堺の門屋物語

３．一つの玉子

秀樹が実家に帰り一家に平穏が戻った。問屋には秀樹の家より厳しい生活をしている家庭があった。秀樹の幼馴染で初恋の相手でもある香織の家族だった。二人は何処へ行くのも一緒だった。周りの人から兄弟のように思われていた。香織の家では、傷痍軍人で病弱な父に代わって母が必至に家族を支えていた。

主食の米を買う金を始末するために米屋に頼んで、壊れた小さな米を特別に回してもらったり、勤めている市場でもらう売れ残りの野菜や大根の葉っぱ、中でも自らの職場である豆腐屋で発生する崩れた豆腐、揚げ過ぎた油揚げが娘二人と亭主、自分の命をつなげていた。

貧しさを示すために後年、秀樹が香織から聞いた話しを紹介したい。

ある日の夕食時、

「毎日、毎日、豆腐でもうホンマに嫌になったわ。もう豆腐いらん。いらんからね。もう食べんから。もう嫌やホンマに嫌や」

香織が駄々を拗ねて言った時に、それまで笑顔で美味しそうに御飯を食べていた母が、俄かなに険しい表情になり涙を堪えて、

「これがお前たちを育てたんだよ。感謝しないと罰が当たるよ。お母ちゃんとお父ちゃんの苦労もしらんで」一際強い口調で言って、立ち上がり玉子を１個持って来て、それを一家４人で分けて御飯に掛けて食べた。

その時、父親は言葉を発することなく成り行きを見守り、その姿を姉の久子が見ていた。姉は父親が可哀相になって、

「香織、この玉子美味しいで一緒に食べよ」

香織に促しこの場を収めた。

姉に促されて口に入れた卵は、口の中一杯に広がり甘酸っぱかったという。この時の玉子の美味しさを思うと、出されたものは残らず食べなくてはいけないと思うようになった。

その思いが香織と秀樹の次の会話から知ることが出来る。

「秀樹、卵の美味しさ知ってるか？卵かけご飯、本当に美味しいからね。その美味しさを忘れたらあかんのや。秀樹わかるか」

「俺には分からん」

「あんたは幸せな人やね。私に比べたら」

香織からしみじみと言われた。それは秀樹が中学に入って男と女を意識しだした時だった。クラブ帰りの夕闇の中で、香織が可愛いと思って思わず抱きしめた。

香織の母親は、一日１５時間は働いた。朝５時に起きて、市場に出かけ昼間は自宅に帰って自転車のブレーキ部品の組み立ての内職をし、夕方３時からまた市場で働き、帰って食事の支度、８時から１２時迄また内職だ。この内職は、１斗缶一杯即ち５００個の部品を作って５００円、それを２日間で行うのが親方という仕事先から託された条件で、これが達成出来ないと契約を切られるという厳しいもので、香織の母、娘の久子と香織は契約が切られるのが恐くて必至にこのノルマを守った。

この自転車部品と豆腐無くして一家の生活は成就出来なかった。母親は、この苦労を微塵も口に出さずに、市場では、

「お母さん、豆腐どう・・・・美味しいよ。」

「おにいさん、豆腐買って、サービスするよ・・・・。」

客に笑顔を振りまいて販売に力を入れた。早く完売すれば早く自宅に帰って内職に専念出来た。しかし経営者も強かで、早く完売することが分かると毎日作る豆腐の数を増やしたが、それにも限界があり、朝は９時、夕方は７時には完売することが出来た。

一家は貧しかったが、

「久子、香織、早くこれ食べんといかんよ。この豆腐美味しいよ。」

「ほんまに美味しい」

「香織は絵が上手いね。これはウサギ、これは亀・・・・」

絵を見て母親が聞いた。

「この字は・・・。そしたらこの字は・・・」

母親は、自身も余り読めない漢字を香織に教え、その声が家の中から外に聞えていた。貧しいながら必死に勉強を教えた。香織のこの苦労が、粘り強い性格を作り人生を支えることになる。このころから秀樹は必死に頑張る健気な香織が好きだった。