逃げと決心と写真
体調がずっと悪い。ゆっくり休めば大丈夫だと思っていたのに、年のせいか回復しない体。大きなプロジェクトも終わって、体を休めるために有休も使って休んだりもしているのにだ。なのに改善どころか、日に日に貧血をしているようで、頭が重いしだるい。
「今晩、夕飯何にしようかな?」
今晩の献立を考えながら、何気なくスーパーを歩いていて目についたものがある。生理用品だった。
……いつから、使ってない?
私はスマホで調べ始めた。前月も前々月も、その前も……印がない。
「どうして、気付かなかったんだろう……?」
忙しいことを理由に、自身の変化に気づいていなかった。私は、急に血の気が引いていき、その場にしゃがみこんだ。
「お客様、大丈夫ですか?」
「えぇ、大丈夫です。すみません、ちょっと、貧血で……」
「あちらで、少しお休みに……」
「いえ、もう大丈夫ですから!」
店員にお礼を言い、私は買い物をすませ、急いで薬局へと向かう。手に入れないといけないものを買いに……
私は、陳列棚から箱を手に取りレジに行く。
「1300円になります!」
店員に言われ、支払うと、それを鞄の奥底へと押しやった。
◇・◇・◇
家に帰ると、すでに裕は帰ってきていた。
「おかえり!」
「ただいま。今から、ごはん作るね?」
「手伝おうか?また、顔色よくないよ?」
「うん、お願いできる?」
買ってきたものをキッチンに並べ、二人で料理を作る。並んでいると、新婚さんみたいだね?と裕がいうから、新婚ですよ!と返すと、そうでしたと笑っている。この何気ない二人の時間が、私にとってとても幸せであった。
「そういえば、朱里宛に手紙来てたよ?机の上に置いてある!」
「ありがとう!」
「見てこれば?速達で来てたみたいだし」
裕に促されて、私はその手紙を読みに行くことにした。封筒を見て、リビングではなく、寝室へと移動して読むことにする。
万が一にも、この手紙の内容が裕の目に入ることだけは、さけたかった。
「ついでに着替えてくるね!」
「うん、じゃあ、こっちは任せといて!」
ごめんねというと、全然と返事が返ってきた。
ベッドに座り、手紙の封をきる。
そこに書かれていたことは、私が予想した通りの結果が文字として私に突きつつけてきた。
「こんな偶然って、どれくらいの確立なんだろう?」
どこか他人事のように空で呟く。
「朱里、出来たけど……って明りくらい付けて見なよ?」
「うん、すぐ行こうと思ってたから……すぐ行くね!」
「わかった、待ってるよ!」
裕はドアを閉めて出て行った。鞄の底にさっき買ったものの奥に読んだばかりの手紙を鞄に突っ込んで私は着替える。
「ちょっと、貧血によさそうな料理調べて見たから、どう?買ってきてくれたもので作ってみた!」
「わぁ!美味しそうだね!ありがとう!」
裕のちょっとした気遣いに、心が痛む。知ってしまった以上、どうすればいいのかわからないし、もし……と自身が考えていることが現実になっていたとしたらと、もうわからなかった。
◇・◇・◇
手紙を読んだせいか、今日気づいたことのせいか、よく眠れない……何度も寝返りをうっていると、鞄が目についた。隣を見ると、裕は良く寝ている。
そっと、ベッドから起き上がり鞄へ向かい、鞄の底に入れた買ったばかりの小箱を持って部屋からでた。
「……陽性」
私は、妊娠検査薬を使った。ずっと体調が悪いこと、月の物がなかったことをきっかけに、妊娠を疑った。結果が出たのだ。
答えは、陽性。
最悪の答えに繋がってしまい、私はソファに崩れ落ちる。
それからは眠れず、かといって、裕に結果を見られるわけにもいかず、普段、裕が触らないようなところへ、まずは、検査結果を隠した。
眠ることも出来ず、ソファでぼぉーっと時間を過ごす。
いつ、日が昇ったのかは知らなかったが、裕が起きてきた。
「おはよう、今日は早いね?」
「うん、ちょっと、調子が良くなくて、お水飲みに来たの」
「大丈夫なの?」
「うん、大丈夫。大きな病院で診てもらって、なんともなかったでしょ?」
「そうだけど……日に日に悪くなってない?」
「そうかな……今日もお休みするよ。ごめん……」
それだけ言うと、裕と顔も合わせず、寝室へ向かった。
◇・◇・◇
11時頃。私は、病院の前まで来た。
初めて向かう産婦人科に、緊張をしながら自動ドアを潜り抜ける。
「こんにちは!初めてですか?」
「はい、そうです」
「では、こちらの問診票に記入してお待ちください」
事務のお姉さんに言われるがまま、記入する。
周りには、お腹の大きなお母さんや小さな子どもを連れて来ているお母さんがいる。私は、そこにいることが、場違いのようで落ち着かないでいた。
「橘さん、どうぞ!」
呼ばれて向かったら、女医さんがニコリと笑い、どうされましたか?と聞いてくれる。スマートフォンを取り出し、妊娠検査薬の写真を見せると、問診やら検査が始まった。
「おめでとうございます。今16週目ですね!」
「16週目?」
「妊娠4ヶ月ですよ!」
私の浮かない顔に、先生も困った顔をする。
「望まない妊娠だったのかい?」
その言葉に、私の心臓が冷えた。望んでいなかったわけではない。いつかはと、思っていた。
でも、それが赦されない事実を知ってしまったから……どうしたらいいのかわからず、その場で泣いてしまう。
「橘さん……」
「すみません……泣いてしまって……」
「事件性のあるものなら……」
「いえ、そういったものではないので、大丈夫です」
昨日の時点で、調べた結果も鞄の中ある。
でも、授かった命を……私は無くしたくなかった。
「先生、里帰り出産をするとなったら、紹介状とか書いてもらうことは無理ですか?」
「いいけど……生むのかい?」
「はい、生みます!私、生みます!」
ごめんね、悩んで……と、お腹を撫でる。
ここにもう新しい命があるのかと思うと、まだ、よくわからない。
でも、裕と離れることになったとしても、この命を大切にしたい、そう思った。
「母子手帳をもらってきてください。区役所へ行けばもらえますから。そこには、これから母親になる心得も今後のこともいろいろと書かれています」
「わかりました。ありがとうございます」
私は、診察室から出て、そのまま役所へと向かう。普段の恰好できたから、ヒールをはいていたので、途中で靴を買い替えた。
役所で母子手帳をもらい、なんだか、くすぐったい気持ちになる。
本当なら……隣に裕がいて、おめでとう、女の子かな?男の子かな?と気の早い話をして、私を気遣いながら、隣を歩いてくれていたのだろう。
体調不良の原因もわかってしまえば、なんてこともない。
ただ、これからどうするか考える必要があった。
「この子を取るなら……裕とは……」
家までの道をゆっくり歩く。その時間で、これまでの裕との時間を思い浮かべては、クスっと笑ったり涙を浮かべたり……怪しい歩行者をしていた。途中でスマートフォンが鳴り、出ると課長の湯島だった。
「はい、橘です」
「あ、朱里ちゃん?具合どう?」
「おかげさまでと言いたいところなんですけど……」
「そう、無理はしないでね!声聞きたかっただけだから……じゃあ」
切ろうとする湯島に話しかける。
「課長!お話があります!」
「何かしら?」
「えっと、外に出てこれますか?」
「わかった、30分くらい後で、駅前のコーヒーショップでいい?」
「はい、お願いします!」
「朱里ちゃんから、お願いなんて何かな?ちょっと、ドキドキするわ!」
そういって、湯島は電話を切る。急いで、私は、駅前まで行くのであった。
◇・◇・◇
「課長!こっち」
「早かったのね?」
「外にいたので……」
「それで?」
「会社、辞めさせてください!」
「えっ?辞めるって……?」
私は母子手帳を出した。それを見て、湯島は驚いていた。
「体調の悪い原因、妊娠だったみたいです。それで、地元に戻ろうかと」
「地元に戻ってどうするの?妊娠ならなおのこと、お金も必要でしょ?」
「えぇ、そうなんですけど……」
辞表も湯島を待っている間に書き上げていた。それも差し出す。
「これ……」
「受け取れない!」
「受け取ってください!」
「そういうわけにも……ねぇ、朱里ちゃん。相手の人とは相談したの?」
「してないです。出来ない人なので……」
「それは……」
「訳ありなので、それ以上は」
「なら、なおのこと、これは受け取れない。あなた、この1年半、会社のために頑張ってくれたんだから、ここは、課長の力の使いどころ!病休を取りなさい、そのまま育休をとって、子どもが1歳になった時点で。もう一度考えたうえでこれを出しに来なさい」
「そういうわけには……」
「ここ10年で会社貢献度最上位の朱里ちゃんを見捨てたりしない!朱里ちゃん、将来のこと、もっと真剣に考えなさい。私にできる手助けは、朱里ちゃんへの休業を与えてあげることしかないけど、それでも頼ってほしいの」
「ありがとうございます……」
「安心して、子どもに専念して、元気な子を生むんだぞ!」
私は、涙が溢れた。そんなふうに言ってもらえるなんて、思ってもみなかったからだ。私のことは誰にも言わないと、湯島は約束をしてくれることとなった。
1週間後、私は病気休職扱いになった。それと同時に必要最低限の荷物だけ持って、マンションを出ていくことにした。
◇・◇・◇
『ごめんね、一緒にいられなくなりました。このマンションは、裕に譲るので自由に使ってください。私の私物については処分してください。
警察とかにはいわないで……ただ、私の我儘で出ていくのだから。元気で過ごしてください。 朱里 』
たった数行書くだけの手紙に、私は何時間もかかった。
裕は読んでくれるだろうか?きっと、これを読んで怒って心配して探してくれるだろう。
朝、行ってきますと出ていく裕にキスをして見送る。
最後に見る裕。
私、笑顔で見送れたかな?
ドアがしまった瞬間、その場で泣き崩れた。
◇・◇・◇
「お父さん、ただいま!」
「朱里?」
連絡もせずに実家へ帰った私に、父は驚きながらも暖かく迎えてくれる。私の後ろに誰かついてきているのかと少し緊張していたので、私は一人で帰ってきたよというと、そうかと残念そうに父は呟く。
「急にどうしたんだ?」
「うん、子どもが出来たの。こっちで生んでもいいかな?」
「それは、構わないけど……結婚は?」
「してない。その後も、こっちに住みたいんだ!いいよね!」
「まぁ、お前の家だからな、好きにすればいいさ」
そういう父は、少し寂しそうな少し嬉しそうな複雑な顔をしていた。
ごめんね……裕を連れて来たかったけど、無理なの。
お父さん、ごめんなさい。
私は心の中で、父に何度も何度も謝った。
◇・◇・◇
半年後……
「お父さん、おむつおむつ!」
「え?どこだ?」
「そっちの棚だよ!」
「もう、朱里は、ちゃんと揃えてから換えてやれ!」
「そうだね……ごめんね、裕里」
「本当だよ、困ったママだね?裕里」
二人して、生まれて数日の女の子を覗き込み笑いかける。
まだ、よくわかっていないのか……定まらない視点なのか、何の反応もない。
ただ、私も父も可愛くて仕方がない小さな裕里を大事に大事に扱う。
「それにしても、いい名前付けたな!」
「そう?」
「裕里か……いいじゃないか!」
「ふふ、朱里の里だよ!」
「わかってる!」
父と二人、裕里の世話に勤しむ。
慣れない子育てと、久しぶりの子育てに二人してあたふたしながら、小さな裕里の成長を見守る。
小さかった裕里が、笑うようになり、寝返りができるようになり、離乳食を食べるようになり、歯が生えた!
1日1日の成長がおもしろく、言葉も覚えた。
もちろん、イベントも忘れず、写真もたくさん撮った。
毎日写真を撮り続けたスマホは、容量がいっぱいだ。消すことはもちろん出来ないので、定期的に写真にしている。アルバムが1冊2冊と増え、父はそんな私のコレクションを笑っている。
「20歳になるまで、毎日撮らせてくれるかな?」
「無理だろ?そのうち、反抗期も来るだろうし、学校行ったりしたら、嫌ったり……子育ては、親が思う程、上手くいくもんじゃない!」
「さすが、経験者は語るね!」
「だてに、子ども一人育ててないわ!」
私達は、昼寝をしている裕里を挟んで話していた。
そんな1日が今ではとても愛おしい。
「よし、買い物行ってくるね!裕里がハンバーグ食べたいって言ってたから!」
「おう、気を付けて行って来いよ!」
私は裕里の柔らかいほっぺを撫で、父に手を振り出かける。
むにゃっと口を動かしていて、可愛らしかった。その顔を思い出し、私も微笑む。
私が見た、最後の裕里であった。
◇・◇・◇
……
…………
………………
……神様は、赦してくれなか……たね……
……ゆた…………
ゆ…………り…………………
遠くで救急車の音が聞こえたような気がしたのである。
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