第5章  1973年 プラス10 - 始まりから10年後 〜 3 名井良明として(4)

 3 名井良明として(4)

 



 そう思うまま、誰かいませんか? そう叫んでみようと一瞬思った。

 ところがもしも、

 ――さんざん酔っ払った挙句、忍び込んで勝手に寝ていたとしたら……。

 人など呼んでしまえば、取り返しのつかないことになるだろう。

 そんな恐怖に突き動かされ、彼は即行立ち上がった。室内はどんどん明るさを増して、あっという間に扉も見つかる。

 ――どちらに、行くか?

 ちょうど左右に扉が二つ。彼はとっさに遠い方を選択する。そうして改めて部屋の豪華さに驚きつつも、フラつきながら扉に向かって進んでいった。

 音を立てぬよう扉を開けると、その正面にもまた扉がある。左右には長い廊下が続いていて、その先には真っ白な壁が見えるだけだ。

 ――くそっ、どっちだ?

 そんな焦りが湧き上がると同時、そこで初めて剛志は尿意に気づくのだ。

 それは不思議なくらい猛烈なるもので、とっさに限界が近いと彼は悟った。

 きっとこの時、アルコールの影響が多分に残っていたのだろう。さっきまで玄関を探していたはずが、不意にトイレは「どこだろう」などと思い始める。そしてなんとも大胆不敵に、目の前にあった扉に手をかけたのだった。

「あった……」

 思わず、そんな声が出た。なんという偶然か、扉の先はちゃんとトイレで、やはりその広さは普通とは段違い。剛志はスリッパも履かずに、大慌てで小水用便器の前に立ったのだ。

 すると胸辺りから上が大きな窓になっている。もちろん窓の先には目を向けず、彼はただただそのことだけに集中した。

 小便が勢いよくほとばしって数秒、思わずフーッと息を吐いたところでだ。

 やっと彼の視線は前方に向けられ、難なく外の景色が目に飛び込んできた。

 ずいぶん昔、こんなふうに眺めたことがある。そんな記憶が蘇り、一気に床に飛び散った小便のことまで思い出される。

 だから今度は慎重に、剛志は窓の外へと目を向けた。

 十年とちょっと前、岩倉邸のトイレから眺めたのと何から何までまったく同じ。そんな景色の中央に、やっぱりあれがあったのだ。

 ――どうしてあの〝岩〟が、こんなところに?

 確か同じようにこう思った。それでもあの時は、同じ場所にいるという認識があったし、たまたま目に入ったから驚いたというだけだ。

 しかし、今度ばかりはそうじゃない。ここがどこだかも知らなかったし、

 ――まさか、ここが岩倉邸?

 となれば、何がどうなったかは別として、

 ――十年前、岩倉氏と話したリビングで、俺は寝てたってことなのか……?

 どう考えても答えはそうで、ここでウロウロしているのは最高に危険だって気がした。だから慌ててトイレを飛び出し、おぼろげな記憶を頼りに玄関目指して走り出そうとする。

 ところが二、三歩踏み出したところで、扉が「バタン!」と音を立てた。

 剛志は驚いて振り返り、再び長い廊下が目に入る。その瞬間、不思議なくらい唐突に、これまで考えたこともなかった過去の事実が思い浮かんだ。

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