第3話 サイレントマイノリティー(前編)
突然だが名探偵って何だろう。
探偵はわかる。職業だ。または、探偵行為というように、個人的に何かを探ったり調べたりする行為を言う。
では、名探偵とは何だろう。何をしたら「名」がつく。単純に考えれば素晴らしい探偵という意味になる気はするが、探偵を評価する指標なんて、聞いたことがない。そもそも、探偵の業務内容やそのノウハウがあっさり公表されるとは思えない。そんなことを大っぴらにしている探偵に依頼するような人間はいない。名探偵になる前に生活が立ち行かない。
では、名探偵とは実在しないのか。実はそうでもない。歴史上、名探偵と呼ばれた人間は存在する。かのFBIの前身が私立探偵社であるという話を伊勢から聞いたときは驚いた。
ただし、重要な、考慮すべき点がある。時代だ。
名探偵といえば、洞察力と推理力で不可能犯罪、または不可解な犯罪の真実を解き明かし、凶悪犯を追い詰める存在というイメージが強いと思う。そのイメージは実に正当なものだ。一般的と言っていい。
明治や大正、昭和初期であればそれも可能だったと思う。だが、昭和後期や平成以降は難しくなったと言わざるを得ない。
理由は警察の科学的進歩だ。指紋採取、DNA鑑定、わずかな遺留品から購入経路を辿ったり、靴底の泥がどこから来たのか調べたりするような科学捜査が行われる現代では、重要なものは一人の推理力ではなく物証を見つける鑑識の力、そして情報を集めるマンパワーになった。
特に日本の警察は優秀である。科学立国として一時名を馳せた国に相応しい、最先端の技術が投入され、生真面目な警官たちが大勢で聞き込む。
そこに、一人の探偵が盤面を覆す余地などない。一人の天才よりも、連携した百人の凡人の方が強いのはいつの時代、どの分野でも明らかなことだ。
もちろん例外はある。かの物理学者アルバート・アインシュタインは、相対性理論に辿り着いた。世界に山ほどいる物理学者が誰も辿り着かなかった新しい理論に、だ。
つまり、そのレベルの天才でなくては、推理力で警察を上回れないと言える。
他にも考慮すべき点がある。技術の進歩は犯人側の能力も上げてしまったのだ。言いようによっては、つまらなくしてしまった。
密室トリックに特殊な工夫は必要なく、殺害現場に専用の装備を施したドローンを置いておき、自分が出た後に操作して鍵を締めさせればいい。小型の機械にすれば、通風孔でも換気扇でも、排水口でも通って脱出できる。
ドアや鍵はもはや、部屋の内外を遮断する舞台装置として不十分なのだ。
まあ、こう言いながらも俺はわかっている。そんな機械が簡単につくれるわけがない。
絶対に簡単ではない。
殺人というリスクを冒すのであればどれほどの努力も厭うべきではないが、それにしたって限度がある。
俺は経済学部の学生だが、今から工学とプログラミングを勉強してロボットを作って人間を殺すくらいならば、なんとかして、アリバイ工作も偽装工作も何でも考えて、自分が疑われないように心を砕くだろう。その方が効率的だ。
こんなことをつらつらと、酒の場で、自称名探偵である伊勢ヨシトモに語ると、意外にも肯定的だった。
「名探偵なんてお呼びでない、という意見には、実は賛成なんだ。昨今、警察が民間人の探偵を頼って殺人事件の捜査をすることなんてないからな。冴えた推理よりも凡庸な物証の方が重視されるのは、冤罪防止の観点からも大切なことだ。オレは名探偵を名乗っているけど、殺人事件の捜査なんてしたことがないし、これからもそんな機会はないだろう」
ならばなぜ名探偵と名乗るのか、と聞いた。名探偵らしい活躍をしていないじゃないか、と。
答えはこうだった。
「探偵の仕事は殺人事件に限らないんだよ。ペット探し、人探し、浮気調査、この前オレたちが解決した落書き事件みたいな日常のトラブル解決、いろいろある。ホームランが打てなくても、打率三割を常に超える打者は名スラッガーと呼ばれるだろうし、ハットトリックを決められなくても毎試合ゴールを挙げるサッカー選手は名ストライカーと呼ばれるじゃないか。要は、やったことの規模じゃない。きっちりやり続けることも、名なんとかと呼ばれる大切な要素ってわけ」
意外と真面目な伊勢ヨシトモだった。
「けど、才能という意味ではまた別の見方ができる。よく言われることだけど、名探偵には、トラブルに巻き込まれる才能が必要なんだ。殺人事件を解決するために最適なポジションは容疑者なんだよ。何せ当事者だから、知り得る情報量は多い」
トラブルメーカーならぬ、トラブル巻き込まレーターか。と俺は笑えぬ冗談を飛ばした。
さて、ここまで言えば伝わるだろうが、俺は物の見方がひねくれている。鬼だからとか、それに纏わる諸々の事情が背景にあるのだが、割愛して、俺は人間を斜めどころか真上からふんぞり返って見下ろすような人間、いや、鬼だ。
そんな俺にも、驚くべきことに彼女がいる。
ついでに、名探偵の才能は伊勢よりもあるかもしれない。
足の骨が折れるとどうなるか。なんと歩けなくなるのだ。
俺は賃貸アパートで苦戦していた。生まれて初めて使う松葉杖が、狭い六畳ワンルームでは実に邪魔臭い。この三日で家具家電や壁にぶつけた回数はもうわからない。最初の十回は敷金が帰って来なくなるなどと気にしていたが、三十回を超えてからどうでもよくなった。
三日前、軽く車に撥ねられた。それほどスピードが出ていなかったこともあって命に別状はなかったが、右足の骨が折れた。名探偵だって御免被るトラブルに巻き込まれたわけだ。
鬼も交通事故に遭うと骨折する。当たり前のことだが、ちょっと新鮮な驚きがあった。鬼の身体能力は人間の約二倍。当然、強い筋肉は強く体を保護する。子供時代まで振り返っても、骨折した鬼は身近にいなかった。
家族に報告すると、兄貴からは、
「骨折するなんてたるんどる」
と叱られた。親父からは、
「珍しいこともあるもんだ」
と感心された。母さんからは、
「お肉を食べなさい。送ろうか」
と、ようやくまともな心配を貰えた。その後「人間のおに……」と続いたので即座に丁重に断った。妹からは、
「私でも折ったことないのに、どうやったら折れるの。馬鹿なの?」
と不思議がられた。馬鹿だからって骨は折れない。ついでに、
「上半身なら屋根の上に、下半身なら床下に折れた骨を放り投げると健康になれるらしいよ」
と意味のわからないアドバイスをされた。それは歯だ。骨を放り投げたら文字通り骨抜きになって二度と立てない。健康になれるわけがない。馬鹿にしすぎ。
かように、俺の身内なだけあってまともな人間性(鬼だけど)に欠ける家族なのだが、それだけ骨折する鬼が珍しいという意味でもある。小学生だったら自由研究のテーマにしただろう。骨折するにはどうすればいいか。うん、不穏だ。
ここまでであれば笑い話で済んだ。しかし、問題は、俺にも俺の生活があること。一人暮らしでこの不便さ。不自由、という言葉がぴったりきた。
着替え一つとってもすんなりいかない。体感、三倍くらい消耗する。スキニージーンズなんて履きようがないので、ジャージで出かけた。
スーパーに行こうにも、八月の炎天下を松葉杖でトッコトッコと歩くのはとんでもなく暑かった。体感、行きは五倍、帰りは十倍くらい疲れる。ビニール袋を提げての炎天下松葉杖は運動会の競技にしてもいいと思う。
なまじ他の怪我がなく、事故の翌日には退院してしまったため、俺は二本足の幸せを、失って初めて痛感していた。夏休みで本当に助かった。
正直な話、彼女がいて良かったと今ほど思ったことはない。事故後毎日来て世話をしてくれるのだが、感謝のあまり、お小遣いをあげたくなった。実際にあげなかったのは拒否されたからだ。
慰謝料が入るので懐は痛まないのだが、そこは彼女として当然のことをしている、というわけだろう。甘えておく。
そんな献身的な彼女の名前は楢木彩。別に自慢はしない俺の恋人だ。
そこは自慢しろ、だから罰が当たったんだ。という天の声には、激しく同意しておく。そりゃあもう、あかべこだって首が取れるくらい頷いてやる。俺は鬼、それも人の幸せを食べて生きている。罰の一つもあろうってものだ。
事故から四日後の午前十一時、俺はいつものようにエアコンの効いた自室のベッドで倒れていた。動くのが面倒なので朝食を食べていない。もうすぐ彩が来てくれるそうなので、何か食べるものをお願いした。
怪我をしたのは片足なのだが、それだけで全身が重くなったように感じる。精神的な理由なのだろうと思っているが、いまいち因果関係がわからない。動くこと自体が面倒くさいのか、睡眠の質が落ちて疲れているのか。いずれにせよ、俺は気怠くベッドの上で倒れていた。
インターホンが鳴った。渾身の気合を込めてベッドから這い上がる。松葉杖を使うのも面倒で、けんけんの要領でドアモニターに辿り着いた。画面に映っていたのは案の定彩だった。事故後合鍵を渡しているので自力で入って来られるはずだが、彩は毎回インターホンを鳴らす。生真面目なことだ。
「はい、どうぞ」
こちらも一応声を出して開錠した。
そこで違和感があった。スピーカー越しの音がおかしく感じた。故障かも、と検討する間もなくドアが開き、その理由がわかった。
「お邪魔します」
「ちゃーす」
「なんでいるんですか」
彩の後ろに続いて入ってきたのは伊勢ヨシトモ。現在、俺が助手を務めている大学生探偵だ。
「行くって連絡しただろ。携帯見ていないのか?」
手を伸ばして携帯を見ると、たしかにメールが来ていた。動くのが億劫なあまり、チェックしていなかった。
「本当だ」
「だろ。家の前で楢木さんと会ってね」
「たっちゃん、冷蔵庫借りるね」
「ああ、ありがとう」
彩が買い物袋から冷蔵庫にものを移していく音がする。
「いい彼女がいるねえ」
「二人は知り合いだったんですか?」
伊勢の顔は広い。宣伝も兼ねてあちこちに知り合いを作っている。毎回「名探偵だ」と名乗るので、かなり印象に残る。名乗られた方は、避けるか面白がるかの二択。後者は高確率で依頼につながるらしい。大学生という気楽な身分でも、トラブルに遭う人は案外多い。
「いや、今知り合った。楢木さんがこの部屋番号の郵便受けを開けていたから、声をかけたんだ」
状況を想像すると、ちょっと面白い。彩は俺の家の郵便受けを覗いていて、それを目にした伊勢は、探偵として止めるべきかどうか、一瞬考えたことだろう。まあ、伊勢のことなので、彼女だと当たりはすぐについたはずだ。
「今さらだけど、お邪魔だったかな」
「いや、別に」
「淡泊だなあ」
二人きりならそれなりに色々とするが、伊勢がいるならしないだけだ。
「たっちゃん、どれくらいお腹空いている?」
キッチンから彩の声が聞こえる。俺は這って移動し、キッチンに顔だけ出す。
「朝から食べていないから、メッチャ減っている」
「オッケー。伊勢さんもいるし、多めにご飯炊くね」
「あ、ご馳走になります」
なぜか伊勢がご相伴に預かる形になっているが、まあ、いい。そこにケチケチする俺ではない。
「先輩、聞いておきたかったんですけど、彩に俺が先輩の助手だってこと、言ってもいいんですか」
「構わないよ。ああ、でも、楢木さん以外には、基本的に黙っておいて貰いたいかな。オレは宣伝も兼ねて目立つようにしているけど、達也の面が割れていない方が都合がいい場合もあると思うから」
頷ける理由だ。探偵だとばれると警戒されることもある。伊勢が目立ち、俺は影で動く。それもまた助手の役目か。
「変な秘密を抱えて楢木さんとの仲が悪くなったら責任取れないしね。そこは許容するよ」
やけに彩のことを話題に出す。話題の選び方には性格が出る。伊勢はもっとバランス良く話をする印象なのだが。
「さては先輩、彼女いませんね?」
やっかんでいるわけだ。なぜだろう、名探偵ってモテるイメージが無い。シャーロックホームズは変人だし、金田一耕助はいつも一人でフラフラしている気がする。
「ええ?そりゃあ、彼女はいないけど」
「やっぱり」
言い淀む伊勢に、勝ち誇ってやった。
伊勢に彼女がいないのは、ある意味仕方ない。俺が女だったとしても、初対面で「名探偵」と自称する男とは付き合わない。俺は常識があるのだ。
「それで、何か用があったんじゃないんですか」
「ただの見舞いって可能性は考えないのか?」
「今思いつきました」
伊勢は呆れたように下顎を垂らした。
俺の返信を待たずに来ていることから、急ぎの用かと思ったのだ。
「やっぱり、達也はどこかの回路が人間離れしているというか、人でなしというか」
「酷いですね」
俺は顔をしかめて見せたが、その裏で肝を冷やしていた。人間に混ざって生活している鬼にとっては冗談では済まない。擬態に失敗しているとしたら、死活問題だ。
「まあ、だから助手にスカウトしたんだけどな。お察しの通り、依頼が来たから達也にも手を貸して欲しいと思って来たんだよ」
「そう言われましてもね、足、これですよ」
俺は指でギプスをコツコツと叩いた。
前回の捕り物のように走れないし、張り込みも満足にできない。調査のために歩き回ることすらやっとの有様だ。
「そう毎回、この前みたいに体を張ることにはならないっての。今回は、そうだな、直感の数を増やしたいって感じかな」
「直感の数?」
あまり聞かない言い方だな。
伊勢が人差し指を立てた。
「ずばり、幽霊の正体見たり枯れ尾花。夏にぴったりのお化け退治だ」
……それで退治されるのは俺じゃあないだろうな?
大皿に盛られた味噌炒めとサラダを囲んで、俺と彩は伊勢の話を聞いた。
「依頼してきたのは農学部三年の山崎さん。この人には、蓮村さんという彼女がいるんだが、その蓮村さんが、幽霊がいると怖がる場所があるらしいんだ。オレへの依頼内容は、幽霊なんていないと証明すること。そして蓮村さんを安心させることだ」
俺はピーマンをかじった。夏は旬なだけあって、なぜかピーマンが恋しくなる。俺は昔から苦手な野菜がない。
「聞いているか?」
「聞いていますよ。で、どうやっていないものをいないと証明するんですか」
幽霊がいないことを証明する。その困難さをわかっていないわけがあるまいに。
幽霊がいる場合、幽霊を連れてきて物を動かしてもらうなり、降霊術なりを行って存在を証明すればよいが、いない場合、いないことを証明することは非常に難しい。こういった問題を俗に、悪魔の証明という。
「別に幽霊全てを否定するわけじゃない。その場、蓮村さんが怖がっている場所に幽霊がいないことを示せばいい」
「それ、同じじゃないですか?」
彩が口を挟んだ。気を遣っているのか、今日は普段より静かだった。
「さあね。でも、現場を見てみないことには何も言えないだろう。調査を始める前から無理だと決めつけるのも良くない」
多分、暇なのだろうな。言っていることはそれっぽいが、その実、体力を持て余して動きたがっているだけに見えた。
とはいえ、俺は伊勢の助手だし、伊勢が大失敗する場面に立ち会って幸福を食べることが第一目標だ。探偵業は二の次。こういう上手くいきそうにない案件こそ、ついていくべきという気がする。
「さては、彩も巻き込むつもりですね」
伊勢は悪戯っぽく笑った。
「わかったか」
当たり前だ。直感の数を増やすのならば、一人でも多く巻き込みたいはずだ。この人、彩が家にいることを知っていて訪問した可能性すら出てきたぞ。どこで探偵能力を発揮しているんだ。
「私、手伝ってもいいよ。今のたっちゃんを一人で歩かせるの、心配だし」
「悪いね」
「ううん」
伊勢がニマニマとしている。鬱陶しい。そういえば、伊勢の恋愛関係は聞いたことがない。さっきのリアクションから、今は彼女がいないと思っていいだろうが、じゃあ、好きな人はいるのだろうか。前に彼女がいたのはいつなのだろうか。俺のことを人間離れしているだのと失礼なことを言ってくれたが、伊勢だって大概普通じゃない。
案外、彼女がいたこと、無かったりするかもな。
「その蓮村さんが怖がる場所って、どこなんですか?」
「教養棟の中庭」
また、物凄く身近な場所だこと。
「あんな場所なんですか?」
彩も驚いている。それもそのはず、教養棟は学部一年次、つまり去年度まで毎日のように通っていた場所だ。二年前期だって、週に一度は教養棟で講義があった。
「あそこにお化けが出るんですか。聞いたことがありませんけど」
「俺もないですね」
「蓮村さんはそこを怖がるんだそうだ。何かいるってな」
「誰か、ではなく、何か、なんですね」
「うん?ああ、どうだろう。山崎さんから聞いただけだから、正確にはわからないな」
頷いて引き下がった俺に、彩は不思議そうに聞いた。
「どういう意味なの?」
「蓮村さんはそれを、人間と捉えているか、それもわからないか、てこと。特に意味は無いよ」
伊勢は赤いキャップの鍔に触れた。
「それじゃあ、夜八時に中庭集合で」
鬼の俺が幽霊の存在をどう思っているか。これは結構難しい。「一般的に架空の存在とされているものは実在しない」と言い切ってしまうわけにはいかない。鬼だって人間にとっては架空の存在だ。
相違点もある。幽霊は実体が無い一方、俺たち鬼は実体を持ち、食べて、寝て、繁殖し、人間に擬態して生きている。俺のように、人間の幸福を食べるという、人間には全くない機構を備えてはいるものの、基本的には食事と睡眠で生命維持している。
幽霊はどうやってその存在を維持しているのか、さっぱりわからない。狼人間がいると言われたら信じるが、幽霊はちょっと……、というのが俺のスタンス。人間に聞いて回っても、半数以上は幽霊を信じない派だと思う。
しかしそこは人間の面白いところで、人が集まれば自然と幽霊の噂が立つ。教養棟の中庭は初めて聞いたが、この大学にも怪談や都市伝説の類は、実はあるのだ。科学の最先端ともいえる、総合大学で。
飲み会帰りに写真を撮ったら、工学部一号館の、普段は立ち入り禁止になっている外階段に女が写った。芝生から人の頭部が生えているのを見た。「カラスに呪われる」と叫ぶ爺さん。突然突き飛ばされ、「君、モノを押すとはどういうことかわかるかい?君との間に電気が通ったんだよ」と不思議な物理学トークを始めるおじさんなどなど。
最後の方だけやけに生々しくて具体的なのは、遭遇例が多いから。どうも、噂の一部は実話らしい。
実在しているということは、都市伝説というより実話怪談、というか不審者ということになる。鬼よりはまともな存在だ。釈然としないが。
とにかく、幽霊なんか信じないし、怖くない。怖いモノは実体を持つモノだけだ。
伊勢から最初に話を聞いたとき、幽霊ではなく鬼なのではないかと思ったことは秘密だ。夜の大学は住宅街よりも人口密度が低い。それに警察も入らないので、鬼が人間を捕食するには悪くない空間だと、前から考えていた。
この大学では俺以外の鬼を知らないが、面識のない鬼が夜の教養棟で何かしていたとすれば、この依頼、ただの幽霊退治ではすまない危険なものとなるかもしれない。
「彩、怖いなら来なければよかったのに」
「こ、怖くないよ」
明らかに震えて俺にしがみつく彩は、どこからどう見ても怖がっていた。俺の介助のために来たはずが、しがみつかれているせいで歩行の難易度がむしろ上がっている。
「夜の大学がこんなに静かだとは、知らなかったな」
午後八時。さほど夜が深い時間ではないが、教養棟は真っ暗になっている。夏休みだから、という理由もあるが、講義が終わると大学は一気に人気がなくなるため、夜は昼とは別物のようになる。
日中の、学生で溢れた中庭を見慣れている身としては、この静けさはたしかに不安になる。
ブロロロ、と音がして振り返ると、原付バイクがやってきた。乗っているのは伊勢だ。
俺の、怖いくらいすぐ傍で止まった。また轢かれるのではと思ったが、伊勢に焦った様子はない。
「こんばんは、お二人さん」
「こんばんは。先輩、それ、ベスパですか」
「その通り。オレの愛車」
伊勢はシートを叩いた。足が折れている今、原付バイクは喉から手が出るほど欲しい。
ヘルメットを脱いで、シートの下に納める。入れ替わりに赤いキャップが出てきた。
伊勢が何も被っていないところは初めて見た。男にしては髪が長い。女性の、ショートカットとセミロングの間くらいの長さをしている。
「伊勢さん、綺麗な髪ですね」
俺にしがみついている彩が言った。俺も頷く。
「そうか?普通だよ」
照れたようにキャップを被ってしまった。
「どうして帽子を被っているんですか。勿体ないですよ」
彩は少しはしゃいだ声を出した。男の髪にテンションが上がっているのは珍しい。
「夜だし、帽子要らないんじゃないですか」
「暑いから被っているんじゃない。無いと調子が出ないんだ。ほら、さっさと行くぞ」
俺たち二人から期待の目線を浴びて、決まり悪そうに伊勢は話題を切り上げた。
教養棟は静まり返っているが、周辺は足元が照らされていて歩くのに不便はない。
「大学自体、久しぶりに来ましたが、探偵助手として来るとは想像していませんでしたよ」
「落ち着いているね。さすが達也」
「このくらいで何がさすがなもんですか」
さっさと行こうと彩を引きずるように進んだら、バランスを崩して転んだ。彩はちゃっかり手を放し、俺だけ転倒する。松葉杖の固い音が派手に響いた。
「ああ、ごめん、たっちゃん!大丈夫?」
「なんてことないよ」
松葉杖の扱いにはかなり慣れたつもりだったのだが、恰好つけすぎたようだ。手を貸してもらいながら立ち上がる。先が思いやられる。まだ中庭に入ってもいないのに。
今度はちゃんと介助されながら、俺たちは中庭に踏み込んだ。中庭はコンクリートの地面に箱型のベンチが複数置かれ、コの字型に五階建ての教養棟が囲んでいる。「コ」の空いた方向には二階建ての教養管理棟がある。二階部分は教養棟と廊下でつながっており、一階部分は小さなトンネル状になっている。穴が二つ空いた、四角く切り取られた空間だ。
広さはテニスコート一面分程度。中庭に面した壁は全てガラス窓がついており、教養棟の中が見える。足元や箱型ベンチには照明が点いていて暗くはない。
「時間だな」
伊勢が腕時計を見て言った。
「何がですか」
俺が口を開いたとき、足元を照らしていた照明が消えた。彩が小さく声を上げる。
「ここの照明、午後八時で消えるんだ。さて、調査開始といくか」
伊勢がキャップの鍔に触れる。
中庭は先ほどまでとは雰囲気が一変していた。
足元を照らす人工的な明かりが無くなって、突然不気味さが増したように思える。ただ、鬼である俺の目には全く問題なく、昼間とほとんど同じ分解能で物が見えている。
「調査って、何をするんですか。こっくりさんでもやります?」
「さあね。蓮村さんが何を怖がっているのか、それがわかるといいんだけど」
さっき転倒したこともあって、俺は早くも気持ちが萎え始めていた。本件の落としどころが全くわからない。こんな調査を続けたところで、幽霊の不在が証明できるわけでもなかろうに。
しかし、折角来たし夜の大学が珍しいので、歩き回ってみることにする。
「彩、自分の足で歩いて。お、すごい響く」
さっきまで気づかなかったが、やけに反響する。残響と言うのか、俺の声が尾を引くように響く。
「ここ、人がいないとこんなに反響したんですね。空間の形状のせいでしょうか」
「本当だ。まあ、縦方向のトンネルみたいなものだからな。人が多いと、体や服に音が吸収されて、気づかないんだな」
伊勢が中庭の奥に向かって、ベンチを確認しながら進んでいく。なんとはなしに見ていたが、ふと不思議な気分になった。
「先輩、止まって」
「どうした?」
「シッ」
自分の唇に指を当てて黙らせる。今、変な感じだった。違和感、既視感、言いようもない感覚が走った。
「たっちゃん、何?」
彩が落ち着きなく動いた。彩の動きに引っ張られながらしばらく感覚を研ぎ澄ませる。伊勢も黙ったまま俺の様子を伺っているのが視界の端で捉えられた。
「誰かいるな。もう一人」
俺の言葉に、彩は俺のシャツを握る力を強め、伊勢は視線が鋭くなった。
「今日、先輩が彩と一緒に来た時と同じ感覚です。普段彩が来る時よりも騒がしいと思ったんですよ。音や、多分モニターに映った影かな、何かの違和感があって。それと似た感覚です。一人、またはもっと、人数が多い気がします」
「へえ」
伊勢が唇を舐めた。その声も反響し、感覚が奇妙に翻弄される。
俺に霊感はない。だが鬼として、人間よりも遥かに優れた五感を持っている。何かを感じたのであれば、視覚か聴覚か嗅覚か、少なくとも五感のどれかを使っているはずだ。
「どこだあ」
伊勢が楽しそうに中庭を歩き回っていたが、不意に立ち止まって俺の方を向いた。唇の両端が上がっているが、目が強張っている。
「やべ、オレもわかったかも。何か、違う足音、混じってね?」
彩がヒッと声を上げる。俺は彩の髪を撫でて落ち着かせる。伊勢に頷いて見せた。
「それです。違う音質の足音が混ざっています」
下がコンクリートなので、俺たちの足音はタンタンタンと鳴る。その狭間に、土の地面を歩くような、ザッザッザッという足音が混ざって聞こえる。
俺たちは固唾を飲んで耳を澄ませた。今は何の音も聞こえない。
「音源を探るか。彩、ちょっと離れていろ」
「え、嘘でしょ」
「……先輩、こっち来てもらっていいですか。彩を頼みます」
「了解」
伊勢は中庭の奥から走って来た。逃げてきたように見えたが、言わないでおいてやる。もう一人の足音はやはり聞こえた。
俺たちの移動に合わせて鳴っている?
伊勢に彩を任せて、俺は中庭の中央に進み出た。タン、トッコ、タン、トッコとえっちらおっちら進む。俺の移動に合わせて、もう一人の足音も鳴った。ザッ、ザッ。
「ん?」
「どうした、達也」
「今、変でしたね」
もう一度歩いてみる。タン、トッコ、タン、トッコ。反響する音の中に、ザッ、ザッ。
頭を掻いた。
「わかりました。幽霊でも何でもありません」
「何がわかったんだ?」
「ちょっと聞いていてくださいね」
俺は折れていない足を踏み出した。タン、という乾いた音が鳴り、反響する。その中に、ザッという土を踏んだような音が聞こえた。
「こっちが松葉杖」
コン、とコンクリートを叩く。これも反響し、それだけだった。
「なんてことはありません。反響した足音が絶妙に共鳴して俺たちの耳に届くことで、別の音のように聞こえただけです。理系の奴にでも聞けば詳しいんでしょうが、多分、波長とかその辺の関係で、たまたま足音の高さが上手く反響や共鳴したんじゃないかと思います。その証拠に、松葉杖だともう一人の足音は聞こえません」
俺はもう一度松葉杖で地面を叩く。ただの反響音に聞こえた。
「先輩、ちょっと歩いてみてください」
「おう」
伊勢は三歩だけ歩いた。乾いたタンという足音がワンワンと反響し、その中にザッというぶれた音が混ざった。
「なるほどね」
伊勢が彩にしがみつかれながら何度も足を踏み鳴らして確認する。その度、土をこするようなぶれた音が、コンクリートを叩く乾いた音の中に混ざった。
「ある程度中庭の中央に来ないと、もう一人の足音は聞こえないんですね。だから照明が消えて踏み込むまでは違和感が無かった」
俺は中庭を歩き回って自説を確かめる。無事な方の足の置き方を変えるだけで、音の反響は変わり、もう一人の気配はなくなった。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花。中庭の構造と偶然が作った幽霊だったんだ」
なんて呆気ない。幽霊なんて、所詮はこの程度のものだ。
彩や伊勢の足音をついて回るように聞こえたもう一人の足音が、俺の松葉杖の歩みだけ飛ばした。その好条件がなければもう少し手間取ったかもしれないが、伊勢一人でもすぐに現象に説明がつけられただろう。
そのとき、俺はふと匂いを感じて立ち止まった。不幸の匂い。中庭の隅から微かに感じる。
建物のせい、ばかりではないのかもな。
街の一角、大学の片隅、スーパーのバックヤード、世界には不幸の匂いを放つ場所が点在している。
今まではその意味を気にしたことがなかったが、蓮村という人は、俺と同じようなものを感じているのかもしれない。幽霊の正体は、もしや不幸の幽霊?ちょっと詩的が過ぎるか。
「先輩、山崎さんにどう説明するんですか」
俺は段々と、この反響構造が面白くなってきた。手を叩いたり、指を鳴らしたりして遊ぶ。
「どうって。今、達也が言った通りのことを説明する」
まあ、そうだよな。そうだけどな。
「蓮村さんに連絡を取ることって、できますか」
この件、ちょっと興味が湧いてきた。
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