一大決心 side朱里
カタカタカタカタ……
いつの間にか、私と隣の席の彼しかいないこの部屋。
私が打つキーボードの音しか聞こえてこない。
人もいなくなったため、私は『朱里さん』のイメージを脱ぎ捨て、ずっとコンタクトをしているのも辛いので眼鏡に換え、髪も後ろで適当に結んでおく。
隣からなんとなく、気遣いしながら、いつ話しかけようか、どうしようかと迷っている雰囲気が伝わってきた。
「あの、朱里さん、そろそろ帰りませんか?」
「んー帰りたかったら帰っていいよ?っていうか、まだ、世羅くんさ、新人なんだから、私なんかに合わせて残る必要はないし、仕事、片付いているんだからもう帰りさなさいよ?」
「でも、夜に女性の独り歩きは危なくないですか?」
「そうね、でも、この広いオフィスで世羅くんと二人でいるのも、然程変わらない気がする」
転職後からずっと、結構な夜を私の残業に付き合って資料整理や課題に取り組んでいる彼。
これでいいのか?と思わないわけでもない。
私より5つも年下なのだから、そこらへんにいる同僚や友人たちと仕事終わりに出かけてもいいだろうに、ちっともその様子がないのだ。
逆に心配してしまう。もちろん、自分のことは棚に上げておく。
実際、このだだっ広い部屋に二人だけであるのも事実だ。
世羅くんが危ない人物とは思わないけど……そこまで、気を抜いているつもりはいない。
ただ、彼が私を意識していなかったとしても、私が彼を意識している事実があることを考え、なるべく残業の時間は目の前の書類に集中して、関心ないよう努める。
「すごい仕事人間なんですね?そのうち、体、壊しますよ?」
「仕事人間なんて言われたの初めてかも!私もとうとうそんな風に言われるようになったのか、なんだか感慨深いわ!」
仕事人間か……彼からは、そう見えるようで、私自身が机に齧りついている時間が長いことを考えると仕方がないような気がした。
もうすぐ、大きな取引の決議書が完成する。
これが終わったら、今日は終わりにしようと区切りのいいところを考えていた。
さすがに夜まで、パソコンの画面を見ているとピントが合わなくなってくる。
眼鏡に換える理由はここにもあるのだが、とうとう無理のききにくい年になってきたのかと、画面に顔を近づける。
ちょっと前までは、こんなことなかったのにな……もう、年なのかな?
まとめていた髪からゴムを取り、くせを直すために頭をガリガリとかきながら髪の毛をふわっとさせた。
「朱里さん、本当に帰りましょう!そろそろ帰らないと、守衛さんに怒られるんじゃないですか?」
「えっ!もうそんな時間?」
集中すると、時間の感覚がわからなくなる。
ただ、目のピントを考えると……そろそろ限界だったので、結構な時間を集中してパソコンとにらめっこをしていたような気がしていたが……また、守衛さんに怒られる時間まで仕事をしてしまったようだ。
彼がいてくれなかったら、また、こっぴどく守衛のおじさんに叱られるところだった。
そして、私はわざとらしく彼に話しかける。
「あっ!世羅くん、まだいたの?」
「えぇ、いましたよ……さっきからずっと話しかけていますけど?」
「ごめんごめん。じゃあ、片付いたし、せっかくだから呑みに行こうか!」
珈琲をごちそうになってから、駅まで一緒に帰ることはあっても、いつも、そこで別れそれぞれの家路につく。
今日は、仕事もいいところまで区切りがついたし、お酒を呑みたい気分になったので、誘ってみることにした。
そんな私の気分にも付き合ってくれるようで、彼は快く頷いてくれる。
上司である私に気を使ってくれたのかもしれないが……それは、考えないようにして、ただ喜んでおくことにした。素直に嬉しいと。
彼の肩を叩いて、私はご機嫌でロッカーへと向かう。
例のごとく、それなりにお直ししないといけないところだらけなので……いそいそと向かうのであった。
時間も遅い時間であるので、早く出ないとお店もいいところは、ラストオーダーとなってしまう。
慌てて戻ってくると、準備ができたようで、一緒にエレベータへと乗り込む。
「よし!どこに行く?この時間だと……居酒屋かしらね!」
意気揚々と私はエレベータに乗って気付く。
狭いなぁ……と。
さっきまで一緒にいた部屋は、広かった。10人しか乗れないエレベータとなるとさっきよりかなり狭く、気配が近くて急に緊張してしまった。
意識は……するな、私!
いつもは、戸締りの関係で私が最後に出るようにしているので、一緒に帰るときも玄関で待ち合わせをしている。
今日に限って、一緒に出てきてしまったのだ。
「まだかなぁ?」
思わず呟いてしまった。
でも、前を向いているから、まずいという表情は彼からは見えなかっただろう。
決して、エレベータに彼と二人で一緒に乗っていることが、嫌なわけではない。
意識してしまって、緊張からちょっとしたパニックになっているだけなのだから……
チラッとエレベータの隅にあるミラーを見る。
私と二人でエレベータって……意識してもらえるのかな?
興味本位ではあるのだけど、私だけがこんなに緊張しているのかもしれないと思うと悔しいようななんとも言い難い。
じっと私の後ろを見ているのが見えた。
ただ、上からのミラー越しでは、表情は読めず、もどかしい気持ちになる。
チーンとエレベータが玄関ホールに着いたので、私はいそいそと外の空気を吸うためにエレベータから降りた。
「ねぇ、世羅くん、どこの……?」
どこの居酒屋に行く?と聞こうとして、彼が後ろに付いてきていないことに気付き、エレベータまで戻る。
エレベータのドアは閉まっていたので、ボタンを押して開くと1階に着いたことにすら気付かずに彼は何事か考えていたようだ。
「世羅くん……?世羅くん!」
全然気づかない。
最近、ずっと私の残業に付き合ってくれていたのだから、疲れていてもおかしくはない。
明日、休みだったから誘ってみたんだけど……今日はもう呑みに行くのもやめておいた方がいいのかもしれない。
「大丈夫?疲れたなら……帰る?」
「いえ、考え事してただけですから……いきましょう!」
私は、彼の返事を待って、一緒に飲みに行くことを諦めかけていたので嬉しくて笑いかける。
すると、彼も嬉しそうに笑い返してくれたので、心底ホッとした。
「朱里さん、ちゃんと歩かないとコケますよ!」
「コケるとかいわないで!本当にコケそう!私、受験とかで落ちるって言われると、本当に落ちたのよ!その代わり、本当に階段から落ちたときの試験は、全部通ったの!」
「それは、ちなみにいつの試験?」
「現役私立難関大学を受けたとき。落ちるって自分では思っていたんだけどね……そう思っていたら、受けに行ったときに駅の階段の一番上から滑り落ちたのよ!お尻は痛いし、滑り落ちたし、もう気が動転しちゃって……パニック!!」
「それで、受かったの?」
「そう、第一希望のところ」
「すごいですね!朱里さんって。なんか、イロイロ持ってますよ!」
私は、彼の言葉に、あはは……と笑う。
何も私は持ってはいない。運なんて、かけらもない。生まれた瞬間から、イロイロ欠落しているのだ。
それでも、父と仲良く親子を続けられたのは、幸せだったと今でも思っているし、育ててくれた感謝は忘れるつもりはない。
でも、心のしこりとして残っているものは、確かにあるのだ。
「持っているわけないじゃない!私は、生まれてすぐに母親に捨てられたのよ!まぁ、育ててくれた父がいたから、持っていたのかもしれないけど……」
「それって、聞かない方がいいやつですよね?すみません」
「えっ?いいよ!別に隠してないし、話のネタだもん。前も話したかな?ネタだからいっか……生まれてすぐに捨てられた可哀想な朱里ちゃんって」
私は、いつもの調子で話をしていると、後ろから抱きしめられ、とても驚いた。
こんな話をすれば、たいてい可哀想だねと言って、それ以上は関わろうとしない。
私は、別に可哀想ではなかった。泣きたいときは、確かにあったけど、不幸ではなかったのだ。
同情されたりすれば、自分が惨めな子であったようで本当に可哀想に思えてきたりするときがある。
でも、今まで振り返っても私は私で、これからも私以上にはなれないのだから、私と上手に付き合ってきて、ちょっとした楽しみを見つけながら生きてきたのだ。
正直、今、何故彼が私を抱きしめてくれているのかはわからない。
でも、暖かかった。心地よく私の全てを包んでくれ、父以外の居場所ができたようにホッとした。
さっきまで、あんなにドキドキと緊張していたのにだ。
そのことに私も驚いたが、手放したくないな……なんて、思ってしまう。
口から出た言葉は、全く真逆であったのだけど……
「何?色気づいているのかしら?」
「別に……そうじゃないです。ただ……なんとなく」
「なんとなくで、女性に抱きつくのはいただけないよ?放してくれる?」
「嫌です」
「大声あげようか?」
「それは……困りますけど……もう少しだけ……ね?」
「ね?じゃないわよ。誰が通るかわからないところでやめてほしいわ!」
「誰もいなかったらいいですか?」
「そういうことじゃなくて!!」
腕の中から解放され、一抹の寂しさを感じながらも、私ももっと上手に甘えればいいものを何反発しているんだろうと反省していると、右手を握られる。
そのまま、大通りまで引きずられるように歩いて行く。
ただ、その握られた手と背中を交互に見つめながら、彼についていき、タクシーに乗せられた。
「どこ行くの?」
「朱里さんの家まで送ります」
重い雰囲気なってしまったので、とりあえず、茶化すことにした。
私の話なんかで、彼がそんな辛そうな顔をする必要なんてないのだから……
「送りオオカミさんだ!」
「ち……違います。僕は、朱里さんを送ったらちゃんと帰りますよ!」
「ふぅーん。帰るのか。じゃあ、運転手さん、○○町の△△マンションまで!」
行先を言ったら、ゆっくり走り始めるタクシー。
タクシーの窓の外を私はぼんやり眺める。
握られた左手に熱を感じながら、何も言わず、外の真夜中近いのに明るい街と故郷の何もない真っ暗闇を思い浮かべる。
彼は、この街と同じ。
明かりもあれば、人もたくさんいて、何でもあるのだ。
私は、何にもない故郷の真っ暗闇よう。
握られた手が、その真っ暗闇をポツンと照らす懐中電灯のように感じる。
小さな懐中電灯でも、あると心強い。
今、握っている手を絶対に離さないと、私は決めた。
もう、二度と離してなんてあげないよ?覚悟しておいてね!と、チラッとタクシーの窓ガラスに映った彼を見て笑う。
「あっ!運転手さん、そこのコンビニでいいや!止めて!お代いくらですか?」
「1200円になります」
まずは、お酒の力を借りよう。
素面では、ちょっと言えそうにないし、このまま本当に送り届けて帰っていくであろう彼を捕まえておくため、コンビニで降ろしてもらう。
「早く、降りてくれない?出られないじゃない!」
目の前でタクシーを返されてしまって困惑している彼をすぐに帰すわけにいかない。
せっかく、一大決心したのだから……私のわがままに付き合ってもらうことにした。
「朱里さん……タクシー」
「明日、世羅くん、休みでしょ?付き合って!」
今度は、私が彼の手を握る。
離さないでおかないと……やっぱり、帰りますと言われると困るのだ。
彼なら、帰ると言い出すだろうとふんで、先手必勝?とばかりにコンビニへ行き、カゴを持たせ目的の酒コーナーへと歩いて行く。
「ほら、グズグズしない!」
酒に酔えない私……こんなときは、なんで強いのかと嘆きたくなるけど、これだけあれば少しくらい酔えるだろうと15本カゴに入れた。
「世羅くんは呑まないの?」
「いえ、僕、帰るんで……」
「えっ?せっかく買ったのに帰るの?付き合ってっていったじゃん!」
「はぁ……こんな時間に女性の家に行くのって……どうなんですか?」
「ダメね?でも、まぁ、呑みたくなったのと、一人で呑んでもおいしくないから、決定事項!上司命令!」
「それ、パワハラになりません?」
「じゃあ、さっきのセクハラにする?」
「いえ……お伺いします……できれば、その……ビールを……」
「はいはぁーい!ビールね。これ?」
支払いを済ませ、大量の缶酎ハイと少量の缶ビールとおつまみの入ったビニール袋2袋分を1袋ずつ持つ。
何食わぬ顔で2袋持とうとしてくれたのだが、それじゃあ彼と手が繋げない。
逃げることはないだろうが、私が繋いでいたかった。
「世羅くん、1袋持つよ!はい」
手を出すと当たり前のように軽い方を私に渡してくれる。
空いた彼の左手にすかさず私の右手を繋ぐと驚いていたが、私が繋ぎたいのだからそんなに驚かなくていいだろう。
ギュっと力を籠めると、握り返してくれる。
こんなホコホコした気持ちはいつぶりか忘れたけど、こんなに心穏やかに居られるのは後にも先に彼以外いないだろう。
こんな何気ないことすら幸せに感じた。
コンビニから二人並んで私のマンションまで帰る道までも輝くようだ。
1回振っちゃったんだけどな……今度は私から告白しないと、この恋は何もなく終わってしまうだろう。
よしっ!と気合を入れ、マンションの扉を開き、彼を部屋へ迎え入れるのであった。
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