「秋」は読めなくても「桜」は読める。だから、桜の花を貰ったと言った。何も嘘はついていない」


「お姉ちゃん」から貰った花はコスモスの花だった。一輪、花壇から摘んだのだろう。


 俺が桜ちゃんに花の色を聞くと、「黄色」と返ってきた。それで、俺たちが探しているものが桜、いわゆるソメイヨシノではないことがわかった。どうして桜だと思ったのか、順々に聞いていけば答えは明らかだった。


「自分の名前だから間違えない。桜ちゃんは最初から、正確に、正直に話してくれていたってわけだ」


 一度は疑った自分を反省した。桜ちゃんは彼女なりに、見たもの、体験したことを誠実に話してくれていたのだ。


「ま、依頼人は嘘をつく、それは探偵の常識だ。それと同じくらい忘れちゃいけないのは、依頼人の主観である、てことだな」


 勉強になった。本人は嘘をついていなくとも、誰の視点から見るかで物事は姿を変える。


「それで、鍵はどこに?」


 伊勢はにんまりと笑った。


「この辺。急いで探すぞ」

「ですよね」


 俺たちはすぐに地べたを這って鍵探しを開始した。太陽は四分の三が隠れてしまった。






 富山さんと桜ちゃんも呼んで、俺たちは四人、真っ赤に暗くなる空の下、アンパンマンのキーホルダーが付いた鍵を探して這い回った。


 一応桜ちゃんに確認してもらったところ、ここに来たことは間違いないらしい。「お姉ちゃん」と逢ったのもここだとお墨付きを貰えた。俺たちの推理は間違っていない。


 だが、鍵がない。ここで間違いないはずなのに。頭上ではカラスがカア、と馬鹿にするように見下ろして鳴いた。


 こっちは真剣なんだよ、鳥の分際で。


 睨みつけてやるが、カラスは首を傾げるだけだった。


 でかいな、あいつ。態度も図体も。喧嘩したら負けそう。


 地面に向き直ると、焦燥感が背筋に広がる。あまりにも見つからない。そんなに難しい探し物には思えないのだが。


「先輩、これ、ありますかね」

「どういう意味だよ」


 伊勢は草むらに頭を突っ込んでいた。這い出てくると、キャップが草に引っ掛かって脱げた。


「誰かが持って行ったんじゃないですか」


 俺は鬼なので、人間より遥かに視力がいい。このくらいの暗さはものともしないし、ざっと見ただけで、わかりやすい所に鍵がないことはわかった。


「他人の家の鍵を持って行ってどうするんだよ」

「どうって、悪いことに使えませんかね」

「どうやって」


 伊勢は不愛想に言う。俺は一応頭を回転させてみる。


「空き巣とか」

「そもそも家の場所がわからないだろうが」


 一撃で論破された。たしかに、鍵だけあっても、それを使える家がわからないと空き巣には入れない。


「誰かの家の鍵が落ちていたからって、それを持ち去る理由は無いんだよ。昔、アパートの駐輪場に何かの鍵が放置されていたんだが、何か月もそのままだったしな」


 ううむ。似たような経験は俺にもある。となると、誰かに蹴られたとか、風で運ばれたとかで道の脇の草むらに放り込まれてしまったか。桜の木の根元を、四つん這いで注意深く見て回る。雑草の背が高くて、ここに隠れていたら簡単には見つけられない。


 そして、日が完全に沈んだ。


 鬼の俺でも手元が見えづらくなった。人間の目ではもう無理だろう。桜ちゃんと富山さんも疲れて座り込んでしまっている。伊勢はまだガサゴソやっていたが、俺はその肩に手を置いた。


「先輩、もう無理ですよ」


 俺も走り回って探し回って、いい加減に体力が擦り減っている。特に、集中力がもうない。


 伊勢は手を止め、むっつりとした顔で座り込んだ。


「悔しいな」

「これだけ探して見つからないんですから、きっと持っていかれちゃったんですよ」

「だから、誰にだよ」


 伊勢は大の字に、地面に直接寝転がった。それを汚いと言える者は、この場にいない。


「誰かに使いたい何かですよ」

「あ?」

「間違えました。何かに使いたい誰かですよ」


 俺も相当疲れているみたいだ。口と脳がバラバラに動いている。


 立ち上がり、腰を伸ばして空を見た。赤すら消えそうになっている。遠くからカラスがこっちを見ていた。お前はずっといるが、何を考えているんだ。


「あの、ありがとうございました。もう諦めましょう。ここまでしていただいてありがとうございます。嬉しかったです」


 富山さんが恐る恐る言った。


「こちらこそ、お役に立てなくてすいません」


 俺たちは神様ではない。鬼と人間。名探偵とその助手だ。上手くいかないことだって、あって当然なのだ。


「今、なんて言った?」


 俺の後ろから声がした。振り向くと、伊勢が寝転がったまま目を見開いている。


「お役に立てなくてすいません、って言いました」

「その前だ」

「もう諦めましょう?」

「もっと前」


 もっと前?


「間違えました。何かに使いたい誰かですよ。ですか?」

「あー、いや、もっと前」

「ええ?ううん?」


 何を言ったっけ。言い間違えたような。そうだ、


「誰かに使いたい何かですよ」


 その瞬間伊勢が跳ね起きた。


「それだ!」


 俺と富山さん、桜ちゃんは呆気に取られ、伊勢は猛獣のように唸り声を上げた。キョロキョロと視線を彷徨わせる。宙で止まり、指を鳴らした。


「そういうことか」


 正気を失ったような行動に、軽く引く。


「ど、どうしたんですか」

「達也、行くぞ。農学部だ」

「農学部?」

「富山さんと桜ちゃんは待っていてください。もうちょっとだけ、粘らせてください」


 言い終わると弾かれたように伊勢は走り出した。





 農学部エリアに来るのは、実は初めてだ。理学部エリアからほど近いわりに、雑木林に囲まれていて中が見えないのもあるが、食堂や生協がないので用がない。


「お前、足速いな」


 あっという間に追いついて余裕で並走した俺に、伊勢は息を切らしながら言う。


「そんなことより、どうしてこんな所に?」

「学者の力を借りるんだよ」


 伊勢は目的地がはっきりしているようで、すいすいと進む。


「あの建物に、おっと、いらっしゃった」


 通りかかった畑(なぜか近くから何匹もの犬の遠吠えが聞こえる)で、壮年の男性が何かの作業をしていた。


「柏木教授、ご無沙汰しています」


 伊勢が駆け寄っていく。柏木と呼ばれた男性は、じろりと伊勢に目をやった。


「誰だ、君は」

「三か月前くらいにお話しした者です。お忘れになっていても仕方ありません。ほんの少しだけでしたから」


 どうやら伊勢は一方的に知っているらしい。学者の力と言ったが、この教授が鍵を見つけてくれるのだろうか。


 瞬間、俺の脳細胞が発火したかのように発想が生まれた。犬だ。今遠吠えしている犬に桜ちゃんの匂いを覚えさせ、鍵を探させる作戦か!


「お力をお借りしたくて来ました。実は……」


 伊勢がことの経緯を説明する。俺は警察犬さながらに、この男性が飼育している犬たちが鍵を探し当てる想像を育てて待った。


「……ということで、鍵を落とした場所はわかったのですが、そこで鍵が見つからないんですよ」

「それで、私に何をしろと言うんだ」


 口調はぶっきらぼうだが、作業の手を止めて口を挟まず聞いてくれたので、悪い人ではないのかもしれない。


「カラスが持って行った可能性はありませんか」


 俺は一瞬思考が止まり、霧散し、また戻って来て、疲れているなあと自覚した後で、ようやく意味がわかった。


 カラス!


「あるな。巣材に使えそうなものなら、鳥類は集める習性がある。ふん、話が読めたぞ」

「さすが。助かります」

「待っていろ」


 言葉少なに言い残し、柏木教授は畑のそばの納屋に入った。すぐに出てきたかと思ったら、大きな脚立とワイヤーハンガーを抱えて出てきた。


「これを運べ、若造」

「了解です。ほれ、達也」

「ん、あ、はい」


 柏木一人に抱えられる脚立ならば、俺は余裕で担げる。伊勢の手は必要なかった。


「君、見た目より力があるな」

「そのための助手なもので」

「助手?」

「申し遅れました。オレは伊勢ヨシトモ。この大学の学生兼名探偵です」

「俺は探偵助手です」


 名探偵助手は、さすがに恥ずかしくて言えない。


 柏木はふっと笑った。


「そうか。最近の学生は大人しくなったと思っていたが。君たちのような学生は、嫌いじゃないよ」


 柏木の顔が少し柔らかくなった気がした。笑ったのかもしれない。


「君たちは、このキャンパスに何羽のカラスが住んでいるか知っているか」


 カラスの密度?わからない。適当に答える。


「三十羽くらいですか?」

「二羽だ」


 驚きの低さだった。


「一組の番しかいないってことですか?」

「そういうことだ。私はオスの方をヌシ、雌の方をツレと呼んでいる。この強い二羽が縄張りにしているため、この大学にはカラスが少ない」


 俺は、今日ずっと目にしてきたカラスを思い返す。かなり大きかった。たしかに、あいつなら家の鍵くらい余裕で運ぶだろう。


「鳥による農作物の被害は0にできない。特にカラスは力が強く頭もいい。数が増えると、研究途中の品種の育成に悪影響が出かねない。あの二羽が占領している限り、その被害は最小限になる。だから、私はヌシとツレがここを縄張りにし続けられるように、少しばかり気を配っている。当然、巣の場所も知っている」


 柏木は用途不明な建物に入っていった。入口にも何も記されていない。階段を昇っていき、そのまま屋上へ出た。


「ここにかけろ」


 言われるがまま脚立を置く。屋上にはさらに一段上がった部分があり、俺たちはそこに登る。


「ここですか?」


 そこは配管が入り組んでおり暗さも相まって、油断すると転びそうだった。


「そうだ」


 奥に進むと、一段低く、屋上の他の部分と同じ高さに戻った。そこも配管が入り組み、そして配管の間に鳥の巣が見えた。


「「あった」」


 俺と伊勢は声を合わせて巣を見下ろす。大きい。大小の枝や人工物が編み合わされ、みっしりと椀型を形成している。その中に煌めく物が見えた。よく見ると、アンパンマンも見える。じわじわと、喜びがつま先から広がる。


「先輩、ありましたよ。アンパンマン」

「え、マジで?やった!」


 伊勢は携帯電話を取り出して富山さんに電話をかけた。


「ありました、もうちょっと待っていてください」


 俺たちの前に手の平が突き出された。柏木は俺たちを制止し、周囲を見渡している。やがて視線は右を向いて止まった。


「君たち、静かにしていろ」


 柏木の目線の先には大きなカラスがいた。屋上のフェンスに留まっている。背後から羽音が聞こえて振り向くと、同じくらい大きなカラスがもう一羽いた。


「ヌシとツレだ」


 柏木はその場に正座した。


「君たちも座れ」


 俺と伊勢は顔を見合わせ、言われた通り屋上に正座する。


 巣を正面に、左右には大きなカラス。人間二人と鬼一人が正座。どういう意図だろう。


 俺の心の声が聞こえたように、柏木は朴訥と喋り出した。


「礼儀を正すんだ。彼らは目がいいから、こちらが何をしているか見えているし、頭がいいから、察そうとしてくれる。巣を荒そうとする人間には攻撃するが、こちらに悪意が無いことをわかってもらえれば、返してくれるはずだ」


 柏木は深く頭を下げた。紛うことなき土下座である。俺たちも合わせて地面に額をつけた。


 脳内で、じいさんの「男が簡単に頭を下げるな」という声がしたが、不思議と屈辱感のようなものはなかった。さっきまで草と土にまみれていたせいもあるかもしれない。


「ヌシとツレよ。あなた方が拾われたものに、ある人間にとって大切な物がありました。どうか、それを返していただきたい。あなた方の巣を荒らすようなことはしないと誓います」


 柏木が言う言葉はカラスには理解できないだろう。だがなぜか、それを無駄だと断じる気にはなれなかった。


 土下座したまま静かにしていると、両横からカチカチと、カラスたちが足を置き直す音が聞こえる。


「どうか、許していただきたい」


 羽音がすぐ近くで聞こえた。一メートルほどしか離れていない場所で、爪がコンクリートに触れる固い音がする。


 そのまま数分も待っていただろうか。不意に大きな羽音がして、遠ざかっていった。


「許可が貰えたようだ。顔を上げていいぞ」


 ゆっくりと顔を上げると、カラスたちは少し離れた木の枝に移っていた。


 唐突に、これが礼儀なのだと思った。異なる者同士が誠意を示し、理解し合おうと努め、お互いの価値観を尊重し合う。人間同士の上辺の礼儀とは違う、本物の心のやり取りがあった。


 なんだか荘厳な気持ちになり、俺はもう一度カラスに会釈した。


「脚立を持ってこい」


 柏木に言われ、俺は巣の傍に、慎重に脚立を置く。柏木がそっと降り、巣の中から鍵とキーホルダーを拾い上げた。


「これか?」

「間違いありません」

「達也って目がいいよな。足も速いし」


 柏木が戻ると脚立を引っ張り上げ、俺たちは巣から離れた。


 柏木は持ってきていた二本のワイヤーハンガーを手でグネグネと解し、そっと並べて置いた。


「君たちも何か、そうだな、小さい金属棒みたいなものを持っていないか」


 金属棒、という言葉は馴染みがなかったが、柏木が言いたいことはわかった。巣材をもらったので返礼品を贈ろうということだろう。ポケットを探ると、ヘアピンが二本出てきた。


「これはどうですか」

「ふむ。少し小さいが、いらなければ残すだろう」


 柏木はヘアピンを真っすぐに伸ばし、ワイヤーハンガーの隣に恭しく置いた。最後に全員で一礼し、その場を去った。




「これで間違いないかな」


 伊勢が桜ちゃんに鍵を手渡した。桜ちゃんは勢いよく何度も頷いている。思わず俺も笑顔になってしまった。


 なんと驚いたことに、探し始めてから一時間半ちょっとしか経っていなかった。三時間くらいぶっ通しで動いた気がする。


 辺りはすっかり暗くなっていたので気づかなかったが、屋内の照明で照らされた俺たちは土まみれになっていた。それでも、充実感がある。


「あの、いくらお支払いすれば?」


 財布を出した富山さんに、伊勢は少し困っていた。一応料金体系はあるのだが、今回は時間がなくていろいろと手順をすっ飛ばして調査を始めてしまった。


 それに、もっと価値があるものを見せてもらった気もしていた。


「じゃあ、千六百円で」

「それだけ?」

「初回サービスです。以後、御贔屓に」


 伊勢はしゃがんで、桜ちゃんの頭に手を置いた。今度は避けられなかった。伊勢がいい笑顔になる。


「もう失くすなよ?」

「うん!ありがとう、メータンテーのお姉ちゃん!」

「え⁉」

「ぶふっ」


 俺は笑いを堪えられなかった。伊勢は富山さんより背が低い。女だと思われていたのか。富山さんも必死で笑いを堪えて謝る。


「す、すいません」


 なぜ大人たちが動じているのかわからない桜ちゃんは、怪訝な表情で誰かの説明を求めている。俺は桜ちゃんをフォローすることにした。


「いや、いいんだよ。正直でよろしい。先輩にも現実的な視線を教えてやらないとな。鍵、大事にするんだぞ」


 さっき俺は学んだ。コスモスを桜と呼んだように、子供の理解と表現は主観的で、正直だ。


「うん、ありがとう、おじちゃん」


 ⁉


「ギャハハハハハ!」

「先輩……」

「意趣返しって言葉、知っているか?」


 勝ち誇った顔をされた。いや、痛み分けでしょうが、この状況。


「じゃ、そういうことでお暇します」


 俺たちは達成感と充実感と心の傷と、わずかな報酬を持って辞去した。


「桜ちゃんにコスモスをあげた「お姉ちゃん」って、男だったんじゃないですか」

「ああ、そうかも」


 性別が違っていたら、どれだけ探しても「お姉ちゃん」が見つからないわけだ。


「気になっていたんですけど、柏木教授のこと、どうして知っていたんですか」


 伊勢は文学部三年。農学部とは関りがないはずだ。しかし、迷いなく柏木教授の居場所に向かっていた。接点がわからない。


「ああ、それな。ちょっと前に、大学の怪談について調べたんだよな。怪談って言っても、都市伝説みたいなものだけど」

「ああ、聞いたことがあります」


 なんだっけ。工学部の外階段、首が生えている芝生、カラスの呪いと叫ぶ老人……。


 バチッとシナプスに火花が走った気がした。


「え、あ、そういうこと⁉」


 伊勢はくっくっと笑っていた。


「そういうこと。カラスの呪いと叫ぶ老人、それは柏木教授に遭遇した学生が周囲に話して広まった噂だ」

「どうしてそんなことに」


 たしかに気難しそうな人だったが、人の話はちゃんと聞いてくれたし手も貸してくれた。それに、「呪い」とはどういうことだろう。


「調べてみたんだが、ある学生がヌシかツレのどっちかを追っ払おうとしたらしい。それを目にした柏木教授が農学部エリアの奥から走ってきてカラスとか、呪いとか、何事か叫びながら鍬を振り回してきたんだとか」

「……こわ」


 想像するとホラーだ。鍬を振り回された学生はトラウマになったかもしれない。


「誇張も入っていると思うけどな。実際には、カラスに呪われるのではなく、ヌシとツレがいなくなるとより悪いことになる、と言ったのだろうし。鍬も、振り回したどころか、ただ持っていただけだろ」


 そうは言うが、今くらいの時間帯に、見知らぬ男性が鍬を持って叫びながら走ってきたら、それだけで都市伝説になりそうなくらい怖い。遭遇した学生が周囲に話して広まる様子も想像に難くない。


「何の人脈が役に立つかわかりませんね」

「まったくだ」


 どこからか、カア、という声が聞こえた。思わず見上げて、姿を探してしまう。カラスではなく蝙蝠が飛んでいるのが目に入り、その向こうには星が点々と瞬いていた。


「じゃあ、つけ麺でも食いに行こうぜ。なんとここに千六百円という、二人前にちょうどいいお金がある」

「いいですねえ、お姉ちゃん」

「やめなさい、おじちゃん」


 脇腹を突かれた。






 暑さがようやく陰りを見せ始めたある日、俺は家で彩とゲームに興じていた。俺が前髪を気にしていると、それを見た彩が持っていた髪留めでまた前髪を留めてくれた。


「そういえば、この前あげたヘアピンは?」

「あー」


 どうしたんだっけ。ああ、そうだそうだ。


「少女の笑顔のために捧げてきた」


 粋な言い回しのつもりだったのだが、彩の眉間に小さな皺が寄った。


「嘘でしょ。女の子にあげてきたの?」


 いかん、誤解を解かなければ。


「いや、カラスにあげた」

「はあ?」


 前髪が避けられてすっきりした額を掻いた。


「うちの大学、何羽のカラスがいるか知っているか」


 あの時の土下座の感触が、まだ額に残っている。土と埃にまみれた自分の臭いすらも思い出せそうなくらい、あの屋上は美しかった。


 またあんな土下座をしたいと思うのは、情けないことではないと思う。

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