鳥喰草
「どうした?」
「ううん、なんでもない」
滝壺に降りたとたんに、雛乃の顔をヴィンが覗き込む。至近距離で見られたことに慌てて、髪をとかすふりをして顔を隠す。
一面が桜色の花。よく見ると桜の花とは形が違うが、遠目から見るとそれはやはり満開の桜のように見えた。
「悲しい、のか?」
悲しい。そうなのだろうか。
そうだ、もちろん悲しい。どこかもわからない場所で、帰れるかもわからないのだから。
それでも、雛乃の胸に広がったのは、悲しいというよりは胸が締め付けられるような切なさだった。
雛乃は特別に桜の花が好きというわけではない。それでも、やはり満開の桜は綺麗だなと思うし、心が踊った。毎年、そこかしこで咲く桜が楽しみだった。
病院のベッドの上で過ごすようになってからは、なおさら。
元気になったらお花見に行けるかな? ベッドの上でスマホゲームにログインし、ゲーム内の友達にそんな話をした。
元気になったら、どこへだって連れて行ってあげるよ。そう言ってくれたのが嬉しくてたまらなかった。だから、絶対に元気になって帰るから待っていてねとお願いしたのだ。
彼は、今も待ってくれているのだろうか。一向にログインしないままの友達を。
「なんか、この花が桜に似てて……」
「ヒナの世界の花か?」
「うん」
ひらひらと風に舞い散る花びら。それが水飛沫と合わさってまぶしいくらいに光って見える。
それは、雛乃が元気になったら見たかった光景だ。
「無事に帰れるといいな」
低く優しい声がそう言って、雛乃の頭をなでる。その感触に、また言いようのない切なさが込み上げた。
どうしてヴィンは見ず知らずの自分にこんなに優しくしてくれるのだろうか。手を握っていてくれるのだろうか。鳥喰草のはびこる果てへと行くような危険を冒してまで。
「向こうにはヒナの仲間がいるのか?」
「うん、そう。わたしみたいに」
飛べない人だけだけどと続けようとした声は、急にヴィンに抱き寄せられてかき消える。
突然のことにまるで血が沸騰したかのような感覚に襲われ、めまいを覚えた。なにがどうなって抱き寄せられたのか理解できない。
見上げたヴィンの双眸は、怒りにも似た険しさで辺りを見回している。その鋭さに息を飲む。一気に熱が冷めた。
(え、待ってもしかして)
その瞳は雛乃を見ているわけではなかった。満開の花の奥になにかを探している様子だ。
そして次の瞬間、ヴィンの喉から太く大きな鳥の鳴き声が発せられた。そのあまりの音量に驚いて空いた手でヴィンにしがみつく。
なんと言っているのかはわからない。それでも、その声は雛乃に恐怖を抱かせるには十分だった。教えられなくてもわかる警告音。
二度、三度と鳴いてヴィンが翼を広げた。
「くそッ、鳥が襲われている」
なににとは言われなくてもわかった。鳥喰草に、だ。
遠くで鳥の鳴き声がし、次々に花の中から鳥が飛び立つのが小さく見えた。その鳥達は皆、一心不乱に翼を上下させ逃げ惑うようにあちこちに飛んでいく。
「飛ぶぞ!」
「ひッ」
雛乃の腰をヴィンの左手が抱き寄せた。そのまま小脇に抱え込むようにして地面を蹴る。悲鳴も出せないくらい勢いよく上昇し、木々の上に出た。
霞むような一面の桜色の絨毯。その中になにかが蠢いているのが微かに見える。
つんざくような鳥の鳴き声が鼓膜を打つ。それが雛乃には、人間の悲鳴のように聞こえて、恐怖が膨れ上がった。思わずヴィンの胴に腕を回ししがみつく。
思い出すのは、自分が鳥喰草に喰われそうになったあの瞬間。
花の中に見え隠れする緑の巨大な蔓。そして枝分かれした無数の蔓の先に付いた大口。
それはまるで神話で読んだ八岐大蛇を思わせる動きで、本能的な恐怖を抱くには十分だった。
「ヒナ、動くなよ‼︎」
返事は出来なかった。ヴィンの翼が風を切る。風が耳朶を打ち、乱れた髪が視界を覆った。それでも急下降していくのがわかり、ヴィンにしがみつく手に力がこもる。
翼が力強く羽ばたく音。増していくスピード。一気に髪が巻き上げられて視界が復活した。
そこに見えていたのは、鳥喰草の口。そして、そこにがっちりと喰い付かれた白く大きな鳥の姿だった。
雛乃よりも大きいだろうその鳥は、さらに大きな鳥喰草にまさに喰われているところだった。だらりと垂れ下がった頭が咀嚼に合わせて上下に揺れた。
悲鳴を上げる余裕はなかった。その側をかすめて飛んだヴィンが急旋回し、あっという間にそれは視界から消え去る。襲われた鳥から遠ざかっている、そう気がついたものの雛乃にはどうすることもできない。
「ヴィン‼︎ 鳥が、あの鳥‼︎」
「手遅れだ。もう一羽を助ける」
「そんな‼︎」
もう一羽襲われている。そのヴィンの言葉に呼応するかのように、鳥の悲鳴が続け様に上がった。
まだ生きている‼︎
雛乃を抱えるヴィンの腕に力が込められたのがわかった。それと同時に、まぶしい光がすぐ側で弾けた。
ヴィンの空いた右手が発光している。その光は細長い棒状に伸び、その姿を固定した。
脳裏に、自分の胸に刺さった光の矢が浮かぶ。あの矢が刺さったことで、雛乃はヴィンの命をもらい希薄だった存在を定着させることができたのだという。
とすれば、今ヴィンの手の中にある光の棒も、彼の命を使っているのではないのだろうか。
眼下の桜色が弾けた。花びらが大量に舞い、その中から鳥喰草が姿を現す。その口には、白鳥ほどの大きさの黄色い鳥。悲鳴を上げながらばたつくその鳥の片足は、鳥喰草に喰いつかれている。
急下降。ヴィンの手の中の光の棒が形状を変え、太くそり返った刃物状になったのが見えた。
振り上げられた刃が、加速したスピードを乗せて鳥喰草の蔓をなぎ払う。蔓を切断することはできなかったものの、切られたことで鳥喰草が大口を開き、鳥は懸命に羽ばたいて上空へと逃れ、ヴィンも大きく鳴き急上昇していく。
「よかった……!」
遠目に上空を旋回する黄色い鳥の姿。怪我はしているだろうが、ひとまずは助かったのだ。
そのことに安堵するとともに、助けられなかった白い鳥の姿が脳裏に浮かんだ。だらりと垂れ下がった頭が揺れる様子が頭の中をぐるぐると回る。
鳥を喰う、それを現実に見せつけられるとやはりショックだった。ペットを飼ったことはないが、動物は好きな方だ。事故にあったとか、病気で死んでしまったと聞くだけでも悲しい気持ちになる。普段鶏肉だって食べるが、その命を奪うシーンは知らないままだし、頭ではわかっていても見たいという気持ちにはならない。
良くも悪くも、平和な日本でなにも気にせずに暮らしていた証だろう。
「この島もだめか……くそッ」
吐き捨てるようなヴィンの声。
怒りに燃える猛禽の双眸が、眼下の鳥喰草を睨みつける。ふわりとその場で止まったヴィンが右手を掲げた。それと同時に二人の周囲に無数の光の玉が出現し、バチバチと音を立てながら電流を放ち出す。真下には鳥喰草。
「くそたったれがぁッ‼︎」
勢いよく振り下ろされた腕の動きに合わせて、空気が震え無数の電撃が地上へと降り注いだ。轟音を上げながら鳥喰草もろとも木々に大地に穴を開け花びらを舞い上げていく。
そのあまりの激しさにぎゅっと目をつむる。背筋を恐怖が這い上がった。こんな力を持っていたなんて。こんな力を行使できてしまうなんて。
音が止んでからも、目を開けられない。ヴィンに縋り付いていた腕の力の抜き方がわからず、さらに力を込めてしまう。そこで初めて、雛乃は自分が震えていることに気がついた。
怖かった。鳥喰草も、ヴィンの力も。
「すまない」
ヴィンの手が雛乃の髪をなでた。その感触は優しい。
そっと瞳を開くと、眼下では至るところで煙が上がっていた。炎は見えないが、木々が焼けているのが遠目からもわかった。そして、その中に鳥喰草の巨体が含まれていることも。
そっと見上げたヴィンの表情は引きつっている。それはまるで、泣くのを我慢しているかのような……。
(そうよね、仲間が、死んでしまったんだわ)
襲われた鳥は、力を持たない鳥。そしてヴィンは力を持つ鳥。だけど、どちらも鳥なのだとヴィンは言っていた。もしかしたらそれは、雛乃にとっての外国人みたいなものなのかもしれない。そう思えば悲しむのは当然だ。
二度、三度と髪をなでてくれる温もりに、雛乃の力もようやっと抜け震えがおさまる。それでも、ヴィンに回した腕を解く気にはなれなかった。
ヴィンが悲しんでいる。それが雛乃に今わかることの全てだ。
なにか言いたいけどなにも言えず、ただヴィンの背をさする。彼が雛乃の髪をなでてくれたように。
それで元気になるとは思えないが、気持ちが少しでも落ち着くように。
そっとヴィンの胸に身を寄せると、その奥の鼓動を感じた。少しだけ早い、規則的なリズム。ヴィンの生きている証。
「怖がらせて本当にすまなかった」
「ううん、そんなことない」
怖くなかったと言えば嘘だ。雛乃にとってはあまりにも非現実的すぎた。それでもこれが、この楽園では現実なのだ。
ヴィンはきっと、こんな辛い思いをたくさんして来たのだろう。
「一度下に降りよう。あの鳥を治療する」
治療が必要そうな鳥といえば、さっき足を噛みつかれていたあの黄色い鳥だろう。治療ができるのならば早くしなければ。
ヴィンが右手を差し出し、その手をにぎる。そしてどちらからともなく、お互いの身体に回していた腕を解放した。並んで飛べるように手を繋ぎ直す。
一瞬雛乃へと顔を向けて口角を上げたヴィンは、そのまま前を見てすっと滑空を始めた。飛びながら少し長めの声で鳴き、その後にさえずった。それに答える鳴き声が、今度は雛乃の耳にも聞こえた。
行き先へと目を向けると、最初に降り立った滝壺のようだ。
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