第二章 楽園と鳥喰草
お日様の匂い
鳥のさえずりが聞こえる。瞼の裏はうっすらと光を映して、今が朝であることを告げていた。
いい匂いが鼻腔をくすぐり、雛乃の意識がそちらへと吸い寄せられる。なんとも形容しがたいが、それなのに知っていると感じる香りだ。
身体がぽかぽかする。そうだ、これは。
(お日様の匂い……)
腕を伸ばそうとすると柔らかいものに触れた。ほら、やっぱりふわふわの布団だ。
あたたかくて気持ちいい。ずっとこのままだったらいいのに。
目覚めたくない。そんな気持ちがよぎり、それとは裏腹に意識が急速に醒めていく。抵抗するように布団を抱きしめようとして、布団ではないものに触れる。それにほおを寄せると、じんわりとした熱を感じた。
(なんだろこれ、あったかい。いい匂い……)
そっと目を開く。一番に目に入ったのは、肌色の……そこまで考えて一気に眠気が吹き飛んだ。肌色なのは当然だ、それはヴィンの胸なのだから‼︎
昨晩の記憶がまるで走馬灯かのように頭をめぐり、慌てて身体を離そうとして不意打ちのように横たわった美貌の男と目が合う。
短い悲鳴を上げて立ち上がろうとし失敗した雛乃をヴィンの腕が捕らえた。そのまま胸に引き寄せるように押さえる。
またしてもほおがヴィンの胸板に当たり、さらに悲鳴を上げてしまう。寝起きにこれは刺激が強すぎる。
(わ、わた、わたしの心臓が保たない……ッ‼︎)
ヴィンにしてみればなんでもないことなのだろうが、雛乃はヴィンとは違う。日本で生まれ育った女子高生だ。挨拶がわりにハグやキスをするお国柄でもない。彼氏だってまだできたことがない。
それなのに、肌を露出した男に抱かれているのがもう無理な話だ。露出したと言うよりも、そもそも彼は全裸なのだ。
「落ち着け、鳥喰草はいない」
そうじゃないと盛大に突っ込みたかったが、声はのどにつかえて出て来なかった。身体が強ばる。
急に大人しくなった雛乃に、やっとヴィンの腕が解ける。また捕まえられるとさすがに生命の危機を感じざるを得ないと判断し、なるべくゆっくりを身を起こしヴィンから少し離れて座った。
それを見届けるようにしてヴィンも起き上がり、雛乃のために下敷きにしてくれていた翼を大きく何度かその場で羽ばたかせて背にたたんだ。ゆっくりと立ち上がる。
日はすっかり昇っている。ヴィンから離れても、全く寒くない。さりとて暑くもなく、絶妙にちょうど良かった。
「眠れたか」
「う、うん」
恥ずかしさに目をそらし、うつむきながら頷く。今まで目を醒ましもしなかった。それだけぐっすりと眠っていたのだろう。
ヴィンはずっと雛乃をあたためてくれていたのだろうか。おそらくそうなのだろう、雛乃は凍えていなかったのだから。
そう思うと、悲鳴を上げてしまったのは申し訳ない気持ちになった。その悲鳴を、ヴィンは勘違いしていたようだが。
「そうか」
満足そうに頷いたヴィンが、手を差し出す。その手に引っ張られて、雛乃もようやっと立ち上がった。
大きく伸びをして、胸いっぱいに空気を吸い込む。
途端に、雛乃のお腹の虫が大きく鳴いた。
「お腹空いたな……」
そう言えば昨日はなにも口にしていない。お腹が空いたなんていう感覚もなかった。それだけ気が張っていたのかもしれない。
その反動なのか、またしてもぐうとお腹が鳴る。
「食べるものか。……ヒナ、来い」
そう言ったヴィンが踵を返し、鳥喰草がいるかもしれない森の方へ向かって歩き出す。
その背を慌てて追いかけると、歩きながらヴィンはふり返った。無言で雛乃へと手を差し伸べる。その顔はかすかに口角が上がっていた。
小走りになりながらその手を取ると、ヴィンの背で翼が大きく広がった。
「鳥喰草の気配はわかる。あいつらの気配を察知する能力は、鳥の中で俺が最も優れている。安心していい」
「そ、そか。頼もしいな」
「飛ぶぞ」
短い声とともに、ふわりと雛乃の身体が宙に浮く。大きな羽音が二人を前へと押し出した。
そのまま流れるように風に乗り、木々のすぐ上を飛ぶ。緑が流れ、目の前に広い川が姿を現した。そのまま川にそって少し飛び、すぐに下降の体勢へ。川沿いの木の根元へと降り立つ。
日差しが揺れ、爽やかな風がほおをなでた。
「わぁ、これ!」
ヴィンに説明されるまでもなく、その川沿いの木々には黄金色の果実らしきものが実っていた。雛乃の背でも腕を伸ばせば十分に手が届くくらい低い位置にもしっかりと実っている。
「食べられるの?」
「ああ。汁が多いから気をつけろよ」
そう言いながら腕を伸ばし、雛乃の手に果実を一つ乗せてくれる。手のひらにすっぽりと収まるほどの大きさで、皮は黄金色。つるっとした張りのある皮だ。少し違うが、りんごの皮が雛乃の知るものの中では一番近い気がした。
どうやって食べるのかと逡巡していると、隣でヴィンが果実をほおばった。皮ごと一気にかじりついている。
それに安心して、雛乃も皮の上から歯を立てた。
最初に感じたのは、ぷつんと皮に穴のあく感触。次の瞬間、張りのある皮とは裏腹な柔らかい感触が続き、口の中に甘い果汁が一気に流れ込んだ。
瑞々しい芳醇な香りが胸いっぱいに広がる。
「なにこれ美味しい……‼︎」
お腹が減っていたというのもあるが、おそらくこれは空腹でなくても次々と手が延びる。まるで高級なももを食べているかのような芳醇さだ。
それほど大きくないところも次に手が延びる要因だろう。
あっという間に果実は雛乃の胃の中に消えた。
「もっと食べていい?」
「ああ」
ヴィンが目を細めて頷く。その優しげな表情につられるように、雛乃の口角も自然と上がった。自分で腕を伸ばし、下の方の果実を一つ取る。
口に含んだそれは、やはり甘くてとろけるように美味しい。
そうして二個目を食べ終わる頃だろうか。
「近くに仲間がいる」
不意にそう言ったヴィンが上を見た。つられて雛乃も上を見上げるものの、木々と青空以外になにもない。
しばらく空を見ていたヴィンが、なにか言いたげに口を開いた。
その口から出てきたのは、美しい鳥のさえずり。
(うそ。ヴィンが、さえずって、る……?)
まさか他の鳥がいるのかときょろきょろと周囲を見回すが、それらしき鳥の姿はない。
対してヴィンののどは小刻みに動いている。その動きは、さえずりの調子と完全に一致していた。
美貌とはいえかなり男性的な容姿のヴィンが、高い声でさえずっていることに混乱する。ヴィンは自分を鳥だと言っていたし、翼や羽毛、かたい鱗があるのも鳥の特徴ではある。それでも人のように喋るし、その声は低いから、さえずるなんて考えもしなかった。
目を閉じて聞くと、それは可愛らしい小鳥のようにさえ思える。
そういえば目覚めた時も鳥の声が聞こえてはいなかっただろうか。はっきりとは覚えていないが、その時の鳥の声もこんな感じだった気がする。
納得し、雛乃はひとまず三個目の果実へ手を伸ばす。ヴィンはしばらくさえずった後、何事もなかったかのように果実を食べ出した。
「ヴィンって鳥の声も出せるのね」
「? どういう意味だ。鳥なんだから当然だろう」
「そうよね」
だって言葉を喋るじゃないとか、上半身は人間に近い姿をしているとか、そういうことを並べても無駄に思えて首を振る。
そうだ、ヴィンは自分のことを人だと言ったことはない。雛乃から見て人っぽくても、彼の中で彼は鳥でしかないのだ。
「お前はさえずらないのか?」
「そうよ」
「そうか。なら遠くの仲間と連絡を取ったりしないのか。不便だな」
人間には電話があるけどとは言わない。言っても無駄だろうし、説明できる自信がなかった。
それよりも、さえずりは遠くの仲間と連絡を取る手段だということに驚く。そんなに遠くへ声が届くのだろうか。
(鳥……不思議な生き物……)
三個目の果実を食べ切ったところで、空腹がおさまったことに気が付く。量としてはさほど食べていないが、不思議と今はもうこれ以上は必要ないと思えた。
「三個も食べたのか。それでこそヒナ鳥だな」
「ヴィンは? まだ一個しか食べてないよ、わたし待ってるから食べて」
お腹が空いていたとは言え、だいぶがっついてしまったことに少しだけ羞恥心がわいた。それをごまかすようにヴィンを促す。
ヴィンは雛乃よりもだいぶ体格が大きい。一個しか食べないのはさすがに少なすぎる気がする。
「いや、もういい。それは一個食べれば明日までなにも口にしなくても大丈夫だ。赤い実は少し物足りないから二、三個食べるがな」
「一個で、丸一日?」
なんというか、食べ物の常識まで違うようだ。確かに、あんなに美味しかったものの四個目に手を伸ばす気にはなれない。口に含めば確実に美味しいのがわかっているし、おそらく食べ切ることは可能なのにだ。
ヴィンに促され川で手を洗いつつ、改めてここが雛乃の知る世界とはなにもかもが違うことを再確認する。
「さ、行くか」
差し出されたヴィンの手をにぎる。それはやはり雛乃の心臓の鼓動を早めたが、なんとか落ち着いていられた。
ヴィンの翼が広がり、飛び立とうとしたその時。
二人の上に大きな影が落ちた。
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