忠犬ワンコとハンバーグ

 最近、朱里さんの様子が変だ!

 その理由を何個か思いついた。例えば、だが……こんなこと。


「朱里さん、この資料のここを教えてほしいんですけど?」

「ん? どれ?」


 朱里とは、隣席なので、椅子に座ったままコロコロっと僕は近寄って行く。横に並んで資料を見て、ひとつひとつ朱里からとても丁寧に説明を受ける。わからないことをわからないままにしておく方が、後々僕のためにならないと朱里に叱られてからは、手間にならない程度に聞くようにしている。僕に教える時間は、朱里にとって余分な時間だと申し訳なく思っていた。それでも、嫌な顔もせず、面倒なことでもきちんと教えてくれる。

 そんな優しさは、上司と部下だからだろうが、僕の心をずっとくすぐっている。

 距離が近い分、朱里のシャンプーの匂いにはくらくらさせられるけど、僕は仕事だと割り切って理性に頑張ってもらっている。


「他にわからないところは?」

「あっ! じゃあ、次ここを……」


 資料を指さしたとき、たまたま、朱里と肩がぶつかった。

 僕は、そんな些細なことにどきどきしてたけど、朱里は俯いて、さりげなく離れていく。


 ……あの……それ、結構せつないです。そんなに、離れていかなくても。


 思ったことを口には出せなかったが、「ここを」と指していた人差し指は、僕の心と比例してペタッと資料に落ちた。

 すると、何事もなかったかのように、朱里は淡々と説明を始めた。

 こちらからは、俯いているのと長い髪が邪魔をして顔が見えないけど、一体どんな顔をしているのか……、見たくなった。


「朱里さん!」

「えっ? 何?」


 淡々と話している朱里が、呼びかけに思わず僕の方を向いた。しまったという表情とほんのり頬のあたりが赤い気がしたが、僕の都合のいいように見えている場合がある。そこには触れず、じっと見つめる。

 名を呼んでしまった手前、「何でもないです」とは言いづらく、何か思いつけと頭の中をフル回転させる。


「あぁ……えっと……」

「……さっきの説明、わかりにくかった?」

「いえ、そういうわけではなくて……とってもわかりやすかったです。あの、その、珈琲を一杯奢らせてください!」

「ふふっ、いきなりだね? なんで、奢ってくれるの? 世羅くん変だよ?」

「いや、いつもお世話になっているから、安いんですけど……よかったらと思って」


 クスクス笑い始めた朱里は何事か考えている。唇に人差し指の横をくっつけて、真面目に考え込んでいた。


 ……朱里さん、何を考えているんだろ? 珈琲くらいで、そんなに悩まなくても……よくない?


 答えが返ってくるまで、胸をジリジリとさせながら、じっと待つ。ほんの数秒のことなのに、もう何時間も返答がないようなじれったさに、こちらから何かを言い出したくなった。


「高いのがいいな! 駅前のコーヒーショップの甘いのなら、奢られてもいいよ!」

「えっ?」


 朱里のいきなりの申し出に面食らってしまっただけで、別にダメというつもりは全くない。寧ろ、一緒に行ってくれるのかと嬉しいくらいだ。


「……冗談だよ」


 悲し気に肩を落として資料の説明に戻ろうとした朱里に、思わず笑ってしまった。


「あの、ダメって言ってませんよ? 僕と一緒に駅前のコーヒーショップに行ってくれるんですか?」

「……いいの?」

「いいに決まってますよ! 寧ろ、なんでダメだって思ったんです?」

「……結構な値段するじゃない? 他のは飲めないんだけど、あのショップのは……好き、なだけ……」

「好きなんですか?」


 意味ありげに朱里を見つめながら呟くと、バシンと朱里に腕を叩かれてしまう。照れたような表情をする朱里。それを誤魔化すような行動が可愛い。


「……じゃ、じゃあ、今日は、早く仕事終わらせよう!」

「えっ?」

「お店で飲んでいくでしょ?」


 突然のお誘いは成功したようで、僕は嬉しくなる。どうせなら……と、僕は欲をだした。


「じゃあ、ご飯も行きませんか? 帰ってもお互い一人ですし、珈琲だけ飲むのも、体に良くないですから」

「それもそうね。仕事帰りだと、ご飯どきだものね。じゃあ、ご飯を食べた後に珈琲を奢らせてあげるよ! てことで、頑張って仕事を終わらせよう!」


 ウキウキと心躍らせているのは僕だけだろうが、職場を離れてから朱里と一緒にご飯に行けることが嬉しかった。


 デートだ! 頑張って……仕事、終わらせないと!


 ひょんなことから、朱里との時間ができた。嬉しいすぎても、デートに気を取られすぎてはいけない。仕事は仕事。今は、今日の仕事を終わらせることに集中するべきだ。朱里からの説明も、さっきより身に入ってくる感じがした。


 もし、僕がデートに気を取られていることがわかったら、たぶん、この話はなかったことになるだろう。朱里は、仕事に対してきちんとしている。

 そういう彼女を尊敬もしているので、朱里の期待を裏切らないで済むように必死に勉強もしている。

 動機が不純だって言われるかもしれないが、ちゃんとできるようになって、初めて僕を見てくれるような気がするから、頑張っているところなのだ。

 結局、朱里から受けている教育のおかげで、何の苦労もなく成長出来ているのは、やっぱり教える側の朱里が僕と真剣に向き合ってくれているからであろう。


 珈琲一杯で、日頃のお礼には決してならない。

 会社での先輩で上司であれば、普通なのかもしれないけど、僕が初めて社会人になったときのOJTに比べ、じっくり時間もとってくれ、丁寧に教えてくれる朱里はやっぱり貴重な人だと感じていた。



 ◆・◆・◆



 就業時間の終わりを告げるチャイムが鳴る。

 どう見ても、朱里のデスクに積まれている資料や決裁書類は、終わりが見えているとは思えない。

 楽しみにしていたが、約束は無理であろうということも薄々感じていたので、朱里を責めるつもりはなかった。


「世羅くん、1時間だけ……1時間だけ待ってて!」


 チャイムの音が鳴り止んだあと、朱里が隣から拝み倒してくる。気遣ってくれていることがわかるので、無理はしてほしくない。

 朱里のいうように山のような仕事が1時間で終わるとも思えず、僕は苦笑いしてしまった。


「あっ! 信じてないな! よし、ちょっと待ってて……」


 朱里はおもむろにスマホを取り出して、何かを確認し始める。


「世羅くん、今晩食べたいもの何?」

「食べたいものですか? えっと……なんでも?」

「それ、彼女に嫌がられない?」

「あぁ……、そうなんですかね? 僕、元カノとの間で食べ物に決定権なんて持ったことなくて」

「そうなの? じゃあ、嫌いなものは?」

「基本的に何でも食べられますよ! アレルギーとかもないですし」

「わかった! じゃあ、お肉食べよう!」

「えっ? 肉ですか?」

「お肉ダメ? ハンバーグ食べたい!」


 あぁ、ハンバーグね……? 肉っちゃ肉だけど……焼肉じゃなかったのか。ハンバーグって、朱里さんって意外と子どもっぽい?


 失礼なことを考えながら、お財布の中にいらっしゃるはずの諭吉様を思い浮かべる。


 あぁ……、いらっしゃらなかった……。


 財布の中身がレシートばかりなのを思い出し背中に冷たいものが流れていく。


「予約完了っと」

「予約って……?」


「はいっ!」とスマホの画面を見せてくる朱里。職場の近くでとても有名なお店を19時に予約している。定時からの19時なんてあっという間なのに、予約をしていることに驚いた。


「効率的に仕上げていきます! 私だって、やればできるんだから! しばらく話しかけないでね!!」


 目の前にある電話線をこっそり抜いて、電話がかかってこないようにしてしまった。今時珍しく、朱里の前には固定電話が置かれている。

 会社から支給されている携帯電話もあるのだが、もちろん、オフにしてしまった。

 腕まくりをし、長い髪をまとめる用にどこからかゴムを出してきて咥えている。

 手櫛でササっとまとめてポニーテールにして、集中してます、話しかけるな! というオーラを纏った。


 そこから1時間の朱里の集中力は凄かった。

 隣で、もちろん、僕も残業をしていたのだが、就業時間後のこの時間に尋常ではないスピードで決裁の山が減っていく。

 最後の決裁を見て、付箋を貼りまくって文章の体裁を整え終わったところでちょうど17時57分。そこから、決裁を課長に回すものと担当に返してやり直しの分を分けていた。


「世羅くんの決裁、返しておくね! ここ、直しておいて!」


 僕の出した決裁まで、返ってきたのには落胆したが、山のようにあった決裁が全てなくなったことに正直とても驚いた。


「朱里さん、全部終わったんですか?」


 さすがに疲れたのか、肩をグルグル回している朱里がこちらを向いてニコッと笑う。


「もちろん! 約束したし、予約もとったし、ハンバーグ食べたいもん! あと、世羅くんが頑張ってる朱里さんに珈琲奢ってくれるんでしょ?」

「頑張ってなくても、珈琲なら奢りますよ!」

「コンビニのかな? 自販機のかな?」

「朱里さんの望む珈琲でいいですよ!」


 ふふっと笑っている朱里。今日は、いい日だなと朱里を眺めながら、机の上を片付け始める。


 綺麗になった机を見ながら、朱里との仕事終わりのデートに心躍らせる。言われるまでもなく、デートと思っているのは僕だけなので、口には出さないでおいた。



 ◆・◆・◆



「玄関で待ち合わせね! 上着持ってくるから!」


 そういって先に出て行った朱里を見送り、僕は、エレベータに飛び乗り、会社にあるATMに駆け込む。財布を開くと、やっぱり諭吉様が一人もいらっしゃらない。

 珈琲を奢るくらいなら……3000円もあればいいだろうが、ハンバーグとなったら……今あるお金ではとても足りない。

 諭吉様を数人連れて、待ち合わせの玄関まで行くと、ちょうど朱里がエレベータから降りてくるところだった。


 ふぅっと息を整える。


「おまたせ! 行こっか!」



 意気揚々と歩き始める朱里の斜め後ろを歩いていると、スッと止まって僕の隣に並ぶ。


「あのさ? ご飯食べに行くんだよね?」

「はい……そのつもりです」

「昔の人みたいに、私の三歩後ろを歩くのはなんで? てか、あれは、女の人が三歩後ろを……って、こんなこと言ってわかる?」


 僕は朱里が言っていることがわからず、ただ見つめるだけ。


「そういうことわざというか、習慣というか、風習があったんだよ。まぁ、今は、そうじゃないと思っているけどね……亭主関白的な?」

「あぁ……それなら……」

「年、そんなに変わらないのに……なんだか、私がおばさんになった……って、私おばさんか。なんでもいいや、今日は、隣歩いてよ! デートしてるみたいでいいでしょ?」


 はにかむように覗き込んくる朱里は、可愛くて仕方がない。これは、わざとなんだろうか? って、今、デートって言った? ねぇ?


 僕の中は、朱里の『デート』の一言で嬉しさのあまりてんてこ舞いだ。


「わかりました、では、隣を……」

「うん、そうして!」


 隣を歩いている朱里をチラチラと見てしまう。仕事が終わったときは、疲れたという顔をしていたのに、今は全くそうでない。ウキウキと足取り軽く話しかけてきてくれる。


「ねぇ、聞いてる?」

「はい、聞いてますよ! ハンバーグが好きなんですよね?」

「そう、毎食ハンバーグでいいくらい!」

「それは……太りますよ? いて……」


「いらない一言っ!」と言って朱里のカバンが背中に飛んできた。確かにいらない一言を言ってしまったと背中の痛みに後悔する。


 お店に着き、その間もイロイロな話をしてくれる。新人だった頃の話や大手を辞めた話。僕の知らない『朱里さん』が表情をクルクル変えて楽しそうで嬉しい。


「朱里さんって、結構しゃべるんですね?」

「ん? 私、おしゃべりだよ? 一人っ子だから、ひとり言も多いし、家とかだったら、ずっとしゃべってる。テレビもあんまりついてないかな……って、かなり怖いね?」

「もっと聞かせてくださいよ!」

「んー話すことなんて、そんなにないよ……」

「じゃあ、僕から質問。朱里さんって一人っ子なんですか?」

「うん、一人っ子。っていうか、生まれてすぐに母親に捨てられたかな? この世の中のどこかには、私にはきっと異父弟か異父妹がいるんだよ! 私たちが出会うことはないだろうけど……そんなふうに思うと笑えるネタにはなるかなって。世羅くんは?」

「僕は、くっそ生意気な妹がいますよ!」

「へぇーでも、兄妹って羨ましいよ! 私、さっきも言ったけど……ひとり言言わないと誰も相手してくれないからね?」

「僕が相手しますよ?」

「えっ?」


 思った以上に驚かれてしまったので、僕は慌てて取り消す。取り消したいわけじゃなくても、朱里が僕なんて見ていない現実を自身で突き詰めてしまったようだ。


「いえ、聞き流してください」

「んー、じゃあ、たまに私のひとり言に付き合ってくれると嬉しいな」


 気を使わせてしまったのだろうか? とも思ったが、微笑む朱里お表情からは、微塵もそんな雰囲気はない。「……それなら、喜んで!」と、嬉しさのあまり、少しだけ声が大きくなってしまった。


 朱里の好きなハンバーグも駅前のコーヒーショップの珈琲も堪能した僕らは、別々の岐路につく。

 結局、ハンバーグは朱里に「クレジットカードのポイントがつくから」と言って奢られてしまった。珈琲は、ちゃんと約束通り僕に奢らせてくれたので、そこはホッとしたのだが、ハンバーグを奢られてしまったことを後悔してしまう。

 かっこつけたくても、まだまだ朱里の掌の上でころころとされている感じがする。


 電車へと向かう朱里の背中を見送り、僕は今日の出来事を噛みしめる。

 朱里と仕事後に過ごした数時間、とても楽しくてあっという間であった。

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