朱里の秘密
朱里の葬儀が終わった日、一旦、僕は朱里のマンションに戻ることにした。
新幹線に乗る直前に、実家へ電話する。
「はい、世羅です」
聞きなれた母の声を聞き、僕は話始める。
「母さん、久しぶり……」
「あら、裕なの?全然連絡よこさないんだから、心配したわよ!」
「うん、悪かったね。ちょっと、今日、奥さんの葬式でさ……」
「奥さん?いつの間に結婚していたの?」
「あぁ、籍は入れてなかったけど、ちょっと前に結婚したんだ。で、ちょっと母さんに聞きたいことがあるんだけど……」
「えぇ、いいわよ!家に戻ってらっしゃい!」
「いや、母さん、たぶん父さんにも言ってないことだと思うから、こっちに出てきてくれるかな?住所はあとで送っておくからさ」
「よくわからないけど、わかったわ!明日、そっちに向かうわね!」
「あぁ、よろしく頼むよ!」
電話を切り、新幹線へと乗り込む。
窓の外をぼんやり眺めながら、ぐっと涙を堪えた。母の声を聞くことすら辛かった。よくよく聞くと、朱里の声に似ている気がしたから……
手に持っているのは、朱里と裕里の母子手帳と、裕里の戸籍だ。裕里の養父になるための申請が必要で、手続き用に朱里の父に取ってもらった。
もちろん、裕里の母の欄には朱里の名前が入っていて、父の欄は空白となっている。
朱里の母子手帳をそっと開く。そこには、見慣れた字で見慣れた名前が書いてあった。
『世羅弥生 S40年3月3日』
たぶん、僕の母子手帳にも同じ場所に同じように名前と誕生日が書かれているだろう。
『世羅弥生 S40年3月3日』
世羅弥生とは、僕の母親なのだから……
これの事実を朱里が知ったのは、パスポートを取るために戸籍をとったときだったのだろう。
あのとき、朱里はなんて言った?
「裕のお母さんって、婿養子なの?」
「うぅん……そうじゃなけど……お母さんって3月生まれなのかな?名前的に」
「へぇーなんか、可愛いね!」
世羅という苗字に弥生という名前、S40年3月3日の同姓同名って、日本中探したら一体何人いるんだろう?僕の知っている人以外、皆無だろう。
伊藤や佐藤ならいるかもしれないが、世羅という苗字自体が珍しいはずだ。
「私、生まれてすぐに母に捨てられたから……顔も見たことがない」
そうは言っても、母子手帳を肌身離さず朱里が持っていたとしたら、名前と誕生日くらいは覚えていただろう。
結婚するのに籍はいれないでおこう、二人でずっと一緒にいよう、誓いの言葉である「私は、裕を一生の伴侶として選びました。たとえ、それが間違っていて赦されることでなかったとしても死ぬ瞬間まで愛して……愛し抜きます。どうか、私たち二人が、ずっと一緒にいられますようお導きください」と言った朱里は、この事実をすべてを知ったうえで、僕を選んだんだ。
そして、僕ではなく、裕里のことを選んだ。
僕は、朱里が悩んでいることを何も知らずにいた。一生の伴侶なんて言われて有頂天になったことが恥ずかしい。彼女が悩んでいたのにも気づかずに、体調も悪かったのは妊娠の可能性もあったはずだ。
現に裕里と名前の3歳の女の子が、朱里の実家で暮らしていたのだから。
母を呼び出して、僕は一体何をするのだろう?なじるのか?どうしたらいいのか、わからなかった。
朱里がこの世からいなくなった悲しみ、寂しさで僕の体はいっぱいだった。それと同時に、裕里という守るべき存在ができたことに喜びも感じている。
まだ、整理のつかない頭のまま、今日はいつものように朱里のいなくなったマンションへ帰り、広いベッドで一人眠る。
◇・◇・◇
「あら、いいマンションに住んでいるのね?」
「あぁ、もうすぐ出ていくつもりだけどね。ここには、彼女との思い出が多すぎるから……どうぞ」
朱里のマンションに母を入れるかどうかも迷ったが、落ち着いて話もでき、僕自身が母の話でどうなるのかわからなかったので、朱里のマンションへと母を呼び出した。
ソファへ座った母にお茶を出し、反対側に座る。
「それでどうしたの?裕に奥さんがいたって本当?あの写真の子?」
目ざとく見つけた写真を見て、可愛らしい子ねと呟いている。
「あぁ、僕の妻の朱里だ。交通事故で先日、亡くなったんだ」
「まぁ……まだ若いのに……それで、あなたは、大丈夫なの?」
「僕は、大丈夫じゃない。久しぶりあった妻が棺の中で眠っていて、平気なヤツっているのか?愛していたのに、その温もりすら、もう、感じることができないなんて……神様は、僕らを赦してくれなかったんだ!」
「そう……それほど、愛していたのね……そんなことも知らずに、無神経なことを。ごめんなさい」
僕の悲しみを理解してくれたのか、母は俯き加減で鼻をすすっている。
「それより、僕、母さんに聞きたいことがあるんだ」
「……何かしら?」
そういえば、それで呼ばれたのよねと、顔を上げこちらを見つめ返してくる。よく見れば、朱里と似ていなくもないその顔つきに、僕は苦しくなった。
「母さん、僕を生む前に女の子を出産しているよね?」
母が僕の質問を聞いて驚き、目を見開いた。僕から逃げるように体を横向きに座り直す。
「……そんなことないわ!あなたが、初めての子どもよ!」
「嘘が聞きたいわけじゃない。これ、見て。僕の知っている字で母さんの名前だ」
朱里の母子手帳を机の上に置くと、母の顔色が一気に変わる。母も自分が書いたものだから、見覚えがあったのだろう。
「これは……」
「朱里の母子手帳。多分、朱里の戸籍を見れば、母さんの名前も書いてあるんだろうね。僕は、籍に入っていない夫だからね、朱里の戸籍は取れないんだ」
「朱里って……」
「母さんの子どもだよね……?もう認めなよ。僕は朱里の異父弟だって!僕は知らずに偶然、朱里の部下になり、朱里に恋をして、朱里と結婚した。朱里は、僕の戸籍を見て母さんが同じだと知ったんだ。
そのあとから、朱里は僕を残して一昨日まで消えてしまった。僕が見つけたときには、朱里は棺の中で眠っていたし、今では骨しか残っていない」
「そ……んな……」
朱里の骨壺を見せると、母は泣き崩れる。その権利は、母にもあるのか僕にはわからない。
ただ、憎からず遠くからは、朱里のことを思っていたのではないかと期待は込めてしまった。
だけど、僕は、母を慰めることは、到底できない。母より、朱里が僕にとって全てだったから……
「話して!朱里を追い込んでしまったのは僕だ!知る権利はある」
押し黙ったままだった母は、何も語ろうとはしなかった。
ただ、僕も朱里を追い込んでしまった引け目もあったので、半分でもその気持ちを背負いたかった。
もう、この世にいない朱里に寄り添うことはできなかったとしても。
どれくらいの時間がたっただろうか。
俯いていた母が、ぽつりぽつりとかすれた声で話し始める。
「私が、まだ大学生のころ、朱里さんのお父さんと……省吾さんと恋に落ちたのよ。結婚を約束してね?それは幸せな日々を過ごしていた。
ただ、私たちの結婚を父が許してくれなかったの。別れることになってしまったのよ。そのときには、もう子どもを授かっていたの……朱里が。
それを省吾さんに相談したら、育ててくれるって言ってくれて……甘えてしまったの。私、あの子のことを忘れたことなんてないわ!愛した人の子どもですもの。忘れるはずなんてない……なのに……どうして……」
どうしては僕が言いたい……どうして、僕を置いて死んでしまったのかと。
朱里の父から聞いた話は、買い物の帰り道、歩いていてバイクと衝突したらしい。そのバイクのヤツは朱里を助けることなく逃げてしまった。
そのときに、救急車を呼んでくれて、病院に搬送されていたら助かったかもしれなかったのにだ。朱里の死の原因となったヤツを許せない気持ちももちろんある。
でも、何をしても、もう僕の元に彼女は帰ってこない。そんなヤツにさく感情は、僕は持ち合わせていなかった。
「この母子手帳は私が書いていたもの。出産の後は、省吾さんに渡して、それ以来会うことも許されていないの。ねぇ?あの子、幸せそうにしていた?」
「そんなの、俺が聞きたい!母さんのことに気付いて、籍を入れる結婚はせず、ずっと一緒に生きて行こうってなった矢先に、僕の目の前からいなくなってしまったんだから!」
どこにぶつけていいのかわからない感情が、次々と出てくる。もういなくなってしまった朱里に対して怒っているのか、目の前の母親に怒っているのか……はたまた、何も知らずにただ、朱里の帰りを待っていることしかできなかった僕自身に怒っているのか……整理のつかないぐちゃぐちゃの感情で、僕は何に対して怒って、悲しんで、涙を流しているのかわからなかった。
「母さん、朱里に会ってあげて……朱里にとっては、おせっかいかもしれないけど、たぶん、待っていたはずだ。世界のどこかに私の弟か妹がいるかもしれないのって言っていたくらいだ。皮肉なことに、その弟が僕だっただけで……」
「裕……」
「母さん、行けないとはいわないよね?孫までいるんだ、一目見るだけでもいいから……忘れてくれていいから……」
僕は、ただ、朱里に惹かれただけだったのに、一緒にいたかっただけだったのに、こんなことになるなんて、本当に結婚を誓う神様を僕たちは間違えてしまったようだ。
皮肉なものだね、朱里。朱里が言った通り、僕たち、神様には赦されなかったみたいだ。
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