第7章  2013年 プラス50 – 始まりから50年後 〜 1 平成二十五年(8)

 1 平成二十五年(8)

 



 剛志はベッドから飛び下りて、剥き出しの包丁を節子の手から奪い取った。そのままキッチンまで走っていって、流しに包丁を放り込む。そうして何事もなかったように、彼は節子のもとに戻ったのだ。ところがその時、剛志の姿を目にした途端、節子は再び大声をあげた。

「ちょっと! あなたどうしたの!?」

 叫ぶと同時に剛志の右手をつかみ上げ、慌てて彼の掌に顔を寄せた。

 節子から包丁を抜き取った時、わずかに見えた柄の部分をつかんだのは間違いない。

 ところがそのまま引っ張って、あごの部分から刃元辺り――刃渡りの柄に近いところ――が当たったか? 節子のつかんだ手は真っ赤に染まって、床にポトポト血が滴っていた。

 そしてその翌日、節子を連れて、いつもの病院で手の具合を診てもらった。

 すると節子が叫んだ通りに、縫わないとくっつきゃしないとさんざっぱら脅される。

「ダメよ、こんなに深くちゃ縫わなきゃダメ、すぐに病院に行きましょう!」

 夜中であると知ってか知らずか、節子は剛志にこんな大声を出したのだ。

 結果、親指の付け根辺りを十針ほど縫って、包帯で右手をぐるぐる巻きにされる。そんな状態で診察室を出た途端、二人にいきなり声がかかった。

「岩倉さん、じゃないですか?」

 声の主はご近所に住むご婦人で、節子があの屋敷に住み始めた頃からの知り合いだ。

 剛志はまだかかりそうだったので、二人は喫茶室でおしゃべりしながら待っているということになる。多少心配だったがダメだなんて言えない。結局二人を見送って、剛志は一人、痛み止めやらなんやら処方箋が出るのを待ったのだ。

 掲示板の数字が何回か変わって、やがて剛志の手にある札番号が表示される。なんだかんだでもう昼近く、剛志はやれやれという印象いっぱいに立ち上がった。

 この時、遠くで誰かが手を挙げたのが目に入る。それも白衣姿で、その立ち姿は記憶にあるような人物ではない。

 ――誰か、後ろにいるのか?

 そう思って後ろを見るが、居眠りをしている老女がたった一人いるだけだ。

 再び前を向けば、さっきの人物が明らかに、剛志目指して近づいてくる。そして少し離れたところで立ち止まり、彼を覗き込むようにして意外な言葉を口にした。

「名井さんじゃありません? ほら、わたし広瀬です。広瀬正ですよ、名井さんでしょ? わたしのこと、覚えてませんか?」

 広瀬正? 確かSF小説家にそんなのがいたな? なんてことをちょい思うが、少なくとも岩倉と呼ばないってことは、あの事故より前に出会ったのかもしれない。

「わかりませんか? そうですよね、あの頃わたしは三十にもなっていなかったし、それが今や還暦にあとちょっとなんだから、まあ、わからなくても無理ないか……」

 そう言われてやっと、以前ここに入院していたのが、三十年くらい前のことだと思い出した。

「あ、昔、わたしが入院してた時の……」

 だからいったいなんなのか? 剛志はなんにもわかっちゃいない。

「そうですよ。ほら、名井さんが目を覚ます時、わたしがあなたの名前を呼んだんですよ。確かあれは……昭和四十八年、でしたよねえ~」

 そう言って、男はなんとも嬉しそうな顔をした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る