第1話 トリコロール体験会(前編)
改めましてこんにちは。鬼の大野達也だ。
唐突だが、日本には鬼が住んでいる。桃太郎って知っているだろう。あれに出てくる鬼は俺のご先祖様だ。
俺には角も無いし、赤鬼も青鬼も知り合いにはいない。かつてはいたのかもしれないが、そうした外見の一族は滅びた。今生きているのは、人間と同じ外見をした連中に限られる。
鬼は人間を食うと語られているが、実際は違う。人間を食う奴もいるのだが、正確には、人間の「何か」を食べる。その何かは、皆違って皆いい。すなわち個性だ。それを食癖や、業と呼んでいる。
俺は
本来得るはずだった幸福が失われたとき、人間の心は絶望に変わる。その感情の落差を美味しく頂く。それが俺だ。幸食というのはとてもレアな食癖なのだが、俺の妹は同じ幸食に含まれながらさらにレアな食癖という、レア尽くしの逸材だ。まあ、妹についてはまた今度話そう。
食癖の話もきちんとすると長くなる。簡単に言って、俺は他人を不幸にしたり、他人が不幸になる場に居合わせたりすることで、生命維持に必要な、食物から得られないエネルギーを得る鬼なのだ。
生まれながらそんな体質を抱えているものだから、座右の銘は「他人の不幸は蜜の味」、これに尽きる。
そんな信条を掲げるなんて性格が悪いって思うだろう?俺もそう思う。でも、俺にも友達ってやつはいる。
黒田は大学に入って知り合った。大柄で落ち着いた男で、趣味は筋トレという、体つきも顔も無骨な奴。
性格は意外と繊細で、思慮深いゴリラという感じだ。ゴリラという動物は臆病で優しい性格をしているらしいので、そういう意味ではゴリラらしいゴリラと言えるかもしれない。
下の名前を聞く機を逃して以降、ずっと聞けないままになっているため、俺の携帯には「黒田ゴリラ」という名前で登録してある。いつか直そうと思って早一年。大学二年の夏になっても「黒田ゴリラ」のままだった。
夏休みが始まって間もないこの数日、俺たちは昼間から酒を傍らに、黒田の家で新作のゲームに興じた。協力プレイで何体かのボスを倒し、本日、めでたくエンディング。正午から始めて、外は既に暗くなっている。
荘厳な音楽をアルコールが入った頭で聞きながら余韻に浸る。缶ビールが突き出されたので、俺の缶を軽くぶつけた。ナイスプレイ、俺たち。
そのまま何となくつまみを開けて感想戦に興じていると、黒田の携帯電話が震えた。ポチポチと操作している様子をなんとはなしに眺めていると、黒田が携帯を持ったまま顔を上げた。
「なんだよ」
黒田は俺を見たまま思案顔で固まった。
「達也、俺の友達が来たがっているんだが、そういうの気にするか」
この確認は念のためだろうが、そういう気遣いは好ましい。
「構わんぞ」
なぜか俺は、ある程度の時間を共にすると下の名前で呼ばれるようになる。昔馴染みの紫乃に言わせると、「達也って感じの顔だから」と言われた。全くわからん。下の名前が嫌いではないから不都合はないけれど。
「友達って、誰」
「一年のとき、教養の講義で知り合った、一つ上の先輩だ。当時の知り合いの知り合いだったんだ。どうも人脈を広げたがっているみたいでな」
音だけで聞くと、一体どれほど遠い関係なのかわからない。知り合いの知り合いの知り合い?もう五、六時間呑んでいるので頭の働きも鈍い。
どのみち、人脈が広がるのは俺も望むところなので断る理由はない。食癖を満たすためには手ごろな獲物候補が複数いることが望ましい。そのためには、出会う人間の数や縁の数が何より重要になる。去年大学に入学した年は、各種サークルの勧誘に乗っかっているだけで顔見知りを増やすことができたが、大学二年になった今では、男も女もめっきり出会いが減った。こういう機会は貴重である。
今から来る奴が、大学で作った人脈を生かして何かでかいことをしよう、という意識の高い奴だと面白い。大学生のネットワークなんて所詮は知れているのだから、それで何かを起こそうという考えは見当外れで見ていて楽しい。見当外れついでに手酷く失敗して、俺の食癖を満たしてもらえたら最高だ。
「お前がいると言ったら来たがった」
「俺が?ああ、新しい人脈ってか」
俺から生まれる人脈なんて、鬼の一族に繋がる捕食者の脈だぞ。ちゃんと、人間の命や肉を食べる食癖の鬼もいるのだ。むしろそっちの方が多い。
快諾した俺とは対照的に、黒田は顎の無精髭をざらりと撫でた。
「なんというか、達也のことを知っている風なんだよな」
「あれ。俺の知り合いか。その人の名前は」
「伊勢さん」
俺は記憶を辿って探す。それほどありふれた名前ではない。だが、酒が入っていることを差し引いても、ピンと来る記憶が無い。
「紹介してくれと言われたから、向こうが一方的に知っているだけかもしれない」
「何だそりゃ」
何かのタイミングで俺のことを知ったと考えるべきだが、こちらは鬼であること以外は平々凡々。大学に入ってからは特に目立つようなことを何もした覚えがない。
他には、俺の外見が好みで前から目をつけていたとか。
まさかな。ラブコメ漫画じゃあるまいし。
「その人、女?」
「いや、男だ」
そら見ろ。
考えるほどのことではない。どうせ本人に聞いてみればわかる。
「呼んでみようぜ。面白そうじゃん」
しばらくしてインターホンが鳴った。黒田が大声を出す。
「鍵は開いています」
狭いワンルーム、それだけでドアの向こうに声は聞こえる。
黒田は外出時すら鍵をかけない。盗られて困るものもないから、だそうだ。俺なら、留守中に誰かが侵入していて、帰ったときに鉢合わせするのが怖い。しかも近所にも聞こえそうな声で言うのだから、度胸があるのか、無警戒なのか。
玄関が開く音がして、ダカダカと勢いのある足音が聞こえる。1Kの引き戸が勢いよく開かれた。
第一印象は「小さいな」だった。赤いキャップを被って、ダメージジーンズにグレーの半袖パーカー。髪が茶色で、やや長め。シンプルな服装だが、俺が普段着ている安物のパーカーとは微妙に雰囲気が違う。お洒落な奴だな、と頭によぎった。手にはコンビニの袋。ビールが透けて見える。
ただのチビじゃあない。俺や黒田と何かが違う。一瞬だけ頭が回転し、パーツから引きにアングルを向けたとき違和感の正体に気付いた。頭が小さい。背は低いが頭身のバランスがいい。
女にモテるな、こいつ。
「黒田君、お邪魔します。君が大野君だね。初めまして。オレは伊勢ヨシトモ」
欧米風な、握手でも求めてきそうなフレンドリーさで、にこやかに伊勢は名乗った。女相手なら「かわいいね」と開口一番言いそうな気がする。
俺の内に、静かに嫉妬の炎が灯った。次の瞬間までは。
「大学二年兼、名探偵だ」
そいつはキャップの鍔を摘まみ、やんちゃな光を宿した目で、堂々と言い放った。
不覚にも、俺は言葉を返せなかった。人間社会に紛れる鬼として、初対面のやり取りは非常に大切だと常々思っているのに、リアクションに困った。
相手の属性によって、好印象を与える返しは色々と用意しているつもりだった。コツは、普段言われないような角度から少しだけ褒めること。スポーツマンタイプなら、知的に見えると、美人には可愛いと、カッチリした印象の人には、親しみやすいと。
だが、名探偵と名乗られたときの対応は準備が無い。俺は口を半開きにしたまま、目も逸らせず気の利いた言葉も出ず、座った状態で首だけ上げた彫像と化した。
黒田がビールを啜る。うんともすんとも言わない。
黒田は冗談が通じないわけではないが、積極的に他人を弄んで楽しむタイプではない。伊勢の自己紹介がギャグなら、何かしら顔に出たり、フォローしたりしてくれるはずだ。
そういった様子が全くないということは、伊勢の自己紹介はジョークではなく、事実なのか。
ここまで考えて、ようやく事実を受け止められた。
伊勢ヨシトモ、名探偵!
次の瞬間、胃の辺りからじわじわ湧き上がる笑みが抑えられなくなった。
来た。来た、来た、来た!これだよ、これ。こういう自意識過剰で意識の高い馬鹿がいてこそ、大学生って感じだ。こういう奴を待っていたんだ、俺は。
前言撤回、こいつはモテない。
嫉妬の火は完全鎮火した。
安定、堅実、それは素晴らしいことだが、それだけの人間ではつまらない。俺に美味なる不幸を提供してくれる、足元が危うい人間こそ、幸食たる俺が仲良くしたい相手。
こいつは、自信満々に「名探偵」と名乗った。そんな職業は無いし、それは他者から呼ばれるものであって自分から名乗るものではない。
いいぞ。いいぞ、いいぞ。もっと痛々しさを見せてくれ。俺に期待させてくれ。
こいつはいつか必ず派手に失敗し、挫折するだろう。その時訪れる自信喪失と絶望感。想像するだけで堪らない。涎が出る。
「ええと、伊勢さんは探偵なんですね。俺、探偵さんとは初めて会いました。あ、どうぞ座ってくださいよ」
仲良くなりたい。
俺がそんなことを心の底から思うのは実に珍しい。だが、この伊勢とやらはそれだけの価値がある逸材だ。俺の直感が言っている。
こいつはご馳走だ。
俺は座る位置をずらし、伊勢と俺たちはローテーブルを三分割するように座った。
「そう。オレは学業の傍ら探偵をやっている。名乗っているのは宣伝も兼ねていてな。これ名刺」
上機嫌に差し出された名刺を受け取る。伊勢探偵事務所。Tel 090―××××—〇〇〇〇と、携帯電話の番号だけが書いてある。
「住所が書いていないですね」
「事件が起こっている現場が仕事場だからな。事務所なんて飾りだよ」
思わず喝采を上げそうになった。素晴らしい馬鹿だ。わっしょい、わっしょい。もっと聞かせてくれ。
事務所は事務仕事を行う場所だ、なんて常識的な意見に用は無い。勘違いしろ、調子に乗れ。自分が特別な人間であると思い込め。そして全力で走って派手にこけろ。現実に打ちのめされろ。
ああ、その場に居たい。そのとき失われる幸福を食べたい。俺が食べれば打ちのめされるときの衝撃は消え、懲りることなくまた走り出せる。そして再び失敗し、俺の食癖を満たしてくれる。
なんて甘美なループ。
「実は、今日は大野君をスカウトしに来たんだ。助手として」
「うっひょう!喜んで!」
あ……。
黒田の目が白んでいる。
今のは不自然だった。どう考えてもおかしかった。初対面で探偵で、その助手にスカウトなんて、突っ込みどころが山ほどある。それらをまとめてすっ飛ばして承諾するのはさすがに常識が無い。これでは俺の方が痛々しい大学生みたいじゃないか。伊勢も目を丸くしている。
「いいのか?ありがたいけど、随分あっさり承諾するんだな」
「それも食い気味に。お前がそんなに探偵に憧れていたとは知らなかった」
俺は一度、わざと咳をした。
「失礼。取り乱しました。詳しいお話を聞かせてください」
後日、伊勢からこのときの俺の印象を聞く機会があり、「只者じゃないと思った」と告げられた。こっちの台詞だ、と言えたら良かったのに。
一週間後、俺は伊勢に呼び出され、とある小さな駅にいた。大学からは電車で三十分ほどの、俺が今まで縁のなかった土地。改札を出ると、駅前にはスペースが広くとられている駐車場があり、タクシーが数台停まっている。その向こうには商店街のアーケードが見えた。
あれかな。ちょうど夕陽が沈んでいく方向と重なっていて眩しい。
俺に縁がなかっただけで、当然その地域にも人は住んでいるし、そこから通学している学生だって在籍している。今回伊勢が受けた依頼は、そんな学生からのものだった。
夕陽に目を細める俺たちに手を振る人がいた。伊勢が軽く手を挙げて歩み寄るのでついていく。
「伊勢君、よく来てくれたね」
「ご無沙汰しています、土屋先輩。こっちは助手の大野です」
彼女が依頼主の土屋佳菜らしい。事前に聞いた情報によると、俺たちと同じ大学の四年。俺より身長は低いが、伊勢より高い、女性の平均は大きく超えている長身。ショートカットにキリリとした眉。佇まいからエネルギーを感じる。
「初めまして。大野です」
探偵助手とはどういう態度を取ればいいのかわからくて、とりあえず丁寧に挨拶しておく。俺の性格はアレだが、社会常識はあると思っている。それがないと鬼は人間に擬態できない。
「早速ですが、土屋先輩、現場を見せてください」
「そうね。といっても、すぐそこなの」
土屋先輩が指さした方向には、先ほど見つけたアーケードがあった。夕陽のせいか、全体が赤く染まって見える。土屋先輩は得意気に手を腰に当てた。
「まるなか商店街。ここが私の街よ」
商店街を私の街と呼ぶとは、なんとも味な言い方をする。このご時世、大型ショッピングモールに買い物客は集まり、商店街は寂れていっている。そもそも、過疎化が徐々に進んでいるこの県では、経済成長は難しいだろう。
俺は冷めた気持ちで近づいて行った。日陰に入ったことで逆光が隠されると、予想に反してアーケードの中は人が多かった。平日の昼下がりだというのに、若者から年配まで、歩くのに苦労はしない程度に混んでいる。休日や週末ならば、なかなかの盛況になるだろう。
驚きが顔に出てしまったようで、土屋先輩が唇を釣り上げた。
「ウチはまだまだ元気よ。大型店舗は似たようなテナントばっかりで画一化されているから、差別化を図れば生き残る道はあるってわけ」
俺はバツが悪くなって頭を掻いた。考えていることが筒抜けだったとは、恥ずかしいを通り越して失態だ。
「なるほど。駅前の駐車場がやけに広いと思いましたが、この商店街の駐車場も兼ねているわけですね」
「さすが名探偵。ご明察よ」
伊勢は他の人にも名探偵だと自己紹介しているらしい。土屋先輩は面白がるように呼んでいるが、伊勢自身は全く恥ずかしそうではない。
それにしても、駅の駐車場が商店街の駐車場も兼ねているということは、役所公認の、町の集客資源というわけか。自治体のバックアップを差し引いても、その好調ぶりが伺える。
「そんな順調な商店街に起きたトラブルとは、これですか」
伊勢が真剣な顔で指さした先には、商店街の掲示板があった。そこには、「落書きは犯罪です」と赤と黒のフォントでデカデカと書かれた紙が貼られている。
土屋先輩は苦々しげに頷き、伊勢は赤いキャップの鍔に触れた。
「お話を伺いましょう」
こうして、俺の初仕事が始まった。
事の始まりは二週間前に遡る。
早朝、商店街の一角にある甘味処のシャッターに、大きく落書きされているのが見つかった。スプレーで書き殴られた暴言と卑猥な言葉の羅列。文字の体を成していない部分もあり、雑で下手。いかにも悪戯といった様子だった。
当然店主は怒り心頭。業者を手配して消したものの、それまでの数日間はシャッターを下ろす度に猥雑な落書きを通りに晒すこととなった。
それから一週間後の早朝、今度は精肉店のシャッターに落書きされているのを、店を開けた店主が発見した。落書きの内容はまたも稚拙な言葉の羅列。
悪質な悪戯として、自治会が動き出した。シフトを決めて夜を徹して巡回し、犯人が現れるのを待った。
だが、その努力を嘲笑うように、ドーナツ屋に三件目の落書きが発見された。巡回を開始して四日。これもまた未明のことであった。
「というのが、事件の概要ね」
俺たちは商店街内の喫茶店で、落書きの様子を撮影した写真をテーブルに広げていた。アイスコーヒーを飲みながら聞いていたが、このコーヒー、美味い。
「この紅茶、美味しいですね」
隣の伊勢もアイスティーを飲んで言った。
「ここの飲み物はお勧めよ。それで、どうかしら」
土屋先輩は急かすように聞く。
今回、俺は仮助手としての体験参加という扱いになっている。大筋は伊勢に任せ、どちらかと言うと見学に回るつもりだ。とはいえ、何も考えないというのも勿体ない。三か所の写真を見比べて探偵の真似事をしてみる。
「同一犯、に見えますね」
「どうしてそう思った」
間髪入れずに伊勢が問う。大学受験以降、鈍っていた思考力を久しぶりに稼働させる。
「ええと、こういう場合も筆跡と言っていいのかな。書かれている文字の感じが、共通している気がします。二人の人間の文字が混ざっているように見えないと言いますか……。
黒板やホワイトボードに板書するとき、二人以上の筆跡が混ざっていると、やっぱりわかるじゃないですか。字の大きさとか、癖とか。この落書きからは、そういった雰囲気が感じられなくて」
頭がくらくらする。これくらいの文章の組み立て、大学入試二次試験の頃は当たり前にやっていたのに。実家のじいさんに「たるんどる」と叱られた気がした。
「オレも賛成だ。筆跡鑑定ができるわけじゃないが、これは明らかに同一犯だな。それも単独。見張りが他にいる可能性もあるけど、実行犯は一人だ」
賛成してもらえてほっとする。久しぶりに使った脳内回路から湯気が出そうだ。疲れたが、論理が繋がっていくときの快感もまた思い出す。アイスコーヒーで冷却。
「単一犯、せいぜい二、三人の犯行だろうな。落書きとはいえ、立派な器物損壊罪。オレへの依頼は、その犯人の特定、もしくは確保ってことでいいですか」
「ええ、そういうこと。自治会の張り込みも継続する予定だけど、皆自分の本業があるし、実際問題、守り切れないの。この二週間は手分けしてなんとかシフトを組んできたんだけど、それでも防げなかったし。なんとかできないかと思って」
土屋先輩は、左手を頬に当て、ふう、とため息をついた。エネルギーを感じる人が弱っている様子は、美味しそうな不幸の臭いがする。
だが、俺が食べたいのは、未来に見える幸福を奪われたときの絶望感。いわゆる、上げて落とされたときの落差だ。今回のような下がる一方の幸福感では満足できない。
ターゲットはあくまで伊勢であって、土屋先輩ではない。彼女の幸福も美味しそうだが、二兎を追う者なんとやら、だ。
伊勢はそんな土屋先輩の様子をじっと見ていたが、目を再び写真に落とした。左手に写真を摘まみ、右手で帽子から零れている前髪をいじっている。屋内でも帽子を被ったままでいるスタイルのようだ。
「オレへの依頼は、自治会では周知されていますか」
「知り合いに探偵がいるから相談してみる、とは言ったわ。でも、それだけよ」
伊勢は「そうですか」と平坦に言って、また写真に目を落とした。
「とりあえず、色々と確かめたいことがあります。まずは、この商店街の見取り図ですね。犯行現場と商店の並び、それと防犯カメラの位置」
「防犯カメラ?」
これまでの話に出てこなかったが。
「見てなかったか?ここまでの道中で何個かあったぞ。犯人が特定できていないということは、防犯カメラには映っていなかったと推測できる。土屋先輩、違いますか?」
土屋先輩は頷いた。
「その通りよ。防犯カメラを設置している店舗には聞いてみたけど、犯人らしき人間の姿が映っていたという報告はなかったわ。ただ、設置してあるカメラのほとんどはダミーで、威嚇以上の意味はないの」
「ダミーということは、録画していない、ということですか」
「録画どころか、カメラですらないの。外見だけのハリボテ」
俺はそんなものがあることすら知らなかった。俺の実家はかなりの田舎なので、防犯という概念自体が無い。玄関の鍵だってかかっていない。全員が顔見知りで、不審な動きがあればすぐにばれてしまうため、村内での犯行は自殺行為だ。
それは比喩ではない。外部の人間が俺の村にやってきて物を盗んだりしたら、生きて帰れないだろう。衣服の一片すら残るまい。
ダミーの防犯カメラを設置するくらいなら本物を買えよ、と思わないでもないが、よく考えてみれば気持ちも想像できた。
本格的な防犯カメラを設置、維持しようと思ったらそれなりの設備が必要になる。電源以外にも、録画データを確認するパソコンが必要だ。設置作業自体も配線などの工事が必要になる。身内以外にはダミーかどうかなどわからないのだから、犯罪者を寄り付かなくさせるには充分だと言える。合理的だが、今回はそれが仇となった。
錆びていた脳の歯車が回り始めたようだ。こめかみが少し痛い。
「では、ダミーかどうか、確認して回る必要がありそうですね。それから、巡回のシフト表も、できれば見せてください」
そこからは時間がかかった。防犯カメラを設置している店舗を見つけてはダミーか本物かを質問し、本物だったら、犯行時刻付近のデータを見せてもらった。悲しいことに、本物のカメラでありながら、データを再生する方法がわからなくなって放置されていたカメラもそこそこの数があった。
カメラ購入時のパソコンにはソフトを入れていたが、パソコンを買い直してからソフトを入れ直していないとか、OSのアップデートをしたら動かなくなってしまったとか、中高年の悩めるIT事情がそこにはあった。
データの保存先が変わっているだけであったり、ソフトウェアをインターネット経由で再ダウンロードすればよかったりといったケースもあったので、探偵というよりもパソコン教室の講師みたいなことをして回ることとなった。
ちなみに、この作業で俺は使い物にならなかった。俺だって大学の課題を文書作成ソフトでつくるのがやっとの有様である。パソコンの調子が悪ければ再起動するくらいしかできない。もっぱら伊勢のスキル頼りで防犯カメラのデータを集めて行った。
妹の恵は異次元に使いこなしているのだが、あれは色々と特殊なので教えてもらう気にすらならない。優秀なくせに、教える才能は皆無って奴、いるよな。
結局、ダミーを含めても防犯カメラを設置している店舗は三十軒に一軒程度だった。さらに本物の中でも、久しぶりにデータを見たらカメラが壊れていた、いつの間にかあさっての方向を向いていた、というトラブルが見つかり、まともに稼働していたのは僅か数台だった。
それらのデータも、十二時間で古いデータから削除されていく設定になっており、犯行前後の映像は残っていなかった。
つまり、収穫無し。
「ざるですね」
アーケード街を一周回った後、土屋先輩の家に上がらせてもらった。ご実家は総菜屋で、表からはいい匂いが漂ってくる。そんな中、思わず俺はぼやいてしまった。土屋先輩も、「まさかこれほどとは」とショックを受けていた。
「商店街は店舗が密集しているので、各店舗の防犯意識は薄れるのかもしれません。集団でいると気が大きくなるのと同じです」
伊勢の言いようもなかなか容赦がない。要するに、皆でいるから大丈夫、という油断があり、それに付け込まれたというわけだ。
俺は土屋先輩から貰った見取り図にカメラとその情報を書き込んだ。既に犯行現場もマーク済みだ。
俺は手元の見取り図を指で辿る。
「一応、犯人からすればカメラが生きているか死んでいるかわからないわけですが、それでも、ダミーカメラにすら映らず犯行現場へ行くのは簡単ですね」
アーケードは一本道のようだが、実際にはあちこちに横道があり、別の通りに出ることができる。アーケード内は当然店舗ばかりだが、一本通りを外れれば住宅街で、店舗は一気に減る。防犯カメラは一台も無かった。犯行現場に一番近い横道からアーケードに入れば、カメラを回避することは容易だ。
「防犯カメラに映っていなかった理由はわかったな。これも収穫だ」
伊勢はポジティブだ。意識と理想だけ高くて実力は見当違いに低い若者、という初対面の印象は、この数時間で変わり始めていた。安楽椅子探偵を気取って横着することもなく、自分の足で現場を確かめ、情報を精査していく。
幸福を食べる目的とは別に、伊勢に興味が湧いてきた。この事件の犯人をどう推理するのか。どう追い詰めるのか。探偵定番の「犯人はこの中にいる」という名台詞は聞けるのだろうか。
「次はシフト表を見よう」
自治会が作成したという巡回シフト表に俺たちは顔を突き合わせる。
シフトには、夜の十時から朝の六時まで、一時間ごとのシフトが切られ、「*各シフトで一回は見回りをすること」というコメントが最後に記載されている。逆を言えば、一時間に一回の見回りしかない。居酒屋やスナックもあるが、基本的には終電で閉店する。だいたい日付が変わる頃だ。それを過ぎれば人通りはぱったりと止み、朝五時ごろまでは静まりかえるのだという。
「犯行は、おそらく午前二時から四時くらいでしょう。朝方になれば、パン屋なんかは仕込みで動き始めるでしょうから」
伊勢は見取り図上のパン屋を指さした。商店街の入り口付近に店舗を構えている。来る時も香ばしい香りを発していた。後で買って帰りたい。
「そうね。他にも、和菓子屋や、モーニングを出す喫茶店は仕込みのために朝が早いわ。午前五時くらいには、そうした人たちや散歩に行く人たちが家から出てくるはずよ」
食べ物屋と老人は朝が早い。俺の故郷、鎌籠村でも早朝に散歩している老人は多かった。もっと多かったのは、早朝から畑いじりをしている老人だ。鎌籠の老人は元気が過ぎる。
「このシフト、どれくらい機能していますか。皆さん、真面目にやっていますか」
伊勢がズバリと聞いた質問に、土屋先輩は眉をひそめた。
「言いにくいけど、シフト一回の見回りだけやって、すぐに寝てしまう家がほとんどね。気持ちはわかるし、自治会としても強く要請できないの。それならまだ良い方で、ここだけの話、真面目にやっているのは半分にも満たないと思う」
それは当然だろう。いつ来るかわからない落書き犯を捕まえるために、本業が疎かになっては本末転倒だ。深夜の一時間は、失う睡眠時間としては大きい。
「このシフトには意味が無いんじゃないか、という声も上がり始めていて、正直、有名無実化するのも時間の問題だと思う」
活気がある商店街といえど、商売が楽なわけではないだろう。余計な体力を使う余裕はない。
「自治会長は頑張っているけれど、正直、他人事だと思っている人もいるの。これじゃあ、いいようにやられちゃう」
土屋先輩は項垂れた。
「私の両親は気楽なものだけれど、次に狙われるのはウチの店かもしれないの。それを想像すると、放置できなくて」
落書きの写真を思い出した。ただただ呆れと苛立ちを想起させる。もしも俺の実家に書かれたと想像すると、たしかに物凄く腹が立つ。きっと家族総出で報復し、犯人は文字通り欠片もこの世に残らないだろう。それくらいのことはする家族だ。
「これは?」
伊勢はシフト表の裏から出てきたチラシを手に取った。「落書きは犯罪です」とデカデカと書いてある。
「それ、入口の掲示板にあった奴ですね」
「一連の事件を受けて作ったの。商店街の中にも貼っているんだけど、このくらいじゃ、焼石に水よね」
これを見て犯人が反省するかといえば、しないだろう。それで済むなら三件も連続しない。
俺はすぐに興味を失ったが、伊勢はしばらくそのチラシを見ていた。
「どうしました」
「大野、見取り図、貸して」
言われるがまま、見取り図を渡す。伊勢は二枚を左右の手に持ち、目を閉じた。
「何をしているんですか」
「シミュレーション」
さっぱりわからない。横を見ると、土屋先輩もわからないようで、こっちに首を傾げてみせた。俺も肩をすくめて返す。
無言の時間が流れた。喋るのも気が引けて、俺と土屋先輩は何をするわけにもいかず少し気まずい。
「うん、なるほど」
たっぷり一分程度黙り、伊勢が目を開けた。
「土屋先輩、準備があるので、そうですね……、二日後から張り込みます。それで、決着です」
「本当に?」
「マジですか」
土屋先輩と、ついでに俺は、自信ありげな伊勢の態度に戸惑った。ここまでの情報で、いい報せは無かったと、俺には思えた。伊勢の目には違うものが映っているのだろうか。
「本当です。土屋先輩は、今日のうちに自治会と商店街にアナウンスしてください。二日後から探偵が張り込むと。できるだけ協力するように話を通しておいて頂けると助かります」
「それは構わないけど、犯人がわかったの?」
土屋先輩が期待を込めた目線を送った。俺も力が入る。
伊勢は帽子を被り直し、ためを作った。思わず唾を飲みこむ。
「いえ、まさか」
立っていたらずっこけるかと思った。わかっていないのか。
「これだけの情報で犯人特定まで至るのは無理ですよ。時間をかけて商店街全店舗に聞き込みをしていけば別ですが、できれば次の犯行を許したくないのでね。まあ、ご安心を」
伊勢はキャップの鍔に触れ、不敵に笑った。
「オレは名探偵ですから」
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