第7章  2013年 プラス50 – 始まりから50年後 〜 1 平成二十五年(6)

 1 平成二十五年(6)

 



 そう言われてやっと、先に家に入った節子のことが心配になった。しかしなんとも不思議なことに、そこからの節子は以前通りの彼女なのだ。

 汚れた足をきちんと洗って、いつもと同じ笑顔で剛志に向けてこう言った。

「わたし、もしかしたら夢遊病なのかしら? 今朝起きたらね、足の裏が泥だらけで、ホント、驚いちゃったわ」


                 ✳︎


「ここってずいぶん、殺風景なところよね……」

 きっとそう言いながら、ここはどこなんだと探っている。

「まあ病院なんて、どこもこんなもんさ。ここはそれでも絵が飾ってあったり、けっこう気を遣ってる方じゃないかな?」

「そうね、そうよね、病院なんだから、殺風景くらいがちょうどいいわよね」

 こんな会話が繰り返され、そのたびに、彼女はここが病院と知って安堵の顔を見せていた。

 病院にいるのを忘れるんだから、人間ドックのことだって忘れているはずだ。なのに、どうしてここにいるかは聞いてこない。

 きっと病院にいる理由より、今いる場所を知らない方がよっぽど不安なのだろう。

 そうして病院にいると知り、しばらくの間は落ち着いている。

 ところがそんなのも数分だ。またなんとなくソワソワし始めて、

「ねえ、もう帰りましょうか?」

 いかにも真剣な顔を向け、帰りたいという意思を告げてくる。

「人間ドックはね、けっこう時間かかるんだよ。だからさ、もう少し我慢して、僕に付き合ってくれるかな……」

「そうね、そういうものよね。人間ドックか、それじゃあ、しょうがないか……」

 きっと旅行などの場合なら、互いの格好や持ち物などですぐにそうと知れるのだ。もちろん住み慣れた自宅なんかにいるのなら、それはなおのことだろう。

 ところが病院にある検査待ちブースとは、見事なまでに殺風景な空間だ。

 だから彼女の不安はいつも以上に高まっただろうし、そのせいでより強い症状が出たのかもしれない。

 とにかくあの朝の出来事以降、剛志はできるだけ節子と一緒に過ごすよう心掛けた。するとそれまで気づかなかったのが不思議なくらいに、チョコチョコとおかしな言動を繰り返すのだ。そんな時間を過ごすたび、彼は心の底から願うのだった。

 ――頼む! 病気でもなんでもいいから、せめて、治せる病であってくれ!

 ところがそんな切なる願いも、検査結果によって見事なまでに崩れ去った。

 アルツハイマー型、認知症……。

 そう告げられた病名こそ、剛志が一番恐れていたものだった。

 一度アルツハイマー病が発症すれば、治療といっても進行を遅くするくらいがせいぜいで、いずれ何もかもわからなくなって死に至る。あっという間に進行するケースもあるらしいが、発症して十年、二十年後も生存している人だっている。

 ただ実際、発症後二十年も経ってしまえば、生きる屍のような状態になるのが普通だという。

 ショックだった。

 そう遠くないうちに、剛志のことだって忘れ去ってしまうのだ。

 いずれ身の回りのことができなくなり、己の感情さえ捨て去っていく。終いには寝たきりになって、あとは死を待つだけという感じだろうか……。

 そうして検査結果が出た途端、唯一の治療薬だと言われ、病院である薬を処方された。

 ところが飲み始めてからすぐに、ちょくちょく失禁するようになる。それどころか日に日に、節子らしくない乱暴な言動が増えていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る