「寂しい」という感情 side朱里

「朱里さん、ここの資料で教えてほしいんですけど?」

「ん?どれ?」



 世羅くんの教えて教えてが、結構頻繁にある。

 恋というものを自覚した私は、最近、彼との距離感を計りかねているところだった。

 でも、一応、私は上司であるから、変な態度だけは取らないようにと、心がけてはいるのだけど、今日もやたらと近くないだろうか?

 隣に並んで資料を確認しながら、彼に説明をしていく。


 今は、一人の女としてというより、上司として世羅くんが成長すること優先しないといけないと目をかけているところではあった。

 先日のようなことが、また、起こらないとは限らない。

 杏が相手だったからこそ、注意もしやすかっただけで、私より年上の部下になると、なんとなくそういうことも言いにくかったりもする。

 幸い、あれ以降、誰もそんなふうに世羅くんに対して何か仕掛けている様子はないので、いたって平和な職場へと戻っていった。

 彼自身、対処できるようここでの知識をつけることは、今後、自分を守るために役立つ。


 要領がいいから、飲み込みが早くて本当に助かっていた。

 私は、そんなに教え方がうまい方ではないが、半年のOJTの課題も1、2ヶ月前倒しで終わりそうだ。

 後は、実践あるのみなので、今後、私は自分の仕事をしつつ、案件を渡し、彼のフォローをすることになる。

 そういうのは嫌いじゃないから手間だとは思わないけど、私なんてすぐにお払い箱になるだろう。



「他にわからないところは?」

「あっ!じゃあ、次ここを……」



 とんっと肩が当たった。

 わざとじゃないのはわかっているんだけど……なんだか恥ずかしくなって、ゆっくり何事もなかったように、そっと離れる。

 顔は言われなくてもわかる。赤いのだろう。下を向いて、髪で隠し、彼から見えないようにする。

 こんな反応は、する方もだけど、される方も困るのだ。

 なので、早くおさまれ……と、心の中で呟きながら心臓の音を聞いていた。

 明らかに早い……余計早くなっていく心臓の音が、近くにいる彼に聞こえないか、さらにドキドキとした。



「朱里さん!」

「えっ?何?」



 呼ばれたので、思わず彼を見てしまった。

 心臓の音を確認していたから……なんていう不意打ちなんだろう。

 顔赤いと思うけど……何も言わないでくれると、気付かないでくれると嬉しいなんて淡い期待をしていたが、彼の顔を見る限りは……私がどんな風になっているのかわかる。

 やっちゃったなと思いつつ、何事もなかったかのように説明を続けようとした。



「あぁ……えっと……」

「さっきの説明、わかりにくかった?」

「いえ、そういうわけではなくて……とってもわかりやすかったです。あの、その、珈琲一杯奢らせてください!」



 私の顔を見たせいで、気を使ってくれるのだろう。

 なんだか申し訳ない。



「ふふっ、なんで、奢ってくれるの?変だよ?」

「いや、いつもお世話になっているから、安いんですけど……よかったらと思って」



 誤魔化しても仕方ない。どうせなら、職場以外で、出かける口実にならないだろうかと考える。

 私はそんなに珈琲が好きではなかった。

 みんなが引くぐらい砂糖とミルクを入れないと飲めないから……でも、奢ってくれるっていうなら、苦手でもなんでもいい。

 言ってみるだけなら……別に大丈夫だよね?困った顔になったら、冗談で済ませばいいんだ。



「高いのがいいな!駅前のコーヒーショップの甘いのなら、奢られてもいいよ!」

「えっ?」



 あれ、ダメなんだ?社交辞令だったんだ、恥ずかしい……

 だから、当初の通り冗談ですまそうと思い、口にする。

 本当は、かなり期待していたので寂しい。



「冗談だよ……」

「あの、ダメって言ってませんよ?僕と一緒に行ってくれるんですか?」

「……いいの?」

「いいに決まってますよ!寧ろ、なんでダメだって思ったんです?」

「や、結構な値段するじゃない?好きなんだけど……」

「好きなんですか?」



 含みを持たせて『好き』を言ってきたので、私はバシンと彼の腕を叩いてしまった。

 そんなことだけで恥ずかしいって、私どうしちゃったんだろう。

 31歳にもなった私は、情けないやら恥ずかしいやら、顔には出さずとも、もうぐちゃぐちゃだった。

 でも、そんなちょっとした約束が嬉しかった。

 仕事以外で、一緒に出掛けられるんだ、この機会を逃すわけにはいかない。



「じゃあ、今日は、早く仕事終わらせよう!」

「えっ?」

「お店で飲んでいくでしょ?」

「じゃあ、ご飯も行きませんか?珈琲だけ飲むのなんて、体に良くないですよ?」

「それもそうね。仕事帰りだと、ご飯どきだものね。じゃあ、ご飯を食べた後に珈琲を奢らせてあげるよ!てことで、頑張って仕事を終わらせよう!」



 心の中は、そわそわしている。

 トントン拍子に珈琲を飲みに行くからご飯に行くに変わったのだから。

 いいのだろうか?いいんだよね!久しぶりのデートに心躍る。


 えっ?デート?そっか……デートか。そんな響きは、いつぶりだろうか?


 その後の仕事も頑張れる。だって、早く終わらせないと、一緒にご飯に行けないから。

 山のように積み重なっている仕事を睨みつける。

 こんな日に限って、処理しないといけないことも多いし、電話も多い。

 でも、今日は、気にしない。どんな仕事でも、どんとこいだ!全部まとめて仕上げてあるわ!と気合が入った。



 ◆・◆・◆



 就業時間の終わりを告げるチャイムが無常にも鳴る。

 私の目の前にある決裁は、あれ以降、全然減っていない。

 何故か、どんとこいとは思ったけど……電話対応がどんと来てしまった。

 なので、机の上の置かれている決裁は見事に残っている状態だった。


 隣を見ると、諦めた感じで、山積みになっている決裁を見つめている。

 たぶん、こうなることは、彼も薄々感じていたのだろう。

 でも、待ってほしい。私は、世羅くんとのデートへ行きたい。

 そのために今日、頑張ったんだから、もう1時間だけ……全力で頑張る。

 それでもダメだったら……諦めるけど、今日は諦めたくない。



「世羅くん、1時間だけ……1時間だけ待ってて!」



 苦笑いをして、完全に諦めている感じがする。確かにいつもの私なら、そうだろう。

 でも、今日は違うんだと私自身、この仕事を全部終わらせると決めているのだ。



「あっ!信じてないな!よし、ちょっと待ってて……」



 私はスマホを取り出して予約サイトを確認する。

 今日取れるところで、逆算して考えて今からだと19時からがいいかな?



「世羅くん、今晩食べたいもの何?」

「食べたいものですか?えっと……なんでも?」

「それ、彼女に嫌がられない?」

「あぁ……そうなんですかね?俺、元カノとの間で食べ物に決定権なんて持ったことなくて」

「じゃあ、嫌いなものは?」

「基本的に何でも食べられますよ!アレルギーとかもないですし」

「わかった!じゃあ、お肉食べよう!」

「えっ?肉ですか?」

「ダメ?ハンバーグ食べたい!」



 私の好物に付き合わせていいものかというのもあったが、ちょうど目の前にある予約サイトの表示が、ハンバーグのおいしいお店であった。

 なかなか行けなかったのもあって、ここぞとばかり予約を入れる。

 これでリミットを作ったから、後は集中して仕事を終わらせるだけだ。



「予約完了っと」

「予約って……?」



 スマホの画面を見せてあげる。

 おぉ?その顔はこのお店知っている感じ?

 元カノとかに連れていかれたとか……?

 有名どころではあるので、誰かと行ったことはあるかもしれない。

 今は、そういうことを考えている場合ではなく、目の前の決裁を倒すことだけを考えなければならない。

 この敵さえ倒せば、後でいくらでも聞けるんだから、余計なこと考えるな朱里!と自分を叱咤激励する。



「効率的に仕上げていきます!私だって、やればできるんだから!話しかけないでね!!」



 固定電話の線を抜いて、携帯電話の電源もオフにする。

 電話がかかってきたから、仕事が進まなかったのだから、切ってしまえば大丈夫だろう。

 腕まくりをし、邪魔な長い髪を引き出しの中からゴムを出して手櫛でまとめやる。

 あとは、集中してます、話しかけるな!というオーラを出しておけば、よっぽど空気の読まない人以外話しかけてはこない。

 この状況で声なんてかけてきたら、月曜から思い知らせてやる!とか、変なことを思いつつ50件近く積まれている決裁に手を付ける。

 行ったり来たりしている決裁も多く、何回修正しても直ってこない決裁にこういうときはイラつく。


 付箋をぺりぺりとはがして貼って赤ペン入れて、通知文の校正から購入決裁の金額確認、大きな額の動く決議書を次から次へと処理していく。


 新人より下手な決議書なんて回してくるな!と心の中で悪態をつく。

 明らかに、隣の彼が作った方が上手である。


 全部見終わった……ふぅっと息を吐き時計を見ると、17時57分であった。

 課長に回す分と担当に返す分を分け、隣で気にしている彼に声をかけた。



「世羅くんの決裁、返しておくね!ここ、直しておいて!」

「朱里さん、全部終わったんですか?」



 全集中力を持ってして、しかも、心の中は愚痴ばかり言いつつ、決裁を見終わった。

 同じ体制だったため、体がガチガチに固まってしまったので、肩をグルグル回して、ニコッと笑う。



「もちろん!約束したし、予約もとったし、ハンバーグ食べたいもん!あと、世羅くんが頑張ってる朱里さんに珈琲奢ってくれるんでしょ?」

「頑張ってなくても、珈琲なら奢りますよ!」

「コンビニのかな?自販機のかな?」

「朱里さんの望む珈琲でいいですよ!」



 そっか……私の望む珈琲を奢ってくれるのか。じゃあ、次も言っていいのかな?

 ちょっとした時間を共有してもいいと言われたようで、とても嬉しくなって、ふふっと微笑んでしまう。

 今日、頑張ってよかった!ご褒美は、デートだ!

 口には、出さないけど、楽しみで仕方がない。



 ◆・◆・◆



「玄関で待ち合わせね!ちょっと上着持ってくる!」



 そういってロッカーに行ったものの、さすがにいつも以上に張り切ったせいで疲れた。

 でも、疲れた顔でご飯を一緒に食べてもおいしくないだろう。

 ポーチを持って私はトイレに駆け込む。案の定ひどい顔であった。

 洗面台に化粧品を並べていく。お肌の曲がり角は、とうに何回も曲がっているわけで……作る必要がある。

 ありがたいことに、元々の肌と顔のパーツは整っている方だと自負しているので、この疲れた31歳をなんとか30歳にしたい……そんな気分だ。

 せっかく彼の隣を歩くのに、明らかに上司とご飯に行きますというふうに見られるのは、悲しいので、厚塗りにならない程度に直していく。

 時間もないので、手早くするが、最後に口紅だけスッと引いた。



「おまたせ!行こっか!」



 私は、勝手にデートと思っている手前、ウキウキと歩いているのだが、世羅くんはどういうわけか斜め後ろを歩いている。

 そんなちょっとのことで、寂しかったりするので、自分から隣を歩くために立ち止まってみた。



「あのさ?ご飯食べに行くんだよね?」

「はい……そのつもりです」

「昔の人みたいに三歩後ろを歩くのはなんで?てか、あれは、女の人が三歩後ろを……って、こんなこと言ってわかる?」



 5歳も離れていると私が話すことがわからないのだろうか?

 見つめ返され、言葉に困る。どういったら、伝わるのだろうと考えて、思い至った。



「そういうことわざというか、習慣というか、風習があったんだよ。まぁ、今は、そうじゃないと思っているけどね……亭主関白的な?」

「あぁ……それなら……」

「年、そんなに変わらないのに……なんだか、私がおばさんになった……って、おばさんか。なんでもいいや、今日は、隣歩いてよ!デートしてるみたいでいいでしょ?」



 年相応に大人でありたい自分と、5歳年下の彼の隣を歩くので可愛く見られたい気持ちが鬩ぎ合う。

 覗き込むように彼を見つめると、ちょっと慌てたような仕草をする。

 普段から見ていないとわからないようなちょっとしたことだ。


 この仕草の意味がわかるって……私、気持ち悪いほど、世羅くんのこと見てるんだな……なんとなく自分が恐ろしくなってきた。

 本人にそんなこと言うわけにもいかないので、黙っておくけど、やっぱり、私好きなんだと自覚を再確認する。



「わかりました、では、隣を……」

「うん、そうして!私、ハンバーグが好きでね、今日のお店も何回か職場の人と言ったんだけど、世羅くんは、誰かと行ったことある?」

「…………」



 質問をしているのに、ぽーっとしているのか隣から一行に返事がない。



「ねぇ、聞いてる?」

「はい、聞いてますよ!ハンバーグが好きなんですよね?」

「そう、毎食ハンバーグでいいくらい!」

「それは……太りますよ?いて……」



 太りますよって気にしていることを言われ、背中をバンっと鞄で叩く。

 でも、こんなふうに、どうでもいい話をしながら歩くことが楽しかった。

 聞きたかったことは、聞けなかったけど……まぁいいかと少し肩を落とす。

 聞いたところで、そうなんだ、へぇーって感じで終わる話なのだから。



「朱里さんって、結構しゃべるんですね?」

「ん?私、おしゃべりだよ?一人っ子だから、ひとり言も多いし、家とかだったら、ずっとしゃべってる。テレビもあんまりついてないかな……って、かなり怖いね!」

「もっと聞かせてくださいよ!」

「んー話すことなんてないよ……」

「じゃあ、僕から質問。朱里さんって一人っ子なんですか?」

「うん、一人っ子。っていうか、生まれてすぐに母親に捨てられたかな?この世の中のどこかには、私にはきっと異父弟か異父妹がいるんだよ!私たちが出会うことはないだろうけど……ちょっとそんな風に思うと笑えるネタにはなるかなって。世羅くんは?」



 話の流れ的に私も聞けるだろうと思い、聞いてみる。

 なんとなく、お兄ちゃんぽいなと思っていたのだ。



「僕は、くっそ生意気な妹がいますよ!」

「へぇーでも、兄妹って羨ましいよ!私、さっきも言ったけど……ひとり言言わないと誰も相手してくれないからね?」

「僕が相手しますよ?」

「へっ?」



 驚いてしまった。

 売り言葉に買い言葉的な話なんだろうけど、そんなこと言われると、まだ好きでいてくれるのかな?と期待してしまう。


 初日に振ったのに……私にとってまったく都合のいい解釈をしたくなる。



「いえ、聞き流してください」

「んー、じゃあ、たまに私のひとり言に付き合ってくれると嬉しいな」

「それなら、喜んで!」



 お店に着いてからは、職場の話をしたり、小耳にはさんだちょっとした話をしたりと楽しく過ごせた。

 もちろん、ハンバーグもおいしかったけど、私にとって、この時間を作れたことが今日最大のご褒美となったのだ。


 こんな時間……もっと過ごしたいな。

 コーヒーショップを出て駅まで送ってくれた後、一人、電車に揺られながら車窓の流れる景色をぼんやり見る。

 夜なのに、まだ明るい街を見ながら、今はもう隣にいない彼を想う。


 はぁ……明日も明後日も会えたらいいのにな。休日なんだよね。

 仕事や約束がないと会えないなんて、寂しい。


 楽しかったこの数時間を考えると、久しぶりに感じる寂しさを胸に、静かな道をほてほてと歩き岐路についた。


 今日は、もう寝よう……月曜に笑っておはようって言えるように……

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