第4章  1963年 - すべての始まり 〜 8 智子の両親(4)

 8 智子の両親(4)

 



 昭和三十九年六月、あと三ヶ月ちょっとで、待ちに待った東京オリンピックが開催される。しかし東京中が沸き返っていようが、勇蔵にはまるで関係のない出来事となるだろう。

 最初剛志はタクシーに乗って、成城に出ようと思ったのだ。まだ陽は高かったが、寿司屋に入れば酒は飲めるし、落ち着いて話を聞くことだってできる。

 ところが林を出たところで、「うちに、来ないか?」とポツリと言った。それから返事を待つこともなく、勇蔵はよろよろ自宅方面に歩き出した。

 剛志は一瞬戸惑ったが、ついて行けば智子の母親にだってきっと会える。

 ただ一方で、こんなにすぐ会ってしまうことに、多少の恐れを感じたりもしたのだ。

 ――きっと父親以上に、その苦しみは大きかったはず……。

 そうしてそんな恐れは、予想以上の現実となって剛志の前に現れた。


 

 思った以上に、家の中はきれいに片づけられている。

 ただテーブルに、ウイスキーの瓶と飲みかけのグラスが置かれたままで、酔った勢いで林にやってきたことがうかがえた。

「あの、奥様は……?」

 リビングに通され、いきなり出されたウイスキーをひと舐めしてから、剛志は黙ったままの勇蔵へそう切り出した。

「奥様は、お元気ですか?」

「あいつは……寝ている」

「具合が、悪いんですか?」

「悪いと言えば悪いし、そうでないと言えばそうではない。なんだ? 今度はうちの女房のことを載せるつもりか?」

「いえ、違います。そういうつもりじゃないんです。えっと……実は……」

 その瞬間、不思議なくらいスラスラと、頭に大嘘が浮かび上がった。

 昔から、奥様を存じ上げているんです――そこだけは、唯一本当のことだったが……。

「わたしの娘が、行方不明の智子さんと中学まで一緒でした。そしてあの事件の後すぐ、わたしらは仕事の都合で、この土地を離れることになったんですが、つい先日、転勤でまた戻ってくることになりまして……」

 そう続けて、剛志は深々と頭を下げる。するとすぐ、勇蔵の目つきが明らかに変わった。突き刺すような印象が消え、僅かながら目元までが大きくなったように見えるのだ。

 雑誌の記者でないと知って、この時間を意味ないものと切り捨てるかとも思ったが、そんな心配はこの瞬間に杞憂となった。

 それからは、多少気を許したようで、勇蔵自らいろんなことを話してくれた。途中、家政婦だという女性が二人して、いきなりリビングに現れる。ところがチラッと目を向けただけで、勇蔵は二人になんの反応も見せなかった。

 家政婦を二人も雇う。となれば、やはり佐智は病気なのか?

 何気なくそんなことを思って、ふと、軽い気持ちで剛志は尋ねた。

「家政婦も二人だと、けっこうお金がかかるでしょう」

 すると、そんなことは知らんと言ってから、あらぬ方へ目を向ける。そうして視線を動かしながら、彼は剛志への答えを口にした。

「なんだかよくわからんが、昔、うちのに世話になったという女が来て、そうそう、ちょうどあんたと同じくらいの年頃だ。確か、役所に勤めているとか言ってたな。そいつがいきなり、ここにやって来てな……」

 身の回りの世話をさせてほしい、ぜひ、家政婦を受け入れてくれと言ってきたらしい。

 にわかに信じ難い話だが、さらに費用もいらないからと、床に額を擦りつけんばかりに頼み込んだと言うのだった。

 そうして当初拒んでいた勇蔵も、そこまで言うならと受け入れる。すると今では、食事の世話から何から何まで頼むようになっているらしい。

 昔世話になって、その恩返しがしたい。

 父、正一にもそんな人がいて、そのおかげで剛志もずいぶんと助かった。

 ――この時代にはこの手の話、けっこう多かったのかもしれないな……。

 なんと言っても戦争があったし、きっと多くの人が誰かに助けられていたのだろう。そして、それから三十分も経たないうちに、勇蔵は酔いが回って目を開けていられなくなった。なんとか出ていた声も聞こえなくなり、気づけば完全に寝入ってしまう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る