4.家族

秀樹の父親は、異邦人だった義父と後妻に気兼ねしながら人生を送り、義父の指示でその娘と結婚した。自分が全盲だったこともあり、この環境が自己主張をせずに回りに合わせて生きる道を歩み、自分に求められていることを着実に行うのが、幸せとの人生観を持つようになった。

一家の生計は父親の秀正が支えていたが、祖父が大きな重石となって中々自分の意見が言えなかった。酒も女も博打もやらずにひたすら働いて家族に尽くした。この人生観は終生変わらなかった。その父親が一度だけ祖父に強く言ったことがあった。

「お父さん、秀樹を春木競馬に連れていくのは止めてくれませんか」

「お前にそこまで言われる筋合いはないな」

「それでも子供のことを思うと心配なんです」

「俺を信用できんのか。俺もお前さん以上に孫の事を考えとる。その証拠に俺が交渉して秀樹を返してもらっただろうが。もっと感謝しろよ」

当時、秀樹は5歳位で記憶は鮮明では無いが、この時、祖父はいわゆる卓袱台を足で蹴ってひっくり返し、足早に家を出て、祖母がその後を追った。この話は、十数年後の祖父の葬式後の精進落としの席で紹介され、父と祖父の関係を知る者にとって、父の気持ちを知る行為として大いに盛り上がった。参列者は隠れた父の気概を知った。

父親は、祖父が、春木競馬に行って、昔の仲間と和気藹々で昔話に花を咲かせて、秀樹がその環境に馴染むことが許せなかった。子供にとっては余り行儀の良い話ではなく裏道の話が多かった。父親のこの危惧は、正解で、少し大きくなってからも連れて行かれるこの場所で話される祖父と仲間の話は、真面目一本で面白みの無い父親の話より、秀樹の心を捉えて夢とロマンを与えたことも事実で、後年、素直にヤクザを受け入れる素養を身につけることになった。

これから暫くして、父親は心の平安を得るためか、見たことの無い母への思いからか一人でキリスト教に入信し、心の平安を得た。父親が言うにはキリストの前では健常者も障害者も差別が無く一人の人間として扱われたという。父親の心と健康を支えた。毎日曜日に通う教会が父親にとってのオアシスだったと言えた。


遊び人の祖父、物言わぬ父親、幼い母親という家族の中で、家計の実権を握っていたのは、祖母の死後に後妻として家に入った鶴という女性だった。

自分の意見をあまり言わない人だったが、秀樹が10歳の時、小さな紙を取り出して、

「秀樹さん、わたしはもう戒名もらったんだよ。それが良い戒名でね」

「戒名て、それなんなん。何か書いてあるけど」

「これは有難いものや。昔、留萌に居た時に3万円でお坊さんに書いてもらった」

「その紙が3万円か?凄いな」

「凄いやろ。これで天国に行けるんや。よう見てみ」

鶴は満面の笑みで語り喜んで、半紙を日頃、あまり馬が合わない秀樹にまじまじと見せた。そこには、“釈尼寶恵”と達筆で書かれてあり、脇に贈名を行ったお坊さんの名前が書かれ、赤い印が押されていた。

「なあ良いやろう、寶に恵まれるって言うんだよ。これは天国にいけるということだよ」

 そこには日頃は余り見せない笑顔があった。

「本当にそれは凄いね。この紙で天国に行けるんか」

「そうやで・・・」

そう言うと、財布から100円札を取り出して秀樹に渡した。当時の100円は、うどん50円、タクシーの初乗り100円の時代で秀樹に取っては大きな金額だった。


この頃、秀樹はこの祖母の鶴が苦手で特に料理には閉口していた。幼いながらも料理のセンスが無いことが分かり、1週間同じ料理を出すこともあった。それも野菜の煮たものが多く、なかでもクジラの肉を小さく刻んで野菜と炊く料理が多くて箸が進まない時もあった。

そんな時は、母が、

「秀樹、お前は出されたもんは、文句言わずに美味しく食べんとあかんよ」

秀樹を見て諭すので仕方なく食べたが、気持ちは沈んでいた。

「でも・・・でも・・・俺、でもな・・・」

「でもなんや。はっきり言ってみ」

「何もない。わかったからもういいわ」

「それで良いから、おばぁに感謝せんと罰が当たるよ」


そんなことがあった数日後、秀樹の気持ちが爆発した。

「おばぁ。たまには俺の好きな玉子焼きでも作ってくれや」

「文句あるんやったら親父に言えや。これしか出来んのや」

「なんでや。なんでなんや」

「金がないんや。貰った金でやるのがおばぁの役目やから。文句あったら御父に言えや。お前にそれが出来るか」

「でもちょとは工夫が欲しいんや」

「口答えすな。お前とはもう話さん」

このやり取りで、祖母は何処かへ消えた。秀樹は自分の気持ちをストレートに祖母に告げたのだが気持ちは落ち込んだ。

 暫くしておばぁが秀樹の好きな黄な粉団子を船一杯に買って来て「これでも食えや」と不器用に差し出し、秀樹もぎこちなく嬉しさを押し殺して手に取って、たまたま訪ねて来た香織と一緒に食べて、心が温かくなり蟠りが無くなった。

「秀樹、優しいおばぁちゃんやね。香織も欲しい。黄な粉団子美味しかった」

「美味しかったな。俺、これ好きやねん」

「ほんまに美味しい。温かくて」

「香織、大きくなったら一緒に作って食べような。約束やで」

指切りをした。

「二人は仲がいいな。ほんまに。羨ましいな若い二人が」

「おばぁさんありがとう。香織、嬉しいほんまに」

香織が嬉しそうに言った。貧しさと祖母を思い出す出来事だ。この時に祖母が言った言葉の意味を知るのは中学生になってからだった。

この祖母は後年、脳梗塞をわずらいながら90歳過ぎまで生きて、秀樹の一番の理解者になった。


秀樹の母親は16歳で父と結婚した。身長が165cmと長身で整った顔立ちの結構良い女だが、たぶん恋愛も知らず、娘としての喜びも知らずに母親となり女を捨てた。か細い身体で子供を産み、育て必至に生きた。人生に無理をしない人で、目の前にある現実を淡々と生きた。

門屋の住人の常として身体を動かす仕事を評価し、身体を動かさない仕事を評価しなかった。即ち、工場で汗を流して働く労働者を高く評価し、事務職で働く人を評価せず、幼心に「ぼくは将来、畳職人になる」と母親に言うと満面の笑みを返してくれた。この時、秀樹は本気でそのように思っていた。少し成長するとそれが寿司職人になりたいと思うようになった。動機は単純で好きな寿司を思い切り食べたいとの思いからだった。秀樹が勉強したいと思ったのは中学2年になってからだった。


 ところで、門屋の住人は盆、正月を始め年数回は中庭に集まり宴会をした。秀樹や香織を含め門屋の子供はみんなこれが楽しみだった。大家さんが、中庭に放し飼いにしている鶏を捌いてみんなに振る舞った。田んぼで取れたドジョウを豆腐と一緒に焚いた料理もあった。子供達は豆腐に頭を突っ込んだドジョウの姿を面白がりながらも必死に食べた。この日は色んな料理が出されバイキングで食べ放題だった。大家さんが店子を労わる優しさと余裕があった古き良き時代だった。

「香織、これ面白いで。昨日、田んぼで取ったドジョウが豆腐に頭突っ込んどる」

「かわいそうに。生きたまま炊かれたんやろ」

香織が目を背けた。

「でもこれ美味い。お前も早う食べんかいな」

「ようたべんわ。かわいそうで」

秀樹は空腹に堪える香織の可愛さを見で心が騒いだ。


こんな門屋での生活だが、月に1回ほど、父親に臨時収入があった時に、“洋食”と呼んでいた料理が出された。

さてこの“洋食”とは、メリケン粉(小麦粉)にキャベツと油カスだけが入ったお好み焼きのことで、これに甘いソースを一杯掛けた。口に入れると、ソースがキャベツと良い具合に絡まって何と表現したらよいのか、歯ごたえ良く暖かさと甘さが口の中一杯に広がった。

洋食の日は会話も弾み、普段10分程度の夕食が1時間を越え、母親が私の分を大きな鉄板で焼いてくれるのを待った。そんな時に父親が

「先に秀樹にやってくれ」

と言ってくれると小躍りして喜びを素直に表現した。この時、父親は決まって、

「秀樹はしょうない奴やな。ちょっとは弟を見習えや」

笑いながら言ったものだ。

「でもうまいもんは美味いから」

「お前は口数の多いやつやなほんまに。香織にも少し持って行ってやれや」

 洋食の日は決まってこんな会話があった。洋食の日は少し多めに作って、秀樹が香織の家に持って行った。そのお返しに欠けた豆腐を貰った。これが翌日の味噌汁の具になった。秀樹は豆腐が好きだった。


この様な生活の中で、母親が珍しく「勤務先の鉄工所の同僚の結婚式行く」と言って、着飾って父と出かけて行った。ベージュのワンピースを着て、胸にコサージュを付け、薄く化粧をした母親は、子供心にも輝いていて生き生きとしていたが、それとは裏はらに父親の姿が冴えず平凡だった。後日、集合写真で見た母親は写真の中でも一段と輝いており、直に母親を見つけることが出来で子供心に嬉しかった。

「お母ちゃん綺麗で輝いてる」

一緒に居た香織も、

「おばちゃん綺麗な。別人みたいやで」

驚いたような声で、真顔で誉めた。

「本当か。おばちゃん嬉しいな」

「本当やで、一番輝いてる。いつもこの格好で居て欲しいわ」

秀樹が弾んだ声で言うと、それには答えずに、1年前に生まれた秀樹の弟を抱きながら優しい笑顔を返した。


一時、話して香織が帰ると母から説教された。

「おばぁちゃんの言う事、良く聞くんやで。お前が逆らうと、おかあちゃん寂しいは。泣きたくなるは」

しんみり言った。

「分かってるけどな。俺、おばぁちゃん嫌いとちゃうねん。でも何か巧く出来んのや。旨う表現出来んけどな」

「そうか、お前の気持ちは分かった。素直に言うこと聞くんやで、そしたらお母ちゃん嬉しいから。それが、お前の一番の勉強やから。そうしてると段々と馬が合うようになるから」

「うんわかった」

母親は祖母との関係を心配して、ここまで言って、家を出て近所の駄菓子屋でアイスキャンデーを買って来て二人で食べた。子供心に、その姿は母親ではなく未婚の娘のように見えた。

母親は自然体で生き、幸いにも病弱で短命と思われていた自分の人生を裏切って、長らえ家族をまとめることに心血を注ぎ、人生の終盤では面白い出来事を経験することになる。

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