愛の挨拶
ヴィンが好き、そう自覚するとじんわりと心があたたかくなる。そうして、少しの痛みと。
必ず帰ってくるから待っていて。そう約束したのに、もうあの時と同じ気持ちではないのだ。雛乃を待っていてくれているかもしれないのに。
それでももう、この気持ちをなかったことにはできない。
「ナギが、ヴィンとはあんな事やこんなこともするって言ってた」
気がついた時にはそう口走ってしまっていた。
「なんだそれは」
「キスだってしてたわ」
馬鹿なことを聞いている、それがわかっているのに止められない。こんなことなんて言わずに、ヴィンと楽しく話をしていれば良かったのに。
こうしてゆっくり食事を取れるのだっていつまでかわからない。果てに近づくにつれて、鳥喰草に遭遇する頻度は確実に増えているのだ。
「ナギか? 挨拶みたいなものだろう」
「あいさつ」
そう思っているのはヴィンだけなのだろうが、その言葉に少し安堵する。そしてそのことに苦笑してしまう。これではナギと一緒だ。これ見よがしにヴィンとベタベタしては牽制してくるだけ、ナギの方が清々しい。
ヴィンを見上げると、その瞳は優しげに笑みを形作っている。それだけで嬉しいという気持ちがわき上がって来た。
繋いだ手から伝わるぬくもり。それだけが心を満たしていく。そのぬくもりがあふれるように、また口が動いた。
「じゃあ、わたしにも挨拶してくれる?」
「して欲しいのか?」
どうして? とでも言いたげに首を傾げたヴィンの表情で我に返る。今、自分はなんと言った?
違うと言いかけてその言葉を慌てて飲み込む。違わない、違わないがして欲しいなんて言えるわけもないしヴィンにとっても迷惑だ。そんな相反する思いが瞬時に頭の中を駆け巡り、言葉を発することができない。
恥ずかしい。穴があったら入りたいとはこのことだ。
あまりの恥ずかしさにヴィンから顔をそらしてしまう。ほおが熱い。
「恥ずかしいんじゃないのか」
「〜〜〜〜〜〜〜ッ」
「そういえば、手を繋ぐのは平気になったんだな」
少しだけおかしそうな調子で、ヴィンが問いかけてくる。これはからかわれている、そうわかったが顔を上げられない。
キスをせがむなんて、なんてことをしたのだろう。これからヴィンとどんな顔をして話せばいいと言うのだ。
そんなことを思えば思うほど、繋いだ手が汗ばんでいく。焦りと羞恥心で、胸が早鐘を打った。
ヴィンの笑い声が頭の上から降ってくる。
「ほらヒナ。顔を上げないとなにも出来ないだろう」
「えっ、あの、いいから!」
「なんでだ」
「な、なんでって……」
心底不思議そうな声を出すヴィンをつい見上げ、目が合った。
吸い込まれそうな紅玉の瞳。その瞳に囚われてしまったかのように身動きが出来ない。
ヴィンの手がそっと雛乃の背に回され、優しく身体を抱き寄せたかと思うとほおに熱が宿った。その熱に鼓動が暴走したかのように走り出す。
「上手く挨拶できたか?」
耳元で囁いてきたヴィンの吐息で背筋に震えが走る。
なにも考えられない。ただただ身体が熱くてくらくらする。
「あっ……う、ん……」
「そうか、それは良かった」
ヴィンの手が優しく雛乃の髪をなでた。その感覚に全身をむず痒いような、それでいて決壊するダムのような荒々しい波が広がる。
ほおとほおが触れ合った。ヴィンの腕に力がこもる。髪からなぞるように降りた手がほおを包んだ瞬間に、雛乃の視界と唇が塞がれた。
(え……?)
ほおに感じるヴィンの手のひらの熱とは別に、雛乃の口をなにかが塞いでいる。そこから流れ出る波が思考回路をショートさせた。頭の中が真っ白になる。胸の奥が疼いて、まるでめまいのように平衡感覚が消え失せる。
今、立っているのだろうか。それとも倒れているのだろうか。自分の足はどこにあるのだろう。
身体が消えてしまったかのような錯覚、それなのに唇から入り込んだ熱が全身に流れていくのだけがリアルに感じられる。
離れてはくっつき、また優しく熱を移す。世界は消え、雛乃の感覚だけが残る。そのことに怖くなり、どこにあるかもわからなくなった腕を必死で動かそうと試みる。
その手をヴィンがにぎった。
「前に、楽園がどうにかなるまでは帰らないと言ったな」
熱い息が鼻先をかすめ、また唇から熱が入り込む。その熱に浮かされて上手く考えが回らない。
そう、帰りたくない。ヴィンが、楽園が助からないかもしれないと思いながら別れるなど辛すぎる。自分の気持ちを自覚し、今こうしてヴィンの熱を感じているのだからなおさらだ。
ヴィンたちが死ぬかもしれない、そう思いながら帰るなど、そんな残酷な話があるだろうか。
「頼む、帰ってくれ。ヒナが帰ることが俺たちの、いや、俺の希望なんだ」
「ん……っ、ヴィ……な……でっ……」
答える間は与えられない。次々と降る熱に胸が苦しい。
どうしよう、なにも考えられない。
「お願いだ。生きてくれ、俺のために」
「いや……ヴィン……」
荒れ狂う波に押し流されそうになりながら、必死で思考をかき集める。
ヴィンと一緒にいたいのに。
叶えられない願いなら、どうしてヴィンはこんなことをしてくるのか。まさかこれも挨拶とでも言うのだろうか。
(こんなの、ひどいよ……)
雛乃の心が楽園に残ってしまう。ヴィンが言う通り帰ったとしたら、雛乃はずっとそのことで苦しむに違いなかった。
大人になっても、もしかして誰かと結婚しても、そして死ぬ時まで。この熱を思い出しては後悔するのだろう。
「ヒナは無事に帰ることだけを考えて欲しい」
「ずるいよ」
「そうだな」
帰りたくない。この手を離したくない。
その気持ちが胸を渦巻き、鈍痛のような錯覚を覚える。
わかっている、ヴィンは鳥で雛乃は人間だ。住む世界も違う。雛乃はこのままなら近い将来命がなくなってしまうのだ。
それでも、それだからこそ、一緒にいたかった。
「いや……」
ヴィンの首に腕を回す。
生きて欲しいと思うなら、雛乃がヴィンにも同じ気持ちでいることくらいわかるはずだ。ヴィンが生きてくれなければ嫌だ。たとえ別れが来るのだとしても、楽園で元気に生きているのだと思えることがどれだけ救いになるか。
ヴィンの唇が離れ、その腕が再び雛乃を抱きしめる。触れ合ったほおが熱い。
「わたしが無事に帰れたら、ヴィンは嬉しい?」
「ああ」
寂しくなる、帰らないで欲しいと嘘でも言って欲しかった。そんな気持ちでした質問に、自分で打ちのめされる。
そうだ、そんなはずはない。
「嬉しいな」
「そう。ありがとう」
雛乃がいる限り、ヴィンは雛乃を守ろうとしてはくれるのだろう。だがそれは、同時にヴィンの戦力を大きく欠くことでもある。
ただの足手まといでしかないのだ。
それならば、すっぱり諦めて帰ったほうが絶対にいい。帰れればの話だが。
「絶対に帰してやるさ」
ほほ笑んだヴィンに、雛乃は黙って頷いた。そうだ、それで納得しなければいけない。彼らの負担を減らすのが、雛乃にできる精一杯の手伝いではないか。
ヴィンのほおが離れる。
紅玉の瞳が雛乃を真っ直ぐに見つめている。
鋭くて、それなのにその瞳は、雛乃には果てしない優しさに見える澄んだ色。
「なんでこんなこと……」
「俺がそうしたかったからだ」
「それって、んっ……」
どういう意味なのと聞こうとして、その口はまたヴィンの唇で塞がれてしまう。
胸が熱く高鳴り、意識が押し流される。
どうしようもなく熱く、頭が痺れたようになにも考えられない。ただヴィンの体温だけが感じられるものの全てだった。
(ヴィン……‼︎)
それはこれまでの人生のどの瞬間よりも激しく雛乃の感情を揺さぶる。この瞬間が、あまりにも幸せに感じられ、知らず涙がひとすじこぼれた。
別れなど考えたくない。今この瞬間だけでも、ヴィンだけを感じていたい。
ヴィンの首に腕を回す。一度離れ、再びくちづけを交わす。その温度に身体が溶けていった。
それはあまりに甘く苦しく、そして幸福な時間。その幸せが胸に満ち、そこにとどめておけずに全身へ広がった。何度も何度も。
胸に宿った熱が雛乃を変えていく。
(このまま時間が止まればいいのに)
それは叶わない願い。
はっとヴィンが離れ、雛乃の手をつかんだ。それと同時に大きな羽音がして雛乃の身体が宙に浮く。
そのまますっと上空へ上がると、ヴィンの瞳が下を向いた。周りに光の玉が幾つも現れそれはすぐに電撃へと変わった。
鳥喰草がいるのだ。
もっとヴィンを感じていたかった。でも、それは鳥喰草がいなくてもいつかは終わることだ。そう自分に言い聞かせてヴィンと繋いだ手に力を込める。
雛乃は、楽園の果てへと行かなければならないのだから。
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