Happy Eater
佐伯僚佑
第一章
舞台設定といきなり後日談
日本にどれだけの鬼が住んでいるか知っているか。
ここでいう鬼は、鬼教師や鬼嫁といった比喩じゃない。文字通り、鬼という種族のことだ。
人数は千人とか一万人とか言われている。正確な数はわからない。人間のように役所が戸籍を管理しているわけではないからな。鬼は人間と変わらない姿だから人間としての戸籍があるわけで、一応役所に戸籍は管理されているが、誰が鬼なのかはわからないという意味だ。男・女みたいに、人・鬼という欄があったら鬼に〇をつけてあげてもいいのだが、現実は人間至上主義なので、鬼たちも人に〇をつける。嘘だ。男・女のどちらかに〇をつける。
なぜ鬼の存在が公になっていないのか。当然、隠れているからだ。だけど、ほとんどの人間が鬼という種族の存在を聞いたことはあるはずだ。古くは飛鳥時代から語り継がれているのだから。
極めつけは桃太郎だ。あの事件の伝承が大ヒットしたせいで、鬼の存在が日本人の必須教養になってしまった。江戸時代くらいまではぼんやりと語られている程度だったのに、大正・昭和になったら日本人全員が知っていやがる。まったく、生きにくい時代になったもんだ。
このように、日本人は全員知っているけど、いないものとして扱われている、それが今の鬼族。俺たちだ。
隠れなくても堂々と出て行けばいいじゃないかって言いたいのはわかる。まあ落ち着け。理由があるんだ。鬼は人間のあるものを食べなくてはならない。おまえたち子供にはまだわからないだろうが、それが普通だ。大人になるまでにそうした衝動に目覚め、体が求めるようになる、つまり成長過程の一部なんだ。背が伸びたり、声が低くなったり、男らしい、もしくは女らしい体つきになっていくことと同じように、人間のあるものを食べるようになる。
あるもの、あるものって、それは何かって思うよな。それはぼかしているわけじゃなくて、鬼によって違うんだ。鬼によって、欲しくなる、食べなければならないものが違う。個性と言ってもいい。
よくあるパターンでは、人間の肉。魂。ま、どっちも人間を殺して食う。珍しいものでは、悪夢や声なんてものもある。どれが良いとか凄いとかじゃなく、個性だ。そこんとこ、間違えんなよ。
その食うものによって、呼び名がある。肉を食うなら
辛いなら食べよう、と簡単にいかないのが難しい。人間に俺たちのことが知られてはいけないからだ。当然だが、人を定期的に殺して食う鬼が存在すると知られたら、殺される。自分だけじゃなく、一族全員が殺されるかもしれない。見つからないように、バレないように、慎重に食べないといけない。飢餓感に耐えながら頭を使って命がけで食うんだ。毎回毎回、疲れるんだよ。
でも、それが俺たち鬼の宿命なんでな、仕方がない。諦めて、せいぜいエンジョイしながら食べようぜ。
おいおい、人間を支配すればいいじゃんって、過激だな。やめてくれ、お願いだから。
たしかに俺たち鬼族は人間よりも身体能力が高い。百メートルを六秒台で走れる。その辺の十八歳くらいの男が本気で走れば、短距離走の日本代表くらいは余裕で入れるだろうよ。だけどな、自動車やバイクには勝てない。その辺の警官が持っている拳銃一発で死んじまう。何より俺たちは数が少ない。戦争なんてしたら一瞬で負けて絶滅だ。機関銃だの戦車だの、ミサイルだの核ミサイルだの、人間様の兵器には勝てんのよ。
「ということで、君たちも人間社会に上手く混ざって、バレずにこっそり楽しく過ごしてくれたまえ。質問はあるか」
俺は畳の大広間に座った子供たちを見渡した。俺を含めて全員が座って輪になっている。
「たっちゃんは人間の何を食うの?」
男の子が聞いてきた。自分の食癖に関して語ることは稀だが、今回は族長からの指示で特別保健体育及び人間社会での生き方講座をしている身だ。特別に話してやるとしよう。
「人間の幸福感だ。
「どうやって食ってんの?」
「毎回違う。この幸食ってのは、約束された幸福感が手に入らなかったときの落胆、この感情の落差を食う」
ちょっと難しい言い方だったかな、と思って子供たちの顔を見ると、意外としっかり聞いているようだった。今更少し緊張してしまう。
「好きなミュージシャンのライブのチケットが当たったのに、仕事で行けなくなった、みたいな感じだ。それが近く、ここでいう近さは距離に限らず、電話越しに話している相手とか、俺が深く関わって引き起こしたとか、そういう心理的、事情的に近いところでもいい、そういう所で起きると、俺はそれを吸収して満足感を得られる。好みは全員違うように、幸福感を得る対象も、その失い方も個人個人、ケースバイケース、それぞれ違う。毎回頭を捻っているよ」
公民館での特別授業が終わって、俺は族長でもある祖父が住む実家に戻った。名目上は自治会長にあたる。相変わらず巨大な門構えだ。門をくぐると蔵が三つある。中には祭りの道具や古い帳簿が収まっていると聞くが、絶対にそれだけで三つも要らない。何が収蔵されていることやら。
「じいさん、終わったぞ」
ずかずかと上がって廊下を進むと、襖が開いてばあちゃんが顔だけ廊下に出した。一応言っておくがろくろ首ではない。鬼だ。
「たっちゃん、お疲れ様。冷凍庫にアイスあるよ」
「お、マジで。食べる」
俺たち鬼の舌と内臓は基本的に人間と共通している。人間が旨いと感じるものは俺たちにとっても旨い。俺は有難く冷凍庫からハーゲンダッツを取り出した。
居間に行くと、ばあちゃんとじいさんが客を相手に喋っていた。今日は盆の初日なので、一族の家長が代わる代わる挨拶に来る。挨拶も何も、常に近くで暮らしているだろうに、と俺は思うのだが。
「達也、子供たちはどうだった」
じいさんは春に米寿を迎えた。それにしては超がつくほど元気。まだまだ親父に族長を譲る気は無いらしい。親父も親父で、自分を飛ばして息子、俺の兄貴に直接継がせたいと思っている節がある。じいさんの子供らしからぬ面倒くさがりなのだ。
俺は客に軽く会釈して畳に胡坐をかいた。アイスを少し溶かすために、まだ開けないで握っておく。
「真剣だったよ。自分たちの将来に直結する内容だもんな」
特別授業は盆の恒例行事である。六歳以上になった子供は毎年二回、盆と正月に家族以外の大人から人間社会での生活方法を学ぶ。各家庭でも当然言い聞かせているが、家族でない大人と接する機会は自然と緊張する。真剣になろうというものだ。まあ、見知った子供からは、さっきのように気軽に話されたりするわけだが。
そういえばあいつ、もしかしたら俺の本名を知らないで、「たっちゃん」という呼び名だけ覚えているのかもな。近所の二十歳上の男の本名なんて、知らないほうが自然かもしれない。ここ数年は街で暮らしているから尚更だ。
「達也さん、子供がお世話になっております」
客が言った。正直、誰さんだか名前があやふやなので、適当に誤魔化すことにする。
「いえいえ。皆が世話になってきた行事なので。昔受けた恩を返しているだけですよ」
客は少し話して帰っていった。じきに次の客が来るだろう。
「いつも思うんだけどさ、明日の夜は皆集まって宴会だろ。挨拶なんてその時でいいじゃん」
盆の二日目の夜は、一族できる限りが集まっての宴会だ。まとめて「皆元気で何より」とでも言っておけば済むのではないか。
「あの場は、たまに会う人たちと呑む場だからよ、俺が時間貰うのは良くねえな。お前だって、久しぶりに友達と会うだろう。そいつらと話して呑んだ方が楽しいに決まっている」
ごもっとも。俺はハーゲンダッツを開けてスプーンを入れる。程よく溶けていて旨い。
「親父や兄貴はいつ帰って来るって?」
「明日の昼には着くと仰っていましたよ」
ばあちゃんが答えた。いつも口調が丁寧で、聞いていると落ち着く。
「さっき台所で見えたけど、今日の晩飯は筑前煮?」
「そうですよ」
ばあちゃんがほほ笑む。俺の好物だ。
「やったね」
「お前は若い癖にじじいみたいな好みだよなあ」
「いやいや、じいさんは毎日食っているからわかってないんだって。あの出汁と煮加減はその辺の居酒屋じゃ食えないくらい、本格的なんだよ」
俺も自炊するときは挑戦してみるのだが、レシピ通りやってもなぜか上手くいかない。主婦の経験というやつが隠し味なのだろう。
「そういや恵は?」
そろそろ二十歳になる俺の妹はここから大学に通っている。が、姿が見えない。
「上だ。自分の部屋にこもってパソコンやっている。なあ、達也、恵は本当に悪いことやってないんだろうな。説明されたけど、俺にはさっぱりでよ」
ふむ。俺は恵が何をやっているかなんとなく知っているが、じいさんに理解せよというのも酷か。
「そこは心配しなくていいよ。ちょっと見てくるわ」
アイスをちびちびと食べながら階段を上がる。階段を昇りきって、一番の奥のドアをノック。
「はーい」
間延びした声が中から聞こえた。ドアを開けると、ジャズの演奏が流れ出てきた。
「久しぶり。元気か」
カチカチとクリックした後、椅子をぐるりと回して恵がこちらを向いた。
「まあまあ。たっちゃんは?」
「まあまあだな」
ノースリーブにショートパンツというラフな格好。盆の客を対応しようという気が全くない。
だが、俺はそれを咎める気は無い。なぜなら、この家で最も金を稼いでいるのはこいつだからだ。
「ビットコインは儲かっているか?」
「それはもう時代遅れだね」
時代遅れの村に住みながら時代の最先端に投資して莫大なリターンを得ているのが、この大野恵だ。こいつが稼いでいなければ、俺の給料の一部は徴収されていただろう。族長には経済的な蓄えが必要なのだ。
「今は何やってんだ」
「屋内農業のシステム開発とか、その辺の人材集めとか。あとは、いつも通り困っている人の救済」
目が点になった。後者は恵の食癖と関係するのでいつものことだが、この村で昔ながらの露地栽培を行っているというのに、その常識を忘れたように屋内農業だと?
柔軟というのか、型に嵌まらないというのか。慣習に囚われないその思考こそが才能か。
親父にこっそり教えてもらったのだが、月に百万円単位でこの家に金を納めているらしい。そりゃあじいさんも客の対応をしろ、なんて小さいことを言わなくなろうというものだ。そして、心配にもなる。
悪いことをやっているわけでは全然なくて、恵がとんでもなく優秀すぎて家族の誰も理解してやれない、というのが実際だ。大学生なのに壁にはパンツスーツが掛けてある。
鬼は人間よりも身体能力が高い傾向にあるが、恵は一族の中でも特別に身体能力が低かった。人間にも劣るほどに。代わりに天から与えられたのが、知能だった。それに気づくまで、体力の低さゆえに自信を喪失し続けた恵は、人間の社会、つまり学校に入ってから鬱憤を晴らすようにその知能を爆発させた。学生なのに仲間と会社を経営しているとかなんとか……。
一般企業でひいひいやっている俺とはスケールが違う。
ま、嫉妬できるレベルを遥かに超えてしまったので、自慢の妹です、とかえって言いやすい。
「アイスだ。いいな、それ」
「冷凍庫にまだあったぞ」
「お客さんの手土産は、お酒よりそういうものの方が嬉しいよね。休憩にしようかな」
恵は頭の天辺でお団子にした髪をほどき、立ち上がった。
「盆だってのに、ご苦労様」
「海外には盆なんて習慣はないからね」
「代わりに一か月くらいの夏休みがあるんだろ」
「たっちゃんの常識はいつのものなの。今どきそんな優雅な国はほとんど無いよ」
そうなのか。俺がたまに相手にする海外メーカーの担当者は数か月単位で休暇に入ったりしているが。俺の常識が狭いってことなのか。
恵が部屋から出るので、俺もついていく。恵の身長は俺の胸くらいまでしかない。時に中学生に間違えられるらしい。
「欧米人からしたら、お前、子供に見えるんじゃねえの」
「実際子供だからね。私、まだ未成年だし」
そういえばそうだった。
「たっちゃん、結婚どうするんだっけ」
「唐突だな。どうした」
俺たちは鬼族なので、当然結婚相手も鬼族だ。戸籍上人間と結婚することはできるが、滅多に子供が生まれない。人間と鬼のハーフが生まれた試しはあるものの、寿命が短く、生殖能力が無い。馬とロバの雑種強勢であるラバでも同様の傾向がある。
鬼と人間が遺伝子的にほとんど同じ種族であることを示しているわけで、研究し甲斐がありそうなテーマだが、今のところ調査されていない。とにかく、鬼は鬼と結婚することがほとんどだ。少子高齢化社会が叫ばれて久しい日本だが、鬼族は一定数を維持している。同族の連携が非常に重要なので、個体数が減るといろいろと不都合が生じるのだ。
だから当然、俺も結婚と出産(俺が産むのではない。もちろん)を暗に急かされているのだが、相手がいない。人間社会で生きることが必要な俺の食癖上、鬼とつるむよりも人間と関わっている時間の方が多いのだ。
「女の人を紹介される気ってある?」
「それは、人間の女か」
「そう」
恵は冷凍庫を物色し始める。恵が言っているのは恋人(文字通り、人間の)が欲しいかという意味ではない。基本的に鬼にとっての人間は食料源。今回も、俺が幸福感を食べるために欲しいか、ということだ。
「紹介してくれ」
「オッケー。そういう機会があったら回すね」
このように、同族内で情報や人脈を共有することは食癖を満たすために重要だ。単独で広げられる人脈は限られる。
恋人関係になればかなりプライベートに突っ込んだ話も聞けるし、間近で幸福感を食べる機会をうかがえる。慣れてくると男同士よりも簡単だ。男は同性に自分の弱みを見せることを嫌がる。
居間では次のお客が来ていた。恵は自分の服装を見て、自室に戻っていった。相手が人間の男だったら、そのまま出て行って隙を演出して誘惑し、機を見て捕食するのかもしれない。
恵の食癖もかなり特殊なのだが、妹のそういう姿はあまり想像したくなかったので、この辺で考えを止めておく。
宴会の場は、昨日も来た公民館だ。広間には早速飲み始めている爺たちがいたが、若い連中はいなかったので厨房に行く。
「よう、紫乃」
「達也、あんたはいつもこっちに来るね」
同い年の川辺紫乃が年上の女房衆に混ざって料理をしていた。
「待っているだけって、申し訳ないだろ。俺も手伝うよ」
「じゃあ、野菜切って。これ全部千切り」
菜切り包丁を手渡され、俺はキャベツの山に向き合った。いつもながら量がすごい。十玉くらいか。紫乃は隣のコンロで肉を煮ている。一応言っておくが、牛肉だ。一応ね。
「あたしらの世代から男が厨房に来るようになった、って言われてんのよ」
紫乃は猛烈なスピードで灰汁を取る。料理に慣れている。
「へえ、時代かね」
「何をとぼけてんの。あんたが来るようになったからでしょうが」
「あ、そうなの。下の世代にも受け継がれたのか」
「ほとんど役に立たないけどね」
手厳しい。この村には昔ながらの価値観が根強く残っていて、料理は女の役目だと考えられている。男は上で酒を飲み、料理を食べて宴会をする一方で、女は忙しく働くのだ。
そういう風習に反抗したわけではなく、ここで気が遣えるところを見せればモテるぞ、と言った年上の友達がいたから手伝うようになった。そのうち、同じように姑息なことを考える奴らが真似しだした。実際にモテるようにはならなかった。
「お、達也がいるじゃん、久しぶり」
噂をすればなんとやら。姑息組がぞろぞろと厨房にやってきた。
「お前ら、遅いぞ。やる気あんのか」
「あんたも来たのさっきでしょうが」
紫乃に蹴られた。
「紫乃さん、何やったらいいですか」
小柄な男、高木祐介が腕まくりをして近寄ってきた。
「じゃあ、あんたも野菜切って。ゴボウ。ささがき」
祐介は俺の三歳下だ。二十四歳のはずだが、顔つきに、十代と言っても通じそうな幼さがある。
紫乃は俺たち姑息組に仕事を割り振る。仕事が無くなった女房衆は日本酒をちびちびやり始めた。
「達也さん、最近どうですか。仕事とか」
「そうだな。この間は避難訓練の取りまとめをしたんだけど、消火器を初めて使ったわ」
「それは珍しい経験ですね」
俺はとある医療機器メーカーの総務部総務課で働いているので、いろいろと雑多なことをする。食癖を満たすためには何度も転職して回るつもりなので、どこでも使えるスキルを持つ方がいい。経理も人事も経験はある。
祐介は専門職で、製造機械のエンジニアだ。昔から凝り性で、家には電車の模型が沢山ある。
田舎の年寄り、特に仕切っている奴らは声が大きくて性格が大雑把だ。祐介みたいなタイプとはノリが合わない。同じように感じる男たちも一定数いて、無理に宴会場で騒ぎに付き合うよりも、こうして作業しながら旧交を温めるのが心地良かったりするのだ。
やがて祐介はおずおずと切り出した。
「達也さん、結婚はどうするんですか」
「昨日も恵に聞かれたな。未定だよ。祐介は?」
「僕も未定です。相手がいるわけでもないですし」
厨房にたむろしている男たちは、どちらかというとはみ出し者たちだ。この田舎では、あまりモテない。誰だ、モテるなんて言い出したのは。あれ、本当に誰だっけ。顔も名前も思い出せない。
「達也さんは、紫乃さんと、どうなんですか」
「ん?」
「住んでいる場所、近いですよね」
たしかに俺も紫乃も街で働いていて、住所は近い。車ならすぐだ。互いを利用し合うこともある。
「そうだけど、付き合っているわけじゃないぞ」
「そうなんですか」
「おう」
祐介の顔が心なしか輝いた。わかりやすい奴め。
「紫乃にアタックするならねらい目だぞ。あいつも行き遅れだからな」
「誰が行き遅れだって?」
紫乃の声がした。すぐ後ろにいたか。
「そんなこと言っていませんよ。あ、やめて、危ない、そのフライパン、絶対熱い、ごめんごめんごめん」
料理を作りきると、あとは酒とつまみがなくなるまでだらだら続く宴会だ。公民館の前の小さな広場で、小さな子供たちは遊んでいる。俺たちはその嬌声を聞きながら、拝借してきた大皿をつついて酒を呑んだ。
「族長の家の子に雑用なんかさせるな、ってうるさく言っていた人たちもいい加減諦めたよ」
紫乃と俺、それに祐介は、適当な木箱を椅子とテーブル代わりにして小さな輪をつくっていた。
二階から騒がしい笑い声が聞こえた。厨房では女たちがお喋りに興じている。あちこちで輪ができて、皆声高に楽しそうだ。
「古い価値観だと思っていても、俺たちは助け合わないと生きていけない。それには、こういう昔ながらの価値観を尊重することが必要になる。資本主義では、俺たちが助け合うことはできないからだ」
人間の何かを食べなければならない食癖は、各々違う。簡単に済む者もいれば、大変な苦労を強いられる者もいる。等価交換の協力では、どうしても不利を強いられる者が現れてしまうのだ。利益や公平性を度外視した協力関係が無いと、鬼族は飢餓感に殺されてしまう。
古い価値観ではあるが、そのルールに従っていればサポートが得られることの裏返しでもある。自由や平等を謳って保護されるのは人間だけだ。
祐介が口を開いた。
「男女平等や個人の尊重という考えは、戦後に広まったものです。元々、日本の山村部は自分たちの社会を強固に維持するために自分たちの決まりをつくり、それを昭和初期まで運用していました。こっちが普通なのだと思います」
今、人の社会は大きく変わっている。それに合わせて変化するべきことと、変化してはいけないこと、それを見極めないと俺たちは滅ぶ。族長の家の子として、俺や兄貴、恵は小さい頃から親父に言われてきた。
「私は、上で騒いでいる人たちのどれだけが、社会の変化についていけているのか疑問なんだよね。それこそ、恵ちゃんみたいにもっと外に出て行くべきだよ」
「あいつは特別だよ。真似しようとすると怪我する」
俺は立ち上がった。当の本人、恵が出てきたのだ。
「帰るのか?」
「うん。話すべき人とは話したから」
話すべき、ね。
「紫乃、俺ちょっと恵を送ってくるわ。祐介、十分くらい、紫乃をよろしくな」
「よろしくって何だよ」
訳が分からないであろう紫乃の横で、祐介は必死な顔をして頷いた。
俺は恵と連れ立って暗い夜道を歩きだす。
「別にいらないのに」
ぼそりと言う恵は、当然人前に出られる服装をしている。
「そう言うな。気を利かせて、祐介の舞台を整えてやったんだよ」
「何それ」
「求婚」
「ヒヤシンスでも育てるの?」
「その球根じゃない。結婚を申し込む求婚だ」
「あらら。へえ」
リアクションが薄い。本当に年頃の娘かね、君は。
「もうちょっと反応してもいいんじゃないか」
「はあ。じゃあ、お気の毒に」
「振られる前提かよ」
ドライな奴だ。
「じゃあ、たっちゃんにお気の毒に」
「どうして俺?」
「……じゃあ、紫乃さんに、お気の毒に」
「……」
こいつは、適当に言っているのだろうか。もしも本当に、全部完全にお見通しで言っているのだとしたら、それが一番怖い。
「ま、気を利かせてってのもあるが、お前の帰り道が心配だからというのも本当だ。酔った勢いで気が大きくなるやつがいないわけでもないからな」
はっきり言って男尊女卑のこの村では、恵に万一のことが無いとも限らない。
また、この村には街灯が少ない。往々にして鬼族は人間よりも目がいいので、さほど暗さが気にならないのだ。ただし、恵の場合は人間並みの視力しかない。足元が不安になる暗さのはずだ。
「無いと思うけど、帰省している奴らもいるしね、その心配は杞憂とは限らないかな」
恵は基本的にこの村の連中が苦手だ。自身が幼少期、身体能力の低さでいじめに近い目に遭った経験から、不信感を抱いている。大学進学を期に村を出ると思っていたので、ここから通うと聞いた時にはかなり驚いた。
「けど、やっぱり要らないよ」
恵が前を指さした。その先には男がポツンと立っていた。名前は知らないが、見覚えはある。
「え、まさか彼氏?」
「ピンポーン」
間の抜けた声で返事をした恵は、軽く手を振った。向こうも応える。
「てことで、たっちゃんは戻りなよ。私たちはやることあるから」
口調を一切変えず、恵は小走りで俺を置き去りにした。俺に挨拶しようとする男の手を強引に引いてそのまま行ってしまう。
「お兄ちゃんに挨拶くらい、させてもいいんじゃないかな、恵」
誰も聞いていない、空しい言葉が畑道に落ちた。
しばらく放心して、トボトボと引き返す。今から戻ると、タイミングが最悪になりそうだ。祐介に十分と言ってしまった。俺は律儀に腕時計で時間を測る。
暇だ。家まで行って戻るつもりだったから十分と言ったけど、十分間何もせずに待つとなるとかなり暇だ。自然とさっきの光景が蘇る。
「妹に彼氏ができたくらいじゃあ動じないつもりだったけど、意外とショックだな。やることがあるって、何だよ。そんなことを恥じらいもなく淡々と言わないでくれよ」
宴会の日は家に誰もいない。ばあちゃんもじいさんもいない。そんな日に連れ立って家に行くなど……。想像がムクムクと育つ。泣きそう。あいつ誰だよ、俺、知らないぞ。
「兄貴は恵に彼氏がいること、知ってんのかな」
なんとなく知らない気がした。騒がれるのを嫌いそうだから。兄貴は族長の家の子としての矜持が強いので、コソコソ付き合うことを許してくれなさそうだ。逆に言えば、俺はその辺を信頼してもらえたということかもしれない。
「ああ、そう思うと、誰にも愚痴れないじゃないか」
秘密を抱える、思い出に残る盆になった。
「達也、起きろ」
宴会明けの惰眠を貪っていた俺を、無粋な男の声が叩き起こした。
目が開かない。気のせいだと決めつけてもう一度寝ようとすると、額を叩かれた。
「起きろ、泥棒が入った」
穏やかじゃない言葉に、頭が覚醒し始める。泥棒?と聞き返したいが、口が動かない。代わりに欠伸が出た。
「何か盗られた物は無いか」
「泥棒?」
十テンポくらい遅れて声が出た。泥棒って何だっけ。
ようやく目が開き、自分が客間に敷いた布団の上にいることに気付いた。でかい客間には布団が二つ。俺と兄貴の分だ。名前は大野良樹。父さんと母さんは別の客間を使っている。
兄貴は厳しい顔で部屋の真ん中に立っている。こうして見ると肩幅が大きい。まだ筋トレをライフワークにしているみたいだ。
俺は自分の荷物を見る。特段変わったところはない。
「俺は多分盗られてないよ。盗られて困るものもない。そもそも、泥棒が入ったって本当なのかよ」
夏の暑さは、布団にこもり続けるには向かない。俺は転がるように布団から這い出て、襖を開ける。廊下を裸足のままペタペタと歩いて台所に行くと、俺以外揃っていた。
「おはよう、達也。久しぶりだな」
「親父は、ちょっと髪薄くなったか」
「おい」
「冗談だよ」
テーブルには朝食が湯気を上げている。
「顔だけ洗ってくるわ」
そう言って俺は一旦離れた。兄貴と他の家族で温度差が著しい。ちらちらと他の部屋も覗いてみたが、荒らされた形跡も無い。
泥棒が入ったって、何を根拠に。
朝食の場に戻ると、皆食べ始めていた。俺も遅れて手を合わせる。なんというか、いつも通りの我が家の朝食だ。
実を言うと、泥棒だのなんだの、物騒な話題は出したくない。このまま和やかに家族団欒といきたい。だが、それが許されるはずもない。
「泥棒が入った」
兄貴が二度目の言葉を言った。俺は沢庵をポリポリかじる。
「それ、根拠は?荒らされたように見えないんだけど」
「俺が見た」
兄貴は綺麗な所作で味噌汁を音もなく啜る。
「不審な者、多分男だが、そいつが昨日深夜、家から出て行くのを見た。俺が帰った時、深夜二時くらいだが、こそこそとウチの敷地から出て行く影を、俺は家の中から見た」
「顔は?」
「さすがに見えなかった。こちらに背を向けていたし、暗かったからな」
ちょっと考えてしまう。心当たりがあるどころではない。
あいつじゃねえか?恵の彼氏。
俺は向かいに座る恵を見る。海苔を巻いてご飯を食べていた恵と目が合った。一瞬、一秒にも満たない時間視線を交錯させ、目を細められた。すっと視線を外される。
兄妹歴は長い。当たりだ。
さて困った。
本来、擁護か弁護か論破か、とにかくこの話題を平穏無事に閉じなければならないのは恵なのだが、当の本人は黙ったまま。これでは兄貴がどんどん話を進め、警察沙汰になる可能性もある。
まあ、実際には、鬼族は警察の介入を嫌うため、身内だけでの話になるだろう。遺伝子を採取される、などということになると、下手をすれば一族の存亡に関わるからだ。
警察沙汰にはならないとはいえ、兄貴が黙って済ませるとは思えない。族長の家として、けじめと威厳が重要であると考える兄貴は、世間の目に敏感だ。
それも真理ではある。兄貴にその辺りを任せて気ままに生きている俺に、とやかく言うことはできない。
おっと、考えが逸れてしまった。おそらく、十中八九、その泥棒は恵の彼氏なのだが、恵はそれを隠したがっている様子だ。昨夜も考えたが、兄貴や親父、じいさんが知ればこっそり付き合うことはできないだろうから、黙っていると仮定する。だから、大した問題ではないから放置しよう、と兄貴を誘導する必要があるのだが、ここで問題が生じる。
人狼ゲーム、というものがある。詳細は省くが、端的に言えば人狼という、噓つきの役職を割り当てられた参加者を特定するゲームだ(人狼族がいるとしたら同情を禁じ得ない)。嘘つきは、黙っているとほぼ確実に負ける。人間の振りをした人狼が嘘をついて議論を混乱させ、間違った結論に誘導しなければならない。だが、それは一方で、よく喋る奴が怪しい、という理屈で簡単に特定されるリスクも内包する。
そのバランスと発言内容によって心理戦を行うゲームではあるのだが、今回はそれに近い。恵は、自分が発言しすぎると怪しまれるため、積極的に口を開けない。だが黙っていると、自分に不利な状況へと陥っていく。
痛し痒し。あちらを立てればこちらが立たず。
「放置するわけにはいかない。盆が終われば帰省していた連中はまた散ってしまう。今日中に見つけ出したい」
親父やじいさんは涼しい顔をしている。兄貴に任せているのか、別のことを考えているのか。かあさんとばあちゃんは、こういうとき発言しない。三歩引いてついていく、昭和の良き女なのだ。
良くないな。誰も兄貴を止めない。「まあまあ、大ごとにしないでおきましょうよ」と言う人がいない。それに、うちはそういう雰囲気の家族ではない。どちらかというと、白黒つけたがるタイプだ。恵も含めて。
なんとなく、昨日、恵が俺に彼氏の存在を教えた理由がわかる気がした。こういうときのためだったのではないか。
「兄貴、さっきから泥棒と言っているけど、物は盗られたのか」
「む、いや、それが、盗られたものはわからない。蔵の中まで調べるとなると、それなりに時間がかかる」
「蔵の鍵って、どう管理しているんだっけ」
俺は知らない。
「金庫の中だ」
兄貴が言っているのは、じいさんの部屋にあるでかい金庫のことだ。決められた数字に沿ってダイヤルを回していくタイプの鍵つき。
番号を知っているのはじいさん、父さん、兄貴だけ。俺も、ばあちゃんすら知らない。
「蔵の物は一旦置いておこう。わからないものは考えたって仕方ない。わかる範囲で盗まれたものはあるのか」
俺は家族の顔を順々に見る。全員が同じように見回していた。
誰も答えない。
「これ、盗られたもの、無いんじゃないか」
「む……。おかしいな」
「単純に考えて、族長の家に盗みに入るリスクを取るか、疑問なんだよな」
「リスクを考えるなら、そもそも盗みは働かない」
そう言われると、兄貴の言うことも尤もだ。
「兄貴、飯食ったらもうちょっと状況を教えてくれよ。あと、蔵の中も確認しよう。盗みに入られたかどうか」
「そうだな。今のままでは犯人の手がかりが少なすぎる」
今のうちに考えを進めておこう。
蔵の中は暗かった。駄洒落を言いたいわけではない。
蔵の目的は物品の保管だ。湿度、温度、光から貴重品や食料を守るために建てられたものなのだから当然だが、暗い。兄貴が豆電球を点けると、大小様々な箱がひしめき合っていた。小さな窓もあるが、開かない。ただのわずかな採光用だ。密閉されているわけではないので窒息はしないが、なんとなく息苦しさを覚える。
「これは、入れないな」
二階まで見たが、検証するまでもなく侵入は不可能だった。入口が無いのだ。
他の蔵も見て回ったが同じ造りで、異常は無かった。
「俺さ、初めて蔵の中をちゃんと見たよ」
「子供が見るものではないからな、貴重なものもある」
いつの間にか、俺も大人として認定されていたようだ。年齢を考えると当然だが、家族内での自分の立ち位置は世間の常識とは別の基準で決まっているので、実はよくわからない。いつまでも子供の気もするし、大人だと扱われて嫌な気もしない。
「そういえば、歯を磨きながら思ったんだけど、兄貴は夜に不審者を見て、朝に泥棒だと騒ぎだしたわけだろ。そのタイムラグは何」
「皆寝ていたから、起こすのが忍びなかった。俺も眠かった。それに酒も入っていたからな。情けない話、正常な判断ができていたか、自信はない」
自信はない、と素直に言えるのが兄貴の美点だ。これで自分の意見を絶対に譲らない頑固者だったら、俺たちの仲は険悪になっていたと思う。
「あそこだ」
兄貴が不意に指を上に向けた。
「屋根?」
「あそこにいたんだ。屋根の上。俺は廊下を歩いていて、庭から音がした。見ると、男が着地していた。その場所の真上が、あの屋根だ」
俺は男が着地したという場所に行った。鬼の目でなければわからないような、薄い足跡が残っていた。真っすぐ上を見る。恵の部屋が近い。
「正直、俺もこの足跡を見つけるまでは自分が見たものが真実なのか夢なのか、わからなかった」
いくら鬼とはいえ、屋根から飛び降りるシーンなんて、普通目にするものではない。俺は振り返り、自分の足跡を探す。土は固く、足跡は残っていない。それほど、普段より遥かに強い衝撃でついた足跡だということだ。
「朝になって見てみると、こんなものがあった。それで確信したってことか」
「そういうことだ」
「その後、そいつは?」
「走って逃げた」
「酔っ払いが迷い込んだんじゃねえの」
「それほど泥酔していたにしては、機敏な動きだったがな」
なるほど。状況はだいたいわかった。
「まず、そいつが泥棒だという前提は取っ払おう。盗まれた物が不明な以上、物を盗むことが目的だったと断じるのは、何か間違えそうだ」
兄貴は腕を組んで頷いた。
「たしかに、では不審者と呼ぼう」
「不審者の目的が何かわからないが、俺たちに危害を加えようとしたのか、それが重要だ。無害な子供が悪戯半分に忍び込んだのかもしれない」
「それはそれで問題だがな」
「泥棒よりはマシだろう」
「背格好は大人だったぞ」
「あ、そうなの」
知っているけど、知らなかった振り。
「不審者が不法侵入した目的は?昨日は家が留守になる、それを狙っていたと思っていたが」
「それが問題だな」
「酔っていたとしても、他人の敷地に、しかも屋根の上に、勝手に入っていたとあっては立派な不法侵入だ。叱るなり罰するなり、けじめはつけないといけない」
兄貴の信条は質実剛健。体を鍛えるし、勉強もする。そして真面目だし、正直。それらを美徳だと思っている。間違ってはいないのだが、自室の壁に「質実剛健」と毛筆で書いた半紙を貼ったときは、引いた。ちなみに俺の信条は「他人の不幸は蜜の味」。幸食だからな。
さてさて、どうしたものか。
「申し訳ありませんでした」
昼食の場で、俺は頭を下げた。
家族全員から呆気に取られた目線を向けられ、気まずい。
「どうしたの、達也」
母さんが箸を宙に浮かせたまま言った。
「兄貴が見たという泥棒、いや、正確には何も盗っていないから不審者、あれは俺が原因だ」
「あれは、お前だったのか」
兄貴の箸からが焼き魚の身がぽろりと落ちた。じいさんと父さんは全くペースを変えずに食べている。なんとなく、こいつらは何か知っている気がするんだよな。
「違う、俺ではない。俺が原因であっても、俺ではない」
「じゃあ、誰だ。どういうことだ」
恵は静かな目でこっちを見ている。一番恐々としているはずだが、その様子はおくびにも出さない。大したやつだ。
俺は鼻で大きく呼吸した。あっさり言ってはならない。言いにくそうな空気を演出しろ。
「あれは、その、紫乃だ」
「紫乃ちゃん?」
ちゃん付けで兄貴が呼ぶのを初めて聞いた。今考えることでは全くないけれど、新鮮だ。
「なんで紫乃さんがウチの庭にいたの?あ、たっちゃんが招き入れたのか」
恵はさん付けで呼んだ。こっちは違和感が無い。
「そういうことだ。だから兄貴、騒ぐことはないんだ。というか騒がないでください」
「待て待て。たしかにお前が招き入れたのだとしたら不法侵入ではない。だが、ならばどうして屋根から降りて来たんだ」
母さんが「屋根から降りてきた?」と呟く。恵は目が泳いだ。そこから見られていたんだよ、お前は。
「それは、屋根の上で話していたからだ」
「何のために」
兄貴はずいずい踏み込んでくるが、他の奴らは気づいていた。母さんはとても嬉しそうにニヤついている。恵も口に手を当てて楽しそうだ。そっちは演技に違いない。
「言いたくなかったが仕方ない。こう言うためだ。今夜は月が綺麗ですね、と」
母さんが「きゃっ」と可愛らしい声を出した。きゃっ、じゃねえ。歳を考えろ。
クソ、耳が熱い。そんな台詞、俺が言うわけがないだろう。よしんば口説くとしても、もっと別の言葉を選ぶわ。いい獲物がいるんだが、君に捧ぐよ、みたいな。
いや、それはさすがにセンスが無いな。
「月?月がどうした」
勉強家の癖に教養に欠ける兄貴が顎に手を当てて首を傾げた。え、俺がわざわざ解説するのか?
「これ」
さすがに見かねた恵が端末で検索した結果を兄貴に見せた。ある文豪の名台詞だ。すぐに見つかっただろう。
「おおお、おま、おまおま、おまえ、そそそそういうことは、なんだ、ああ、うん」
読んだ兄貴が壊れた。こういう色恋話にはとんと疎い、というか苦手な男なのだ。だから族長を継ぐと言いつつ嫁はまだいない。
「そういうわけだから、騒がないで欲しいし、誰にも言わないでくれ」
「任せなさい、達也」
母さんが親指を立てて言い切った。一番不安なんだよ、あんたが。旧家の嫁らしく基本的には父さんの後をついていくが、ゴシップは非常に好きだ。井戸端会議は大好物。
「それで、返事は?返事は?」
鼻息荒く母さんが身を乗り出す。隣の父さんが苦笑いしていた。
「保留。逃げられたよ」
あああ、と派手な動作でのけ反る母さんは楽しそうだった。兄貴は壊れたスピーカーみたいに「たた、たっつや」と何事か繰り返している。親父は「お赤飯。いやお祝儀かな」と気が早い、というより的外れなことをぶつぶつ言っている。じいさんとばあちゃんは穏やかなものかと思ったが、「達也と紫乃で、タツノはどうだろう」、「シノヤの方が格好いいと思いますよ」と孫の名前を考え始めた。
恵はしきりに俺に向かって頷いている。俺も激しく頷き返したかった。
こんな反応をされるんじゃ、隠したくもなるよな。
「申し訳ありませんでした」
俺は再び頭を下げていた。
「あんたねえ。道理でお母さんから、たっちゃんとどうなんだ、どうなんだと聞かれるわけよ」
「仕方なかったんだ。それしか思いつかなかったんだ」
盆が明け、街に戻った俺は紫乃をいつもの居酒屋に呼び出した。要件は勿論、勝手に名前を使ったことを詫びるためである。
口止めしていたが、母さんの口に戸は立てられなかった。噂はあっという間に広まった。わかっていた、わかっていたんだ。
「恵ちゃんのためっていうなら、ギリギリ許してやらんこともない。ここの払いは持ちなよ」
「ええ、勿論でございます」
「ビール追加。頼んで」
「承知しました」
ついでにいくつかの食べ物と、自分のお酒をオーダーした。
「恵ちゃんに彼氏、ねえ。相手は誰?」
「さあ。俺も名前は知らない奴だったよ。あ、これは本当に誰にも言わないであげてくれ。紫乃に話しているのも、巻き込んだ詫びみたいなものだから」
「このシスコンが。恵ちゃんの不注意なんだから、いい機会だと思って公表すれば良かったんじゃないの」
「妹に甘くない兄はいない」
「格好良く言い切らないで」
ネズミを見るような、冷たい視線を浴びた。
「実際、十分に注意を払っていたと思うんだよ。兄貴に顔がバレなかったのは、それだけ距離があったからだ。夜だし、ウチ、でかいし」
「たしかに大野家はでかい」
「ただ、恵の目や耳は人間並みか、それ以下だ。恵がどれだけ注意しても、兄貴とは知覚範囲が比べ物にならない」
紫乃は少しだけ憐れむように目を伏せた。人間並みの身体能力、感覚器官を持っている恵は、鬼族から見ればとても劣るし、十全な身体を持っているとは思われない。人間が障がい者を見るように、一段下の存在だと思ってしまうことが多い。優しさや思いやりとは別に、そう思ってしまう。
彼氏との付き合いを公表しないのは、どこかそういった引け目を自身に持っているからではないか、と俺は愚考する。
「これからはもっと注意する、って言っていたよ」
「ちゃんとお礼言わせた?そこまで甘やかしちゃダメだよ?」
「言わせるまでもなくお礼は言われたよ。ついでに、このシャツをプレゼントしてくれた」
社会人になった今でも、自分では買わないような高級品だ。
「買収されてんのかい。恵ちゃんの一人勝ちだね、こりゃ」
話のついでだ。聞いておきたいことがあった。
「宴会の日、俺がいない間に祐介から何も言われなかったか」
紫乃は時間を稼ぐようにビールを含んだ。
「あれ、やっぱりわざと席を外したのね」
「ああ」
「二人になってすぐに言われたよ」
祐介にとっては待ちに待ったチャンスだったことだろう。いつから想っていたのやら。
「その言い方は、振りましたか」
「まあ、ねえ」
脈が無いことはわかっていた。祐介本人も、きっと気づいていたのではないだろうか。たとえ叶わないとしても、告げることで次に進める想いはある。
「なんで私なんかを、とか、段階すっ飛ばしてないか、とか、思う所はいろいろとあるんだけどさ」
紫乃は力なく笑った。俺も気持ちがわかる気がした。
「他人のこと、言えないよね」
紫乃のことを行き遅れていると称したが、俺だって村の中では結婚すべき年齢だと認識されている。兄貴も恋愛は下手だが、実は結婚相手は決まっていて、裏では順調に話が進んでいるのだ。
「そこにこんな噂が立ったら、お母さんは大層期待しちゃうわけですよ」
紫乃は大きくため息をついた。俺も気持ちは同じである。きっかけを作ったのは俺なので、「わかるよ」と言う資格は無いのだが。
俺は、以前から考えていたことがあった。
「じゃあ、いっそ本当に付き合ってみるというのはいかがでしょうか」
ジト目で睨まれた。
「はん」
そして鼻で笑われた。まあ、そうなるよな。
「冗談、冗談。次の獲物の話があるんだけど、乗らないか?肉は紫乃に捧げますよ」
「あんたは食えないでしょうが」
鬼族の暮らしはこれからも続いていく。
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