第7章  2013年 プラス50 – 始まりから50年後 〜 1 平成二十五年(7)

 1 平成二十五年(7)

 



 ある夜、ふと目が覚めて隣を見ると、また節子の姿がどこにもない。

 最近は万一のために間接照明は消さないから、寝室に誰もいないことは間違いなかった。慌ててベッドから飛び下りようとすると、それを制するように突然声が響き渡った。

 ――あんたはだれだ。

 きっとそんな感じだろうが、剛志には叫び声としか聞こえない。

 しかし続いた掠れた声で、やはりそうなんだろうと知ることができた。

「すぐに、ここから出てってよ、じゃないと殺す、わよ……」

 一転して静かな口調だが、その顔は真剣そのものだ。さらにその言葉が嘘でないのは、固く握られている刺身包丁によってどうしたってわかる。

 節子が、開け放たれた扉の向こうに立っていた。

 ――俺を忘れてしまった?

 疑念、驚きを抑え込み、できるだけ普通に「節子、どうしたんだよ」と剛志は言った。

 ところがまるでうまくないのだ。

「節子って誰よ! あんたは何者?」

 ――自分の名前も、忘れちまったか?

 衝撃だった。

 いずれこんな日が、とは覚悟していた。

 それでもまさかこんなに早く? さらに自分の名前まで忘れるなんて、まるで予想していなかったことなのだ。

 ――直近のことから忘れていきます。そして少しずつ、昔のことも忘れていって……。

 こんな医者の言葉は嘘だったのか!?

 腹立たしさを思った途端、こめかみ辺りが「ジン」と鳴った。いかん! と思った時には顔の中心がカアッとなって、いきなり視界が揺らぎ始める。

 何か、言わなければ……と焦れば焦るほど、涙が溢れ出て止まらない。

 それでも、剛志は目を開けていた。頼む、頼むと念じながら、必死に節子を見つめ続けた。

 智子を二度も失った。十六歳で失って、三十六でも智子はマシンとともに消え去った。それから彼女の死を知って、実際剛志は三度も智子を失っている。

 ――なのにまた、節子もいなくなってしまうのか……?

 ――頼むから、そんなことしないでくれ!

 剛志は誰かに向けて必死に祈り、ただただ節子を心に思った。

 そうするうちに、節子も何かを感じたのか? 顔の強張りがフッと解け、不安そうな印象だけがその顔に残った。

 すかさず無理やり笑顔を作り、剛志はこぼれる涙を必死に拭き取る。

 ――僕は何もしないよ。だから、安心して……。

 そんな印象を全身全霊で訴えた。

 すると驚くくらい唐突に、スッといつもの節子が現れる。

「あなた、何?」

 不思議そうな声を出し、剛志を今見たばかりのような顔をした。

 それでも節子は、剛志のことを「あなた」と呼んだ。

 さらにきっと、手にあるものを知ってはいない。

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