第5話 幽霊桜(前編)

 桜の美しさって、どこから来るんだろう。


 日本人は桜が大好きだ。古来から桜を愛で、今や日本のどこにいっても桜が植えられている。


 春になれば花見で酒を呑みに集まる大人がそりゃあ大勢いる。ここでいう花は桜のことだ、なんて明記するまでもなく、花と言えば桜。日本人は刷り込まれている。梅や椿を見ることを花見とは言わない。


 他の花に対して失礼じゃないか、とはいかにも俺が言いそうなことだが、俺は意外と桜が好きだ。特に夜桜が好み。毎年春になると近所の花見スポットに出かけて友達と酒盛りをする。


 さて、桜談義も尽きぬところだが、ここで質問だ。桜の花弁をまじまじと、じっくりと、数分かけて観察したことはあるか?


 遠くから見ると桜は淡いピンク色に見える。だが、花弁を近くで見ると、どう見ても白なんだ。あれ、じゃあどうしてピンク色に見えるのかって思うよな。俺の観察によると、ソメイヨシノは蕾やガクの部分がピンク色で、白い花弁がそれを透かして、全体を淡くピンク色に見せているんだ。


 桜の色から儚さを感じるって人はそんなに少なくないだろう。それは、もしかしたらそんな理由かもしれない。


 小学生の観察日記じゃあるまいし、それがどうしたって?問うてみて欲しかったんだ。あなたは桜についてどれだけ真面目に向き合っていましたか?てな。


 今回の話は、自称名探偵である伊勢ヨシトモと、その助手である俺、大野達也が出会った桜に関わる依頼だ。


 見えているようで意外と見ていない、花って、そういうものかもしれない。






 夏休みも後半に入り、暑さが徐々に和らいできた。とはいってもセ氏三十度を越えなくなったというだけで、衣替えにはまだ早い。俺は鬼で人間よりも丈夫だが、暑さ寒さには普通に弱い。


 鬼って何だ、という質問には、答えを割愛させていただく。別の機会に説明する。どうでもいいけど、割愛って言葉、いいよな。愛が入ってんだぜ。ごめん、脱線した。


 この夏は伊勢の助手になり、落書き犯を追ったり、幽霊退治に失敗してみたり、およそ高校生までとはかけ離れた夏休みを送ることになった。


 そういえば、人生初の骨折もこの夏の出来事だった。完治した今となってはいい思い出だ。帰省したときは家族から根掘り葉掘り、骨折について問い質された。若くして骨折した鬼の例は非常に少ないらしく、地元の文献に載りそうな勢いだったので、なんとか逃げた。そんな不名誉な名の残し方はしたくない。


 下宿に戻ってからは、ほとんど毎日、彼女の楢木彩が家に来るようになった。足を骨折していたときは素直にありがたかったが、そのまま、ほとんど同棲のようなサイクルができてしまった。今も二人でテレビゲームに興じている。


 1Kの六畳間に大人が二人いる状況は、それほど広々としているわけではないのだが、まあ、むくつけき男ならともかく、可愛い彼女を追い返しはしない。


 画面には、中古で買ってきた二人プレイのパズルゲームが映っている。彩はゲームが得意ではないので、


「彩、そっち。台の端に立って」

「オッケー。あ」


 落下。死亡。少し前のシーンからリスタート。こんな流れを何度も繰り返してようやく進む、というのんびりしたプレイをすることになっている。


 高校生の俺だったらじれったくなっていただろうが、二十歳も超えて大人になった俺は、ゲームの進行が遅いくらいで苛立ったりはしない。


「たっちゃん、これどうするの?」


 画面には円を十二等分した図形が現れている。手がかりをもとに、分割されたパネルを順番に押していって爆弾を解除するシナリオだ。その順番は判明しているのだが、


「斜めにスティック動かして。ええと、一時の方向に合わせるの」

「斜め?あれ」


 何度やっても彩は二時の方向にスティックを倒してしまう。そうこうしているうちに時間制限が迫ってくる。


「たっちゃん、やばいやばい!キャー!」


 こうして五連続で俺たちが操るキャラクターは爆死した。


 ゲームのキャラが何度死んでも構わないが、近くで金切り声を出すのは止めて欲しい。少々頭痛がする。


「休憩しよう」


 俺は目と耳を休めるためにコントローラーを放り出した。


「コーヒーと紅茶、どっちがいい?」

「コーヒー。ありがと」


 俺は電気ケトルで湯を沸かす。インスタントコーヒーと、砂糖とミルクも準備する。


 彩は画面の前で斜め入力の練習をしている。男と女の差がこんなところに表れるとは、恥ずかしながら知らなかった。特に努力したつもりはないが、幼少期のゲーム操作経験は大人になっても歴然と技量に差をもたらすらしい。自転車の運転と同じくらい肉体記憶に残っているのかもしれない。


 彩との暮らしは楽だ。俺を好いてくれているし、お互いの距離感のようなものもわかってきた。完全にプライベートな姿を見せてくれているわけではないが、今まで付き合った中では最も俺に近づこうとする女の子だと感じる。


 しかし、俺は鬼なので、人間と結ばれることはない。付き合っているのは、俺が背負う業のためで、彩はそれに巻き込む予定だ。簡単にいえば、そろそろ別れを切り出す。


 思いやりある男なら、別れの気配を匂わせて最小限の傷で済ませようとするだろう。だが俺は、人間が将来約束された幸福を失うときの絶望感、幸福から不幸に変わった時の感情の落差を食べる幸食さちはみという業を背負っている。鬼は誰しもこのような業を背負わされて生まれてくる。


 だから、彩にとって唐突に、何の予告も無しに幸せの絶頂から突き落とすような振り方をしなければならない。我ながら酷い男だ。まさに業。


 電気ケトルのスイッチが切れ、沸騰したことが告げられた。俺はブラック、彩には砂糖とミルク入り。棚を見ると、コーヒー用のミルクは残りが少ない。無くなるまで俺は彩と付き合っているだろうか。買い足すかどうか、微妙なところ。


 コーヒーのミルクが二人のタイムリミットを表しているようで、しばらくセンチメンタルな気分で眺めてしまった。ゲームのように時間が戻ればいいのだが、現実は俺の幸食としてのリミットが追ってくる。あまり引き延ばしていると飢餓感によって自滅してしまう。


「どうしたの?」


 彩の声が聞こえてきた。俺の動きが無いことに気付いたらしい。狭い家で隠し事をしながら付き合うのは、いつも難しい。


 難しいけれど、やらなければならない。


「いや、なんでもない」


 作りかけのコーヒーを淹れ、両手にカップを持っていく。コーヒーを飲もうとして、前髪が気になってかき上げた。


「たっちゃん、髪伸びたね」

「そうだな。切らないといけないけど、ついつい面倒で」


 夏休みに入ってから髪を切った記憶が無い。伊勢の助手と骨折と帰省で、あっという間に時間が過ぎてしまった。


「いいものあるよ。ちょっと待って」


 彩が鞄を探り始めた。何が出てくるのか待っていると、出てきたものはヘアピンだった。黒い幅広の針金が二本。


「留めてあげる」


 彩は俺の正面から覗き込んで前髪を左右に分けていく。俺は顎を引いて、大人しく頭を突き出した。俺の視線が彩より下になることはあまりないので、ちょっと新鮮な気分になる。


 俺の前髪に二本のヘアピンが差された。慣れない他人の髪だろうに、手早い。彩の鞄の中に手鏡が見えたので、引っ張り出して映してみた。女の子のように綺麗に前髪が避けられている。


「俺がやっても、なぜが上手く留まらないんだよな。だらんとなったり、七三分けみたいになったり」

「それは、キャリアが違うよ。ゲームと同じだね。ていうか、試したことあるんだ」

「実家でこたつに入っていたとき、妹のヘアピンが転がっていたから」


 きっと、そのときの俺は暇だったのだろう。みかんを食べることに飽きていたのかもしれない。女子の努力ってもっと計り知れないんだろうな、などと今さら教訓めいたことを思った。


「ねえ、たっちゃん。本棚、なんか空いてない?」


 彩の視線の先には天井まで届く本棚があり、八割がた埋まっている。その中に、不自然に欠けている部分があった。


「ああ、友達に貸した」

「ふーん」


 完結した漫画のシリーズ一式がそこには差さっていたのだが、同じ鬼で幼馴染の川辺紫乃が読みたいというので貸した。家が近いことは知っていたのだが、大学に入って一年と少し、会っていなかった。この夏に帰省した際、家が近いことが判明し、漫画を貸すことになった。


 疑われているのかな。何かを。


 貸した漫画はグロい描写が多い青年漫画なのだが、もしもそこから他の女の匂いを嗅ぎ取ったのだとすれば、彩の直感も侮れない。振ろうとしている身なので、疚しいところは何もありません、と言えないのもまた、悲しい話だ。


 態度と表情だけは、「それが何か?」という何も考えていない風を装う。鬼の業に目覚めて約五年。必然的に嘘や本心を隠す術は身についてしまった。男は嘘が下手だと巷では言われるが、こちとら命がけの嘘をつき続けているのだ。そこらの男とは覚悟が違う。


 俺は何食わぬ顔でコーヒーを飲んだ。彩がちらちらと覗き込んでいるのを分かった上で、目を合わせてにっこり笑った。


 エアコンが効いた部屋に籠っていると、昼でもホットドリンクの方が美味しい。エネルギーの無駄だなあ、と思うけれど、地球温暖化を進めているのは人間だ。鬼ではない。堂々とエネルギーを使わせてもらう。


「彩、今日はバイトだっけ」

「うん、もうすぐ行く」


 彩は大型スポーツ用品店でバイトをしている。中学では陸上部、高校ではハンドボール部だったとのことで、スポーツ用具についてひとしきり知識があったから選んだのだとか。ボウリングなんかをさせると、結構いいスコアを出す。体格が小柄なので、スポーツでは大成しようがなかったのだと本人は言っていた。


 リスのように、ホットコーヒーを小さな口で少しずつ飲む姿は俺の好みなのだが、もうすぐ見られなくなると思うと、寂しいものもある。可愛いものを傍に置いておきたいのは本心だが、幸食としての摂取をサボるとそれ以上に強烈な飢餓感に襲われてしまう。体質のために何かを我慢しなければならないのは、生きるものの常であろう。


 鬼の場合、すべからく人間を巻き込まなければならないだけだ。


「たっちゃんは、今日は何をするの?」

「大学の本屋に行くわ。新刊が出ているはずだから」

「そっか」

「本棚、狭くなってきたな」


 今日は釣れるだろうか。






 暑さのピークも越え、俺は大学の生協二階にある書店にいた。大学には書店がいくつもあって、それぞれで微妙にラインナップが異なる。専門書は勿論のこと、一般向けのエンタメ小説や旅行書、雑誌なんかも、細かに趣味が違う。大学内をぐるりと回るだけでもちょっとした本屋巡りができるというわけだ。


 そしてもう一つ、最近の俺は、どうも後をつけられているというか、見張られているときがある気がする。


 今思えば、始まりは夏休みの開始前後だったように思う。遠くに足音を感じる時期が断続的にあった。初めは気づいていなかったし、最近多いな、と気づいてからも気にしていなかった。意識し始めたのは、探偵助手として活動し始めた後。もしや尾行されているのでは、とそこでようやく思い当たった。


 一度気になると意識の俎上にくるもので、よくよく思い返してプロファイリングしてみた。


 常時ではない。ふと気づくと、背後に足音を感じることがある。その程度の頻度だ。鬼の感覚器官は人間より遥かに鋭敏なので、集中すれば遠くの足音だって聞こえる。


 ただ、足音が聞こえてもすぐに消えてしまう。もっと食いついてくれたら罠を張って正体を暴けそうなのだが、かなり遠くで、ほんの短い時間で相手は尾行をやめてしまう。


 自分が探偵の真似事を始めたためなのか、相手の心理が読めるような気になってきた。おそらく、相手は本気で俺の監視をしたり、プライバシーを暴いたりする気はない。どちらかといえば、気になる異性を見かけてちょっとついて歩いてみたとか、そんな感じに思える。


 俺の外見を自分で評価すると、まあまあ、というところだと思う。誰かに一目惚れされるような顔ではない。だから、相手の狙いも正体もよくわからない。こちらに気取られないようにしている慎重さと繊細さが、なんとなく女じゃないかな、という印象を与えている。


 てなわけで、今日は昼間から出かけてみることで相手の出方を探ってみた。結果、何の気配もなし。今日はいないようだ。伊勢っぽく言うなら、それもまた収穫。日中のイレギュラーな行動には対応できない、もしくは、しない。こうして行動とリアクションを蓄積していけば、自ずと向こうの狙いも見えるはずだ。プロファイリングは続いている。


 こんな形で探偵助手の経験を生かす日が来るとは、なんだか俺の日常が突然物騒になった気がする。見方を変えれば、本当はずっと物騒で、俺が鈍くて気づいていないだけだったのかもしれない。


 文庫の小説を一冊購入し、俺は人気の少ない大学構内をぶらつく。右手には、去年完成した真新しい七階建ての工学部棟がそびえ、ピカピカの電子ロック認証機がエントランスに控えている。左手には足が長くなった芝生が広がり、中央の池には水が注ぎ込まれている。今いる道路と芝生エリアの間には一定間隔で植樹されており、今が盛りとばかりに濃い緑が枝から零れ落ちそうだ。


 学期中は新入生が溢れかえっていたエリアだが、今は閑散としている。木々はこんなに生命力溢れる姿を見せているのに、人間はエアコンが効いた屋内でちまちまとテレビゲームに興じている。それは俺か。


 あの池には時価数万円の鯉が生息しているという噂だが、俺の知り合いに見たものはいない。


 バサバサと羽音が聞こえて顔を上げた。木の枝に留まっているカラスと目が合った。大きい。首を傾げられた。


「何だよ」


 さてはこいつが鯉を食べたかな。自然界は弱肉強食。派手な鯉は見つけやすかったことだろう。


 高い所から人間の営みを見下ろす姿が少し気に入った。何かを悟っていそうな落ち着いた態度も妙な貫禄がある。


「お互い、食うものに困らないことを祈ろうぜ」


 真下に差し掛かったとき、親指を立ててエールを送ったら糞を落とされた。間一髪で避ける。どこで鬼の身体能力を発揮させられているんだ。


「おいこら、カラス、何すんだよ」


 喚く俺を後目に、カラスはのんびりと毛繕いを始めた。カラスにも聞こえるように、派手に舌打ちをして離れた。


 講義もないので、人の音が全然聞こえない。学部生は夏休みで、バイトやら旅行やら、海に山にBBQにと思い出作りに忙しい。俺も去年の夏休みは時間を惜しむようにあちこち顔を出したものだが、今年は控えめになっている。代わりにもっと面白い経験をしているので、惜しいとは思わない。


 だだっ広い大学の構内に、今は誰の姿も無い。蝉の鳴き声だけがやかましく、俺は独りであることを意識した。


 先月帰省したとき、故郷の同級生たちと話した。鬼の村なので、全員が鬼。そのとき、ある男が零した言葉が不意に蘇った。


「大学に通っていると、たまにすげえ孤独だなって思うんだよ。こんなに大勢同年代の奴らがいるのに、その中に鬼は俺だけなんだよなって」


 俺たちは口々に「わかる」、「そうそう」と同意し合った。酒が入っていたこともあって、少し泣いた奴もいた。


 鬼であることを隠しているけれど、俺たちはどうしたって人間ではない。差別を受けるわけではないが、俺たち自身の心が、鬼と人間は違うということをどうしようもなく痛感している。愉快に日々を過ごしている一方、ふとした拍子に夕立のように襲ってくる孤独感と、俺たちは一生付き合っていかなければならないのだと思う。


 なんとなく、伊勢がいる気がして振り返った。そこには誰もいなかった。いるのは俺だけ。


 伊勢は社交的で、自信に満ち、よく笑う。だけど、どうしてか、この景色が似合う気がした。夏の蝉の声の中、誰もいない場所に赤いキャップを被って佇む伊勢が、はっきり思い描けた。キャップの鍔に触れて「オレは伊勢ヨシトモ。名探偵だ」と誰にともなく呟く姿が脳裏に浮かぶ。


 特殊な性質を持ったあの人も、孤独なのかもしれない。


 空は徐々に赤らむ準備をしていて、夏の長い日もそろそろ終わることを知らせている。風情を感じる俺を、携帯電話のバイブレーションが現実に引き戻した。


 画面には「伊勢ヨシトモ」と表示されている。なんとなく、わかっていた気がした。


「もしもし」

―達也、今どこだ。

「大学で、今から帰るところです」


 挨拶もない。こんなときの要件は察しがつく。


―ちょうど良かった。化学A棟の307に来い。依頼だ。

「了解です。そうですね、三分で行きます」

―急げよ。時間があまりない。


 伊勢の声は落ち着いているが、依頼者の事情はそれほど余裕がないようだ。俺は電話を切って走り出した。


 ちなみに、骨折が治ってから俺は体を動かし始めた。ランニングや軽い筋トレくらいだが、今なら一キロくらい走ったって息は上がらない。


 気持ちは、正直、少し上がっている。






 言われた場所に到着した俺が見たものは、目の下に隈がある女性と小さな女の子だった。伊勢はトレードマークの赤いキャップを被り、七分丈のダボッとしたズボンに半袖のパーカーを着ている。


「よう、達也。近くにいてくれて良かった」


 伊勢はいつもの自信に満ちた顔で片手を上げた。


「話の概要は聞いておいたから、ざっと説明するぞ。この方は富山樹里さん。化学科の特任助教授。富山さん、こいつはオレの助手で、大野達也です」


 女性が軽く頭を下げたので、俺も合わせて会釈する。


 濃い茶色の髪を後ろで無造作にまとめている。Tシャツにジーンズという、簡素な格好。異性の目をバチバチに意識した学部生とは雰囲気が違う。研究者とはこういうものなのか。


「今日、富山さんは家で親戚の子を預かっていたんだ。この子な」


 伊勢が目線で示す。女の子は髪を二つに結んで、赤い目で富山さんの足にしがみついている。こっちはむしろおめかししている。髪がきちんと梳かれ、着ている物も部屋着というより、外出用に見えた。


「預かってはいても、富山さんは有機化学の研究者だからな。今日も実験するために職場に来る必要があった。実験を仕込んで、深夜にまた確認に来る予定なんだそうだ」


 特任助教授は、いわゆるポスドクと呼ばれる期間限定研究者だ。研究室の研究テーマに沿った条件を公募され、採用面接を通して雇用される。事務仕事は少ない反面、任期が切れたら新しい職場を探すことになると聞いたことがある。


 博士号を取った流浪の民、というのが俺の持っているイメージだ。実態はよく知らない。


「で、実験を仕込んで、この子を連れて一旦帰ろうとしたとき、この子の家の鍵が無くなっていることに気付かれたそうだ」


 女の子がキュッと首を縮めた。なるほど、今回の依頼の趣旨が見えた。


「俺たちへの依頼内容は、落とした鍵を早急に見つけること。ま、親戚の子を預かっている身としては、鍵の紛失は、ちょっとした責任を感じるよな。オレが聞いたのはここまでだ」


 なるほど。早速、補足して欲しい情報を脳内にリストアップする。


「富山さんとこの子は、どこにいらっしゃったのですか」


 富山さんもきまり悪そうに体を縮めた。親戚といっても似るわけではないだろうが、後ろめたさを感じている様子が女の子とそっくりだった。


「はい。実験室がこのフロアにあって、ほんの三十分くらいなので、談話エリアで待っているように言ったんです」

「談話エリア?」

「ああ、すいません。自動販売機の前にテーブルと椅子があって、そこで待っているように言ったんです」


 俺は廊下の様子を思い返す。あったような気がする。普段用がある建物ではないから、内部の事情はよくわかっていない。


「実験を開始して戻ってきて、家に連れて帰ろうとしたら、鍵が無いって泣き出して。私もどうすればいいのかわからなくておろおろしていたら、研究室の学生が伊勢君を紹介してくれたんです」


 覇気がない。疲れている。


 富山さんは子供の扱いに慣れていないように見える。実際、小学校低学年か、もっと小さいくらいに見えるこの子を三十分も知らない場所で一人にするのは、どうだろう、あまり良くない気がする。


 だがしかし、俺は妹がいるから小さい子に対する感覚が富山さんとは違うのかもしれないし、富山さんだって本来は子供の相手をせずに研究に専念したいはずだ。親戚の子を預かることになった背景だって、この子の親にも事情があるだろう。一日子供の相手をして消耗していてもおかしくない。


 第一、完璧に暮らせる人間はいない。小さなミスはつきもので、それを解決するために他人を頼るのは恥じることではない。そして、この大学にはうってつけの奴がいる。


 伊勢はキャップの鍔に触れた。最近気づいたが、これは頭を使うときや気合が入ったときの癖らしい。


「目を離す前は、その鍵はありましたか?」

「ありました。喉が渇いたら飲み物を買えるように小銭をバッグに入れさせたのですが、そのとき見えました」


 女の子は小さな黄色いショルダーバッグを提げていた。今は大事そうに抱えている。アニメのキャラクターがプリントされているわけでもなく、無地のシンプルなバッグ。小学生が持つにしては上等そうだ。


 伊勢は屈んで女の子に目線を合わせた。伊勢は小柄だが、さすがに小さい子と比べると大きい。


「こんにちは。オレは伊勢ヨシトモ。名探偵だ」

「メータンテー?」

「そう。君が失くした鍵は、オレが見つけてきてあげる」

「ほんと?」


 女の子の目が輝いた。伊勢の笑みが深くなる。自分の胸に親指を当てる。


「本当だよ。任せておきなさい。それでね、ちょっと教えて欲しいんだけど、一人で待っている間に、どこかへ行ったかな?」


 伊勢は喋りながら女の子の頭を撫でようとしたが、逃げられた。宙に浮いた右手が悲しい。


「お花のところ行ったの」

「お花。……外に行ったの?」


 女の子は頷き、富山さんの陰に隠れてしまった。伊勢がさらに少し、悲しそうな顔になった。


 大人の男が怖いんだな。


 少し微笑ましい気持ちになった。昔の妹を見ているようだ。


「それは、どこかな?」


 伊勢も悲しげながらも少し微笑んでいた。回り込んでさらに聞く。


「わかんない」

「わからない?じゃあ、どうやって帰って来たの?」

「お姉ちゃんが連れて来てくれた」


 女の子はさらに富山さんの脚の周りを回って伊勢から距離を取った。逆に俺からは丸見えになる。突然近づいたら驚くだろうな、と悪戯心がうずいた。依頼人じゃなかったらやったかもしれない。


 伊勢は続けて聞く。


「そのお姉ちゃんは、誰かわかる?」


 首を横に振った。


「その、お花の場所からここまで、そのお姉ちゃんに何て言って連れてきてもらったの?」


 そこで、女の子は黙ってしまった。


「おーい。聞いている?そのお姉さんは、君がここから来たことを知らないよね?どうやって連れて帰ってきてもらえたのかな」

「わかんない」

「何も言っていないけど、連れてきてもらえたの?」


 女の子は頷いた。俺は頭を捻ってしまう。


 どういうことだ。俺は伊勢を見るが、伊勢はふんふんと頷いていた。


「富山さん、鍵に何か特徴はありますか」

「あ、ええと、アンパンマンのキーホルダーがついています」

「お、わかりやすくていいですね」


 伊勢は再び女の子に向き直る。


「そのお花の場所で、鞄を開けたのかな」

「うん。お姉ちゃんがお花を摘んでくれたの。桜の花」

「桜?今の季節に?」


 伊勢は思わず、といった様子でトーンを上げた。あ、まずいかも、と思って女の子を見ると、案の定、顔がぐにゃりと曲がった。


「うわああん」


 女の子が泣き出し、伊勢はおろおろと両手を上げたり下げたり、無意味に動かしている。


「もらったの!ほんとにもらったの!かばんに入ってるもん」


 続いてそう叫んで鞄のファスナーを開け、中身を床にぶち撒けた。ハンカチ、ティッシュ、小銭入れに、裸の小銭。これは富山さんが渡したものだろう。だが、それだけだった。桜の花はどこにもない。


「あれ?あれ?なんで?」


 鞄を逆さにして振る女の子を見ながら、俺は解釈に悩んでいた。


 この場を離れて外に行くことはあり得る。「お花のところ」とやらも、構内にはあちこち木が植えられており花壇も多い。そのどこかであると考えれば不思議はない。だが、そこから連れて帰ってくれた「お姉ちゃん」は、どうやってこの子を連れ戻したのか。そのままでは、どこへ連れ戻せばいいのかわからないはずだ。さらには、そのとき貰った季節外れの桜の花。


 鍵を失くした言い訳に、作り話を語っていないだろうか。


 鞄の中に花が見つからなくて、その子はより大きな声で泣き出した。俺は屈んで背中をさすりながら声をかける。


「ごめん、ごめん。疑っているわけじゃないんだ。花を貰ったけど、失くしちゃったんだね。でも、それ、桜だった?別の花じゃなかった?」

「桜だもん!わたしの名前だからわかるもん!」


 名前?俺は富山さんに視線を向けた。


「あ、すいません。この子、山内桜というんです」


 俺と伊勢は微妙な顔で目を合わせた。桜ちゃんが貰った、桜の花。春の花の代名詞。


 今は九月。


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