彼女とワンコ

一目惚れと忠犬ワンコ

「初めまして、本日よりお世話になります、世羅裕と申します。ゆうと書いてゆたかです。若輩者ですが、少しでも早く仕事を覚えてこのチームの一員となりたいと思います。本日より、どうぞよろしくお願いします!」


 新卒採用で大手企業に入ったのものの、どうも肌に合わず、会社を三年で辞めてしまい、僕はこの会社に転職をした。

 今日は転職初日、心機一転と真新しいスーツを着て、朝礼で今日からお世話になると爽やかに挨拶をする……と昨夜から何度も考えていた挨拶は見事に完遂できた。緊張はしていたが、できたはずだ。

 おもしろいことのひとつでも言えたら、僕の印象ももっと良かったのかもしれないが、生憎そんな気の利いたことが言える僕ではない。就職活動でとても役にたった『真面目』を張り付けて挨拶をしたのだが、どうも様子がおかしい。


 ……場がやけに静かだ。


 歓迎してくれる意味を込めて、僕の挨拶に対して、疎らでも拍手があってもいいものだろう。この職場に歓迎されていないのか……? と、なんとも言いようのない寂しさや不安が胸に広がり始める。

 静かすぎるゆえに、「お願いします」と頭を下げたままで怖くて顔をあげられないでいたら、目線の先にさっきまではなかったハイヒールを履いたキレイな足が見える。


 あぁ、もう、これだけで好みだと変態よろしくで思っていると、頭を下げたままの僕の肩をポンっと軽やかに叩かれた。


「よろしくねっ! 世羅くん!」


 優しい声が上から聞こえてきたので、さっきまで不安から一転、ホッとしてゆっくり頭をあげる。もちろん、声をかけてくれたのは、目の前にある好みのおみ足のお姉さんだろう。

 期待を込めて、あまりにも綺麗な足をじっくり舐めまわすかのように見ながら頭を上げていく。ちょうど視線が胸あたりに来たときに、彼女は持っていた資料をササっと丸めた。あまりの素早さに何をするのかと視線で追っていくと、僕の頭をスパーンっ! と、いい音をさせて叩かれる。


「いたっ!」

「初対面の女性を舐めまわすように見るのは、とても失礼じゃないかな? 社会人なんだから……そういうのダメだと思うわよ?」

「あ……いえ……その……」


 言い訳を考えて言い淀んでいると、静かだった周りからどっと笑いがわく。僕はわけもわからず、目を白黒させながら今起こっていることに驚いた。


「もぅ! なんで私が新人いびりみたいなことしないといけないんですか! 私、この忙しい課に世羅くんが入ってきてくれて歓迎しているんですよ!」


 彼女は、緊張している僕をからかうように課長から言われたらしく、踵を返して一直線に課長のところへ抗議しに向かった。

 そんな彼女の様子をいきなりのことできょとんとなって見ていた僕に振り返り、今度は彼女が僕にニッコリ笑いかけてくる。

 まるで、大輪の向日葵のようにパッと花が咲いた。

 その笑顔は好みを通り抜けて、僕は心を撃ちぬかれた。最後の恋は、入社してものの五分とかからず、おちた。


 僕は、彼女に一目惚れしたのだ。


 彼女が慌ててこちらに戻ってくるのをぽやっと見ている。

 そういえば、初めましての挨拶をしたばかりで、彼女の名前も何も知らないことを思い出す。


「初めまして、橘朱里です。今日から、よろしくね! あっ……あと、ごめんね? その、……痛くなかったかな?」


 おもむろに僕の頭を綺麗な手が、さっき叩いたところを優しく撫でてくれる。背伸びしながら寄ってくる僕より背の低い彼女は、僕の肩にそっと触れた。彼女らしい華やかなシャンプーの匂いがふわっとして思わず……理性が飛んだ。


「……あ……あの、すみません……ちょ……ちょっと、失礼します!」


 そのまま、トイレに駆け込んだ。



 これが、彼女……、橘朱里と『僕』の出会いであった。



 ◇・◇・◇



 トイレから出てくると、入り口前で彼女が壁に背を預け、つまらなさそうに床を眺め、ブツブツと何事かを呟きながら僕を待っていた。


「あっ! やっと出てきた! 世羅くん!」

「あの……えっと……?」

「橘朱里」


「えっ?」と戸惑う僕に優しく微笑みかけてくれる。


「私の名前だよ? 朱里さんって呼んで! みんな、そう呼んでくれてるから」

「あ、あ……あの、朱里さん?」

「うん、朱里さん! さっきはごめんね? 初日にあんなイタズラしちゃって。新人が入ってくるのを課のみんなが楽しみにしていたの。

 ガチガチに緊張していたら、からかって緊張をほぐそうって話になっていてね。度が過ぎたわね……? 本当にごめんなさい」

「いえ、大丈夫です。あれくらいでは」

「本当? よかった。ここの人、みんないい人だから……嫌わないでね? もちろん、私も!」


 ニコッと笑って手を出してくる彼女。これからよろしくという意味を込めての握手だろう。その手を両手でしっかり握り返した。


「世羅くん、改めてよろしくね!」

「はい、朱里さん。あの……その、」

「……ん? 何?」


 僕は、勤務初日に大失敗した。なんでこのタイミングで言ったのか、僕自身でもわからなかった。

 彼女は冗談だろうと苦笑いし、僕を窘め、スタスタと振り向きもせずに居室に戻っていってしまう。


 チラッと見えた俯き加減の横顔をほんのり赤らめて……。


 その後ろ姿を見ながら、僕はその場にしゃがむ。心の中で大絶叫する。


 大バカヤローーーーー! っと。


 当たり前だがここが職場で、トイレの前で、転職初日ってことを踏まえたうえで、たった今、しでかしたこと。


 差し出された手を握り、よろしくお願いしますというつもりが、いきなり朱里に告白をしてしまった。

 会って五分も一緒にいないうちに……それも、理性を振り切った後に。


 変なものが、出ていたとしか到底思えない。


 何がでていたか……アドレナリン? ドーパミン? α波? なんでもいい……。何がでててもいいから、出社前、せめて、挨拶の前に時間を戻してくれ……!



「朱里さん、好きです。僕と付き合ってください!」


 僕を見て驚き、彼女は目をぱちくり。


 あぁ、そんな姿も可愛い。もう、どんな姿を見たとしても……僕の心は、撃ち抜かれた後なので、感覚が麻痺ちゃってる。


「冗談、やめて! 会って五分もたってないわよ! 馬鹿なこと言ってないで、ほらほら、仕事に戻るよ?」


 その場に取り残され、しぶしぶ居室に戻る。入ったところで、席に戻っていた朱里と目が合ったが、プイっと視線を逸らされてしまった。それだけで、世界が暗転するようだ。


「世羅くん、あの、悪かったね……気を悪くしてないかい?」


 肩を落とした僕を見て、上司にあたる課長の湯島が声をかけてきてくれた。

 ただ、それでへこんだわけでも気を悪くしたわけでもない。朱里に視線を逸らされたことに大きく精神を削られてしまったのだ。

 湯島には何も答えず、盛大にため息をつく。

 正直、湯島なんて見えていなかったし、全く聞こえてもいない。

 今は、『朱里さんショック』が大きすぎるのだから……他はどうでもよかった。


「朱里ちゃん!こっち着て!」


 僕の視線の先を見ていたのだろうか? 湯島が朱里を呼んだ。しぶしぶ、朱里は湯島の隣まできて、「なんですか?」ととげとげしい返事をする。

 目でずっと追っていたが、朱里の眉間にすっごい深いしわが寄っているのを見ると、怒っているような気がする。

 いや、実際、とても怒っているのだろう。びくつく僕をよそに、隣で湯島はニコニコとしていた。


 湯島課長は、朱里さんに何を言うつもりなのだろう……?


 興味はあったが、その先を聞くのが怖くもある。


「朱里ちゃん、世羅くんの教育係してくれる?」

「い・や、です!」


 まさかの即答っ! それも、かなりの強めっ! 僕の恋、終わった……。瞬殺。さっき振られたんだっけ……? 職場にきて三十分もしないうちに、もう、会社を辞めたくなったよ。


 泣き出しそうな気持を切らさないように、ぐっとこらえるしかない。まだ、今日は初日なのだからと僕は僕に言い聞かせる。


「朱里ちゃんにしては剣呑としているね? なんで? 新人教育、上手じゃん!」

「上手とかお世辞言っても、今回はダメですよ。他の人にしてもらってください! 杏ちゃんが適任だって、課長も言ってたじゃないですか!」

「そういうこと言っちゃう? はい、朱里ちゃんに業務命令。世羅くんを一人前にしてやってくれ! 男として」

「なんか、やだ。課長、それセクハラで訴えてもいいですか?」

「どこが……? 使えるようにしてくれないと困るんだよね? うちの課、人数少ないから、ほら少数精鋭で!」

「課長が人を取るのが下手なだけじゃないんですか?」

「そんなことないよ? 朱里ちゃんという大エースがいるから、ここに人が回ってこないだけ。新人教育もリーダーの仕事だから」

「体よく私に押し付けようって魂胆じゃないですか!」

「そんなことないよ?」


 明らかな言い合いが始まり、オロオロとするしかない。意外と強く課長に意見する朱里に驚きつつも、笑顔で躱していく湯島もなかなかだ。


「朱里ちゃんなら、申し分なく世羅くんを使える人材に育ててくれるだろうから、あとよろしくね!」


 湯島に僕を押し付けられ、うんざりした顔をこちらに向けてくる朱里。「そのお顔も素敵です!」なんて言ったら、たぶん、これから二度と口もきいてくれなくなるんじゃないかと思ったので、口にチャックをする。

 大事なことなので、二度言おう。口にチャックをする。なんなら、縫い付けてもいいだろう。


「先ほどは、失礼しました」


 チャックしきれない口と、嫌われたくない心が鬩ぎあって、結局、口はチャックをせず、勝手に開いてしまう。

 残念な僕の口と傷心してる僕の心、なんとか挽回したいと願う僕の恋心。が……頑張れ、僕! と、僕自身を応援する。


 はぁ……と、再度深いため息をついて僕の方を彼女がじっと見上げて来た。


「デスクは何故か私の隣にあるから、こっちよ? ついてきて。使えないと判断したら、私はOJTをすぐさまおりるから! 私、チームリーダもやっているから意外と忙しいの! ほら、ぼさっとしてないで、ちゃっちゃと動く!」


 はい! と、朱里の後ろをウキウキとついて歩く。その姿が、ご主人様とワンコの散歩みたいだと課で話のネタになり、『朱里ちゃんの忠犬ワンコ』と僕には初日からあだ名がつくことになったのだった。

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