第2話 トリコロール体験会(後編)

 なかまる商店街は全長約二百メートルの一本道のアーケード街だ。入口は両端にある。


 見取り図を見て気づいたことだが、実は途中で折れ曲がっている。ちょうど真ん中あたりで僅かに折れているため、どちらの入口からも全体を見渡すことはできない。


 俺と伊勢はその両端、各入口に陣取った。この配置ならば通りの全体が監視できる。俺は駅に身を潜め、渡された双眼鏡を持て余していた。鬼の視力があれば、夜であろうと、駐車場越しであろうと余裕で見通せる。人の表情まで高精細だ。一度駅員に呼び止められたが、事情を説明してなんとか見逃してもらった。


 鬼は警察を嫌う。日頃から人間を食べるため、ほぼ全員が犯罪者だからだ。もしも俺が通報されて警察に捕まって、身元確認のために実家に連絡が行くようなことがあれば、後が怖い。じいさんの雷が落ちること請け合いだ。


 腕時計を見た。午前二時。携帯を抜いて、伊勢に定時連絡を入れる。


「異常なし」


 伊勢からも、「異常なし」とメッセージが届いた。


 夏の夜で良かった。上着を着れば寒くない。俺は夜食用に買ったパンを出してかじりついた。


 実は少し興奮している。探偵助手として張り込んで犯人を捕まえるなんて、少し前の俺では考えられなかった。退屈な日常に走った火花のようなこの時間に、どうしても心が躍ってしまう。


 気持ちは盛り上がっているが、落書き犯がいつ現れるかはわからない。張り込みにつく前、伊勢が言っていた。


「本業がある人は、こうしたトラブルに全力を注げない。だから探偵が必要になるんだ。オレ達がやることのほとんどは、時間をかければ誰にでもできることなんだよ。自治会の方々が一番辛いのは、いつ来るかわからない相手に対して気を張り続けることだ。俺たちは、いつまでだって警戒できる」


 夏休みなので、俺たちは暇である。とはいっても、これから毎晩張り込むのは無理がある。犯人には早めに現れて欲しいものだ。


 伊勢は自信ありげだったが、詳しく聞く間もなく張り込みについてしまった。「連絡は最小限にして監視に集中しよう」と言われてしまったので、俺は我慢して身を潜め続ける。


 やることもないので、僅かに交わした言葉を思い出すことにした。初めて会った日、俺が伊勢に「なぜ名探偵と名乗るのか」と聞いたときのことだ。


「名探偵だと自分から名乗っておけば、名探偵にふさわしいことしかできないだろ。探偵というのは、その気になればいくらでも他人のプライバシーに踏み込めるし、犯人を追い詰められる。必要なものは、どこに線を引くかという信念だ。オレはその線を名探偵という言葉で引く」


 酒を呑みながら聞いた言葉だが、頭に残って離れない。俺は幸食として、これまで六人の幸福を食べてきた。捕食する相手を定め、感情をコントロールし、幸せをちらつかせた上でわざと不幸にしてきた。


 不幸を乗り越えることで強くなれるというのならば、乗り越える原動力すら相手の中には残らない。それが幸食の性質だ。俺に幸福を食われた人間は、抜け殻のように、失ったものの大きさすら実感できず、ぼんやりと日常を続けていく。


 心を凌辱していると思う。俺は鬼で幸食だから当然なのだが、相手の心を尊重せず、尊厳を踏みにじり、自分の糧としてきた。食癖のためなら人間のことなんて欠片も思いやらずに行動できる。


 伊勢の言葉を聞いたとき、素直に格好いいと思った。過程にアイデンティティを立てている伊勢と、手段を選ばない俺。


「業だねえ、まったく」


 伊勢は探偵という手段で別の誰かのために行動する。俺は逆立ちしても他人のためとはならない。どう言い繕っても人間にとっての悪だ。


 六人も食べると自分の傾向がわかってくる。俺が捕食相手に選ぶのは、見た目や性格が好みの女が多い。幸福を食べる際、その人間が期待していた未来を垣間見ることができる。そのときに見る夢のような風景や感情が、俺の満足感を増幅してくれる。


 今付き合っている彼女も、もうすぐ食べるつもりだ。サービスして、尽くして、俺への好意を高めるだけ高めさせ、急に別れを切り出す。泣かれはしない。涙を流すようなショックは全て俺が食べる。相手はぼんやりと頷き、あっさりと別れが成立するだろう。何度もやってきた。せめて、それまでに体を味わい尽くしておきたい、という程度しか未練はない。


 そういえば、彼女に伊勢と会ったことを話していないな。いい話題にはなるが、俺が探偵助手であることは他言しない方がいいのだろうか。後で伊勢に聞いてみよう。


 もう一つ、ずっと気になっていることがある。初対面の瞬間から、俺は伊勢に不幸の匂いを嗅ぎ取ってきた。どうも人間には幸運なタイプと不幸なタイプがあると俺は感じている。不幸な人間は、どれだけ頑張っても幸せを掴み取ることが苦手だし、幸運な人間は大きな苦労もなく物事がいい方向に転がる。


 例えば家庭環境。どうしたって恵まれた家庭とそうでない家庭の差は存在する。進学、就職、経済的格差はじわじわと人生に影響を与え、纏う雰囲気が変わってくる。他にも病気、学力やスポーツの才能、容姿など、生まれ持ったものによって成功体験、勝利体験を得るほど幸福な匂いを纏う。


 どうやらこれは幸食特有の嗅覚らしく、妹以外、他の鬼に聞いても共感されたことがない。


 そして、伊勢からは間違いなく不幸の匂いがする。名探偵と名乗り、自信ありげな表情を見てきた一方で、それだけではない、と俺の直感は言っている。その正体がわかったとき、俺は伊勢の幸福を一番美味しく食べられるのだろう。伊勢が抱える何か、トラウマにも似たそれを絡めて絶望に突き落としたとき、最高級の落差を生むことができる。


 俺は人間が好きだ。一人の内面を全て知ることはできない。だが、その人物の心を推し量り、最も柔らかい部分に触れ、丁寧に爪を立てるように裂いていく瞬間、俺は人間と関わる価値を知る。


 伊勢のことをもっと知りたい。あいつが抱える過去を知りたい。そこから吹き出す血の色を知りたい。愛するとは、相手の弱さを我がことのように受け入れ許すこと。俺は人間を愛している。


 そこまで考えたとき、携帯が震えた。霧散していた思考を急いでまとめ、メッセージを開くと、一文。


――出た


 それだけで充分意味はわかる。「今行く」と返信する。


 俺は身を潜めていた駐輪場から立ち上がり、体を解しながら駐車場を横切っていく。同時に、携帯電話のバイブレーションも切って、サイレントモードにした。


 ここから犯人は見えない。となれば、現場は折れ曲がった先、商店街の向こう半分のどこかだ。


 足音を消して滑るように商店街に入った。確かに音が聞こえる。カラカラとスプレー缶を振る音。深夜のアーケード街は音がよく響くというのに豪胆なことだ。落書きの写真を見た時も思ったが、この犯人、段々と慣れてきている。鬼の耳には興奮した息遣いすら聞こえてきた。


 慣れてきたということは、油断し始めている可能性もある。そこに付け込めるといい。俺は自分の息を殺し、慎重に歩を進めた。


――撮影中


 伊勢からメッセージが届いた。現行犯として確保するための証拠を撮っているという意味だろう。俺が先に見つけた場合も撮影するように指示を受けていた。


 商店街の半ばに着いた。閉店中の店舗のシャッターにへばりつくようにして、慎重に身を乗り出す。


 犯人はフードを被り、軽快にスプレー缶を振って下手な星を描いていた。犯人の奥を見回すと、地面に寝そべって看板に身を隠した伊勢が携帯電話で撮影しているのが見えた。服が汚れる、などということは気にしないらしい。


 伊勢と目が合った。伊勢が小さく頷き、携帯電話をポケットにしまった。音もなく立ち上がる。それに合わせて、俺も静かに犯人に歩み寄る。


 犯人は鼻息荒く落書きを続けていたが、俺たちが十メートルの距離まで近づいたところでさすがに気づいた。慌てた様子で伊勢を見て、次いで振り返り、俺の姿も確認する。


「諦めろ」


 伊勢の高い、よく通る声が深夜のアーケードに響いた。


「お前の犯行はしっかり撮影させてもらった。もう逃げられないぞ」


 フードを被った犯人は、たたらを踏んで次の行動を決めかねていた。足元に置いていたスプレー缶二本に足が当たって転がり、派手な金属音を立てる。


 俺と犯人の距離は約五メートル。伊勢の方はもう間合いに入っている。伊勢は右を前にした半身になり、緩く両肘を曲げている。その姿勢にピンときた。伊勢は何らかの格闘技を心得ている。


「手に持っているものをゆっくり置いて、両手を上げろ」


 伊勢が軽く拳を構える。力んだところのない安定した姿勢。


 犯人は、自分がスプレー缶を持っていたことも忘れていたのか、両手に持っていた赤と青のスプレー缶をまじまじと見た。


 不幸の匂いを期待した。お楽しみの時間を邪魔され、逮捕されることを想像しているはずだ。この、上げて落ちる展開、俺が食べたい幸福が近い。


 だが、不幸の匂いはしなかった。それどころか、フードの下の暗い口元に笑みのようなものすら見えた。


「先輩……」


 気をつけろ、と言おうと思った瞬間、落書き犯は伊勢に向かって踏み出した。伊勢も一瞬で臨戦態勢になる。重心が落ち、拳を突き出そうとしたそのとき、犯人は両手に持っていたスプレーを伊勢の顔目がけて吹いた。


「ぷお!」


 妙な声が出た伊勢の脇を犯人が駆け抜けていく。用済みとばかりにスプレー缶を放り投げた。


「くっそ……、待てコラぁ!」


 激昂した伊勢が体の向きを変え、駆け出した。しかし、その足元には放られたスプレー缶が絶妙の位置とタイミングで転がっていた。


 まるでスローモーションのように見えた。踏まれたスプレー缶が足を乗せたまま転がり、実に自然な勢いで伊勢の体は後ろに傾いた。片足は前に突き出され、勢い止まらず振り上げられ、上半身は縦に半回転した。驚いたことに真後ろにいた俺と目が合った。その顔は真っ赤で、それが驚きによるものなのか怒りによるものなのか、それともスプレーの塗料なのか、俺にはわからなかった。


 ただ、物凄く面白い光景だった。


 残念ながら、倒れきる前に俺も駆け抜けてしまって見届けられなかったけれど。


 ずしょり、という痛そうな音を背中で聞いて、俺は久しぶりに全力疾走する。鬼の身体能力は人間のだいたい倍。鈍っていても人間とは比べ物にならない。あっという間に追いつく。


 俺の足音を聞いて焦った犯人が、アーケードから横道に入ろうと減速したところを、俺は走ってきた勢いのまま突き飛ばした。犯人は数メートル転がっていき、立ち上がる間も与えず腕を捻り上げた。見様見真似だが、元の筋力が違う。むしろ相手の関節を壊さないように気を付けた。


「観念しろ」


 たった数十メートル走っただけにも関わらず、俺の息は上がっていた。瞬発力や加速力は負けないが、運動不足の影響は人間と同様に受ける。もうちょっと運動しようと心に決めた。


 荒っぽくフードを剥ぎ取り、犯人の顔を見た。土屋先輩だった、というわけでもなく、当然ながら見知らぬ人間だった。俺よりも少し年下くらいの、顔にニキビがある男子。


「高校生か」

「だったら何だよ」


 カチンと来た。同時に動機を得た暗い喜びが背中から這い上がってくる。


 こういう子供には躾が必要だよな。


 俺は耳に顔を近づけた。


「わかっているか。お前は立派な犯罪者だ。落書きだからって甘く見たんだろうが、器物損壊罪っていって、ちゃあんと刑法で裁いてもらえる罪だ。進学も就職も、まともな所には行けないと思えよ。お前はこれで前科者。そんな奴、どこも雇ってくれないし、信用してもらえない。結婚なんてできないし、周囲の人間には一生経歴を隠して、バレないように息を殺していくんだ。お前の将来は今、死んだ」


 出まかせだ。落書き程度でそこまで絶望的なことにはならない。だが、この状況で言われて、冷静に否定できるほど人間は強くない。それほど強い人間は、そもそもこんなみみっちいことをしない。


 不幸の匂いが漂って来た。口の中にクリームシチューのような柔らかい味と香りが広がる。大企業で世界を股にかけるビジネスマン。その将来像が断片的に見える。


 無限に広がる夢の味。心躍る人生への希望。失った幸福の名前は将来。


 ご馳走様。


 落書き犯は抵抗する気力もなくなり、だらりと力なくタイルに伏せた。


「いひゃい……」


 伊勢がようやく追いついてきた。頬と鼻の頭から血が出ている。顔には目元に赤、口元に青で一直線にスプレーが吹きつけられ、化粧途中のピエロのようだった。


「泣いているんですか」

「泣くか、バカ。目に染みるんだよ」


 クソ痛い、と伊勢は鼻をさする。手に血がついているのを見て、顔をしかめた。


「ちょっと、何の騒ぎ?」


 土屋先輩が飛び出してきた。寝間着にパーカーを羽織っただけの格好。無防備な姿を見てしまったようでドキッとする。


「ああ、先輩、いい所に。先輩の家に落書きしていた犯人を捕らえました。この商店街を悩ませた一連の事件の犯人はこいつです」


 伊勢は俺の下にいる少年を指さした。


「え、どういうこと?私の家?というか、張り込みは明後日からじゃないの?それにこの子、最初に落書きされたお店の子よ。ええと、それから伊勢君、顔、何があったの?」


 どこから説明したものか。俺もよくわかっていないところがあるが、伊勢の顔が三色に塗り分けられている理由から話す訳にもいかないよな。






「犯人は内部の人間だ」


 二日後から張り込むと言い残して土屋先輩の家を辞去し、駅まで戻った後、ホームに入ろうとする俺を止めて唐突に伊勢は言った。


「内部?」


 意味がわからなくて、漠然と聞き返す。


「商店街の人間だってことだよ」


 伊勢が言うことを咀嚼するが、どうしても合点がいかない。ただただ首を捻る俺に、伊勢は巡回シフト表を鞄から出した。


「このシフト表、まあ、警備体制自体は隙だらけだが、一応警戒はしているわけだろ。犯人はそれを躱して犯行を続けている」


 さっき土屋先輩の家で話したことのおさらいだ。


「そういう話でしたね。だから意味が無いんじゃないかって不満の声が上がっているとか」

「どうやって巡回を避けると思う?」

「どうやって?そりゃあ、見回りがいない時間を見計らってじゃないですか。一時間に一回の見回りを避ければいいんだから、そんなに難しいことじゃありませんし」


 俺はさも当然という調子で言ったが、伊勢はなんとも言えない顔で固まっていた。眉の端が情けなく下がっている。


「俺、変なこと言いましたか」

「いや、そういうわけじゃないけど、ううん、悪い。オレの言い方が飛躍していたかもしれない。

 こう言えばどうだ。大野が落書き犯だとしたら、どうやって犯行を行う」


 俺が犯人だったなら、か。


「そうですね。まずはスプレーを用意しますよね。そのとき、商店街で道具は揃えません。こんな狭い界隈で買えばすぐに足がつきますから」

「うんうん、そうだな」


 何か、そこはかとなく馬鹿にされている気がしないでもないが、導かれるままに進んでみる。


「深夜になったら出掛けて、目的の店に行きます。ああ、ターゲットは日中に見繕うかな。犯行は極力スムーズに行いたいはずですから。それで、見回りがいないことを確かめて、落書きします。プシューって」

「ちょっと待った。どうやって見回りがいないことを確認する」

「そりゃあ、目で見て、ですよ」

「つまり、相手からも見られるな」

「ええと」


 俺はまるなか商店街の様子を想像した。夜間の人気が無い一本道では、視認性は非常に良い。


「そうなりますか。一方から見えるのだから、お互いに見えるはずですね」

「それ、見回りをかいくぐれていないだろう。見つかっている」

「……あれ」


 そう言われると辻褄が合わない気がして、もう少しちゃんと考えてみる。


 今度は見回りをする側の気持ちになってみる。深夜、見回りをしたら誰かをアーケード内に見つけた。それこそ、犯人であるかもしれないと発想するに決まっている。そのための巡回なのだから。捕まえはしなくても、声を掛けるくらいはしそうなものだ。


 後で、不審な人間がいた。外見は~~と自治会長に報告してもいい。そんな報告すらもない。


「犯行時、たまたま見回りが無かったのかもしれませんよ。一時間に一回しかないのですから」

「どうだろうな」


 伊勢が歩き出し、俺もそれについていく。


「どこ行くんですか」

「商店街に戻るんだよ」


 駐車場を越えればすぐに商店街だ。だが、伊勢は中に入らず、手前で止まった。


「ここ、掲示板があるんだよ。落書きは犯罪です。巡回強化中って警告してある」

「最初に来たときに見ましたね」


 改めて見ると、他にも商店街の催しごとや特売情報が掲示されている。そちらは気づかなかった。その中に、土屋先輩の家で見たビラが二枚も貼ってある。それほど大きい掲示板ではない中で、A4二枚分はかなりの面積だと感じる。商店街側もなんとかしようとしている意志が感じられる。


「それがどうしましたか、探偵さん」

「名探偵だ」律儀に訂正された。

「見取り図によると、ここ以外に、反対側の入口や、中にも二か所、同様の掲示板がある。犯人も、夜間の見回りくらいは警戒したと思う」

「ビラに気づかなかったんじゃないですか」

「日中、ターゲットを見繕うと言ったのは大野だ。それに、犯人にとっては自分の行動の反応が何より気になるはずだ。落書きをすることが目的で、相手のその後のことはどうでもいいのならば、狙う相手がここまで偏らない」

「狙う相手?」

「……ああ、悪い。また飛躍したな。一連の事件で被害に遭っている店は何屋だったか覚えているか」

「ええと、甘味処、精肉店、ドーナツ屋。あ、飲食物を扱う店に偏っていますね」


 真っ先に気付いてよかったくらい明らかだ。本当に脳が錆びている。たるんどる。自戒しておいたので叱らないで欲しい。


「明らかにターゲットを選んでいる。動機が恨みなのか言いがかりなのかは知らないが、狙った相手に迷惑をかけようとしていることはたしかだ」

「それなら、被害者の反応が気になりますね。怒るか、悔しがるか、悲しむか。いずれにせよ知りたくなります」


 犯人が謝罪を求めているとしたら、それがどこかに表明されていないか探す気がする。ならば掲示板は必ず見る。そして、「巡回強化中」のビラを目にする。


 たしかにこんな貼り紙を何枚も見れば、落書きに取り掛かるのも不安になるだろう。監視されていないか、見回りや防犯カメラがないか、神経質になりそうだ。


 神経質になったなら一本道の商店街に人がいないことを確認したくなる。だが、確認するためには相手からも視認される可能性が高い。もちろん、一方的に相手を認識することが不可能ではないが。


「なるほど、ちぐはぐですね。言いたいことがわかってきた気がします。俺なら、この商店街は狙いません。警戒されているし、見通しは良いし、いざとなると隠れにくい。商店街に強い恨みでもない限り、こだわる方が危険だ」

「強い恨みがあって、それを晴らすための犯行だとしたら、落書きの内容にそれが示されていると思う。思い知ったか、反省しろ、って意図を込めたくなるはずだからな」


 それは頷ける。ターゲットを周囲から白い目で見られるようにしたいと思うだろう。


「そういうメッセージ性は、三件の落書きにありませんでしたね」

「そうだろう」


 つまり、犯人にとっては、恨み以外でこの商店街にこだわる理由があり、また、警戒体制を躱せる根拠か自信があったことになる。


「オレたちはずっと、見回りの頻度が弱点だと思っている。でも、それは通常、外部の人間にとって明確ではない。仮に十分に一回見回りがあったなら、落書きなんておちおちやっていられない。見回り頻度を見極めようにも、シフト内のどのタイミングで見回りをするかは担当に任されている。法則性を見出すことも実際簡単じゃない」


「ようやく話が繋がりましたよ。内部の人間であれば、その弱点は丸わかり。苦労もなく、むしろ他所より安全ってわけですね。だから内部犯だって言ったんですか」


 伊勢は大きく頷いた。


「土屋先輩の家がそうだったが、こういう商店街では店舗の奥や二階が住居ってケースは多い。見回りが通り過ぎたことを確認するのは容易だと思わねえ?」


 俺は唸ってしまった。最初はどこかの常識知らずが商店街にやってきて落書きして去っていく様子を想像していたが、今やこの商店街の内部に犯人がいるとしか思えなくなってきた。


 思わず首を回し、商店街を見渡す。どんな気持ちで犯行に及んでいるのだろう。仲間を裏切り、今も頭を捻っている自治会長や土屋先輩を嘲笑って何がしたいのだろうか。


「ちょっと待ってください。俺たちが動いていることを自治会と商店街に話通すように、土屋先輩に言いましたよね。犯人にも伝わってしまうじゃないですか」


 慌てる俺に、伊勢は片手を出して制した。


「落ち着け。正確には、二日後から張り込む。そう土屋先輩に言ったんだ」

「準備があるって言っていましたね」

「そんなもの要らん」

「…………は?」


 唖然とする俺に、伊勢は人差し指を立てて言う。


「大野、一連の犯行は終わったと思うか?」

「思いません。なんとなくですが」

「俺も同感だ。犯人は落書きに慣れ始めている。物事は、初心者が中級者に上がる期間が一番楽しい。犯人にとって、今は次の犯行に出たくて堪らない時期のはずだ」


 身に覚えがある。中学でサッカー部に入った時、最初の半年間、ボールを蹴る感覚が段々と自分のものになっていく期間はとても、純粋に楽しかった。


「そんな時期に、探偵が二日後から張り込みますよ、と聞かされたらどう思う?」

「……そういうことですか。張り込まれる前にやっておこう、と思うでしょうね」

「そうだろ」


 伊勢が楽しそうに笑みを浮かべた。


 俺は舌を巻いた。土屋先輩を勇気づけるように語ったあの時点で、もうそこまで思考を進めていたのか。


 伊勢がチロリと唇を舐めた。


「この二日、今夜と明日の夜で犯人を捕まえるぞ。張り込みだ」






「とまあ、こういう訳です」


 伊勢の話が終わり、土屋先輩は「はーあ」とため息をついた。


「敵を欺くにはまず味方からってわけか」

「すいません。犯人がどこで聞いているかわからなかったので」

「結果的に犯人を捕まえているわけだし、いいけどね。それに、私たちには商店街の人間が犯人である可能性は思いつかなかった。百害あって一利無しなんだもん」


 それはそうだ。商売人にとって評判はとても大きな意味を持つ。築き上げるために大変な時間と努力を要する。それをわざわざドブに捨てるようなことをするはずがないと思っても無理はない。


 犯人の少年は、土屋先輩の両親が見ている。身元が明らかな以上、逃げても仕方ない。何なら一度帰してもいいくらいだ。俺が幸福を食べた後の人間は、気力ごと食べられてしまうのか、基本的に冷静になる。


 玄関が控えめにノックされた。犯人の両親であり、最初の被害があった舞桜和菓子店の店主夫婦がやってきたのだ。


「この度は息子が大変な迷惑をお掛けしたようで」

「まずは入ってください。話は中でしましょう」


 玄関から男性と土屋先輩の声が聞こえてくる。俺たちも移動し、土屋先輩とその両親、俺たち、舞桜和菓子店の小泉夫妻とその息子が土屋家の居間に揃った。


 伊勢はごしごしと顔を拭いているが、色が落ちていない。三色塗分け状態のままだ。笑いを嚙み殺す。


「さて、ことの次第をお話します」


 口火を切ったのは土屋先輩だった。これまでの落書き、探偵を雇ったこと、今夜の出来事。話を進めるにつれて、小泉夫妻が項垂れていく。


「……以上が経緯です。当然、被害が出ている以上、警察に届けることも検討しなければなりませんが、その前に、昌明君、理由を教えてくれるかな」


 犯人の少年は昌明と言う名らしい。正座でじっと畳を見つめていたが、落ち着いた顔で両親に向き直った。


「店を継ぎたくなかった。僕は、和菓子屋になりたくないんだ。大学に行って、企業に就職して、この町から出て行きたかった」


 ポツポツと語った内容をまとめると、小泉家では長男が店を継ぐべしという方針で教育されてきた。昌明には妹がいて、明らかに昌明よりも才能があるが、男が継ぐことを絶対方針として舞桜和菓子店は百年間経営してきた。そして、今代もその方針を貫くと言い聞かされてきたという。


 不満はあったが表立って父親に逆らえず、かといって鬱憤も抱えきれず、店のシャッターに落書きをしたところ、思いのほかすっきりした。さらに、翌日の「食べ物屋に落書きなんて、最悪だ。消すためのシンナーの匂いが臭くて商売上がったりだ」という父親の言葉で、商店街そのものを潰そう、そのために飲食店を狙って落書きしようと思い立ったのだという。


 かくして、合計四件の落書き事件に発展した。


「僕じゃなくていいだろ。僕より和菓子が好きで、才能もあるやつがいるのに、どうしてわざわざ後を継がなきゃならないんだ」


 俺にも妹がいる。そして、俺も実家の族長としての立場を継ぎたくない。兄貴が乗り気なので悩む必要がなかったが、もしも俺と恵しかいなかったなら、俺は不満を漏らさず族長を継げただろうか。恵の方が俺より余程優秀だ。適当な言い訳をして押し付けた可能性はなかったかと聞かれたら、正直、自信がない。


「家業について、お前がそこまで悩んでいることに気付かなくて済まなかった。だが、他所様に迷惑をかけていい理由にはならない。まずは、謝って回ろう。それでも罰を求められたなら、償うんだ。俺も親として最後まで付き合う」


 昌明の父親は理性的に応えた。


 それが普段の姿なのか、知りようもない。家庭ではもっと傲慢で高圧的なのかもしれない。損害を出した相手の前だから、しおらしくしているとしても不思議ではない。充分に思いやりがあって、強い信頼関係を親子で結べていたならば、こんな事態にはならなかったわけだし、親としても問題があるはずだ。


 だが、仕方ない。子は親を選べず、親もまた、手探りで子育てをしていくしかない。子は誰一人同じ人間ではないのだから、教育に正解なんてあるわけもない。


「君たちも、申し訳なかった」


 昌明の父親は俺たちに頭を下げた。大の大人にそんなことをされたことがないので困ってしまったが、伊勢は平然としていた。


「オレたちに謝罪なんて要らないよ。仕事をしただけだ。あんたらが謝る相手は他にもっと沢山いる。……ああ、でも昌明、お前、くだらない奴だな。親に逆らえなくて他人を巻き込んで、しかも最後は親に甘えてやがる。お前自身が頭擦りつけて謝ってみせろ、少なくともこの家の人たちによ」


 伊勢の口調は苛立っていたが、俺には不幸の匂いがした。


「自分の人生なのに、やりたいことを親にすら通せないで何ができる。本当にてめえの人生の舵を取りたいなら、何を捨ててでも、誰に殴られても戦え。死んでも、意地でも退くな。その覚悟が無いのなら、親に与えられた道に逆らう資格なんか無い。

 達也、帰るぞ。先輩、また改めて」


 言うだけ言って立ち上がり、さっさと出て行く。俺も会釈だけして急いで追いかけた。


 外に出ると明るくなっていた。腕時計を見ると午前五時。


「さっき昌明に言った台詞、なかなか臭かったですよ。顔は三色だし」


 からかうと、舌打ちされた。


「それを言うなよ。まったく、性格最悪だな、お前は。ずっと笑いを堪えていたしよ」

「ばれましたか」

「当たり前だ」


 俺は徹夜明けのテンションもあって、とても可笑しくなった。近所迷惑なので笑いを殺したら、腹が痛くなって動けなくなった。


「何してんだ」

「すいません。いや、なんか、すげえ笑えて」

「あ、そう」


 伊勢はまだ顔をタオルで擦っている。


「その傷とスプレーの分くらい、やり返して良かったんじゃないですか」

「そんなことはしない。オレは名探偵だ」


 朝日を背負い、憮然とした表情で伊勢は振り返った。その顔を見て、一瞬胸が詰まってしまった。


 参ったな。

 

 俺は自然に決心する。


「やりますよ、助手」


 伊勢の表情が一瞬空虚になった。こいつも眠いのかもしれない。


「仮助手だったでしょう、今回。正式に受けます。よろしくお願いします」


 俺は右手を差し出した。伊勢はポリポリとこめかみを掻いて、おずおずと手を出してきた。じれったくて、こっちから掴みに行く。身長に見合った、女みたいに小さい手だった。


「あ、こ、こちらこそ、よろしく」


 パン屋のシャッターは半分開き、中からバターのいい匂いが溢れ出ていた。

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