第5章  1973年 プラス10 - 始まりから10年後 〜 3 名井良明として(3)

 3 名井良明として(3)

 



 もし、これが節子でないと言うのなら、それこそ剛志の頭はおかしくなったのだ。

 ――でも、どうしてだ……?

「どうしてって? こっちこそ驚いちゃったわよ。見たことのある人が電話ボックスに入ったって思って、まさかねえ~なんて考えながら近づいていったの。そうしたら、ホントに名井さんなんですもの……こんな偶然って、滅多にあることじゃないと思うわ……」

 行きつけだという寿司屋に入って、席に座るなり節子がこう言ってきた。

 その日彼女には、多摩川の川っぺりにちょっとした用事があったらしい。そんなのを終えてバスの停留所に向かう途中、ふと向けた視線の先に思わぬ姿を発見した。

 しかし節子は、河原なんかにどんな用事があったのか?

「なんてことのない恒例行事なの……でも、本当にお話しするようなことじゃないんですよ。昔ね、そう、ちょっとした思い出があそこにはあって、ただ、それだけなんです。でも、そんなことより、本当にお会いできてよかったわ。わたしの方から電話するのも押しつけがましいし、名井さん、あれからぜんぜん連絡くださらないから、どうしてるだろうって、けっこう心配していたんですよ……」

 こう聞いた途端、自分がした質問のことなど剛志は一瞬で忘れ去った。

 連絡くださらない――この部分だけが頭で何度も繰り返される。そうしてきっと、そんな嬉しさのせいだろう。つい、口にした言葉が悪かったのだ。

「よし、今日は久しぶりに、冷酒でも頂こうかな」

 以前の剛志なら、昼間っから日本酒などは絶対に飲まない。

 飲むにしたってビールか酎ハイ、ハイボールくらいがせいぜいなのだ。ところがついつい嬉しくなって――もしかしたら、店内の佇まいに影響されたのかもしれないが――冷酒を飲み始めたのが間違いの元だった。

 ふと気づけば、そこそこ酔いが回っていて、

 ――このまま、帰りたくない!

 そんなことを強く思ったと思う。そしてもう一軒と節子を誘ったまでは覚えているのだ。

 ――あれは、どこだった? 差し向かいで……まさか、個室だったか……?

 二人して、呼び止めたタクシーに乗り込んだのもなんとなくだが記憶にあった。

 ところが行った先を覚えていない。正面に節子が座って、自分だけ酒を呑んでいるイメージだけが微かにあった。

 ――俺が節子さんを、旅館に連れ込んだなんてことが、あり得るだろうか?

 そんなことを思った途端、再び強烈な吐き気が舞い戻ってくる。

 剛志は慌てて身体を起こし、必死になって吐き気に耐えた。それからゆっくり胡座をかいて、再び辺りを見回してみる。

 するとさっきまで暗かった空間が、知らぬ間にけっこう明るくなっていた。見れば大きな窓から陽が差し込んで、まさに夜が明けようとしているようなのだ。

 そこは広々としたリビングで、連れ込み旅館でなければ、間違ってもラブホテルなんかじゃない。剛志は傍らにあるソファーに寝ていて、起き上がった途端、絨毯の上に転がり落ちた。

 そこまでは、彼にもすぐに理解できる。

 それではいったい、ここはどこか?

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