第4話 サイレントマイノリティー(後編)

 蓮村さんは経済学部の三年。緊張した面持ちで俺の隣に座った。こっちは俺一人。大学構内の池を囲む遊歩道に設置されたベンチに、松葉杖を立てかけてだらりと座っている。


「座ったままの挨拶ですいませんね。立つのが面倒なもので」

「いいですよ。怪我人を動かすほど狭量ではありません」


 笑っておいた。


「何がおかしいのですか」


 蓮村さんは華奢な人だった。手足が細い。男にとっては守ってあげたくなるタイプ。俺にとっては、食べるにはいいけど、付き合うには好みじゃない。珍しい。大抵一致するのだが。


「怪我人を働かせる上司がいるんですよ。蓮村さんの言葉を聞かせてあげたいです」

「あなたが伊勢君ではないのですか?」

「いえ、俺は助手の大野です。訳あって、伊勢には外してもらいました。あと、敬語じゃなくていいですよ。俺の方が学年、下ですし」


 ちなみに、女性と二人で会うことに彩は難色を示したが、伊勢と二人で説得した。彩は嫉妬深いところがある。


「訳って、何」

「確認したいことがあったのですが、繊細な内容というか、あまり迂闊に広めない方がいい内容だと思ったので。

 今回俺たちは教養棟の中庭を調査しましたが、その一か所を怖がった程度で、彼氏が探偵に調査を依頼するとは思えないんですよね。蓮村さん、他の場所でも同じような恐怖を味わっていませんか」


 俺は努めて何気ない調子で喋る。


 蓮村さんは溜息をついた。


「そうなの。山崎君には申し訳ないんだけど、どうしても怖い場所があって、いつも迷惑をかけちゃうんだよね」

「あ、俺には申し訳なく思わなくていいですからね。特に迷惑を被っていない他人なので」


 蓮村さんが暗くなりそうだったので、明るく先回りした。


「……初対面なのに悪いけど、フォローが下手だよ」


 申し訳なく思わなくていいとは言ったけど、いきなりぶっちゃけるな、この人。そんなに俺は大きく間違えたかな。伊勢にも人でなしだなんて言われるし、さすがに落ち込むぞ。


「この池はどうですか」


 俺の言葉に、正面を向いていた蓮村さんが勢いよく俺の方を見た。


「もしかして、あなたも?」

「わかりません。それを確かめたくてお呼びしたんです。同じものを感じているのかどうか。蓮村さんには、ここ、どう感じますか?」


 蓮村さんはしばらく言葉を探したが、結局、見つからなかった。


「嫌な感じ、としか。夜だともっとはっきりするんだけど、昼間は気配が薄くて。ただ、何かがいて、誰かを探すようにキョロキョロしている、みたいな。漠然としていてごめんね」

「いえいえ。普段、他人に説明する機会もないでしょうから。準備無しで話させているこちらが悪いです」


 軽口を叩きながら分析してみる。蓮村さんには擬人化して感じられている。キョロキョロしていると感じるには、動作が見えるくらいには大きさを持って見えなければならない。


「あなたはどう感じるの?」

「俺には、匂いが感じられます。薄っすらとですが」

「どんな匂い?」


 ちょっと困った。正直に美味しそうな匂いと言うわけにもいかない。


「甘い匂いですよ。熟れ過ぎた果物の匂いです」


 そこは本題ではないので、適当に言って誤魔化すことにした。


「教養棟の中庭も、同じような感覚ですか」

「あっちは、もっとじっとり佇んでいるっていうか、へばりついているっていうか。あの、山崎君から、幽霊がいないことを証明するように依頼されたんだよね?」


 蓮村さんが上目遣いで窺う。


「まあ、そうですね」

「大野君も、何か感じる人なんですよね。だったら、幽霊がいることを証明してもらえませんか」


 おどおどと、小さめの声で俺に控えめに願い出た。


 自分が蠱惑的に見える角度と振舞いを分かった上でのポーズなのだろう。ちょっとぐらっと来た。


 ただし、残念ながら、蓮村さんは不幸になって欲しいタイプだ。ここで「お任せください」と言っておいて後で盛大に裏切ったら美味しそうだが、それはさすがに伊勢に怒られる。それが元で山崎さんとの仲がこじれたら依頼人の利益にならない。


 幽霊がいないことを証明せよと言われたり、幽霊がいることを証明せよと言われたり、皆、悪魔の証明が好きだね。どっちも同じくらい不可能でしょうが。


「それは、自社に持ち帰って検討させていただきます」


 社会人が遣う便利なフレーズは、意味はなくとも出番はある。






 再び俺の家。俺の足がこんななので、本件の打ち合わせは我が家で開かれる流れができた。


「と、いうことで、多分、蓮村さんは本当に幽霊が見えていますね」


 伊勢に蓮村さんと話したことを報告した。俺が嗅ぐ匂いについては、「俺もなんとなくそういうのがわかるみたいです」という曖昧な言い方で伏せた。


「困ったな」


 伊勢は腕を組んで首を捻る。俺は、布団に頭を突っ込んでいる彩の足を突いた。


「彩、怖い話は終わったぞ」


 もぞもぞと布団から這い出てきた。怖いから聞きたくないと、耳を塞いで退避していたのだ。


「一応聞いておくけど、蓮村さんが幽霊を見えている、と思った根拠は何だ」


 伊勢は話の扱いに困っているようだった。


「勘です」

「……だよなあ。そう言われたら否定しようがない。意外と論破できない」

「でも、そういうことですよ。蓮村さんは教養棟の中庭に幽霊がいると主張している。それが全てです」


 この依頼の難しさは、全てが主観である、という点だ。幽霊はいないと思うのは山崎さんや伊勢の主観。幽霊がいると思うのは蓮村さんの主観。なんとなく怖いと思う彩のような主観もあれば、俺のような特殊なタイプの主観もある。


「足音の共鳴は説明したのか?」

「していません。そういうレベルの話でもなかったので」


 中庭の隅にべったりへばりつく幽霊がいる、と話された後に足音の反響について話しても馬鹿を見るだけだ。


「俺はもうちょっと、この件について調べてみます。何というか、幽霊が本当にあそこにいるような気がするんですよね」


 おまえまで何を言い出すのか、と呆れられるかもしれないと思ったが、あにはからんや、伊勢は真面目な顔を崩さなかった。


「調べるって、何を」

「大学の歴史、ですかね。あの場所が何だったのか。何があったのか。ちょっと興味が出てきました」


 俺が嗅いでいるものが幽霊の匂いならば、俺は霊感があると言えるのかもしれない。鬼の感覚については、わかっていないことも多い。それは研究する者がいないためなのだが、ならば自分で調べるしかない。


「そうか。オレも手伝う」

「え?いいですよ。ほとんど趣味なんで」

「依頼が関係しているのなら、仕事だ。そして、それは俺の仕事でもある」


 伊勢は言うが早いか、立ち上がった。


「それに正直なところ、この件をどう解決するべきなのか、まだわかっていないんだ」


 バイトに行くという彩と別れ、俺と伊勢は大学の図書館に来た。俺はすでに汗だくになっている。荷物を伊勢に持ってもらっておいてこの様なので、どれだけ大変かわかってもらえるだろう。


「真っ先に思いつくのは、これですよね」


 俺は図書館内のパソコンで、履修選択時にチェックする講義一覧を開いて見せた。いわゆるシラバスである。その中に、「大学の歴史」という講義がある。教養科目の一つで、文字通りこの大学の創立から現代に至る流れを学ぶ。


「先輩、履修していましたか?」

「していない。達也は?」

「していましたが、内容を忘れました」

「真面目に受けろよ」

「真面目に受けましたよ。当時は」


 一年以上前の講義内容なんて覚えているわけがない。専門ですらないのに。


「覚えていなくてもいいんですって。これから思い出しますから」


 俺はシラバスの「教科書・参考書」の欄を携帯にメモした。


「大学が本を作っているんですよね。そのコピーを配布して講義をしていました。それは覚えています」


 それしか覚えていない。だが、文書というものは、人間の記憶力を外部委託する画期的発明だ。遠慮なく頼らせてもらう。


 蔵書検索システムにタイトルを入力すると、案の定見つかった。棚の場所をまたメモする。


「達也、どうしてそんなに真剣になるんだ」


 棚を探して歩きながら、伊勢が聞いてきた。


「ただの好奇心ですよ。大した理由じゃありません。どうしたんですか」


 伊勢の声が、いつになく心細く聞こえた。


「……意外だと思ったんだ。もっと現実的な奴だと思っていたっていうか。よく知らない人の幽霊話を真面目に受け止めるとは思わなかった。教養棟の中庭で、達也は最初から最後まで現実的に考えていただろ。あんなふうに、蓮村さんの話も現実的に解釈するのかと思っていたんだよな。ま、理由を言いたくないなら聞かないよ」


 棚番号を熱心に確認する振りをして、俺は考えた。鬼の特殊な感覚について人間に話すことは禁じられている。だが、幸食自体は法に触れているわけでもないし、詳細を明かさなければ鬼のことだとわかりもしない。何より、伊勢になら話してもいいような気がした。


「匂いをね、感じたんですよ」

「匂い?」

「あの場所、変わった匂いがしたんです。俺は時折、いろいろな場所でその匂いを嗅いできました。それが蓮村さんの言う幽霊なのか、確かめたいんです」


 松葉杖を突きながら話すのが疲れたので、足を止めた。


「誰にも言わないでくださいよ。彩にも言っていないんですから」


 伊勢は振り返り、困ったように笑って頷いた。


「大事な秘密、聞いちゃったな。約束する。誰にも言わない」


 外からは蝉の声が小さく聞こえている。俺たちは顔もよく見えない薄暗い本棚の間で目線を交わした。ほんの少しの秘密を明かし、それを口外しないと約束する。そんな小さな、小学生みたいな口約束。


 でも、たしかに一歩、俺たちは近づいた。


「大した理由じゃないでしょ」


 大ごとではないように、そう聞こえるように、俺は澄まして歩き出す。伊勢に追いつき、追い抜いた。


「そうだな」


 伊勢もまた、大したことなんて聞かなかったように軽く返す。並んで、また本棚を探す。目的の棚はまだ奥らしい。一段と暗くなった。


「俺が話したお返しってわけでもないですけど、ついでに教えてくださいよ。現実的じゃないっていうなら、先輩だって不思議です。名探偵っていうのは、幽霊を否定するものじゃないですか。トリック、物理現象、心理的な錯覚、そういう説明をつけて納得させるのがまっとうな探偵でしょう。先輩こそ、俺の調査に付き合うと思いませんでした」


 てっきり、蓮村さんにも錯覚だとか、幽霊がいるなんて不自然だとか、そういう論理をぶつけるものかと思っていた。だが、伊勢は解決する方法がわからないと言った。俺が抱く名探偵のイメージとは違う。それとも、俺が知らない伊勢の一面かもしれない。


 返事が無かった。隣を見ると、伊勢が足を止めていた。何かを言おうとして、目が泳いでいる。


「どうしました」


 意外だった。伊勢が言い淀む場面は初めて見た。しかも、泣きそうな、子供が謝る前のような言いにくそうな顔で。


「今度は俺が言う番ですね。言いたくないなら聞きません」


 期せずして伊勢の心の柔らかい部分を突いてしまったみたいだった。俺はまだまだこの人のことを知らないのだと、気を引き締める。わかった気になって相手を決めつけるのは失礼だ。


「ごめん」


 ポツリと声が落ちた。ちらりと鼻をよぎる不幸の匂い。


 謝ることなんてない。そう言う代わりに肩をすくめた。


 フレンドリーなくせに、他人と距離を詰めるのが苦手な人だ。臆病な子犬がゲージから出ようとするように、勇気を出して踏み込んで、すぐに引っ込んでいった。


 伊勢はきっと何かを隠している。それが秘密なのか、簡単に明かせないプライベートな部分なのかはわからない。俺たちは知り合ってまだたったの二週間程度で、全てをさらけ出せるほどの関係ではない。今回は俺が一方的に門を開けただけだ。いつでも好きな時に踏み込んでくればいい。


 そういえば、俺を助手にスカウトした理由を、まだ聞いていないな。


「行きましょう」


 言いたくないことを言わないで済む関係はありがたい。でも、秘密を明かしてもいいと思えたり、いつか聞きたいと思えたりする関係は嬉しいものなのだと、二十歳になって初めて知った。






 創立百年を超える我が大学は、歴史も相応に古い。片田舎の土地を買い上げて大学を創立。学部を増やしながら拡大を続けてきた。


 ときに戦火に巻き込まれたこともあったという。一時は建造物の半数が倒壊し、機能不全に陥った。学徒動員で出兵していった学生もいたという。


 戦後は再びキャンパスを拡張し、情報学部のような新しい領域にも手を広げながら、地方教育と研究の要として現在も重要な位置に立っている。


 詳しい年代を別にすると、普通のマンモス大学が通った流れとして、ごく一般的な道のりだった。


「爆撃されたことがあったのか。多分、大学というよりも街そのものが狙われたんだろうけど」


 顎を撫でて感心する伊勢に対し、俺は徐々に去年の講義を思い出していた。爆撃後、地元住民の避難場所になっていたとか、なんとか。


 その際、無事で済まなかった人もいたことだろう。そうした人たちの念が溜まった場所、例えば共同墓地のような場所が、今の教養棟中庭にあったのかもしれない。


 俺たちは調べた内容をまとめ、外に出た。構内、理学部エリアにある池に向かう。


「蓮村さんは、ここに、何かを探しているような気配を感じるらしいです」


 先ほどの調べによると、構内にある池は三箇所。その内、天然で存在した池はここだけで、残りは景観を良くするため、人工的につくられたものだという。


「オレには、何の気配も感じられないけどな」


 周囲には木が植えられ、それぞれの木の前には木の名前を記した札が差さっている。「桜」と書かれた札の前に立ち、池を眺めた。


 春になったら花見をしている学生がよく見かけられるが、夏の今では数人の姿があるだけだ。


 俺は普段あまり意識して使わない嗅覚に集中しながら、ゆっくりと周回する。


「何となく匂いを感じるな、とは思っていたんです。ただ、それに意味があるかどうか、検証したことはありませんでした」


 ちらちらと、鼻先を掠めるように流れてくる匂いの元を探し、俺は池の反対側まで来た。普段は用が無いため、こんな場所に来たのは初めてだ。


「何か感じるのか?」


 伊勢は手持無沙汰といった様子でぶらぶらと行ったり来たりしている。俺が松葉杖であることと、匂いを辿って歩いているため、進みがとても遅いのだ。


 何か感じるかと聞かれても、どう答えればいいのかわからない。本当に、行き当たりばったりなのだ。匂いの元が水の底にあったらどうしようもない。純粋な嗅覚で知覚しているのか定かではないが、目や耳に比べて嗅覚が貧弱であるのは人間も鬼も同じようで、ここまで来たものの自信が無くなる。


「おい、達也。来てみろよ」


 俺の遥か後方にいた伊勢が声を上げた。池を周回する道の外側を指さしている。


「何ですか」

「これ、石碑じゃねえか」


 道を戻って指の方向を見ると、縦長の石が草むらの陰に置いてあった。


 鎮座でも、祀ってあるでもなく、置いてあると表現するのがふさわしい、ほとんど忘れられたように雑に存在していた。


「これです。匂いの元」


 確信できた。これ自体が放っている匂いがそもそも弱い。池の反対側で嗅げたということは、やっぱり普通の、匂い物質が拡散して伝わる匂いとは違うのだろう。


「何の石碑だろうな」


 伊勢は屈みこんで石と周囲を検分し始めた。俺は屈むと倒れてしまうので、立ったまま石の表面を目で辿る。


 石には文字が刻まれているが、達筆だからなのか、知識が足りないためか、俺たちには読めなかった。ただし、石碑の一番上に鳥居の形が彫られていることだけはわかった。


「ここ、もしかして神社だったんじゃないですか」


 理学部エリアは大学創立時から存在するエリアだと先ほど調べた。当然、ここには元々暮らしていた人たちがいた。その中で、土着信仰や神社のような宗教施設があった可能性は大いにある。


 忘れられた何か。蓮村さんと俺は、同じものを別々の形で知覚していた。


 なんとなく厳粛な気持ちになって、俺は手を合わせることにした。何を祈ればいいのかわからないが、あまり幸せな石碑ではないように思える。


「さて、先輩、どうしますか。俺は満足しました。俺が感じていたものの正体もなんとなくわかりましたし」


 探せば、この地方の歴史に詳しい研究者くらいはいるだろう。ここは大学だ。だがそこまでいくと、依頼内容からは少々外れすぎてしまう。


 伊勢は片眉を上げて石碑を眺め、首筋を掻いた。俺ほどではないが、長時間屋外にいたせいで汗をかいている。キャップが羨ましい。


「不思議なこともあるもんだな。まるで導かれたみたいだ」

「胡散臭く思いますか」

「まさか。俺が見えないものもあるってだけのことだ」

「山崎さんにどう説明しますか」


 論理を武器にする人間にとって、俺や蓮村さんのような不可思議な感覚の話は相性が悪いだろう。今回の依頼、どうしようもないと諦めるか、あくまで現実的な論理を示すか、名探偵として試される場面だ。


 どうするのか観察していた俺に笑みを見せ、伊勢はキャップの鍔に触れた。


「わかったよ。この依頼、どう解決すればいいのか」






 烏の鳴き声が響いてきた。夕暮れが沈みゆき、一気に物の輪郭が朧げになる時間。


 教養棟の中庭のベンチに、伊勢は腰掛けて待っている。


「よう、伊勢。依頼したこと、解決しそうだって?」


 山崎が来た。俺は初めて見る。髪をワックスでツンツンに立て、少々腹が出た体を大きめのポロシャツで隠している。第一印象は声がでかい、だ。


「まあ、そうですね。確認ですが、蓮村さんは、ここで幽霊が出ると言ったんですよね」

「そうそう。おかしいと思わねえ?どう見ても普通の中庭だよなあ?こんな場所を怖がるの、笑えるよな。構って欲しいんだろうけど、もうちょっとやり方があるだろ」


 大仰な身振りと大きな声で、山崎は自分の彼女を笑う。


 伊勢の顔は角度的に見えない。俺は眉間に皺が寄るのを感じた。


 蓮村さん、男の趣味が悪いな。彼女が怖がっているのに、構って欲しいのだろうとは、思いやりに欠ける。


「普通はそう考えますよね。オレもね、信じていなかったんですよ。何かの見間違いとか、気のせいとか、そういうことなんだろうなって」


 伊勢の声は、普段の堂々とした、明朗なものから変わり、囁くような掠れた声になっている。俺は笑いを堪えた。


「伊勢?」


 言い回しに違和感を覚えた山崎の顔から軽薄な笑みが消えた。


「調べてみたんです。この場所の由来を」


 伊勢は足元を指さした。ボソボソとした声で続ける。


「オレも知りませんでした。ここ、元は墓地なんですって」

「墓地だと」

「はい。それも、ただの墓地ではありませんでした」


 伊勢はふらりと中庭の奥に向かって歩き、キャップを脱いだ。緩慢に振り返り、俺からも横顔が見えた。


 妖しく笑みを浮かべて流し目で山崎を見やる。


「昔、ここは大学の構内ではありませんでした。戦後、用地買収して拡大したんですね。だから、忘れられてしまった。戦時中、この街は爆撃されました。多くの死傷者が出たと記録されています。そんなとき、通常の火葬や埋葬をしている時間はありません。まとめて焼いて、まとめて埋めます。身元の確認どころじゃありません。一家全滅なんてこともあったでしょうからね」


 伊勢は中庭の角、薄暗がりに移動し、ゆらりと振り向いた。


「驚きました。ここなんですよ」

「ここ?」

「そのときの犠牲者が埋葬された場所が、丁度ここなんです」


 俺は手の内に力を込めた。その瞬間、山崎が飛び退いた。


「何だ⁉」

「どうしました」


 伊勢はあくまでゆっくりとした口調を崩さない。


「今、何か聞こえた気がしたんだ。気のせいか」


 伊勢はふふ、と笑った。山崎が左右非対称な顔で伊勢を凝視する。


「何が面白いんだ」

「山崎さんに、上手く会わせられてよかったな、と」


 再び山崎が飛び退いた。落ち着きなく歩き回り、キョロキョロと首を動かしている。


「また、また聞こえた。伊勢、何なんだよ、これは」

「何か、なんて曖昧なこと、言わないでくださいよ。その話をしているところだったじゃないですか」


 山崎の顔が、遠目からでもわかるほど青い。心なしか、小さくなった気すらする。


「ゆ、幽霊?」


 伊勢は突然声を張り上げた。


「この時間、何て言うか知っていますか」


 山崎は大きく震え、気味の悪いものを見る目になる。


「この時間?夕方とか、日暮れとか」

「逢魔が時。魔と逢う時、昔からそう呼ばれているんです」

「魔と逢うって、幽霊のことか」

「ええ。この時間が一番いいと思いまして」

「一番いいって、何がだよ⁉」

「もちろん、幽霊と逢うためにですよ」


 恐怖で声を荒らげる山崎を意に介さず、伊勢は首をだらりと傾けた。


「申し訳ありませんが、蓮村さんに、ここに幽霊がいないことを納得していただくことはできません。なぜなら、ここに、幽霊は本当にいるからです。俺は名探偵。真実を曲げるわけにはいきません」


 俺は山崎の立ち位置と手元の図面を見比べた。3番の範囲にいる。音声を選択し、スイッチを入れると、山崎が飛び退いた。喉の奥で笑う。


「やばい、やばいって。ここはマジでやばい」


 山崎はぶつぶつ言いながら歩き、伊勢は最早山崎の方すら向かない。無人の方向にだらだらと言葉を放っていく。


「オレは負けました。依頼の遂行は失敗です。まさか、幽霊が実在することを認めさせられるとは思いませんでした。負けました。この世にはたしかに、目に見えないものがいます。負けました。オレは負けました」


 負けました、負けました、と誰にともなく呟き続ける姿は、演技だとわかっていてもゾッとした。


 山崎は目をいっぱいに広げ、体を抱いて忙しなく動き回っている。


「どうしてだよ、そんなことあるわけない。ひっ!また声が聞こえた」


 伊勢は半狂乱の山崎にするすると近寄り、いきなり肩を掴んだ。


「ぎゃ!」

「オレから言えることは、間違っていたのはオレやあなたで、正しかったのは蓮村さんの方だということです。彼女の言うことに、耳を傾けてあげてください」


 伊勢の顔からはさっきまでの妖しい笑みが消え、今は無表情になっている。この状況でそんな人間に至近距離で捉まったら、俺でも不気味に思うに決まっている。


「わかった。わかった」


 山崎はブルブルと震え、伊勢の手を外そうとする。俺はダメ押しとばかりに手を動かした。山崎が大きく震え、尻もちをついた。


「誰かいる!ああ、見えちまった!」


 とうとう駆け出して逃げて行った。中庭に残されたのは、伊勢一人。山崎が遥か遠くまで逃げ出したのを見届けて、上に向かって手を振った。俺も窓から顔だけ出して手を振り返した。


 伊勢は中庭に隠していたスピーカーを手際良く回収し、俺が廊下に転がっている教養棟三階へと上がってきた。


「最後、姿見られてんじゃねえよ」

「結果オーライでしょ」


 実際は、体勢が思うように変えられず、意図せず山崎に目撃されたのだった。床に転がってなんとか身を隠したが、正直危なかった。






「指向性スピーカー?」

「そう。通常の音は同心円状に広がるが、指向性スピーカーは直線上でだけ聞こえるように音を出せる。中庭は反響するから、普通に音を出すとそれっぽさが失われるが、指向性スピーカーならいい感じに聞かせることができる」


 この場合のいい感じとは、幽霊のうめき声や吐息みたいな印象という意味だ。


「通常と聞こえ方が微妙に変わるのがミソでな。移動中の人間に聞かせると、何かが通り過ぎたような印象を与えることができるんだ。こういう用途にはうってつけってわけ」


 イヒヒ、と伊勢は笑った。


「達也は教養棟に隠れて、山崎の動きに合わせてスピーカーを操作し、音を聞かせてくれ」

「それは面白そうですが、指向性スピーカーってのはどこから調達するんですか」


 俺の頭には技術オタクの幼馴染である祐介のことが浮かんだが、あいつを伊勢に紹介していいものか、わからない。


「それは大丈夫だ。伝手がある。口も固い」


 俺をスカウトする前から広げてきた人脈が活きているようだ。俺はもう一つ気になっていることを聞いた。


「そうして脅かす目的は何ですか。ただの悪戯じゃあ、もちろんないですよね」

「当然。今回の依頼者は山崎さんで、途中から蓮村さんも加わった。探偵としては、先着順で処理していくのが普通だが、今回はまとめてこなす」


 幽霊がいないことを証明せよという山崎の依頼と、幽霊がいることを証明せよという蓮村さんの依頼、どちらもまとめて片付けるというのか。


「そんな阿呆を見るような顔するなよ。いいか、達也、名探偵として、一番重要なことを教えてやる。依頼人の利益を考える、だ。蓮村さんに無理やり幽霊がいないと納得させても、本人には実際に見えているわけだから意味がない。山崎さんと蓮村さんの関係は好転せず、平行線のままだ。

 今回は、山崎さんに幽霊が存在することを認めさせ、蓮村さんの言葉をもう少し真面目に受け止めるようにさせる。それこそが、長い目で見た依頼人の利益じゃないか」


 滔々と依頼人を欺く正当性を語る伊勢は、たしかに普通の探偵ではない。依頼人のために依頼人も騙す。伊勢流の名探偵か。


 伊勢はキャップを脱いで髪をかき上げた。


「作戦開始の合図は、オレが帽子を脱いだときにするか。怪談師ばりのムードづくりを見せてやるよ」






 伊勢に引っ張り上げてもらって俺たちは撤収を開始した。あまりもたもたしていると、訝しんだ山崎が戻ってきてしまう可能性がある。助手がここにいては、小細工を疑われる切っ掛けになりかねない。


 とは言うものの、折れた足では速くならない。俺は急ぐが、伊勢はメールを打ちながら余裕で先を歩く。


「蓮村さんに報告完了。一件落着だな」


 俺たちは教養棟を出て、日が沈んだ大学構内をのんびりと進んだ。どこかからカラスの声がした。沈みかけた夕陽は天辺だけ覗かせていて、建物の間からやけに大きく見える。


 山崎には大層不吉に見えているかもしれないと思うと、堪えていた笑いが込み上げてくる。


「あの二人、上手くいきますかね」

「いかないだろ」


 思いがけず即答で否定されて驚いた。


「ずいぶんはっきり言い切りますね」


 伊勢はこちらをちらりと見て、すぐに目線を前に戻した。


「達也はわかると思うが、人によって見えているもの、感じていることは違う。蓮村さんに幽霊が見えたように、達也に匂いが嗅ぎ分けられたように。けど、たいていは自分の感じているものが正しいと思うものなんだ。幽霊が見えない人間には、幽霊がいない世界が正しくて、それが見える人間の言うことは間違っている」


 俺は先ほど聞いた山崎の言葉を思い出した。


「山崎は、蓮村さんの感じている世界を否定する、と?」

「なんとなくだけどな。でも、多分そうだろ」


 俺は曖昧に頷いた。


「山崎さんは、最初から蓮村さんの間違いを論破しようという意図で依頼してきた。恋人なら、不安がる彼女を負かすことより、気持ちに寄り添ってやるべきだと思わないか」


 それは俺も思った。論破したって誰も幸せにならない。蓮村さんが我慢を強いられ続けるだけだ。誰にも苦手な物があり、それは大抵、他人に理解されない。怖くない物だと言われて平気になるなら、それは恐怖ではない。恐怖とは、もっとどうしようもないものだ。そういった感じ方の違いを歩み寄ることが、相手を理解することだろうに。


「山崎さんは、俺は苦手です」

「正直だな。でも、実はオレもだ」


 俺たちは諦めたように笑った。蓮村さんと山崎さんの付き合いは本人たちの問題だ。彼らが気のすむようにやるしかない。


 僅かに、重い感情が腹の隅をよぎった。


 俺だっていい彼氏だとは言えない。どこで振ったら彩が一番ショックを受けるか、などという最低なことを考えている彼氏だ。だが、だからこそそれまでは大切にする。それこそが最も美味しく幸福を頂けるから。


「オレが達也を助手に誘った理由、話していなかったよな」

「そうそう。聞こう、聞こうと思って毎回忘れていたんですよね。どうしてだったんですか」

「実は達也が一年のときから知っていたんだ。あの年の春は、宣伝も兼ねて色んな新歓に顔を出していたからな」

「全然覚えていませんが」

「それはそうだろ」


 伊勢は軽やかに笑う。あの頃は知り合いが全然いなくて、それでも獲物を確保しなくてはならなくて必死だった。沢山の人と自己紹介しあったことは覚えているが、ほぼ全員の名前を忘れた。あの中の一人に伊勢がいたのか。


「オレにはピンと来たね。こいつは全てを疑っているって。目の前にいる人、自分、常識、どれ一つ正しいものなんかないことを知っている奴だと思ったんだ」

「はあ?どういう意味ですか」


 随分な言われようだ。人でなしよりも酷いかもしれない。


「のめり込まないんだよな、達也は。自分の主張をあっさり下げるし、相手の言うことにすぐ同意する。でもそれって、自分の意見を曲げたわけじゃあないんだ。心の中にしまっただけ。本当は自分が間違っているなんて欠片も思っていない。でも、議論するほど相手に興味が無いから反論しない。適当に同意する。嫌な言い方をすると、相手を舐めていることを巧妙に隠している」


 伊勢の方を見ることができなくて、俺は転ばないように足元を注意している振りをした。


「自分の性格を自覚して、その上で波風を立てないように小器用に立ち回る。俯瞰していると言えば聞こえがいいけど、ほとんど見下しているようなもんだ。オレは名探偵だ。俺なりに、スタンスを明確に決めているつもりだ。その相棒には、同じくらい強く自分のスタンスを定義しない奴が欲しかった」


 隣の伊勢が足を止めた。俺も遅れて止まる。だが、振り返ることができない。


「全部、オレの勘だ。どこまで当たっているのか、今もわからない。でも、達也を誘って良かったと思っているよ」


 伊勢が言ったことが俺の本質を見抜いているのか、それは俺にもわからなかった。言っている内容は、なかなか酷い言い草も混ざっている。しかしなぜか、否定しようという気にならなかった。


 俺はのめり込まない。人間に踏み込み切らない。鬼にとって人間は食べるものであり、俺は人間を不幸にする。感情移入すると迷ってしまい、捕食できなくなる。


 川辺紫乃という幼馴染の鬼がいる。捕食するときやその準備をするとき、いつも悲しそうな顔をする。俺と何が違うのか、わかった気がした。


「よく見ていますね」


 俺の口から自然に出た。いつの間にか、顔を上げられていた。


「当たっていたか?」

「まあ、一部は」


 悔しいので、どこまで当たっていたのかは言わないでおく。


「今の会話だけでも、先輩を手伝った甲斐がありましたよ」


 また歩き出す。タン、トッコ、タン、トッコ。


 俺はきっと、人間たちを見下し、否定し、同じくらい自分も否定している。だからこだわらないし、裏切ることも傷つけることも、ときに自分を傷つけることも簡単にできる。


「達也の目線は貴重なものなんだ。一つの物の見方に執着しないのなら、大抵の相手の世界を共有してあげられる。それは救いにだってなる。特に、共感者が少ないマイノリティには」


 俺が救いだって?


 似合わなすぎて笑えた。人間の幸福を食べて快楽を得る鬼が、救いを与えるわけがあるか。


「達也が大学の歴史を調べているとき、どうして手伝うのかって聞いたよな」

「はい」


 言いたくなければ言わなくていいとも言った。


「蓮村さんや達也は特殊な視界を持っていたから、それを手伝いたかったんだ。少数派の声を無視できなかった」

「少数派?まあ、そう言うこともできますね」


 鬼であることは、たしかに少数派か。幽霊が見えることも、まあ、少数派ではある。どれだけの人が見えているのか、見えているものが同じものなのか、全くわからないけれど。


「そう言うってことは、先輩は多数派なんですか。いや、そんなわけありませんね。名なんとかが多数派じゃあ、矛盾します」


 茶化すように言ってみたが、伊勢はふと真面目な顔になった。小さな体で真っすぐ見つめられた。どこか、弱々しく見えて、壊れてしまいそうで緊張が走った。


「オレは少数派だよ。オレは、誰にも恋愛感情を抱けないんだ。女も男も、オレは愛することができない」


 意味を理解するのに数秒かかった。迂闊なことを言えなくて、俺は黙るしかなかった。


 女同士で恋愛感情を抱く人間や、男同士で付き合う人間がいることは知識として知っている。だが、誰のことも愛せないとは、初めて聞いた。


「まあ、物が恋愛対象って人間もいるくらいですしね。恋愛対象がそもそも無いってのも、あり得る話ですか」

「気持ち悪いと思うか?」

「思いませんよ」


 少なくとも誰かを傷つける特性ではない。俺よりも遥かにマシだろう。


「そう言ってくれそうだから、誘ったんだ」


 伊勢は何事もなかったように口調を戻して歩き出した。


「ラーメン食いに行こうぜ。依頼完遂の打ち上げだ。達也の家の近くに旨い店があるんだよ」

「いいですね。近いのは助かります」


 俺たちは深刻な話なんて無かったように、いつもの空気に一瞬で戻る。あまり突っ込んだ会話を続けるのは気恥ずかしいからでもあるが、空気を戻したくらいで、交わした言葉は忘れないとわかっている。


 伊勢の幸福を食べることはできないかもしれないな。


 このとき初めて頭によぎった。

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