ワンコは借りだされ、貶され、飼い主に助けられる
「しーんじん!」
「わっ! 杏さん……。ビックリするじゃないですか?」
先輩の杏が、そっと後ろからやってきて、急に両肩へ手を置いたので驚いた。
僕は、この会社に転職して二ヶ月経過し、順調に朱里のOJTをこなしているところである。と言っても、出される課題は、経験がある僕を試すようなものが多く、出来ることより少し上の目標値の課題にしてくれているので、無理せず成長できている感じがした。
それよりも、僕は隣の朱里のデスクの上に溢れかえっている資料整理を課題の合間に請け負っているのだが、一向に減らない資料の山の方が心配だった。
たまには、こんなことも新人には仕事としてふってくる。
「朱里さん、今日、新人借りて行ってもいいかな?」
チラッとこっちを見て、ニコッと笑った彼女は、連れて行ってもいいよと杏への返答だったのだろう。忙しいのか、考え事をしているのか、返事もない。
「朱里さんの許可は得たよ! ほら、新人、行くよ!」
わけもわからず、杏に連れ出されていく僕。
「あ……朱里さん!」
「ん?」
「あの……」
「行ってらっしゃい!」
言いよどむ僕をチラリと見たあと、椅子に掛けてあったジャケットをシュッと投てきた。
手を振って……いや、しっしっ! とされている……? 僕、お邪魔でしたか……?
悲しくなり肩を落とすと、その肩に杏が寄っかかってきた。
「あらあら、朱里さんに振られちゃったね、新人。まぁ、お姉さんが、そのぶん可愛がってあげるから、ついてらっしゃい!」
返事をするまでもなく、僕は首根っこを杏に引っ掴まれ、ずるずると居室の外へと連れ出されていくのである。
杏は、外回りをするらしく、廊下には大量の資料とサンプルと思われる物が積まれていた。
「これ、全部持って行ってくれる? 車、回してくるから、地下の駐車場まで来てね!」
明らかに僕一人で持てる量ではないものをさも当たり前のように言って、杏は手ぶらで行ってしまった。
途方に暮れながら、その颯爽と歩いて行く杏の後ろ姿を見送る。
「いくら男だって言っても、この量は……」
「あれ? 杏ちゃん、もう行っちゃった?」
「……朱里さん」
忘れ物とスマホを渡しに来てくれた朱里に泣きそうな顔を向けてしまい、また、ため息をつかせることになった。これくらいの荷物、何往復かすればいいのだろう。多分、杏はそういうことをなんとなく許さないのじゃないかと思え途方にくれていたのだ。
「杏ちゃんには困ったね……? この量はさすがに、世羅くん一人で持てるわけないじゃない。ちょっと待ってて、台車持ってくるから、私も一緒にいくわ! 一緒について行ったことは、杏ちゃんには内緒だからね!」
しーっと人差し指を口元に持ってきて、内緒ね?という。爪の先まで磨かれている彼女は、本当に何をしていても絵になる。
もちろん、僕には『恋』というフィルターがかかっているからかもしれないが、一般的に見ても、朱里は美人なのに、ときどき可愛らしい……そんなギャップを持つ女性であった。
台車を借りてきてくれ、その上に杏が置いて行った荷物を積んでいく。
駐車場までエレベータを使い降りて行き、待ち合わせのところで荷物を下ろす。
「私がいるのもまずいし、台車も持ってった方がいいと思うから、もう行くわね! じゃあ、初めての外回り、頑張ってね!」
今度こそ朱里が、小さく頑張ってとガッツポーズをしたあとに手を振ってエレベーターで去っていく。言葉にすると聞かれるかもしれないので、静かに頭を下げた。頭を上げた頃には、エレベーターのドアも閉まり、一人ぼっちで杏が来るのを待っていた。
◇・◇・◇
「ごめん、ごめん。重かったよね……? キー取りに行って、やっぱり一人じゃ大変かな? って思ったんだけどさ、持ってきてくれてたんだね! ありがとう!」
「いえ……大丈夫です。今日は、僕、荷物持ちですか?」
「うん、そうだね、十五件くらい回るから、大変だけどお願いね!」
杏の運転する社用車の助手席に座り、行く先々の話を聞いていく。杏は育休復帰をしたばかりで、多くの仕事を抱え込むわけにはいかず、今まで自分が信頼関係を育ててきた顧客を朱里が代わり引き継いでいると教えてくれた。だんだん、顧客を取られていっているのだと愚痴を言い始めたが、笑ってごまかし素しかなかった。
育休中だったのだ。誰かが代わりに顧客の対応しないといけないのは明白で、たまたま朱里がその代役を受けたわけだが、今では顧客の方が朱里を離さないようになったと杏は言う。せっかく杏が信頼関係を育てた顧客を自分へ取り戻せなくて焦っているらしい。同期なのに、チームリーダーとなり、実績をどんどん上げていく朱里に、杏は嫉妬しているのだと打ち明けられた。
知っている人の、ましてや僕が好きな朱里の愚痴を聞くのは嫌だが、車の中で二人しかいないのだから曖昧に笑って過ごすしかない。杏がどんな気持ちで、僕に朱里のことを話しているか全てをわかることはできずとも、いい感情を向けていないことだけは、ひしひしと感じる。
杏に連れていかれた顧客は、朱里がきちんと資料整理していた。僕もよく資料の作り方等を参考にしていた会社ばかりだ。店長や社長との話を聞いていても、話を聞き逃しすることなく、杏のフォローが僕なりに出来ているように思えた。
挨拶周りはおおむね和やかに済み、最後の十五件目に来たときに問題は起こった。
「あれ? 杏ちゃんじゃない! 朱里ちゃんは、今日来てないの?」
「えぇ、朱里さんは、違う仕事で……」
「そう。杏ちゃんも知っているかしらね? この前、朱里ちゃんがね、紹介してくれた話がとっても良くって!」
今日の外回りの間、顧客の方から杏の名ではなく、「朱里ちゃんが、朱里ちゃんが」と言われ続け、フラストレーションは溜まりに溜まっていたのだろう。愛想笑いをすることさえも忘れ、説明途中で全てを放棄してしまった。
顧客は、杏のその態度を良しとはしない。押し掛けて行って、その態度なのだから……顧客としては、時間を取った上に困惑も怒りもあるだろう。
雰囲気は最悪になり、杏にはどうすることも出来ず、僕が顧客との間に入ることにした。
朱里さんに「頑張れ」って言われたんだから、頑張ろう。
と、一念発起する。こっちの上司も怒っているが、顧客はカンカン……朱里が今まで杏の分までフォローをし続けてきたのにも関わらず、恩を仇で返すとはこのことだろう。
◇・◇・◇
顧客との険悪な雰囲気を何とか収め、帰路につく。杏は会社に帰るまで一言も話さず、運転もペーパードライバーの僕がすることになった。
思えば、顧客を宥めるのにクタクタで、恐々ハンドルを握りながら、ビクビクと会社までの道のりを無言で過ごす。
……朱里さん、助けて。
あまりの気まずさに、心の中で呟いた。
◇・◇・◇
「おかえり!」
妙に上機嫌の朱里が、さらに杏の神経を逆なでしたのであろう。
「新人、さっきの片付けに行くからついてきて!」
「あっ……はい……」
嫌とは言えず、杏の後ろをついて行く。人気のないところまで行き、暗い場所で僕は溜まりに溜まった杏の鬱憤を晴らすために、罵声を浴びせられ続けることになった。
辛くても……こればっかりは、歯向かっても仕方がない。
杏は、今日の外回りでのやり場のない感情を吐き出しているだけだと思い、我慢を続けることにした。
「朝、あの荷物を運ぶの、朱里さんが手伝ってくれたんでしょ?」
「いえ……そんなことは……」
「しらばっくれなくてもいいわ! 私、一部始終を見てたんだから! そうやって、二人で私をバカにしてたのね! さっきの顧客のところでの対応もそう! 朱里さんが、新人に顧客のことを教えていたのでしょ!」
謂れのない話だ。困っていた僕に、ただ朱里は手を差し伸べてくれただけなのに、仕事の一環として、顧客管理や細かい情報整理の仕方を教えてもらっただけだ。
そこから先は、彼女の努力に似合う努力をしようと、僕自身が努力した結果の副産物だった。さすがに何も悪くない朱里のことを悪く言われ続けたので、僕も言い返そうとし、身を乗り出そうとした。
「あ……」
「杏ちゃん、世羅くんはここにいるのかな?」
ひょこっと顔を出したのは、当の本人の朱里であった。
「世羅くん、課長が呼んでるから先に帰りなさい!」
「でも……」
「でももへったくれもありません。業務命令!」
「朱里さん! 今、私が新人と話して……」
朱里が誰かを睨むのを初めて見た。目に込めた力が、杏を黙らせてしまう。
「世羅くん、すぐに行きなさい!」
朱里が、静かにいつもより低い声で僕の名前を呼ぶ。
怒っているのだろうか?
「はい、では、お先に失礼します……課長のところへ行けばいいんですね!」
「うん、そう!」
さっきの声とは違い、いつもの明るい朱里に戻っている。後ろ髪をひかれながら、僕はその場所から去っていく。呼んでいる課長の元へと向かった。
◆・◆・◆
「課長、朱里さんから僕のこと呼んでるって聞いたのですけど……何の用でしょうか?」
「えっ? 呼んでないよ? 朱里ちゃんがそう言ったの?」
「はい……聞き間違いだったんでしょうかね?」
「そうじゃないかな? 今から打ち合わせ行ってくるから、朱里ちゃんに伝言しておいて!」
「わかりました……」
確かに朱里は、課長が呼んでるから今すぐ行けと言ったのに……課長は呼んでないって……?
気付いたときには、もう遅いのかもしれない。僕は、来た道を急いで戻っていく。
「あ……朱里さん!」
「世羅くん、どうしたの?」
「課長が、打ち合わせに行くからって伝言……」
朱里の後ろをトボトボと歩く杏を見て、驚いた。さっきの雰囲気から毒気が抜けたようだ。
「あの……大丈夫でしたか……?」
「ん? 何が?」
「いえ……」
「あっ! そうだ、頼みたい仕事があるんだけど、やってくれる? って、もう定時じゃん!」
「やります! 残ります!」
「いいの? 残業……?」
「家に帰っても一人なんで、誰かと居れて仕事も出来て残業代もつくなら、いいんじゃないですか?」
「でも、程々にしてよね……私の評価に響く……」
朱里は、ちょっと拗ねたように僕の腕をバシンと叩き、「じゃあ、もうひと踏ん張り頑張ってもらいましょうかね!」と居室に戻ってく。僕もその後ろを追っかけて行こうとしたら、杏に呼び止められた。
「新人!」
「はいっ!」
「今日は、八つ当たりして……その……ごめん」
「あぁ、……そういう日もありますよね! どんな日もありますから! じゃあ、朱里さんの仕事が待っているので、これで!」
僕は、それ以上、杏には何も言わず、僕の仕事を選別しいる朱里の元へ行き声をかける。冗談めかして、「今までで一番難しい案件あげるよ!」なんて渡してきた朱里は、いつも以上に明るく楽しそうにしていた。
「望むところです!」
手を出すと、ズシリと重い資料を両手いっぱいに渡され、今日も朱里と二人仲良く守衛に怒られるまで残業をするのであった。
余談ではあるが、僕にとって残業の時間は、朱里と二人だけの時間で、至福のときだ。
これは、頑なにお口チャック案件であるからにして、真面目に仕事をしている朱里には秘密である。
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