5.大運動会

秀樹と香織の幼い時の楽しい記憶は奇しくも同じで、それは9歳の時に行われた町内会の大運動会だった。これは地域の顔役が市会議員選挙に出るための宣伝として行われたものだが、娯楽が少なくて貧しい家庭に取っては楽しいものだった。

地域の町内会、10所帯程度でチームを作り、約20チームが参加し、100m競争、500mリレー、借り物競争、玉入れ、障害物競走、綱引きなどが主な種目で参加者全員に賞金や商品即ち、石鹸や野菜、お菓子などが貰えた。各競技の1位には1000円程度の景品が出て、総合優勝には3万円の賞金が用意された。

「秀樹君、頑張ったね。君の笑顔見ていると元気が出てくる」

「私もそう思うよ。私たちに楽しい夢を見させて欲しいな」

日頃、あまり付き合いの無い隣に住んでいる、富田おばさんと中年のお姉さんから声を掛けられ励まされた。

「ありがとうございます。色々、迷惑掛けていると思いますけど宜しくお願いします」

大人びた返事を返すと優しい柔らかい笑顔が返って来た。


「秀樹、お前、ほんまに足速いな見直したぞ」

福岡さんの所の中学生の勲さんが話し掛けて来た。たしか、中学生だが、学校に殆ど行かずに、寿司職人の見習いをしていた。

「勲さんも走ってくださいよ。お願いしますよ」

「俺はもう酒飲んだからあかん。お前が頑張れ」

そして、茶碗に酒を注いで飲んだ。

「香織ちゃん、格好よかった。身軽で足速いね」

「ありがとう。範ちゃんも玉入れ頑張ったもんね」

「秀樹、兄ちゃんも見直した。格好いいもんね。それに香織さんも」

オマセな東田範子が絡んできた。


下山おばさんの娘で水商売をしているヒロ姉さんが綺麗で、その恋人でガリガリに痩せたパチプロの男との組み合わせがやけに目立っていた。子供心に、世間には色んな人がいるなと思った。

「秀樹君、競争頑張ってるね。最後までしっかりしてね。期待してるからね」

恥ずかしがる秀樹を見ながら悪戯っぽく言って握手してくれた。小さく、暖かくて柔らかい手にドキドキした。

「お姉ちゃん、ありがとう。頑張ります」

声が上ずっていた。

「頼もしいね。香織ちゃんのためにもね」

秀樹は意味も分からず顔を赤らめた。

「坊主、照れずに頑張れ。いいか負けたらあかんで承知せんからな。分かったか」

パチプロが自分に言い聞かせるように言ったのがおかしくて、笑ったが、その意味も知らずにヒロ姉ちゃんとパチプロが同時に笑った。このパチプロは胃がんで1年後に寂しく亡くなり、ヒロ姉はいつの間にかいなくなった。

秀樹達、いわゆる“門屋チーム”は日頃の団結力を発揮し総合優勝を獲得した。今から考えると運動会は、選挙の事前運動であり露骨な利益供応だったが、門屋チームは大いに盛り上がり、獲得した商品を公平に分け、1週間後に総合優勝の賞金で近所の海に海水浴に行く事になった。


酔って泥酔状態に近い祖父が、秀樹と香織に向かって

「お前達は、よう頑張った。二人は大きくなったら夫婦になって此処で暮らして俺の面倒を見ろよ。ええか・・・」

祖父のこの言葉に気丈夫にも香織は、

「ええよ、おじちゃん分かった。私、面倒見るから」

これに気を良くした祖父は、1000円札を無造作に香織に渡すと、

「おじさんありがとう」

「これで、将来頼むよ」

「分かった。必ず、世話して優しくするから」

香織が答え、既にこの年でおねだりと甘えという一流ホステスとしての技術をマスターしていた。この時、秀樹は、『絶対、俺はこんな男にはならない』と思ったが、二十年後には同じ事をする自分を見る事になる。

貧しいが、助け合いと明日への希望があって皆、必死に汗をかいて闇雲に頑張っていた。


秀樹は、高校卒業後、神戸の会社に就職し積極的に父親と門屋から離れた。幼馴染の香織は、いつも秀樹の傍にいて周りがヤキモキしていたが、最後のところで距離を縮めることが出来なった。

そして生活に自信が持て余裕が出来た1973年、秀樹が23歳の時に、新しい世界を求めて奄美大島を訪れた。そこで、南国情緒としなやかな人間性、空と海の青いグラディエーションが織りなす自然に魅了され、約1ヶ月留まり当地の女性と出逢い結婚し門屋での生活を完全に過去にした。

 秀樹の思いと軌道を同じくするように、門屋も戦後が終わったと誰もが思った1975年(昭和50年)に取り壊され住人は離散した。


更に時間が流れ、秀樹が門屋での生活から離れ50年近くが経過し、祖父母は鬼籍に入り、父は寝たきり、母は“いつのまにか骨折”から要支援2になった。秀樹と香織の家族は貧乏を脱し世間並みの生活が出来るようになり、孫の可能性は格段に広がった。

2015年、年末に秀樹は、90歳の父が誤嚥性肺炎で倒れたと聞き、実家近くの病院に見舞い、帰りに門屋が有った場所に寄った。跡地は車16台の駐車場になっていて生活感は全くなかった。元の住民以外、ここで30数名が生活していたことを知る人がいないと思うと、胸に込み上げてくるものがあった。ここは秀樹の原点で、今の自分があるのは、ここでの生活があったお蔭と感謝し、歳月の長さを感じた。


そして父親は2017年秋に95歳で亡くなった。先日、久しぶりに実家に帰省した時、秀樹は昔食べた“洋食”を見よう見まねで作って母親に振る舞った。

「この洋食美味しいな。この洋食が食べられる幸せに感謝せな罰が当たるよ。お前も美味しいもんぎょうさん食べてると思うけどな。言ってること分かるか」

真剣な眼差しで母に説教されてしまった。

「でも今日の洋食良かったな。ほんまにありがとう。美味しかったよ」

悪戯っぽく母がぽつりと言って笑った。


かれこれ50年の年月を経ても話題の尽きない“洋食”の思い出だ。私は母の口癖である「お母ちゃんは家族の仲が良いのが一番と思っているから頼むよ。家族あっての人生だからね。家族が無いといくら金があって美味しいもん、食べても悲しいよ」を心に留めて生活したいと思っている。

                                                    

                                    完

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堺の門屋物語 @takagi1950

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